声 (59)

 脳裏に焼きついたあの惨状はどうやっても瞼を落とさせてはくれなかった。タカネはベッドの中で文字通りもんどりうって国の行く末を考えている。どちらが正しいのかはタカネには分からない。母の言うことも理は通っていると思うし、しかし目の前で様々と見せつけられた光景は言葉以上の説得力があった。
 生誕祭まであと1日に迫っている。エイフラムの弁を借りるのであれば明日聖歌を歌うという行為そのものが『安寧』の上に胡坐をかいた代物であるし、さりとてここまで大々的に準備が行われた生誕祭で歌えないというのも国民への裏切りのような気もするし、それにここで歌えませんと言ってしまえば母への裏切りのような気もするし、しかしそれ以上にここで歌うということは「死んでくれてありがとう」を肯定するような気もする。
 悶々とした思考の外に白い雪が降り積もる。温かな毛布を押しのけて見やった窓の外では、白い雪がタカネの悶考をあざ笑うかのように深々と積もっていく。
何も見なかったふりをして生誕祭を迎えるというのが現状もっとも角の立たない選択であろうとは思うものの、どうしてもそれは出来そうにないと思う自分も確かにいる。
 彼らは被害者である。しかりである。母の決めた国防そのものを見事に具現化したのが彼らであり、その果てにあるのがあの惨状である事は頭でも心でも十分に認識している。しかたがない、では済まされない現実はひと山を越えるまでもない、すぐそこに行けば嫌でも目につく大きさで転がっていた。
こればかりは雪だって隠すことなど出来ないのだと思う。自分の行為選択がとがめられているわけではないのに、タカネは自分のせいで誰かがひどい目に遭っているような気がした。
 自分が悪いわけではないのに―――。ふと思い出す。あれは確かもっと幼いころ、自分が歌の練習ばかりしているときに窓の外では友達が遊んでいるのだと気が付いてしまい、どうしようもなく羨ましくなって練習をすっぽかしたあの日、タカネは母にこっぴどく叱られた事があった。
何で自分ばっかり、そう言って拗ねた自分を父はなぜか工場に連れて行ってくれた。工場、といってもセレンの採掘に伴う副次生産物を寄せ集めたタンクのような場所だったが、そのせいか人影もなく父と子二人だけで見上げたタンクの大きさは怒りも拗気も吹き飛ばしてくれるような大きさだった事を思い出した。
 今にして思えば、父はふてくされた娘に気晴らしをさせてあげようとあんなデカブツのところに連れて行ってくれたのだろう。
周りには誰もおらず、厳重なセキュリティに守られた野外施設に積もった雪は誰に踏まれることもなく真っ白い肌を晒しており、呆けた顔でタンクを見つめる娘に父はにっこりと笑って雪合戦を提唱したのだった。
たった二人だけの雪合戦は、それでもその日の嫌なことを吹き飛ばすくらいには楽しかったし、しばらくして息を切らしながら戦場に馳せ参じた母に雪玉をぶつけたのはいい思い出で、タカネの覚えているところ父母と遊んだのはあれが最初で最後だったのだと思う。
 あの頃は何にも知らなかったのだ、と思った。
 何も知らなかった頃に戻れたらどんなにいいのだろう、とタカネは思う。
 今になってみれば、あの場所は途方もなく危険な場所だった事は分かっている。あのタンクに納められているのがセレンの精製に伴う水素化合物だということも分かっているし、扉のど真ん中に描かれている真円と放射状のマークが劇物指定を表すマークだという事はタカネだって分かっているし、あの中身に強毒強圧可燃性の液化ガスが充填されていることだって今のタカネは知っている。
それでも、誰もいないあの空間に誰も足を踏み入れていない雪が積もっていた事は事実であり、そのまっさらな雪の白さは日頃見飽きたうんざりするような白とは一線を画す神聖さが備わっていた、とタカネは今でも思っている。
 ふと、あの場所に行きたくなった。
 誰も踏み荒らしていない、誰もいないあの神聖な場所に行けば、今の自分のこの考えも幾らかは落ち着くのではないだろうか。
 あのお気に入りの場所に行けば、あの一人になれる場所に行けば、あるいはこのもやもやした気持ちも幾らかは落ち着くのではないだろうか。
 あの、思い出の場所に行けば、ひょっとしたら、自分がこの後どうすればいいのか、いい考えが浮かぶのではないだろうか。



 緑の原色に黄色の刺激色という毒々しいカラーリングのタンクは、思い出から1ミリたりとも変わらずにそこに佇んでいた。
世界に忘れ去られたような南京錠を父の部屋から拝借した鍵で開け、原理は分からないが手をかざすと開く扉に手をかざし、辿りついた放射線状のマークの扉をどうにかこうにか子供一人が入れるくらいにこじ開けて、まず目に入ったのは雪深いこの場所にあって雪など一欠けらも積もっていない緑のタンクだった。
雪が積もっていないのはタンクの中に含まれているのがセレン蒸留直後の気化副産物だからであり、このタンクに集められた気化副産物は外気に冷やされてタンク下部に滞留する仕様になっている。
つまり、あのタンクの中身はタカネの記憶しているところセレン化水素を含有する精製副産物ガスであり、セレン化水素といえば火気厳禁に強毒性の処理に困るシロモノであり、実のところアルテモンドを希少金属大国にのしあげたのはセレンそのものではなく、扱いに困るこのシロモノを気候条件を上手く使って比較的優位に処理できる技術にある―――というのは、まだ年端もいかないタカネに家庭教師が叩き込んだ知識の一つである。気候条件、というのはもちろんアルテモンドは毎日毎日雪が降って寒い、ということだ。着火点の低いセレン化水素を冷ますにはこの天候が必要不可欠なのだそうだ。
 そして、タカネの足元には、あの日のあの時と全く同じ、誰も足を踏み入れない真っ白い雪が、その肌を晒していた。
歩くと脛くらいまで雪に埋もれた。誰も踏み固めたりはしていない雪はまさしくパウダースノーそのものであり、油断すると長靴の中に入る雪にもタカネは眉ひとつ動かさずにタンクから5メートルまで足を進めた。
ぼうっとタンクを見上げる。今のアルテモンド繁栄の土台には、まさしくこの物言わぬタンクがあるのだと思う。
 30秒ほどタンクを見上げた後、タカネは一つ溜息をついた。
「エイフラム、役目を果たすなら堂々としてください。それを咎めたりはしませんから」
 大きな声を出そうと思ったつもりはなかったが、誰もいない場所での自分の声はよく通るのだとタカネは自分で驚いた。
これも怒られながら鍛えられた喉の賜物なのか、そう思って腹の中だけで笑っていると、タカネよりも大きな足が新雪を踏む音が聞こえた。
「…驚かせてはいけないと思いましたので」
 エイフラムの声は固かった。いつものようにいつものごとくタカネの1歩後ろで歩みを止めたエイフラムに、タカネは振り返りもせずに「そうですか」と言った。
「誰の護衛もなく外に出てはならないと、あれほど申し上げたはずです」
 エイフラムの固い声は、職務に忠実たろうという軍人の鏡のような考えからきているのかもしれないし、あるいは昨日の衝撃映像を見たことでタカネがどう思っているかを探ろうとしているようでもあった。
「エイフラムがいました。私も一人で外に出ようとは思いません」
 そしてタカネは、そんなエイフラムに悪びれもなくそう答えた。
エイフラムに顔を歪められたくらいは振り向かなくても分かる。エイフラムは喉の奥で文句を潰したような音を立て、一つ咳払いをして、
「いつからお気づきだったのですか」
「…なんとなく、です。エイフラムが陰に陽に私の後ろを守っていた事くらいは知っています。もう3年も…守ってもらっていたのですから」
 3年間も一緒にいたのだからエイフラムの考えていることくらいわかる、と言いたかったが、3年も一緒にいたエイフラムが何を考えているのかは結局分からなかったのだろうと思う。
だからこその昨日なのだろうし、エイフラムがあれを自分に見せたのはいつまでたっても子供の自分に嫌が応にも現実を見せなければならないと思ったからなのだろう。多分。
「正直に言えば、」
 そして、エイフラムはこの時、初めてタカネの横に並んだ。
「姫様にあれを見せるべきだったのか、そうでなかったのか。私には正直、分かりませんでした」
 タンクを見上げながら、タカネはエイフラムの次の言葉を待った。
「ですが時間がなかった。姫様に我が国の現状を知ってもらうためにはあれしかなかった。私たちが住むこの国が今どれほどまでに瀬戸際にいるのか、それを知ってもらわなければならなかった」
 タカネはようやくタンクから視線を外し、その足元の、雪にコーディングされていないコンクリートの地盤を眺める。母の言い分と足裂け男、痙攣男とセント・ヒューリー通りの喧騒、もう5年も前から出し続けられて却下され続けてきた軍部提出の法案と生誕祭。
「あと数回、というところでしょう。現状のまま何ら有効な手だてが打てなければ、軍部が東の侵攻に耐えられるのは恐らくあと数回。それ以上の事は私にも分かりません。そして、その後の事は、考えたくもありません」

―――その気になった東に蹂躙される可能性が極めて高い、という意味では、ここも市街もそう大差ありません。

 あの時エイフラムはそう言った。それこそがエイフラムも考えたくない「その後の事」なのだろうし、3日前のタカネなら鼻で笑い飛ばすその「その後の事」は昨日の今日では最早笑えなかった。タカネは視線を上げない。
タカネの視線の先で、タンクに溶かされた雪がアスファルトに氷を作っている。
「―――逃げてください」
 そして、エイフラムは、そう言った。
「逃げてください、姫様。出来うる限り早く、遠くに。クロイ殿に来ていただいているのはそのためでもあります。第3廟の皆の願いです」

―――在学中のデビューなんかどうだ、なかなかお洒落だろう?

 ウィサップ特務軍曹が身元引受人で、王宮内で頑なに黒井に関する発言を拒んだ裏はそれか。タカネはふっと笑った。
「今ならまだ間に合います。必要だと思われるものの準備は全て完了しています。本当に最悪の事態となった場合でも、亡命するために必要な書面は全て揃えてあります。だからどうか、」
 エイフラムの顔を見ると、エイフラムはこの上ないくらいに焦っているように見えた。
それはいつも冷静で、こちらの言うことに常に困った顔をして、市街ですら臨戦態勢を崩さない鉄壁の軍人の素顔を垣間見ているようだった。
それほどまでにアルテモンドは危機的な状態なのだ。それほどまでにアルテモンドは、もうどうしようもないところまで来ているのだ。
「―――この場所、」

 でも、だからこそ、

 そしてタカネは、ぼんやりと口を開いた。
「この場所は、私が初めて父上と母上と遊んだ場所です。雪を拾って雪玉を作って、相手に向かって投げる。最初は父上と二人だけでしたが、そのうち母上が私たちを探しに来て。その日は母上に怒られたばっかりだったから、腹いせみたいに父上と二人で母上に雪玉を投げて」
 エイフラムは口を閉じた。タカネは足元の雪を手ですくい、かたく硬く握りしめる。
パウダースノー特有のさらさらした雪地は握る間に指から零れ落ち、それでもどうにか握れた雪玉はいびつで小さく、タカネは「こんな風に」とエイフラムに向かって雪玉を投げた。
防弾繊維の白迷彩に当たった雪玉はあっさりと砕け散る。
「姫様、」
「それからもう大変でした。母上からは年甲斐もなく本気で応戦されました。雪は首筋に入ったし手はかじかんで最後には感覚がなくなったし」
 言いながら、タカネはエイフラムに向けていびつな雪玉を投げ続ける。エイフラムはなにも言わない。何も言わずに、ただ黙ってタカネの雪玉を受け続ける。
「最後に父上からユキダルマを作ろう、と言われたんです。母上はすぐにいいね、と言っていましたが、私はユキダルマとは何か分からずに、二人が大きな雪玉を作り始めるのを見ていて、」
 タカネの白い手が徐々に赤くなっていく。霜焼けを起こしているかのように見える。タカネはそれでも構わずに両手をいっぱいに広げて雪をかき集め、それでもやはり出来たのは今までより一回り大きなこぶし大の雪玉でしかなかった。
「―――あれが、きっと私たち親子がきちんと遊んだ、最初で最後です」
 この場所には思い出があるのだ、とタカネは思う。
ここはタカネがアルテモンド王家第13代皇女ではなく、ただのタカネであった場所なのだと思う。明日を境に、自分の意志に関係なく、公の存在になる自分が、最後に悪あがきが出来る場所なのだと思う。
 物騒なタンクがあるし家から近いわけではないけれど、自分は、この場所が好きなのだと思う。
「ねえ、エイフラム。エイフラムはこの国が好きですか?」
「―――」
 エイフラムは黙して語らない。タカネはエイフラムに構わず、夢見るように、明日が必ず来ると信じるように、思い出を語るように、全てを白状するように、言った。
「私には、この国が最終的にどうなってしまうのかは分かりません。母上の言うことも正しいのだと思うし、その結果エイフラム達がどんな目に遭っているかも昨日見ました。私たちが今まで薄氷の上に立っていた事も理解したし、きっとこれからもそうなのだろう、と思います」
 エイフラムは視線を下げた。その視線はタカネの足元に注がれ、やがてゆっくりと、ゆっくりと自分の足元に落ちていく。
「お考えは、変わりませんか」
 やがて、エイフラムはつぶやくように、言った。
「『逃げろ』と言われて、決心がつきました。私はこの国の皇女です。逃げるわけにはまいりません」
 エイフラムはその言葉にようやく、ようやく顔を上げた。
その顔は絶望の先に希望を見たようにも見えたし、そうして見えた希望にやっぱり裏切られたような、そんな顔にも見えた。
エイフラムはタカネから目をそらして緑原色の眼に悪いタンクを眺め、そうしてようやく、ため息のような「分かりました」という声を出した。
「私は明日、生誕祭で歌います。私の思いを込めて。昨日出来なかったリハーサルの分も含めて、国境で警備している皆さんにも聞こえるように。それが、今の私が出来る精一杯の事だと思うから。そして、それが終わったら、」
 タカネはそこでエイフラムの方を見た。エイフラムは黙って原色のタンクを見上げている。深い雪の中でも埋もれない緑のタンクの胴体に、エイフラムは一体何を見ていたのだろうか。
「それが終わったら、改めて皆さんの問いを考えます。誰も倒れず、アルテモンドも守り、今を続けていけるような、そんな回答を出せるように。―――だからエイフラム、」
 そして、エイフラムはようやく、タカネの眼を見た。
エイフラムの濁った眼を、タカネの澄んだ目が捉えた。エイフラムの淀んだ目は底を見せず、そしてアルテモンドという国は、その淀みの中に存在するのだと思った。
「私は、アルテモンド第13代皇女として、明日皆の前で、生誕祭の歌を歌います」

 それを聞き、エイフラムはようやく、その瞳の淀みを消した。
 まるでふっきれたような、諦めたような、そんな目をしていた。

「―――であれば、ここで風邪をひいては元も子もありません。明日は国民がみな音楽堂に集まる。そこでタカネ様の赤い手を見れば、皆は心配するでしょう。…失礼」
 そう言って、エイフラムは貴音の右手をとり、迷彩服の左のポケットに突っ込ませた。
丈の長い軍服とはいえエイフラムの腰の高さはタカネの胸くらいの高さまであって、これではまるで手をつないでいるかのような塩梅だ。
「え、エイフラム。大丈夫です、この位の霜焼けなら暖炉に当たればすぐに、」
「明日から、タカネ様は皇女としてのお役目があるのでしょう?」
 エイフラムは頑として手を離さない。タカネはタカネで気恥ずかしいやら腕が引っ張られて少々痛いやらで頭が混乱してしまい、エイフラムのポケットの中に何が入っているのか、などということにはついぞ気が回らなかった。
「であれば、明日からタカネ様はさらに御身を大事になさっていただかねば。いかに霜焼けとはいえ、そのままにしておけばヒビやあかぎれの原因になるのです。ご自愛ください」
「…」
 既視感を覚えた。そう言えば前にもこんなことがあった。エイフラムのポケットに手をつっこんだ、今よりもっと小さかったころの自分。
されるがままのタカネはエイフラムの横顔を見上げる。エイフラムはエイフラムでまっすぐに前を向き、タカネが外した南京錠の扉目掛けて一散に歩いている。
タカネの手を強くひいて出口までまっすぐに進むエイフラムの顔は、淀みなどまるでない、穏やかな眼光を湛えていた。
「…本当の事を言えば、」
 やがてタカネが見上げている事に気がついたのか、エイフラムは呟くように言った。
「なんです?」
「本当の事を言えば、もし歳の離れた妹がいたら、きっとこんな感じなのだろうな、と思っていました」
 エイフラムの突然の話に、タカネは一瞬歳の離れた妹、とやらが自分の事を指している事に気が付かなかった。
「エイ、フラム?」
「覚えておられますか、初めてお目通りした時の事です。タカネ様はまだ7歳のころで、私は私で3等兵から2等兵に上がったばかりでした。真新しいバッヂを襟に付けて、どんな任務でも粉骨粉身の覚悟で―――と思っていた私に、下された命はタカネ様の護衛でした」
 ポケットに手を突っ込まれたまま見上げたエイフラムの襟には、星が3つついた赤に緑のラインの階級章があった。
2等兵の階級章は同じラインに星が2つであり、あれからエイフラムはタカネの面倒を見ながら階級を一つ上げたことになる。
「まだ幼かったタカネ様は、私の事をまるで危険人物のような目で見ていましたよ。最初だけではなく…そうですね、最初の一カ月は不審者扱いだったような気がします」
 エイフラムは懐かしそうに喉の奥で笑った。
タカネはどうしてエイフラムがいきなり昔話を始めたのかが全く分からない。エイフラムはくっくと笑いながら鼻下をこすり、ポケットの中で掴んでいたタカネの手を緩めた。
タカネはしかし、エイフラムからの縛りを解かれてなお、エイフラムのポケットから手を引っ込める気にはならなかった。
「あれは―――そうですね、あれはもう春だと思っていたのに雪が降った日、覚えておられますか、確か5月の半ばだったと思いますが、よせばいいのにタカネ様が侍女の忠告を振り切って半そでを着ていたあの日です」
 そう言えば―――思い出した。
あの時は確か久しぶりに帰ってきた父がシャツを買ってきたのだった。お土産だ、といわれて渡されたのはフリル付きのピンク色のTシャツで、なんだか嬉しくてたまらなくて、絶対に上着を着たほうがいいと言われたにも関わらずにシャツ一枚で養育院に行ったのだ。
侍女の忠告通り、朝晴れていたその日は昼過ぎには暗い雲が陰り、季節外れの雪を降らせたのだった。
「…覚えています。確かあの時は、傘も持たずに外に出ていました」
「それだけではなかったでしょう。タカネ様はあの時、車を呼ぶと言った私に舌を出して、表に飛び出して、それで」
「…エイフラム、」
「あろう事かご学友と雪合戦を始められた。頭が痛くなりましたよ、時期は時期でしたが雪が降るくらいの気温で、半そでで雪合戦などと正気の沙汰とは思えなかった」
「…あの事は反省しています。家に帰ってからは侍女に怒られましたし、母上には抱きつかれて閉口しましたし、父上は祖父王に怒られたと言っていましたから」
「手を真っ赤に腫らして、目まで真っ赤にして、ね」
 タカネはバツが悪そうな顔をする。
記憶の通りなら、あの日は確か日が暮れるまで遊んだ。時期外れの雪は時期外れらしく夕闇が閉じる頃にはうっすらと積もる程度にしか降らなかったし、最後の方は解けた雪でべちゃべちゃになった土なのか雪なのかも分からない物を投げていた気がする。
それでも雪が降ったのは事実であり、エイフラムがいい加減帰ろうと促した時は既にタカネの手は真っ赤になってしまっていた。
じんじんとしびれるような痛みがあったのは恐らく霜焼け一歩手前まで手が冷え切ってしまったからであり、エイフラムはため息をついて、
「…魔法のポケット」
「コートの一番下の、本来なら予備弾装を入れるポケットでしたね」
「ええ、覚えています。随分と子供扱いするものだとあの時は思いましたが―――」

―――これは魔法のポケットです。ここに手を入れれば、すぐに暖かくなりますから。

 そう言って、エイフラムは幼いころのタカネの手を自分のコートの一番下、予備弾装格納用のポケットの中身を空にしてタカネに貸し与えたのだった。
最初こそおっかなびっくりだったタカネだったが羽毛地のポケットの入り口は得も言われぬ暖か味を感じさせ、やがて手を突っ込んだタカネに安堵してエイフラムは傘を差したのだった。
「―――今思えば、子供扱いが嬉しかったのかもしれません。あの時はもうすでに家庭教師との一対一が日常でしたし、歌の特訓も始まっていましたから」
 タカネが濡れないように、左手に大きめの傘を持って。タカネが濡れないように、自分の右肩に雪が積もるのもお構いなしに。
 自分に歳の離れた妹がいたら、とエイフラムは言った。
 タカネもまた、自分に歳の離れた兄がいたら、きっとこんな風だったのだろうと思う。
自分の無茶を呆れながら許してくれる兄がいたら、きっとこんな感じだったのだろう。ブレードはいささか行きすぎかもしれないが、振り返って自分がエイフラムの困るようなことばかりをしていたのは、きっとエイフラムなら許してくれると、そう思っていた自分がどこかにいたのかもしれない。
「もう、姫様とは呼べませんから。せめてさいごくらいは、ね」
「…最後、そうですね、最後、です」
 そうだ。
 明日生誕祭を歌いデビューをすれば、もうタカネはタカネとしては見てもらえないのだ。
タカネはアルテモンド第13代の皇女として振舞わなければならないのだ。この場所に来られる回数もぐっと少なくなるのだろうし、雪玉を作って相手に投げるなどということはもう出来なくなるのだと思う。
 明日から、もう自分は国の幹部となるのだ。
 明日から、ひょっとしたら自分は、エイフラム達に非情な命令を出す立場になるのだ。
 それでも、絶対にこのポケットの事は忘れないのだろう、とタカネは思う。このポケットをひょっとしたら失うことになっても、忘れることはないのだろうと思う。
「エイフラムは、明日の歌を聞いてくれるのですか?」
「……」
「エイフラム?」
 エイフラムは首を振り、ややあって静かに、
「明日、私は国境警備に合流することになっています」
 タカネの足が、止まった。
 ポケットに収まった手はすぽんと抜け、突っかかりの無くなったポケットにエイフラムは振り返る。
タカネは静かに大きく息を吸って吐き、何度かそれを繰り返して息が透明になったところでエイフラムを見上げた。
「タカネ様?」
「結局、昨日はリハーサルできませんでしたから。ここで全編通して歌うことができれば、本番でも十分に歌えるでしょう」
 エイフラムがあわてたような声を上げる。
「いけません。ここは冷える、喉の調子を崩されては明日に触ります」
「いいです。私がここで歌いたいんです。エイフラムは見ぬふりをしていてもいいですよ」
「…困った妹君だ」
「堅物の兄上に言われたくはありません」
 そうして、タカネはゆっくりと揺れ出す。
長靴に入った雪が解けて、揺れるリズムに合わせてタプタプと足の間を水が滑る。
冷たかったしちょっと痛かったけれど、タカネにはなんだかそれが面白かった。
「…本当に、困った妹君だ」
 エイフラムの苦笑ともつかない声を聞き、タカネは大きく息を吸った。



 「原理は分からないが手をかざすと開く扉」というのは、指紋認証式センサー扉の事である。
 そして、アルテモンドのセレン採掘における有利性とは、つまり「実のところアルテモンドを希少金属大国にのしあげたのはセレンそのものではなく、扱いに困るこのシロモノを気候条件を上手く使って比較的優位に処理できる技術」にある。
 つまり、アルテモンドの気象優位性を使用してどうにか処理できる扱いに困るシロモノが、指紋認証式センサー扉の奥にあった、ということになる。
 蓋を開ければそれは純化前のセレン化水素がこれでもかと詰め込まれたタンクであり、つまり扱いに困るシロモノというのはセレン化水素に他ならず、ではなぜセレン化水素が扱いに困るのかといえば、それは強毒に加えて可燃性の劇物だったからに他ならない。

 エイフラムのポケットの中に粉末様の指紋採取機が入っていた事に、この時のタカネは遂に気が付かなかった。


 もっとも、この時のタカネは、たとえその事に気が付いていたとしても、そんな些細なことを気にしないくらい、エイフラムの事を信頼していたのだけれど。




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