声 (6)

2.

 765プロデュース株式会社の正面エントランスホールは東西南北の4方向表現をすれば北に口を開けており、そして件の公園と言うのは正面エントランスホールから見て丁度真裏となる南側に位置する都営の公園である。
公園と言えば聞こえはいいが、噴水どころか簡単な野外コンサートまでを開けるように設置された客席などは最早通り一遍の公園の規模を完全に逸脱しており、おまけに公園という名前が付くくせにビジネス街のド真ん中に位置するお陰で普段は勤務に疲れたサラリーマンたちの格好の昼食会場となっている。
土に還ることもなくベンチの足もとを居汚く汚す煙草の吸い殻などはこの「公園」の利用者が決して子供ではない事を示唆しているが、入り口の看板をよくよく見てみればこの公園はビジネス街における避難所的な扱いを主眼として設営されたものらしい。
平時はサラリーマンやOLに都心に少ない緑を提供し、有事は避難所として機能するその土地開発のガイドラインに関しては特に何を思う事もないが、ビジネス街のド真ん中に突如として現れる緑地が異様にだだっ広いのはそのせいかとプロデューサーは思う。
 そう考えれば、ビジネス街ド真ん中に野外コンサート会場と言うのもそもそも狙った計画ではなかったのかもしれない。
有事の際は難民たちの視線を一身に集められるお立ち台も平時は単なる段差であり、という事は平時であってもお立ち台にはある程度の存在意義はなければならず、役人が懸命に頭をひねった結果が野外コンサートのステージならばプロデューサーとしては言うべきことなど何もない。
事最近は税金の無駄遣いが国民によって糾弾されるようになったから、都府の金遣いも一応は改まったと見るべきなのだろうか。
 見上げた空は沿道に沿うように植えられた桜の桃色によって見事なコントラストを描いている。
本日は世間一般の常識をあてはめれば不動なる土曜日であって、周りを見れば昨日の夜に花見でもしたと思しき置き去りにされたビニールシートと無残なる缶ビールとフランクフルトの心棒と思しき物体がそこかしこに散らばっていたりする。
ぽっかりと浮かんだ雲は猛烈に綿あめのような雰囲気を醸し出していて、ふとプロデューサーは腹に手を当てる。
 さっきまで社長を目の前にしていたから緊張していたが、こうして桜並木の下を歩いているとどうやら緊張が解けた調子に腹が減ったらしかった。
我ながら現金だなあ―――プロデューサーはそう思い、社長室で受け取った「社外秘」の資料を一枚捲ってみる。
めくった資料は丁度今期担当するアイドルの履歴書であり、「天海春香」という名前の少女の通り一般的でない満面の笑顔の顔写真をぼんやりと眺めたプロデューサーは資料の一番下に「自己アピール」という項目を見つける。

―――私、私の歌でみんなの事元気にできたらって思ってたんです。そうですよね、私が元気じゃなかったらそんな事できないですよね!

 何のことはない、あの時の明るい声をそのまま紙面に落としていただけだった。
ところどころで言葉遣いが丁寧になっているのは小鳥先輩あたりに指導をされた結果だろうか。
「…覚えててくれてるかな、僕の事」
 呟いた後に何だかおかしくなって首を振った。
現金にもほどがある。何せ天海春香と当時新米と言われていたプロデューサーが接触したのは秋の始め頃であり、あれからもう半年も経っている。
もう一度履歴書を眺めるとどうやら春香は今年で16歳らしい。順当に行っていれば中学の卒業から高校への入学などで目まぐるしい日々を過ごしているはずであり、銀杏の葉が色づくころに会話したさえない男の事など桜の花が目に眩しいこの時期まで覚えているはずがない、と思う。
 区画整理の対象となったと思しき公園の地形は航空写真を参照すれば非の打ちどころのない長方形であり、プロデューサーが足を踏み入れたのは長方形の短辺で、それぞれの辺から延びる園道は中心に据えられた野外ステージへと続く一本道であり、とにもかくにも春香を探し出さねばならないプロデューサーとしては無闇に広い公園の地理に文句の一つも言いたくなるところである。
とりあえず野外ステージまで行ってみよう、と歩を進めるプロデューサーの視界は何本目か数えるのも嫌な桜の並木を抜けたところで唐突に開け、明らかに昨日付で定年退職したと思しき私服の老人が座っている観客席の隅の方にプロデューサーは運良くも件のアイドル候補生の姿を確認する。
 近寄ってみる。
「…あー、あー。ドー、レー、ミー、レー、…うーん。やっぱり戻りが甘いのかなぁ。よし、もう一回、」
 後ろ姿からも滲み出る練習の気配に声をかけるのが憚られた。
気取られないように春香に近づき、さらに聞き耳を立てることにする。
「ドー、レー、ミー、レー、ドー…レー、ミー、ファー、ミー…」
 観客席のさらに後ろで発声練習をしている春香は一向にこちらに気づいていない様子だった。
プロデューサーは観客席の最後列に春香に背を向けるように座り、腕をまくって安物の腕時計を露出させてみる。午前9時47分。
 考える、昨日の自分はこの時間何をやっていただろうか。
「ソー、ラー、シー、ラー、ソー…ラー、シー、ドー………」
 ふと、発声の中に不思議な単語が混じった。よくは聞きとれなかったが「あれ」という声だった気がする。どこかで詰まったのだろうか。
少しだけ待っていると再び音階を3音ずつ上がり下がりするトレーニングの声が聞こえ、何度目かの中断を経てようやく基幹音が高音部のドにまで到達した。
時計を見る、午前9時53分。
 プロデューサーはそこで腰を上げ、春香に向けて歩き出す。
春香は力いっぱい目を閉じて更なる高音部への挑戦を試みており、春香の後ろには穏やかな風に揺られた満開の桜が柵の向こうでゆっくりと花の雪を降らせていた。
「レー、ミー、ファー、ミー…」
「…声を出すときはさ、力んじゃ駄目だよ。喉が潰れちゃうから。高い声を使うときは喉を開いて鼻を通すか、ファルセットを使うんだ」
 ファルセットって知ってる? と尋ねると、はたしてそこで春香は目を開けた。
突然目の前に現れた格好になったプロデューサーの姿を確認し、春香はぱっちりとした目を驚いたように丸くしてパクパクと金魚のように口を開いたり閉じたりし始めた。
次から次へと出てくる「あれ、あの、」にプロデューサーは苦笑を洩らし、きっと自分の事など忘れているであろう春香に向けてまずは挨拶を試みる。
「はじめまして…って言った方がいいのかな。天海春香さん、だよね?」
 すると、春香はなぜかそこで餌を頬張ったハムスターの如く頬を膨らませた。
プロデューサーを見つめる眼はなぜか非難じみていて、やはり練習の邪魔をするべきではなかったかと思う。
「…私、あの時のコーヒーの味、今でも覚えてますよ」

 え。

「プロデューサーさんは、私の事忘れちゃったんですか?」
 度肝を抜かれた。忘れられたと思っていたのに、向こうはきっちりこちらの顔を覚えているらしかった。
ぷぅっと膨らんだ春香の顔は「まさか忘れたとは言わせない」と思いきり書いてあり、プロデューサーとしては苦笑を禁じ得ない。
「…忘れられてると思ってたんだ。ごめんよ、ちゃんと覚えてる」
「ホントですか?」
「ホントだよ。天海さんあの時会議室で言ってただろ、頭と腰ぶつけたって」
 ハムスターが一転、照れ笑いを浮かべた春香はあちゃあという表情を浮かべた。本当に表情のころころ変わる子だと思う。
「そんな事覚えてなくたっていいじゃないですか…」と萎れてしまった春香にプロデューサーはごめんと笑い、改めて春香に言うべき言葉を探す。
「…おめでとう。候補生になれたんだ」
「プロデューサーさんも、正式にプロデューサーに?」
 春香の顔が綻んでくる。その陽光のような笑顔にプロデューサーの顔にも自然と笑いが浮かび、
「うん。…今日は、天海さんを迎えに来た」
「迎えって…それじゃ、私デビュー決まったんですか?」
 その時、緩やかな風が吹いた。
一陣の風はふわりと桜並木を揺らし、二人の間にゆらゆらと桃色の雪を降らせ、プロデューサーは意を決したように春香に向って口を開く。
「僕が、天海さんのプロデューサーになる。今日から君は候補生じゃなくなる。君は、」
 満開の桜の下、穏やかな春の陽の下、新米プロデューサーは新米アイドルに向けて言葉を紡ぐ。

「君は、今日から765のアイドルになる。―――これからよろしく、天海さん」

 握手を求めるように手を差し出すと、春香は出した手を一度見て、ついでプロデューサーの顔を見上げた。
何かと思うプロデューサーの顔を見た春香は、太陽が笑ったらこういう顔になるのではないかと思う笑顔を浮かべた。
「一つだけ、お願いがあるんです」
「? なに?」
「私の事、春香って呼んでください。天海さんって何だか他人行儀みたいだし、私それ何だか嫌です」
 いいですか、と上目遣いに見上げてくる春香に苦笑を洩らす。
確かに天海さんでは他人行儀もいい所だとは思う。これから二人三脚でやっていくのに他人のようでは確かに具合も悪かろう。
そんな事でいいならと言うと春香の顔に満面の笑みが浮かび、そこで春香はようやく差し出した手を両手で握った。
「…じゃあ、改めて」
「はい。これからよろしくお願いします、プロデューサーさん!」



 自己紹介から始めた方がいいですかね? あ、でもプロデューサーさんは私のプロフィール知ってるんでしたっけ。
じゃあ先に歌を聞いてもらった方が、あー、ダンスの方がいいですかね?

 桜並木を抜けて社に戻り、うまい具合に空いていた会議室に入って初の仕事となるミーティングをしようとした瞬間に春香はテンパったようだった。
確かに会議室はそこそこの広さはあるが机が真ん中を占めている以上踊りには適さないだろうし、会議室は何も防音ではないのでここで歌われても困る。
「春香、まずは落ち着こう。ここの床は固いし机もあるから、怪我したら大変だよ」
「あ、あはは、そうですよね。私落ち着きなくて」
「よく転ぶ?」
 会話を拾うと春香は見る間に萎んだ。
余りのギャップに少しだけ笑みをこぼすと、春香は一度膨らんだあとに深々と溜息をついた。
「もう高校生なんだし落ち着きなさいってお母さんにも言われるんですよ私。緊張するとどうしても舞い上がっちゃって」
「舞い上がるのは慣れれば何とかなるよ。元気なのはいいことだと思うし。君だって言ってたじゃないか、『私が元気じゃないとみんなも元気に出来ない』って」
 言うと、春香はきょとんとしてプロデューサーを見つめた。
何かまずい事を言ってしまっただろうかとふと思うプロデューサーに春香は破顔して、
「ホントに覚えててくれたんですね、私の事」
「信用ないなあ。アイドル相手に嘘なんてつかないよ」
 言葉尻に棘が混じってしまった言い分に春香は慌ててごめんなさいと言い、
「なんだか嬉しくって。プロデューサーさんにちゃんと覚えててもらえたんだなあって思って」
 ちょっと恥ずかしくなった。プロデューサーは赤くなった顔を隠すようにポリポリと頬を掻き、
「これから、もっと色々な人が君の事を覚えるようになるよ。アイドルの仕事はまずは顔を売ることから始まるし、いろんな人を元気にするためにはやらなきゃいけない事は盛り沢山だ」
「…顔を売る? お面ですか?」
 真面目腐った春香の物言いにプロデューサーは思い切り吹き出す。縁日じゃあるまいにと思う。
今のワンフレーズで春香との距離感が掴めた気がしていると、春香は再びハムスターになっていた。
「わっ、笑わなくたっていいじゃないですか!」
「ごっ、ごめん僕が悪かった!」
 悪いと思う割には笑いが腹の底から湧き出てくる。
プククククと必死に笑いをこらえるプロデューサーに春香は風船のように膨らませた両頬で抗議する。
ごめんごめんと必死で謝ってどうにか笑いを腹の奥底に引っ込めると、そこでプロデューサーはお互いが緊張しているようだという事にようやく思い至った。
「顔を売るって言うのはまあ、知名度を上げるってことだよ。歌もそうだしダンスもそうだけど、まずはちゃんと『天海春香』って言うアイドルの存在を世間に認知してもらうんだ。春香だって―――例えば全然知らないアーティストのCDなんて買わないでしょ?」
「そりゃまあ、そうですけど」
 不承不承に頷く春香にへらりと笑い、
「だから、今後のプロデュースはまず認知度を高めることが目的なんだ。そのためにはトークの知識も必要になってくるし、歌やダンスの技量も要求されてくる」
「トレーニング、ですね」
 意を得たりとばかりににやりと笑い、
「営業もするよ。地道な作業になるけど、ゆっくり確実にファンを増やしていく。でも、それには限界がある。春香は一人しかいないから、多方面に顔を売るためにはもっと効果的な手段を選択しなきゃならない。何だと思う?」
 突如振られた問題に春香はふと唇に手を当ててうんうんと唸り出した。
春香が唸っている間にプロデューサーは立ち上がり、ホワイトボードに今まで出てきた重要単語である「トレーニング」と「営業」を並列に並べて書き出すと、そこで春香が手を挙げた。
「はい先生!」
「はい春香さん」
「テレビに出る、ですね?」
 正解と言うと、春香はぐっと右手を握った。
「テレビだけじゃないんだけどね。ライブとかラジオとかもそう。でも、そのためにはオーディションに合格する必要がある。オーディションに合格していけばアイドルランクって言うのが上がるし、ブロードキャスト関係の営業もしやすくなる。…アイドルランクって知ってる?」
 尋ねると、春香はフルフルと首を振った。なんだか子犬みたいだと思う。
「全国芸能界総会って言うのがあってさ、そこでアイドルのランク付けしてるんだ。これが上がればテレビの仕事も格段にしやすくなるし、メジャーな番組だと出演規定に何ランク以上とか書いてあったりする。Aランク以上はトップランクって呼ばれて、春香はまだ一度もオーディションを受けてないからランク外」
「という事は、ランクを上げていくって事が目的になる訳ですか?」
 勿論、ランクを上げる事それ自体は目的でも何でもない。
が、多くのファンを擁してAランクへと到達することが社命である以上はそれが間接的目標にならざるを得ない。
このあたりの説明が難しいところと言えばまあそうなのだが、同時にプロデューサーの腕の見せ所だとも思う。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。あのね春香、ここで聞いとかなきゃいけない事があるんだ」
 業務の説明が一転して春香個人への質問となり、当の春香は驚いて目をぱちくりさせる。
なんでしょうと言いたげな視線にプロデューサーは言葉をかけあぐね、しかしどう悩んだところで適切な言い回しは出てこなかった。
「春香はさ、どこまで行きたい?」
 案の定、春香は何のことか分からないという顔をした。
「今までの話でさ、アイドルってなって終わりじゃないって事が分かってもらえたと思う。後は春香がアイドルとしてどこまで高い所に行きたいかなんだ。社長からはAランクを狙えって辞令が来てるんだけど、でも僕は、」

―――彼女たちは『商品』だ。市場で供給されて消費されゆく人形だ。

「それを、春香に強制したくない」
 それを強制したが最後、自分は自分が目標とする「プロデューサー」にはなれない気がする。
アイドル達は決して商品などではない。彼女たちがAランクを狙うならばプロデューサーとして血尿の一度や二度は腹をくくるが、そうではないのなら無理強いして春香に無理をさせたくはない。
 春香は人形ではないのだから。
 春香は、人間なのだから。
「あの、プロデューサーさん」
 春香の方を見ると、春香は懸命に何かを考えているようだった。
なに、と会話の水を向けてやると、春香は全く自信がないと言いたげな声で、
「私の元気は、通用するんでしょうか?」
 何だそんな事か―――プロデューサーは思う。
あの秋の日、大江にケツを蹴られて会議室に入った日、確かにプロデューサーは春香から元気を貰った気がした。
通用しないなどと言う事は断じてあり得ないと思う。力強く一度頷くと、春香はまっすぐにプロデューサーを見た。
「僕は、あの日春香に元気を貰ったよ」
「…プロデューサーさんは、私はAランクに上がれると思いますか?」
 そして今度こそ、プロデューサーは腹からの笑いを殺しきれなかった。
何を言っているのかと思う、あの日自分を励ましてくれたのは他でもない春香ではないか。
当の春香は三度ハムスターと化し、最早この無礼なプロデューサー相手に手加減はいらないと思ったのか腹を抱える不届き者の背中をばっしばっしと殴打する。
「なれる、絶対なれるよ春香なら。何賭けたっていい」
「ホントですか?」
 じろりと半眼を向けてくる春香にプロデューサーは勿論、と言う。
その余りの堂々たる様に春香はプロデューサーの背中を叩いた手を引っ込め、ついでまじまじと不届き者の顔を眺めた。
「そのために僕らがいるんじゃないか。春香がその気ならさ、どこにだって連れてくよ」
 思わず漏れてしまったが、しかしこれは自分の本心だと思う。
そうだ、もし春香が高みに登りたいのならその手助けをするのが自分の仕事だ。
アイドルを支えるのがプロデューサーの仕事なら、それこそが自分の本懐なのだ。
そしてそれこそが、プロデューサーが憧れた「プロデューサー」の仕事なのだ。
「どこでも、ですか?」
「うん。どこだって連れてく」
「トップアイドルにも?」
「春香が望むならね。―――Aランク、狙うかい?」
 春香はそこで一度目を閉じた。しばしの沈黙の後に春香は目を開け、プロデューサーは春香の瞳に爛々と輝く光を見た。
「目標は高く、ですね!」
「そうだね。目標は高いけど、千里の道も一歩からだ。大変だけどマイペースで進んでいこう」
「はい! それで、狙うは―――」
 新米のプロデューサーと新米のアイドルはお互いを見つめあう。
計4つの瞳には煌々と輝く夢への道筋があり、道筋は今まさに開こうとしている。
アイドルの夢はAランク、そしてプロデューサーの夢はいつか見た背中であり、
「「Aランク!」」
 声が綺麗にハモった会議室で、新米プロデューサーと新米アイドルの夢は、こうして幕を開ける。



 月光があたりをほの暗く照らす夜だった。貴音は一人夜の川べりに立ち、今日の収録を静かに回想している。
穏やかに流れる川のせせらぎ以外には全くの無音であり、普段なら好ましいはずのこの静けさは、しかし今の貴音には少々重かった。
満月に照らされた川に映る己の顔は一言でいえば険しいの一言に尽きるが、今日の収録を振り返るとそれも致し方なしかと思う。
 最悪だった。
歌い込んだ歌だったはずなのに、流石に“かめら”なる悪辣非道な道具が回る舞台の上では萎縮を禁じ得なかった。
黒井には「完璧だよマイプリンセス」と言うよく分からない褒め言葉をもらったが、黒井本人がどう思っているにしろ今の貴音にはそれが世辞にしか聞こえない。
 もっと上手く歌えたはずですのに。
 見上げた先には満月がある。貴音は一つ溜息をつき、どこで見ても変わらないその見事な円に己の姿を重ね見る。
王者たるもの常に円であるべし―――と言うのは家に代々伝わる家訓であり、この円とは欠ける事のない完全な存在という意味だ。
それがどうだ、今日の収録の自分は余りにも欠けの目立つ円ではないか。
 まったく嫌になる―――歌い出しと2番の4小節目、それにクライマックスの5小節。
2番の4小節目のタンギングはまあ仕方なしと思えない事もないが、クライマックスの5小節に関しては直前のブレスが甘いせいで声が張れなかったし歌い出しのスタッカートミスは論外にも程がある。
これでよくも茨の道を進む気になったものだと己を自嘲して川を見ると、緩やかな流れには過去を悔いる自分の顔が月光にほの明るく映って
「―――どなたでしょうか」
 幼少の砌から危険が付きまとってきた身である。
日本に来てからそれらの危険は格段に感じなくなったとは言え、いくら貴音でも己の容姿を冷やかす好奇の視線とそれ以外の分別くらいは付く。
特に悪意は感じない視線とは言え、落ち込んでいるところを余人に晒すのは流石に抵抗がある。
「…すげえな、よくも気づいたもんだ」
 が、声の主は貴音のすぐ近くの電柱の陰から現れた。これでは鈍ったと言われても仕方がない。まったく今日は厄日だろうか。
電柱から現れたスーツの男はへらりと一度だけ笑い、ええとと呟いて鞄から資料と思しき紙を何枚か取り出す。
「…何て読むんだ。四条…たかね?」
「―――下郎に名を許した覚えはありません。立ち去りなさい、さもなくば、」
 男を見る貴音の瞳が剣呑な光を帯びた。並の人間なら黙って従いたくなってしまうその光に、しかし男は全く動じる気配を見せない。
子供のころから危険が友達のようだった貴音はもちろん多少武道を嗜んではいるし、さもなくばの続きは決して脅かしではなかったが、男は不用心にも程がある足取りで貴音の近くに歩み寄る。
「…お前な、もうちょっと立場ってもの考えろ。テレビ出たんだろ? 誰かれ構わずケンカ売るんじゃねえよガキじゃねえんだから。どうすんだ俺がファンだったら、最速でファン手放してどうするんだよ」
「あなたにお前呼ばわりされる覚えはありません。まして、あなたのような礼のないファンなど私には必要ありません」
「…礼のあるファンっての、拝見したいもんだ」
 そこでようやく、月光が男の顔の全容を照らしだした。
一言でいえば疲れている。もう一歩踏み込めばやさぐれているようにも見える。
歳は20の終わりか30の初めくらい、中肉中背のその男は貴音のすぐ傍まで歩み寄り、ひとつ大きな溜息をついた。
「先が思いやられるな。周りは全部敵って顔してるぞ」
 疲れねえ? と尋ねる男の声は心なしか呆けたように聞こえた。
が、貴音をして男の声には有無を言わせぬ何かがあって、何かがあれば腕の一本くらいは使い物にならなくしてやろうと貴音は固く心に誓う。
「―――王は、常に孤独なもの。いかに余人が私を持ち上げようと、それはあくまで『四条貴音』という個人の表層に過ぎません」
「寂しいね。信じられるのは自分だけ、背負うはただ自分の背中ってか。Aランクまでに必要なファン数、知ってるか?」
「たかが100万人。背負えなければ、私は王の器でなかった―――それだけの事です」
 すげえ独裁、と男は笑った。
20の終わりか30の初めに見えたその顔は今度は少年のように見え、貴音はそこでフルフルと首を振る。
余計な事を話してしまった。
「俺が、その半分を背負ってやるって言ったら、お前どうする?」
「戯言を。あなたにそれが出来るとは、私には到底思えません。…たとえあなたが敏腕のプロデューサーであったとしても」
「知ってんのか、俺の事」
「今朝方黒井殿に伺いました。765プロデュースで敏腕の名前を欲しい侭にしたプロデューサーであると」
 名前までは存じませんがと言う貴音に、男は一度疲れた笑みを零した。
「もう一度言います。王とは常に孤独なものです。私に―――プロデューサーなど、必要ありません」
「色々役立つと思うぜ。一人じゃ気付かねえ事だってあるだろ」
「であれば私はその程度の器だという事です。それ以上でもそれ以下でもありません」
 突如男は懐を漁り出した。
貴音は動じることなく右足を一歩後ろに引く。突きにしろ蹴りにしろ一度溜めを作らなければ破壊力は生まれない。
ナイフだろうが拳銃だろうが来るなら来い、と腹をくくったところで、男はいいかと一言だけ言った。
 煙草である。
 良いとも悪いとも言わないうちに、男は慣れた手つきで煙草に火を付けた。
「―――歌い出しの子音のミス、1番のマックスの時の左手の動き、2番に入る直前の左足の踏み込みと2番入ってから4小節目か8小節目、それに2番のクライマックスの5小節か10小節と最後の音伸ばしの声の張り。あと何かあったかな」

―――この男、

 恐らく男は一度も楽譜を見ていない。4小節目か8小節目と言っていることがその証左だ。
しかし、歌い出しの子音のミスやクライマックスの声の張りは貴音自身が思う今日の収録の失敗点でもある。
 出鱈目を言っているにしては正鵠を射過ぎているし、もし正確なのだとしたら男は楽譜を見ることもなくチェックのポイントを言い当てている事になる。
「よくお気づきで」
「俺も一度は敏腕って呼ばれた立場だからな。そのくらい分かるさ」
 まだ必要ないか、と問うてくる男に貴音はため息をひとつ付く。
慣れ合いは弱者の心得、強者たる自分は孤独でなければならないと思っていたのに、何だこのザマはと自分で自分をせせら笑う。
 何のことはない、自分もまた弱者なのだろう。
「お前、何のためにトップアイドル狙うの」
「―――私を慕う者たちのため、私を拾ってくれた黒井殿の恩義に報いるため。私は、必ずやトップに立たねばなりません」
「一人でか」
 問いかけに、貴音は緩やかに流れる川を見た。
ゆるゆると流れる大河はしかし最初から大河ではなく、はじめはどこかの山奥の水滴の一雫なのだろうと思う。
「黒井殿は、そう言います」
「黒井のおっさんがどう言ってるかなんて関係ねえよ。俺は四条貴音に聞いてる」
「私は―――」
 王とは常に孤独である。一人であり、それは今の貴音にとっては意地でもあった。
 味方はなく、寄せられる視線は常に畏怖の色であり、その中でただ己が力だけで頂点に上り詰める事こそがこの身を衆に晒す矜持だった。
「―――あなた様は、どうお考えですか」
「裸の王様にゃ付いてけね、とは思う。良い王様ってのは臣民の声を聞けるもんじゃないのかね」
「…かも、知れません」
 そこで男はぼふりと煙を吐きだした。月光に照らされて白く流れる煙に、貴音は男が笑ったのだと気付く。
「あなた様が私のプロデューサーとなれば、私は王になれますか」
「約束はしない。プロデューサーってのは裏方だ。槍を持つのも敵に突っ込んでいくのもお前の仕事だし、俺が矢面に立つ事はない。ただまあ、」
 そこで、男はゆっくりと貴音に向き合った。
不思議なほどの静けさと凶悪なまでの熱量が同居する男の顔を、貴音はそこでまじまじと見る。
 男の顔は、壮絶な笑みに彩られている。
「槍の手入れはしてやる。盾くらいなら持ってやるし、トップまでの道を照らしてやるのも俺の仕事の内だな」
 ふ、と貴音の顔に笑みが浮かぶ。
面白い。必要なのは結果だ、と貴音は思う。黒井は一人に固執するが、男が貴音の前に現れたという事は黒井もまた男の事を認めているのだろうし、貴音としては形振りを構っている暇は正直に言えばない。
 黒井との約束はただ一つ―――「1年間でトップに立つ。さもなくば、961から離籍する」という、たったそれだけなのだから。
「お名前を、お聞かせ頂けますか」
「大江。大きいに入り江の江。使うか? 俺の事」
 煙草を咥えたままの大江に向かい、貴音は一つだけ溜息をつく。
「二つ、条件があります」
「何よ」
「ひとつは、私は煙草を好みません」
「―――これ一本だけ、我慢してくれ」
 そう言うと、大江は紫煙を深く深く肺に入れた。
ゆっくりと瞼を閉じる様は月光に照らされ、同じく光に照らされた水面は揺ら揺らと悠久を刻んでいるようにも見える。
 ややあって大江は吸い込んだ量には到底釣り合わない細く長い煙を吐くと、おもむろに懐から煙草のパッケージと安物のライターを取り出した。

「あばよ、」

 貴音は目を見張る。
貴音の視界に映る大江はまるで出来損ないのピッチャーがマウンドに立っているかのような格好で大きく右腕を振りかぶっており、貴音が何をと問う間もなく大江は川に向かって煙草とライターを高く放り投げた。

「―――相棒」

 遠く高く放られた煙草とライターは、王冠のような飛沫を上げて水面へと沈んでいった。

「もう一つは」
 大江の顔を見た貴音は、これでもう後戻りはできないと感じた。
二つの条件のうち一つをクリアした大江に向かい、貴音は途方もないほど真面目な顔で二つ目の条件を口にする。

「…てれびとは何か、ご教授いただけますか」

 大江の目が点になる。




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