声 (60)

 話し始めたときはようやく上がり始めていたはずの月は、もう遥かな頭上で煌々と夜空を照らしていた。貴音はここまで話してようやくの一息をつき、大江は大江で今までの話を身じろぎもせずに聞いていた。
「…にわかには、信じられないかもしれません。ですが、私は正真正銘、なくなったとはいえアルテモンドという国の皇女でした。冬は長く厳しく、夏と呼べる期間は短く、春や秋などと言ったうららかな季節は私の記憶には終ぞない、そんな国でした」
 それだけを言い、貴音は話し疲れたかのように大江に背を向け、馬鹿でかいHの縁まで歩くと、ゆっくりと深呼吸をして大江に向き直る。大江は大江で話の区切りに頭を掻き、貴音が遠ざかった分だけでっかいHに歩を進めた。大股で3歩、そのくらいの距離が余りにも遠く感じる。
 その余りの距離に大江が口を開こうとした時、たった二人しかいなかった屋上の扉がゆっくりと開いた。背中を向けていた貴音よりも貴音を挟んで扉に正対していた大江の方がその人物に気がつくのが速いのは道理であり、大江は唐突に湧いたその登場人物にやはり、ともなぜ今なのか、とも思う。
「月光もなかなか明るいものだな。プリンセスに男二人、そして我々以外には誰もいないヘリポート。出来の悪いドラマの締めにはもってこいじゃないか?」
 黒井はそう言うと何の遠慮もなく大江と貴音に歩み寄る。貴音は振り向きもせずに溜息をつき、
「…そうかも、知れませんね。ここで私と貴方様のどらまは終わる。私と大江様の物語も、この屋上が終点なのですから」
 そう言った貴音の顔には薄らとした笑みがある。まるで、これを話し終えればやっとクランクアップだ、と言っているようにも見える。最後に何もかもをぶちまけてしまおう、貴音がそう考えているような気がして、大江はゆっくりと頭を振った。
「まだ分かんねぇよ」
「お前も諦めの悪い男だな。プリンセスにこれ以上続ける意思がないのなら、折れるのはお前の方だろう? それが人形でなく人を尊ぶ765のやり方じゃあないのか?」
「―――」
 恐らくは、そして結局は、黒井は大江の事を最後の最後まで信用してはいなかったのだろう。この期に及んで「765の」と言ってきたのが決定的な証拠だ。
化かし切れなかったのはもちろん己の技量のなさによる。いくら大江が敏腕のプロデューサーであっても、それは大江の演技のうまさを意味しない。
 ただ、やはり、
「まださ。俺にはまだ分からん」
 胸ポケットに手を入れる。遠藤からせしめたマイルドセブンの100’s BOXが顔を出す。中にはまだ吸わずにいた最後の1本が残っていて、大江は掌で箱ごと煙草をもてあそぶ。
「…最初にお前を見たときに、何か背負ってやがんなコイツ、とは思ってたんだ。それが今の話の延長線にあるのは分かった。だけどな、」
 大江の眼光が貴音を捉える。それは決して鋭いとは言えず、不明を追求する迫力にも欠ける、しかし大江を敏腕たらしめたプロデューサーの目だ。
 僅か入社1年の新米に説いた「プロデューサー斯くあれかし」とはまさに、開演30分前のアイドルがビビった時にプロデューサーがどうふるまうかの心構えを説くものだった。
 大江の体が全身で反応している。
 今が開演30分前なのだと、765で過ごした10年が言っている。
「だけど、ここまでの話でお前が背負うべきなのが何なのかは俺には分からなかった。そのアルテモンドって国の事なのか、それとも何か別の事なのか。昔あったアルテモンドが今なくなったことに、その原因があるのか。だとすれば、」
 そして大江は黒井を見、すぐに貴音に視線を戻した。黒井は何も語らない。
「だとすれば、四条貴音は今、何をしたいのか」
 貴音は大江の問いに静かに笑い、
「―――煙草は嫌いだと、申し上げたはずです」
 大江の回答は実に明確だった。
「俺のエゴだよ。こうしてお前の古傷を晒そうとしてんのもエゴだ。なあ貴音よ。お前がここで降りるってんならいい。アイドルマスターになんてなれなくったっていい。だけどさ、」
 その言葉に機敏に反応したのは貴音ではなく黒井だった。一切の挙動を伴わず、呼吸を乱すことさえせず、しかしその視線だけが僅かばかりの熱を帯びる。
「だけど、このままで後味が悪いのはお前だって同じはずだ。頼む、貴音、」
 大江だってその黒井の視線に気づいてはいた。しかし、今の大江には黒井の視線以上に、『アイドルマスター計画』以上に、それ以上にずっと温めてきた、もう終わりまで見えてきた『計画』よりもなお、今の貴音の話は重要に思えた。
「話してくれ。俺に」
 貴音は大江の声に、ふ、と溜息のような笑みをこぼした。仕方ないなぁ、とでも言いたげなその笑みは、まるで童女のようにも、酸いも甘いも経験しつくしてきた老婆のようにも見えた。
「大江様は、本当に―――本当にいけずな方ですねぇ」



 初等教育において日本式を採用したアルテモンドの養育院には、やはり日本式と同じように冬休みがある。アルテモンドの冬休みは12月24日の午前中に行われる行事式の成績明細書授与によってはじまり、1月の半ばに軍用除雪車が公道の新雪を掻きだしてようやく新年の授業が始まる仕組みだ。当然12月24日には授業などおこわなれず、冬の間に注意すべき事を教員がずらずらと並べたて、学童はそれを一生懸命に板書するに終始する―――というのはもちろん建前であり、生まれたころからアルテモンドの冬を何度となく繰り返している学童たちにとっては教員の有難い注意すべき事項などは「人に石を投げない」というのと同じくらいに当たり前の話である。それよりも今のトピックとしてホットなのはやはり、
「お姫お姫、ねえねえ今日デビューなんでしょ? こんなところいていいの? あたし良くわかんないんだけどさ、デビューのときに着る衣装とか会場の下見とかした方がいいんじゃない?」
 デビューの際に着る衣装などとっくに決まっているし、会場は今まで練習していた大聖堂の音楽堂である。何をいまさらという気もするが、エレンの気配りは今のタカネにとってはとても嬉しいものだった。
 誰にも話していないことだが、デビュー後にタカネは養育院を離れることが決まっている。その後は後宮にて今までのスパルタに輪をかけたような英才教育が予定されているのだ。これからはタカネも「アルテモンド第12代皇女の娘」ではなく「アルテモンド第13代皇女」の仕事をしていかなければならない。そのための教育プランは、母が2月ほども前からああでもないこうでもないと弄んでいるはずだった。
「こんなところ、というのは言い方としてどうかと。私はこれでも結構楽しんで養育院に来ていますよ?」
「楽しんでる人は授業中に窓の外なんて見てないと思うけど。まぁでもお姫だし大丈夫だよね、緊張してるねえねえ緊張してる?」
「―――緊張してしまうから考えたくない、という気持ちには気付いて頂けないのですね…」
 そう言うと、エレンはにやりともニタリともとれる底意地の悪い笑みを浮かべた。どちらかと言えば活動的でないタカネが動いていなければ死んでしまうようなエレンと仲が良くなったのは不思議な話であって、その馴れ初めはエレンがドッジボールの授業中にタカネの顔面にボールをぶつけてからに由来する。
ものすごく痛かったがそれ以上に泣きながらごめんねごめんねと言い続けるエレンを憎むこともできず、あれから5年は経つというのに今でもエレンはタカネにとって最も親しい友の一人だった。
 という馴れ初めは、何もエレンだけではなかった。
 例えばサッカー好きのオットーやユーリとは奴らが院則を無視して持ち込んできたUAEのサッカー選手のカードが珍しいと思ったタカネが声をかけたのが始まりだし、銀の髪を珍しがって隙あらばどうにか触ろうとしてくる手を煩わしく思ったのがミザリーとの始まりだった気がする。どこにでもいるいじめっ子に泣かされていたアドニは最初こそ情けない奴だと思っていたが、その途方もないほどの芸術のセンスに度肝を抜かされて以来タカネはひそかにアドニの絵画センスを盗めないかと画策しているし、カナッツェは親が軍人と言うこともあって昔からそれなりに知ってはいたが話して面白い奴だと分かったのは養育院に入ってからだ。養育院3年目のときに外国から転入してきたアキラからは異国の話をたくさん聞いたし、キンドと遊ぶようになったのは養育院の4年目で吹雪に閉じ込められた際の話だ。
 タカネは、ここで親しくなった連中との馴れ初めは全て覚えている。授業は家庭教師のマンツーマンで聞いた内容ばかりだったから面白くもなんともなかったが、今にして思う、自分がここにいたことには意味があるのだと思う。
「表に出るときは必ず指示棒を持つこと。それに、お家のお手伝いは毎日必ずすること! 氷が見えてても絶対に足で割ろうとか思わない事、それから表に出れない日は家の中でアザラシ体操をすること、それからえーと、」
 アザラシ体操、というのはその名の通りアザラシを模した運動である。床に腹ばいになって上半身を反る動きだけで前進するという奇天烈な運動だ。タカネがそんな奇習を学んだのは養育院に来てからだが、やってみるとこれはこれでかなり筋肉を使う。吹雪いて家の中に何日も閉じ込められた際は2足歩行を捨てたようなこの動きをすることで運動不足を解消する狙いがあると言うが、あるいはそれは家の中で子供にストレスを溜めさせないようにする方便なのかもしれないし、本当は家の中で子供が走り回るのを防ぐ父母の切なる願いの結実なのかもしれない。指示棒と言うのは長さ1メートルもある赤い棒のことで、これを持たせることには雪深いアルテモンドにおいて万が一雪に埋もれてしまった際に雪の表層に出して早期発見をしやすくする狙いがある、のだという。氷が見えていても絶対に足で割らないこと、というのは川の表面が凍っているのを水たまりか何かと勘違いしないようにとの配慮であり、どれも王宮にいたのでは決して得られない生活の知恵だった。
「でもさ、あたしお姫なら絶対大丈夫だと思うな」
 呟くようなエレンの声に視線だけを向けると、エレンは先ほどとは毛色の違うにんまりとした顔でで笑いながら、
「だってお姫だもん。あたしたちの中でいっちばん歌うまいもん。あれだけ練習してるんだし―――あたし良くわかんないけどさ、今までずっとあんな風に練習してたんでしょ?」
 あんなふう、というのはこの間エレンが音楽堂に来た時の事を言っているのだろうか。最もあの時点では既に通し稽古に入っていたし、タカネはタカネで歌詞の隅々まで記憶の中にインプットしきっていたし、オスピナ先生もそれを分かっているのか専ら最近言うことは「歌っているときに会場を必ず見回す事」だけだ。あれだけで「あんな風に」と言われてしまうのは若干バツが悪い気もしたが、しかしああなってしまったのは過去の累積があってのことである。タカネはこっくりと頷き、
「長い道のりでしたよ?」
「ん。この間は一番後ろでしか聞けなかったけどさ、あたし今日は一番前に座るよ。一番前の一番真ん中。絶対聞きやすいと思うし。うん決めた。あたし絶対今日は前座る」
 音楽堂の内装は反響素材だし、ピアノ伴奏と歌声が一番混じって綺麗に聞こえるのは実は座席の真ん中あたりです―――という野暮な事は、タカネは言わないことに決めた。こういうのは気持ちだと思う。
 そして、そういう気持ちを持っていたのは、何もエレンだけではなかったらしい。
「あ、エレンずるい! あたしだって前座るから。タカネ、あたしの事見つけて手振って。約束だからねはい決めた」
「ミザリー、最前列だって20人くらいは座れますから、何も競うことはないかと」
「あ、お前らずるいぞ! 俺だって前座るからな。タカネ、俺サッカーボール持ってくから。ぜってー目立つしすぐ分かるぞ」
「オットー、言うまでもないことだと思いますが生誕祭には私物の持ち込みは禁止と」
「あ、オレもオレも! 多分オットーと練習してから行くと思うから、多分すぐオレらの事分かるよ。お姫サインよろしくな、超目立つ奴」
「…ユーリ、生誕祭は夜です。前に風邪をひいたのは暗くなるまでサッカーボールを蹴っていたからでは?」
「俺よくわかんないけどさ、生誕祭ってコンサートみたいなもんなんでしょ? じゃあ俺発煙筒持ってくよ。こういうのは目立ったもん勝ちでしょ」
「アキラ、そんなものを会場で使用すればそれこそ冬の間中監察院に入れられますよ」
「そ、そうだよアキラ君、あんまりタカネちゃんの迷惑になる事はしちゃダメだって」
「…アドニ、貴方は本当にいい人ですね…」
「んー、でもアレでしょ? 前の方って結構偉い人たちが座るんでしょ? 前に父ちゃんが言ってたよ、前の方は軍人さんとか神父さんとかが座るって」
 キンド少年の言う通り、客席前方には軍職と神職が座る習わしだ。そもそも生誕祭の始まりは祈りの歌なので神職が神に祈りをささげるのがその発端であるし、軍人が前にすわるのは万が一の際に国の象徴を守るためである。いかに歳が近くて普段から親しんでいるにしても、たかだか「養育院の同級生」が座れるような席は客席の前方には皆無なのだ。
 そして、そのルールをしてなお、前の席に座れる可能性のある奴が実に勝ち誇ったような笑みで、
「わはははは! おれ座れるもんね前の方! 安心しろ、皆の想いはおれが確かに伝えてやる!」
「カナッツェずりーぞ! 代われそこ!」
「出たよ軍人特権! お前ら誰の税金で食ってやがるんだ!」
「別にユーリに食わしてもらってるわけじゃないもんねー」
「裁判よ! 裁判を要求するわ!!」
「被告は生誕祭の場においてショッケンランヨウの容疑でですね」
「判決ーっ! 半年間の給食からのプリン抜きの刑ーっ!!」
「おおお代官様それだけはァァ!」
「お前ら先生の話きけぇぇぇーっ!!!」



 結局、迎えに来たのはエイフラムではなかった。はっきり分かるほど肩を落としたつもりではなかったが、ウィサップ特務軍曹はエイフラムに次いでタカネの身辺警護としては歴の長い部類である。
先生がブチ切れて生徒が蜘蛛の子を散らすように教室内で跳ねまわり、先生が一匹一匹のクモを捕まえてはアイアンクロ―をかますという愛に満ちあふれた教育現場にタカネを迎えに来たウィサップは目を丸くした後にタカネから事の次第を聞いて爆笑をかまして、恐らくはそのあたりで既にタカネの落胆には気付かれていたのだと思う。
「すんませんねお姫、迎えがオッサンで。あいつは朝から雪中行軍してるはずなんだ。文句はバルク大将に言ったってください」
「―――、文句など。エイフラムから直接迎えに来れないとは聞いていましたから」
 エイフラムが1廟での任務に着くということは昨日、秘密の場所で聞いている。それが永続的なものなのか一時的なものなのかはエイフラムは終ぞ口を割らなかったが、割らなかったところをみると恐らく暫くの間エイフラムは1廟に厄介になるのだろう。それに何を思うわけでもないと一昨日までの自分なら思ったのかもしれないが、やはり晴れの舞台を自分の兄貴分に見てもらえない、というのは少々寂しい気がした。
生徒数が100人もいない養育院の廊下はどこもかしこも冬休みを迎える喧騒に満ちていて、これがここを歩く最後なのかと思うと何とも言えない寂寥は拭いされなかった。
 廊下に張り出された給食新聞の栄養価調査表は誰かのイタズラ書きでビタミンCの値が6角形を大きくはみ出している。「軍人さんありがとう」のコーナーには幼稚部作の岡本太郎作品が列をなしている。廊下の真ん中に引っ張られた白線は右側通行を子供に教え込ませようとした苦心の作だが「この白線の上を端から端まで走れれば願いがかなう」という根拠もなにもない7不思議の餌食にされて、長靴が入る事を標準に設計された下駄箱の中にはアイアンクロ―の努力を水泡に帰すような注意書きがパウチにされて貼ってある。
 下駄箱からお気に入りの白い長靴を出した。これを履いたら、自分はもうアルテモンドの第13代皇女なのだと思う。
「お姫、成績表貰いました?」
「貰いました」
「なんて書いてあったんです?」
「集中力を養え、と」
 大方は授業中に窓の外ばかりを見ていた事に対する指摘なのだろうが、ウィサップはそれにヒヒヒと笑い、
「じゃあ俺匿名で因縁付けますわ。もっと面白い授業にしろって」
「―――授業は確かに焼き増しでしたね。家庭教師の授業を聞いていた身としては特に。でも、」
 ウィサップのその気もない馬鹿話を尻に受けて雪国特有の2重扉を開け、タカネは振り返りもせずに校庭に出た。校庭の前には軍用自動車が停められていて、アッシーの他にも着付け担当のメイドの姿がちらりと見えた。このまま会場入りする腹なのだろう。
「でも?」
「でも、ここはとても楽しかった。私には、それが全てです」
 今の自分が楽しそうな顔をしているのか泣きそうな顔をしているのかは分からない。分からないが、タカネにとっては本心からそれが全てであった。鳥籠の鳥がかりそめの自由を手にしたに過ぎないのだと思う。過ぎないのだと思うけれど、それはたとえかりそめであったとしても、自由な気がした。
 大丈夫、頑張れる。
「お姫―――――――――――――――――――――――――――っ!!!」
 そう思った次の瞬間、背後からものすごい声が、

「頑張れ――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
「絶対に見に行くからねっ! 絶対!! 絶対だから!!」
「タカネ―――っ!! ゴール決めろ――っ!!」
「お姫っ! 一丁でかいのかましてくれやっ!」
「タカネちゃん!! がんばって! 応援してるからっ!!!」
「おれら絶対聞きに行くからな!! すげえの頼むぞ―――っ!!」

 度肝を抜かれて振り返る。視線を中空に放る。視線の先には自分が長い事過ごした養育院の教室があり、そのベランダに、あらん限りの声でタカネの背中を押すクラスメートの姿がある。怒声のような声に何事かと校舎中のベランダに人が出てくる。総勢100人くらいしかいない養育院のくせに、その大多数はベランダに出ているような気さえする。何事かに驚いて出てきた連中は、校庭の真ん中で呆けたように校舎を見上げるタカネを見つけ、その「何事か」を瞬時に理解してタカネの背中を押す側に回る。応援が応援を呼び、嬌声が更なる大きな力となって、タカネの体を激流となって通り抜けていく。
「お姫、」
 ウィサップの声に視線だけを横に滑らせると、ウィサップはどこか懐かしいような顔をしている。
「俺ら職業柄、ダチがくたばるなんてなぁ日常茶飯事ですや。でも、こういうの見るとやっぱ思います。ダチってなぁ、いいもんですね」
 タカネはそれに何も答えず、くるりと校舎に背を向ける。タカネの背に校舎中が押し黙る。今や校舎よりも車側に近いタカネはお気に入りの白い長靴でやはり白い雪を踏みしめるように歩き、やがて車両に後数歩と言うところで、タカネは大きく、後ろに向けて右のぐーを高々と掲げた。
 ウィサップがよろけるような爆発的な歓声が起きた。タカネは振り返らない。礼は全て結果で返すとでも言いたげなその後ろ姿は、齢10の今のタカネをして威風堂々たる威厳に満ちていた。
「…お姫、」
「はい」
 ウィサップはにんまりと笑い、
「いいダチっすね」
 今ここにエイフラムがいたら、どう言ってくれるのだろう。タカネは歓声を背中に受けながら、呟くようにこう言う。
「当たり前です」



「…で、何で俺はこんなところに入れられなきゃいけないんだ?」
 黒井の呟きに、エイフラムは芯の冷えた目で答えた。
「クロイ殿の安全確保のためです。今日は恐らく、ここがアルテモンド内で最も安全な場所になるでしょうから」
 黒井が自分の境遇に文句をつけるのも無理はない。黒井は現在、アルテモンド第1廟所管の東第2駐屯地の捕虜収容檻にぶち込まれている。東第2駐屯地と言えば東との国境線上から数えて2番目に最前線に近い場所であり、普段ならおよそ「最も安全」とは言えない場所である。しかも塀の中だ。檻の中といってもベッドはあるしそれなりの調度品もある豪華なものだが、逃げも隠れも出来ない、というのはエイフラムが肩から掛けたSG550と相まって大層に不吉である。
 しかし、それにしてはエイフラムの言葉には冗談の気配どころか皮肉の気すら見えない。大マジに「安全」を語る奴ほど信用できない奴はいないというのは黒井の持論ではあるが、しかしある種の極限状態まで行くと人間は人の話を聞いてしまうものなのだろうか。
「市内はどうしたよ。ドンパチの現場が近いよりは市内の方が安全って言うのは俺がこの国の生まれじゃないから言えたことか?」
「……」
 エイフラムは今度こそ何も言わなかった。
 おかしい。黒井は今の現状を自問自答してみる。そもそも黒井がアルテモンドくんだりなどと言う辺境にわざわざやってきたのはセレン取引の販路拡大のためであり、断固として言うが黒井はその性格はともかくとしてビジネスには厳格である。
自分ではそう思っているし、黒井重工グループに就職したのは親の七光の誹りすらあったものの、単に七光だけでわざわざ単身国外での商談に向かわせるような配采は、いくら首脳陣がボケ老人どもで固まっていようともしないと思う。
商談先に古い友人がいるというのは単なる黒井の個人レベルの人脈の話であって、社として馬鹿に出来ない商談の額が動く今回の取引に赴いたのは現場レベルでの黒井の人望や商才が上司に認められてのことだ。
それがなにゆえにブタ箱にぶち込まれなければならないのか。それも戦線の直前の。首脳陣どもや上司は自分に戦場商人にでもなることを期待しているのだろうか―――そんな益体もない事を考えている黒井の耳に、益どころか損の匂いすらする単語が飛び込んできた。
「エイフラム少尉(・・)殿、弾薬準備完了しました!」
「車は?」
「越境型バーゼル4号が15台、17インチ砲台車が4台確保できております!」
「よろしい」
 最敬礼で報告したのはエイフラムより若干若いくらいの下士官である。エイフラムは下士官の報告に一つ頷くと、目だけで士官に退席するように伝えた。
「―――知らなかったよ。プリンセスの金魚のフンは上等兵だと思っていたが、いつの間に尉官を得たんだ?」
 エイフラムの軍服の襟首には、星3つ付きの赤緑ラインではなく、星1つの白に青いラインの階級章が真新しい鈍さで光を反射している。エイフラムは黒井の問いに溜息のような息を吐き、
「正確には、まだ私は上等兵です。士官以上に上がるための試験も受けていませんし、承認を経ているわけでもありません」
 これでも黒井はそれなりに海外を歩いている身である。軍人相手に商談をしているのも一度や二度ではない。どこの軍隊でも大抵一つ二つは似通った軍規があるのは常であり、中でも「理由の有無に問わず尉官を謀ってはならない」と言うのはどこでも通じる軍隊の鉄則だ。
「お固い奴だと思ってたんだがな」
「―――ですが、それも今日までだ。今日これからの革命で、この国のあり方は大きく変わる。現状に甘んじる老害でなく、いたずらに国を疲弊させる王族でもない、我々がこの国を変えて見せる」
 革命。
「革命だと?」
「革命です。この国は病んでいる。宝を持つがゆえに宝にたかる虫どもに蹂躙される直前だ。我々はその病を治す。そのためには、あらゆる手段を辞さない」
 何言ってんだこいつ。黒井は努めて冷静に目の前の下士官上がりを注視してみる。大抵この種の事を言い出す奴は目が座ってるか自分に酔っているかのどちらかだが、エイフラムの瞳には自惚れも淀んだ気も感じられない。
純粋にいわゆる愛国心とかいうので満ちあふれているのはすぐに分かったが、その種の奴は下手をすると自暴自棄よりもナルシストよりも扱いに困る。
「何を、する気だ?」
「黒井殿には申し訳なく思っていますよ。折角の祭りの日に、客人にこのような場所にいてもらうのは正直心が痛む。ですが今日は大事な日なのです。黒井殿が我々の邪魔をするとは思ってはいませんが、何をするにしろ不確定要素は出来るだけ排除しておかねば」
 祭りの日。
 アルテモンドの祭りの日と言えば生誕祭だ。生誕祭と言えば王族もお偉方も集まるこの国きっての慶事だ。黒井も何事もなければ四条の娘の晴れやかなビューに立ち会って、その後四条やその他政府方の偉いたちとセレン取引の話をするはずで、何も問題なければ正月は日本で迎えられるはずだったのだ。
「販路をあなた達だけに限定するのはこちらとしても非常に都合が悪いのです。ですが、あなたには大事な仕事を頼みたい。そのためには、あなたには無事にここから出国していただかなければならないのです」
「…俺はあんたらのお国の商売を手伝いに来ただけだ。それも大事な仕事だが、柵の中に入れられるような筋合いはないと思ったんだけどな」
「誤解しないでほしい。あなた方が大切なビジネスパートナーであることに変わりはありません。ただ、現場に居合わせたのでは色々と問題があるだけです」
「日本の商取引の大原則って知ってるか? 公正と潔白だ」
 エイフラムは笑いもせずに、
「ええ。公正と潔白こそ我々も常に追い求める史上の理。ですから、あなたにはその証人になっていただく」
 そこまで聞いて、黒井の頭に閃くものがあった。
 セレンの取引は王室の許可がなければ行えない。それはセレン取引こそがこの小国の生命線だからだ。セレン取引の証書は未だ古臭い羊皮紙に国王印という近代にあるまじき物で、つまり証書と押印と王の意思さえあれば事実上どこにでもセレンは販売可能ということになる。
もちろん、それはある種の政治判断と恣意に左右される物事であるからして、羊皮紙に押印という簡単な事が簡単に行えないような議会上の縛りは、この上ないほどのキツさできっちりと巻かれているはずだった。
その議会上の縛りこそがこの国の法律であり、それに至るまでに費やされた何百時間もの時間そのものが公正を裏打ちする確たる証拠であり、それによる押印行為そのものが潔白の証である。
 即ち、
「俺をここに確保しておくのは、新法の調印のときに居合わせさせるため、か?」
 エイフラムは静かに笑う。
「聞いていた通りだ。クロイ殿は聡いお方です」
「ハンコさえおさせりゃあ、あんたらはどこにもセレンを売り放題、か。何のために?」
「聡いお方でも、それを理解するのは骨が折れましょう」
 目の前の人物はアホでもイってしまっているのでもない、と黒井は考えた。
 何のために軍人たちが王室独占の商売に首を突っ込もうとしているのかは分からないが、黒井は黒井で日本外務省から正式な商業ビザを受領してここに来ている。どのような過程を経たとしても、その調印の席のみを与えられて判断をさせられるのであれば、黒井は「何のためかは知らないが、アルテモンドはセレン販売の制限を解除した」としか言えない。王様の後ろに拳銃でも構えた奴らがいるのなら話は別だが、目の前の男がそのあたりの考慮をしないとは思えなかった。一時的にでも正気を失わせる薬物の存在は知らないわけではないし、それより最も簡単なのは人質を取ったりすることだろう。ある程度の脅しを付けられた奴と交渉したところでバックボーンなど分かりはしないし、気心の知れた四条は生粋のアルテモンド国民ではないためにセレン取引の現場には立ち会えない決まりだ。
 つまり、どのような背景があるにしろ、黒井は商談のその場で物事を判断をするほかない。
 そして、黒井の見たもの聞いたものが、そのまま黒井重工でのセレン供給先の決定として受け止められる。アルテモンドでのセレン買い付けは実質黒井重工の専売だから、それはそのまま国外に出る情報となる。
 そこまで考えて、黒井は口を閉ざした。であるならばこれ以上の質疑のやり取りはまずい。こちらの考えが漏れてしまえば、下手をしたら牢屋どころか墓穴に一直線だ。向こうもまさか取引先のビジネスマンを消したなどと言う悪評は立てたくないだろうが、下手をすれば下手な結果を呼びかねない危うさは先ほどの弾薬やら17インチやらからびんびん香ってきている。
「…なに、一晩は窮屈にさせてしまいますが、明日からはいつも通りです。明日になれば新法の承認とあなた方への販売単価を決めて、それであなたは国に帰れる。悪い話ではないはずです」
「…明日ね」
 黒井は小さく呟き、

「あんたのその襟の青白ラインも、明日になったら承認されるのか?」

 エイフラムの目つきが、再び冷えた。

 で、あればである。
であれば、この反逆者たち、少なくとも目の前の金魚のフンは黒井に危害を加えるわけにはいかないはずである。黒井には商取引の現場という公正が求められる場での証人としての役割を期待されている以上、後日詐称を働かせるような心情を持たせてはならないはずだ。言ってみれば黒井はアルテモンドのスピーカーの役割を本人の意思とは無関係に任されたのであって、黒井に対しては商売以上に何がしかの判断材料を持たせてはならないはずなのである。
事実黒井が入っている柵の中はベッドもあるし簡単な調度品類は置いてあるし、中で首を吊らないようにとの配慮なのか窓付きの扉が2つあるのは片方がトイレで片方がシャワールームなのだろう。
急場で拵えましたとはとても言えない内装を見る限り、元々は敵将校か何かを入れることを念頭に設計された檻なのかもしれない。
 黒井の挑発染みた物言いにエイフラムは何も言わず、黒井は黒井で慎重に言葉を選びながら、
「知ってると思うけどな、一律の規則を曲げてまで事を成し遂げるために人間が選択できる方法は二つしかない。一つは言論を用いるやり方。多分どこの国でもそうだと思うが、建前であってもそれを達成するための場が必ず設けてあるはずだ。違うか」
「……」
 エイフラムは答えないが、答えない事が即ち回答なのだと思う。
黒井はあくまでもセレン取引のために辺境まで来た商人だ。だが、だからこそセレン取引がアルテモンドの法に基づいて行われていることを知っている。複雑な手順を経て、もう見るのも嫌な申請書の束を書きあげてきた黒井に言わせれば、それは十分すぎるほどの回答だった。
一度か、あるいは複数回にわたって、目の前の人物が属する何がしかはそれを手段として選択したのだろう。
「もう一つは武力に頼るやり方だ。気にいらねえ奴は闇打ちして、気に食わねえ奴は排斥するやり方だ」
「…我々が、それを選択したと?」
 エイフラムの言葉には色がなかった。険呑さも陰険さも感じられないその口調に、黒井はある種の緊張を覚えた。喋りすぎたか。
「そうは言ってない。あんたらのバックに何があったかなんて俺は知らない。見たことを見たままに報告するしか能がないからな。だろう?」
「ご聡明で助かります」
「…」
 黒井の読みは、恐らく当たっていたのだろう。これ以上は話すこともないとばかりにエイフラムはくるりと背を向け、まるで面会室のようになっている鉄格子の向こうの扉に視線を飛ばし、
「四条は、どうする気だ」
 黒井の問いかけに、エイフラムは背を向けたままで答えた。
「あなたがそこまで聡い方なら、ご想像の通りです。―――君、客人に食事の準備を」
 直立不動だった若手の門番に簡単な指示を飛ばし、エイフラムはそのまま扉を潜る。鉄格子の向こうに誰もいなくなった事を確認し、黒井はぼそりとこう呟く。



「議会の承認のない武力の行使か。そりゃ、クーデターって言うんだよ」



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