声 (61)

―――セレン発掘より今日に至るまで、我々は常に弱者であり牙持たぬ者であり、爪を殺がれた犬であり続けた。
今や我々の命は我々の物でなく、民の物でない。銃把を握る手は我々の者であり、しかし握らせる意志は我々の物でない。
延命に延命を重ねた悪習は未だ混迷の渦にあり、喫緊の情勢に即し混沌の度を増すばかりである。
望んで犠牲になろうとする諸士の想いは気高く貴く、しかしそれは無用な惰性に摩耗され益なく失うばかりであり、最早大益に足る受け皿は失われて久しい。
 そも我々は望む望まざるにかかわらず祖先より受け継いだこの乾いた大地に根差し、文字通り根を食み皮を削ぎ皮を着て命脈を保ち、荒れ狂う海と割れ響く天に幾度となく幾万もの生を捧げ続け生き続けた。
畜生に劣る愚劣や餓鬼にも満たない蛮行は常に生きるためであり、それは我らの望みでなく、まして希望でなく、絶望と諦観に彩られた祖先の道をなぞるが如し生き様は天に唾する素行であり、我らの常道は神の逆鱗に触れるに等しく、それはまさに研がれた刃の切っ先を五指三寸の歩法にて歩む生き方に他ならなかった。
我らを我らたらしめるのは自他に認むるその生きざまであり、我らはつまり唾棄すべき道のりを経て我らたらしめられた。
 だが、我らは望んでそれを進んだわけではない。
断じて否である。我らとて神の子であり、生を欲するところは他に劣るところなく、だからこそ我らは守護聖人を軍神に頂きて民を守り戦い抜いてきた。
それこそが我らの矜持であり、我らの誇りであり、何人にも汚されない諸士の胸に輝く国軍旗はその象徴であり続けた。
 そして神は我らに憐憫にも似た慈悲を示し、鬼畜にも似た我らに生きる糧を与え、荒れる海にも割れる天にも頼らぬ確かな足を大地に与えたもうた。
波に呑まれること雪に埋もれることもなく、生はそれを謳歌し、命は確かな長さになり、我らが祖国はそれを以って畜生と隔絶され、確かなる我らになる事が出来た。
無論その道のりは穏やかなものでなく、あるものは落盤で、あるものは毒素に塗れ、またあるものは身を蝕むその病魔によって旅立った。
我らは貴い父兄母姉の犠牲のもと、今日の安寧を享受する。
 だが、それは確かに神の恵みであろうとも、確かにそれは神の憐憫にも似た憐れみであろうとも、それは疑いなく気紛れの産物であり、あるいは逆鱗の産物であった。
 確かなる恵みは同時に諸士の忠すべき対象を変え、またあるいは抑止する相手をも変えた。
 今や我らの強大なる敵は天でもなく海でもなく、逆鱗の産物をも手中に収めようとする帝国主義そのものであり、手犂鍬に変わる銃把の向かう先は畜生に違いなく、蹂躙され貶められ辱めらるる我らが祖国を憂いて立ち上がる諸士の志は貴くも儚い。
昼になく夜になく鳴り響く警報は輩の笑声より記憶に刻まれ、呻りにも似た軍靴の音は苦痛に呻く輩の声より大きく、雪崩より大きな機銃音は我らの声なき声を常に圧殺し続けた。
守るべきは祖国であり、そして守るのは我らであり、それは父兄母姉らの生を無きものにすべからざると言う我らの矜持に他ならない。
 だが、我らの兵糧表装は最早この冬も越せまい。
弾は枯れ火薬は尽き銃剣は折れ、断腸の思いで進言した我らの生き抜く術は悪習と腐虐にまみれた現王朝には一指たりとも届かない。
地を這い血を流し地獄のような雪原を彷徨う我らの想いは所詮椅子に座り銃も握らず絨毯の上を歩く者たちには届かず、進言をして憚られるその夢想共は温かな食事と暖かな毛布にくるまり、乾物と洞に眠る我らに思いを馳せることなく明日が来ることを疑わず、既得権と生産権を終生大事に抱えた空想共は金と保身にうつつを抜かし、府抜けた議会はそれに何らの異を唱えず、餓鬼畜生を背中に抱え命を秤に雪原を駆ける諸士らの無念は察するに余りある。
 諸君らに問う。
 諸君らは何者か。
 我らが守るべきものは何者か。
 諸君らがその命を散らし守りたいものは何なのか。
 あるいは、散って行った輩の守りたかったものは何なのか。
 何のために耐え、何のために何を守り、何のために帰れぬ戦場に帰らぬ気概で挑むのか。
 夢想のためか。既得権益のためか。絨毯の上を歩む者のためか。あるいは、それらを含み毛布に包る何者かのためなのか。
 否である。
 我は諸士らの全意思を以って断ずる。これは我らの生を勝ち取るための戦いである。
 諸士の身命は断じて夢想のためにあるのではない。徒に穿てる弾薬も徒に火のつく火薬も徒に折れる銃剣も、まして徒に落とせる諸士など最早存在しない。
 輩よ心せよ、これは我らが生きるための戦いである。我らの鬱積を幸いなる次元へと昇華させる戦いである。
無論、銃口を逆向けることに躊躇いや逡巡もあろう。だが心せよ、惰性と現状に甘んじる怠惰な意志こそが引き返せない今を導いたことを。今を以って善しとする破滅がすぐ隣にいることを。今の機を失してもいずれ心ある何者かが立ち上がらざるを得なくなることを。機を失すれば、夢想を夢想のままで遊ばせれば、容赦のない現実によって輩が消えることを。
 輩よ心せよ。これは、引き返せない過去を繰り返さないための戦いである。
 輩よ心せよ。これは、我らにとって真によい未来を勝ち取るための戦いである。
 輩よ心せよ。
 これは、革命である。
――――――――――――――――――  アルテモンド国軍第一廟少尉 エイフラム・ミラー



 ―――というのが、黒井を事実上の監禁状態に置いた後にエイフラムが第一廟の軍人に発破をかけるために行った演説の内容である。
牢屋の前では牢屋番を仰せつかった年若い兵隊がスピーカー越しに流れるご高説を直立不動で聞いていて、ベッドの上にいた黒井はその演説を涅槃の格好越しに聞いていた。
 いくらか、ぴんとくるものはあった。
 そもそも黒井がここに来ていたのはセレン販路価格の交渉が目的である。
というのはもちろん原資が先立たねばならない話であって、黒井は何となく「黒井コンツェルンの御曹司」を硫黄島に送り込んだお偉方の考えが読めてきた。
 セレンをこの地域で唯一生産でき、しかも販売できる程に洗練できるのはアルテモンドだけだが、そのせいで最近東との小競り合いが小競り合いで済まない規模になりつつある、というのは会社側でもいくらか掴んではいる。
その為に、最近は軍部がお門違いもいいところの物流自由化の法案を出しては女王が握りつぶしている、というのも風のうわさ程度ではあるが聞いていた。
もっとも、風のうわさも臭いの元がなければ立たないものだ。伊達に何度も斥候を送ったわけではないか、と黒井は一人ほくそ笑む。
 そもそも、この演説はいくらか義理立てしても「通っている」とはいい難い。ご高説は結構だが、この演説の内容は掻い摘んでしまえばこうだ。

 東とのケンカには勝てない。このままではジリ貧だ。このまま真綿で絞め殺されるのであればさっさとセレンでも何でも商売のタネにしてしまい、無駄なケンカの機会を無くしたい。
だが、その為には15人の政務官による議会と女王様が邪魔で、であれば邪魔者は消せばよい。

―――ああ、その辺は心配しないでくれ。マツが随分頑張ってるみたいだし、正当な話であれば正当な見返りを出す。

 黒井重工はそもそも「アルテモンド」という国と取引をしている。
外務次官の松本が出張っているのは黒井重工がどれだけ大きい会社だと言っても一企業に過ぎないからで、彼の仕事は黒井重工と親方日の丸の間に立ってアルテモンドとのやり取りの監督役になることだ。
が、エイフラムの言う革命、黒井の考えるクーデターが実際に成功した場合は恐らくアルテモンドは「アルテモンド」という名前の全く別の国になる。
掻い摘んだ演説の内容が正しいのであれば、エイフラムは間違いなく議会という国の執政機関を破壊しようとしている。
ということは、黒井の想定している正当な話、というのはもちろんエイフラム達が立てる「議会に変わる何か」と取り決めなければならず、そして上記のような先の見えないクーデターでは達成後速やかにその何がしかができるかは相当に不透明だ。
 その目で見てこい、ということか。買われているのか厄介払いなのかは分からないが、多かれ少なかれあの糞爺どもにはそういった意図もあったのだろう。
いい迷惑だし今回の商談の危険手当は一体どれほどの額になるのか―――平和な商業旅行がいきなりクーデターでおまけに監禁のオマケ付きだ、そこまで考えてやはり厄介払いのような気もしてきた。
考えてみれば自分は「黒井コンツェルン」の御曹司である。いわば経営者の身内だ。
なるほど、いくら吹っかけてくるか分からない一般社員よりはいくらか荒事の使い勝手もいいのだろう。
 そこまで考えて、黒井はそっち方向の思考をやめた。不健康すぎる。
 不健康すぎるので、他の事を考えることにする。
 懸念点そのいち。

―――あなたがそこまで聡い方なら、ご想像の通りです。

 あのにわか少尉殿はそう言った。
黒井の考えは「邪魔者は消せばよい」である。ということは、四条とその嫁さんとあの娘はそれなりの目に遭うはずである。
後腐れのない最もスマートなやり方は恐らく連中を捕縛の後に何らかの難癖をつけて他の議員もろとも殺害する事だろう。
生かしておいて傀儡にするという手もあるのだろうが反逆された際のリスクが―――
 いや違う。よく考える。
アルテモンドは生誕祭なる時代錯誤な祭りが今なお続く国だ。その祭りにおいて王女は聖歌を披露するという役割を果たす。
いわばアイドル的な役割だ。ということは、それなりに国民には慕われている確率の方が高いと思っていい。
であれば、殺害した際のリスクはそうでないときよりも高い。よって一家総出の殺害はないと踏んだ方がいい。
 傀儡の線か。黒井はそこまで考えてゴキリと首を鳴らす。
 では、どうやって傀儡にするか。黒井は悟りの境地からの解脱を試み、スラックスの皺を全く気にせずに座禅を組み始める。どうせおとなしくしているつもりもない。
 古今東西の権力者への強制方法は三つだけだ。正論をかざして論破するか袖の下で懐柔するか、もしくは「何らかの逆らえない事情」を作って強弱構造を逆転させるかだ。
正論をかざして論破する、という線は先ほどの演説で消えた。袖の下で懐柔を図れるくらいに金があるなら武力に訴える前にもう少しやりようがある気がする。
 ここで、アルテモンドのロイヤルファミリーの構成を考えてみる。
既に引退気味の元アルテモンド王、つまり四条の義理の父親は現在病床に伏せっている。
壮健なのは四条とその嫁さんと娘。このうち、最も権力を持ち執行力があるのは嫁さん。四条自身にもそれなりの権力はあるのだろうが、国を左右するセレン取引に同席できないことからもその影響力は押して知るべきだろう。
娘には恐らく今のところ実質的に何の権限もないはずだ。なぜならばアルテモンドの国民行事たる聖歌を今年になって初めて担当するから。おおかた今年の生誕祭をもってデビューなのだろうが、10年にも満たない過去にどれだけの経験と勉強を積んできたとしてもいきなり国を左右するような権限は与えられないだろうから。
 ここまで考えて、「何らかの逆らえない事情」をエッセンスとして思考に加える。
「逆らえない事情」により権力を行使するのが嫁さんなのであれば、その「逆らえない事情」になるのは十中八九四条か娘だ。
もちろん、四条の嫁さんも夫と娘に銃を向けられればおとなしく従わざるを得ないかもしれない。
 思考が冷えていく。意識が剃刀を当てられたように急速にそぎ落とされていくのを感じる。
 だが、何事にも保険はある。
黒井財閥の糞爺どもが財閥の御曹司を危険地帯に送り込んだのは何のためなのか。訴えられた時のリスクを最小限にしたいから。
 では、今ケースのリスクとは。
 銃を突きつけられてなお嫁さんが軍部のいいなりになぞならんと言い出したら。
 まして嫁さんは昔その「逆らえない事情」になりかかった事がある。その時の手痛い記憶により、黙って従うという道を選ばなければ。

 問題。何の権力もないオヤジと国民に慕われるアイドルの娘、見せしめとするにはどちらが損が少ないか。

 ことビジネスに限って言えば、黒井は極めて冷徹な男である。
 黒井にとってのビジネスは短期中期長期のいずれにおいてもどちらが得でどちらが損かである。
その基本原理を忠実に守ってきた結果として黒井は硫黄島にたった一人の島流しの地位を得たのだし、得か損かを考えるために時として最も邪魔な楽観的な考え方は徹底的に排斥してきた。
さらに言えば、答えの分かり切った問題に時間をかけるほどルーズな性格もしていなかった。
 黒井は鉄格子の向こうの看守が未だにこちらに背を向けている事を確認し、周りに何か使えるものがないか首だけを動かして確認してみる。
が、豪華な内装の癖に腐っても牢屋であるあたり、背中から相手を刺せるような便利な道具はどこをどう見ても見当たらない。
椅子の足はどう見ても格子よりも幅があったし、よしんば格子を抜けられたとしても到底看守までは届かないだろう。
机は地面に固定されているのだろうし、ベッドなど重すぎて脱出の道具としては活用できまい。
「なあ、」
「トイレはご自由にご利用ください。シャワーも利用可能です…が、燃料の不足により湯は出ません。野ざらしよりはマシですが、夜も冷えますので利用しない事をお勧めします」
 驚いた。
 半ばダメ元で問いかけた若い看守は、黒井の呼びかけにカンペを読むような回答を返してきた。
まるで「何かを言われたらこう言うように」という問答集があるかのような回答に黒井は少しだけ考えて、
「アンタはクーデターに」
「クーデターではありません。これはエイフラム少尉殿の考案した革命です」
「悪かった。アンタは革命…に参加しないのか?」
 黒井の問いかけに若年兵は背中を向けたままで言い淀み、
「…自分の任務は、クロイ殿の安全確保であります。これも立派な職務と考えます」
「アンタ一人で? 単なる留守番じゃないのか」
 看守の肩が強張ったのが、背中しか見ていない黒井にも手に取るように分かった。
「たとえ一人でも自分は職務を全うするのみです」
 やはりか―――黒井は笑いだしそうになる声を意志の力で殺し、最後のひと押しを声に乗せた。
「真面目だな。どうだうちの会社に来ないか? 今ならボーナスも弾むぞ」
「自分はアルテモンド第1廟の兵士ですので」
「残念だ」
 よし。これだけ揃えば十分だ。
 黒井は胡坐を解き、誰に言うともなしに、しかし看守には聞こえるように、呟くようにこう言った。
「トイレ」



 もちろん本当にトイレに籠った。
 催さないのに用を足したのは昨年の健康診断以来だが、どのみち今後の展開が想像通りならトイレを使える機会などこれから先しばらく訪れはしまい。
それにしても――黒井は声を出さないように破顔する、それにしても看守がアホで助かった。
 黒井が今の会話で取得できた情報は「今ここにはあまり人がいない事」と、恐らくはあの看守は「にわか少尉に随分心酔している事」と、あの年若い看守は恐らく「ドが付くくらいに真面目で、恐らくは多少親切」ということと、そして恐らくは「あの看守は軍人になってからの経験が浅い」という事だ。
人がいないという情報はカマ掛けでも何でもない会話の中で暴露してきたし、クーデターという言葉を会話に割り込んでまで言いなおしたのは少なくともあのにわか少尉のこの暴挙に賛成しているという証しだ。
もちろん「たとえ一人でも」というのは単なる比喩の表現なのかもしれないが、黒井がアルテモンドに赴いた際の戦闘は手ひどいものだったと聞いている。
大抵の話軍人というのは、こと戦火に関しては見栄っ張りだ。文字通りの「手ひどいもの」とは黒井もさすがに受け取っていないし、わざわざクーデターを起こしてまでセレン販売路を拡大しようとしている意図は「無用なケンカを吹っかけられないようにしよう」なのだから深刻なダメージを受けた可能性の方が高い。
 つまり恐らく、先ほどの看守の言った「たとえ一人でも」というのは比喩でも何でもない文字通りの意味だったのだろうし、ということは少なくともこの施設の今の警備には相応の穴があると思っていい。

 そして、黒井がトイレにこもってから10分が過ぎた。

「ドが付くくらいに真面目で、恐らくは多少親切」だと黒井が判断した理由は二つある。
 一つは黒井が質問する前にトイレとシャワー室の利用について注釈を垂れた事、もう一つはシャワーは現在実質使用不可能であると伝えた事だ。
恐らくあのにわか少尉は看守に、調印の立会人にするつもりの黒井が「滞在中に不便に感じないように」とでもいい置いたに違いない。
牢屋にぶち込んでおいて何が不便に感じないようにだ、とは自分でも思うが、ということは、あのアホ看守はこちらの質問に当たり触りなく失礼のないように返答を行う必要が生じたはずで、あの回答は質疑に対する何パターンかの回答の一つなのだと思って間違いはない。
 が恐らく、最後のシャワーのくだりはとっさに出た彼の地金なのだろう。
 言い始めに淀んだのは、最初はそんな事まで言おうと思っていなかったからに違いない。
看守が何も言わずに黒井が冷水シャワーを浴びてしまえば「不便に感じないように」というにわか少尉の命令が守れなくなるし、そこまで考えておらずとも「お湯が出ないからシャワーは使うな」というのはいかにも取ってつけたような話である。
「経験が浅い」というのはこの会話から判断した。それなりの経験を積めば、言わなくてもいい事と言っても問題はないが言う必要はない事の判断が付くようになる。
 それにもう一つ、黒井がわざと「クーデター」と言った時の過敏な反応は若年だからこその反応だろう。認めたうえで反論するのは熟練を要するが、頭から否定するやり方は若者に特有のものだ。
 もっとも、それは多少乱雑な推測ではあるのだが―――。

 黒井がトイレにこもってから20分が過ぎた。

 ここまでの20分間、黒井はわざと2回流した水の音以外、極力音を出さないように便器に座っている。もちろんスラックスははいたままだ。
 実際のところ、黒井はあの看守の性格を「真面目である」に数個のオプションが付いている、としか判断していない。
 そして、真面目であればある程20分もケツを丸出しにしている黒井の様子が気になるはずだ。なぜならば「不便に感じないように」言い置かれた彼は間違いなく20分前に「クロイ殿の安全確保が自分の任務」と言っていたし、ということはにわか少尉のクーデターにおける黒井の重要性を彼もまた認識しているに違いなく、そして自殺早期発見を目的に作られたであろう窓には黒井の姿は映っていない。
窓は目的が目的だからか多少大きめに作られてはいるが、目的が目的だからか便座に座ってしまえば黒井の姿は完全に死角に隠す事が出来る。後はあのマヌケが罠にかかるのを待てばいい。

 そして、そのマヌケはそれからさらに5分後、ようやく黒井の仕掛けた罠にかかる素振りを見せた。
 ドアの向こうで人が動く音がする。大方いつまでたってもケツを丸出しにしているであろう黒井が気になりだしたのだろうし、またそうでなければこの罠は成立しない。
「クロイ殿、おられますか」
 黒井は返事をしない。ひたすらトイレの死角にこもり、間抜けが檻を開ける瞬間を待つ。
「クロイ殿?」
 懸念点そのに、につながる考えから勝算がないわけではなかったが半分以上は賭けだった。
 ここであのアホが応援を呼んでしまったら罠はおじゃんだ。
 が、黒井自身もう一つの懸念点については多少疑惑の眼差しで考えていたし、それが証拠にドアの向こうで金属のこすれる音が聞こえた。
「クロイ殿、紙でしたらお持ちします。少々お待ちいただけますか」
 懸念点そのにの疑惑は、この時点で極めて濃くなった。
 黒井はだんまりを決め込み、鍵がそもそもついていない扉のノブが回るその瞬間をひたすら待つ、
「クロイ殿?」
 待つ、
「…」
 待つ、
「開けますよ」
 待
 そして、黒井はその瞬間に便座カバーが割れる程のスプリングでケツを弾ませ、眼の前のドアに肩からぶつかった。
 ドアは破裂音とともに勢いよく弾かれ、ドアノブに掛けられた手ごとアホの体をベッドサイドにふっ飛ばす。看守はひとたまりもなく床に転がされ、そして黒井はその隙を見逃すことはなかった。優先すべきはSIG550の銃身、次はアホの行動の自由を奪う事。黒井は跳ねた勢いを一切殺さずに左足でSIGの銃身を踏みつけ、次に一切の容赦なく看守の顔面を左足で思い切り踏みつけた。ぼり、という鼻骨の折れる嫌な音と筆舌に尽くしがたい嫌な感触が足裏一杯に広がるが無視し、そのまま左足をぐるりと一回転させる。とたんに耳に残る嫌な悲鳴が上がる。「あ」なのか「お」なのか分からない悲鳴を2秒だけ聞き、黒井は左足全体に掛けていた体重を看守の足に乗せていた踵に一気に掛けた。
 ゴツ、という固い音の後、看守は一度だけ痙攣をした。
 黒井はすぐさま踵を返して便所にこもり、そこで4秒だけ待った。
 足音は一向に聞こえてこない。

 看守は白目をむいて気絶していた。
やり過ぎかと思ったがSIGを向けられればあれより無残な目に遭うのはこちらだと思い直す。
鼻骨が折れたことで看守の鼻からはとめどなく血が溢れており、黒井はせめてもの情けのように看守の体を横向きに転がしてやる。
放っておけば鼻血で窒息してしまうだろう。正当防衛は認められるだろうが別に黒井は人殺しをしたいわけではない。

 人殺しをしたいわけではないが、もうセレン買い取りを真っ当にやるのは無理だろうな、と思う。

 横向きにされてもピクリとも動かない看守に黒井は「すまん」と一言だけ言い、おもむろに看守のポケットを漁り出した。
すぐに指に当たる金属の感覚に、黒井はシメたと感情なく思う。他のどこかの牢屋のカギとセットになった鍵束は古いアメリカ映画の看守が持っているような南京錠の寄せ集めで、これならばあるいは、と思う。
 その場で5秒耳を澄まし、やはりこちらに向かう足音がしない事を確認して、黒井はアホの開け放った牢屋の扉を潜る。
すぐ右手に下階に下がる階段を見つけ、黒井は用心深く用心深く、足音を立てないようにゆっくりと階段を下りていく。



 懸念点そのに。
 あの演説は、一体誰に対してのものだったのか。
 あの演説で、にわか少尉ははっきりと「敵は現在の政府」と言った。
そして、黒井は、にわか少尉がその現在の政府を傀儡とするために四条を殺害またはそれに類する目にあわせると判断した。

―――書面上は軍部の独自判断ですからね。でも陛下はご存じだ。いくら我々が国軍でも国庫所有の鉱山から出たセレンを独自に売り払うなんて事は出来ません。最終的には女王陛下にお目通しする必要がありますが、その為の陛下です。

 であれば、ウィサップ特務軍曹が言ったあの言葉は何だったのか。
「その為の陛下」というのは、「女王にお目通しする」ために必要な人間ではなかったのか。
 あの時既にウィサップ特務軍曹が陛下を見せしめに使うと決めていたのなら、もう少し言い方に淀みがあってもよくはなかったか。

―――今更御破算はないでしょう。アルテモンドは日本にセレンを提供する。その見返りとして、日本は財政や医療といった支援を強化する。双方に利のある話であるはずです。

 そもそも、よしんばこんなやり方で上手く事が運んだとして、ウィサップは本気で支援強化など引き出せると思っていたのか。

 それとも―――ウィサップをはじめとしたアルテモンド第3廟の連中は、この話を聞いていなかったのか。

 考えてみれば妙な話である。生誕祭はアルテモンド国民が1か所に集まるお祭りである。
そこで軍部がクーデターなど起こせば、どんな程度にせよ顰蹙を買うのは必至のはずだ。
後々の統治を考えるのであれば、国民の不満など抱えない方がいいに決まっている。黒井がこのクーデターを首謀するのなら、もっと人目につかない場所で、闇討ちのように事を運んだほうが自然だし、何よりも後腐れがないと思う。
 ただし、それはもちろん要人警護を行う第3廟の協力が不可欠だ。
嫁さんにしろ四条にしろその娘にしろ、アルテモンドの重要人物には常に第3廟の軍人が陰に日向に周囲に目を光らせている。
ということはにわか少尉の言う「敵」には、第3廟の軍人が手を下した方がずっと簡単で手間がないはずなのだ。

 もし仮に、今回のクーデターが第1廟の独断で行われているものなのだとしたら。
 あるいは、少なからず第3廟が今回のクーデターに非協力的なのだとしたら。

 その場合、このクーデターを成功させるためには少なくとも第3廟、あるいは加えて第2廟の軍人の排除が必須の項目となるはずだ。
しかし、いかに第1廟がアルテモンド国軍のなかで最も人数が多かったとしても、もともと絶対数が少ないうえに大打撃を受けた直後の第1廟にそんな真似ができるのか。
 出来るとしたら、どのような手段によるのか。

――――セレンはその性質上単独で産出することなどほぼあり得ない。大抵はこの国のように硫化セレン様の硫化化合物として産出されるのが主であるが、勿論硫化化合物とは一つの例外もなく有毒性である。黒井は金属系の昇華については詳しく知らないが、確か硫化セレンの単離には硫酸やら何やらの劇薬を使うはずで、それらを安全に使用するための知識や技法は確立されているのか。

 そんなものがなかったとしたら?
 例えば、セレン生産の過程で副次的に産出されてしまうなにがしかの有害物質が、無害化されずにどこかに保存されているとしたら?
 例えばセレンの生産に使われる亜硫酸ガスが無害化されずに備蓄されていたとしたら?
 セレン生産に必要な熱により精製された水素ガスが放出されずに蓄積されていたとしたら?
 そして、第1廟はそれを排除のための手段として計画に組み込んでいたとしたら?

 黒井は頭を振る。いくらなんでも飛躍しすぎだ。
大体毒ガスなど使ってしまったら軍人だけでなく民間人にも被害が出るのは確実である。
そもそもアルテモンドは3方を山に、残りを海に囲まれた天然の要塞だ。
こんなところで空気より比重の重いガスを使用すれば、そもそも相手どころか自分たちにも被害が出てしまうはずなのだ。

――――――?

 黒井は歩みを止めず、周囲に最大限の注意を払い、アリの足音すら逃さないように神経をとがらせながら、頭で全く別の事を考える。
 そもそも、である。なぜ東は「アルテモンドの」セレンを欲しがるのだろうか。

―――ここに来るときからずっと気になってたんだけど、東やら西やらはセレンの生産ってしてないのかな?
―――でしょう。そのような話は聞いたことがありませんし、もし生産しているのであれば東もこれほどまでにわが国に侵攻などしないでしょう。

 いくらなんでもそれはないだろう、と黒井は思う。
高々山一つを挟んだくらいで鉱物資源の出る出ないが決まるのならこれほど楽な国分けもないと思う。大々的とは言えないまでも負傷者の出る軍事侵攻をするような国が、まさか炭鉱夫を雇えないわけがない。山一つ崩せない程財力に困窮しているのであれば、そもそも軍事侵攻など考えもしまい。
 では、東は何が欲しくてアルテモンドに攻め込んでいるのだろうか。
 東になく、アルテモンドにある物とは一体何なのだろうか。
 そもそも東は、東にとっての小競り合いのような戦闘をなぜ繰り返すのだろうか。なぜ波打ち際のような戦闘を繰り返し、「その気になればその日にでも蹂躙できる国」を「今すぐにでも蹂躙し、欲しい物を奪わない」のはなぜなのか。
 過去の王女誘拐事件の不手際で、国際社会からの圧力が大きくなったから。
 本当にそれだけなのだろうか。
3方を山に、残りを海にというのは、もちろん逃げ場がない事をも意味する。
本気で東が山狩りを行えば、文字通り一人残らず口が聞けない状態にすることだって不可能ではないはずなのだ。

 何かが足りない。

 黒井はそれ以上東の動向を考えるのをやめ、まずは己の考えを立証するべく暗い廊下を歩いていく。
 先ほどのアホが言っていたのはアホなりの決意表明だろうと思っていが、ここまで来るのに誰にも発見されなかったところをみると「たとえ一人でも」というのは読み通り比喩でも何でもなかったらしい。
経験の浅いあの看守が複数の鍵を持っていたところを見ても、人材不足が極まった結果なのかもしれず、黒井はアルテモンドの人材不足に今回限りの感謝をして注意深く進んでいく。

 そうして地下1階を空振りに終え、地下2階に進み、交換時期を超えて久しい蛍光灯が一瞬またたいた廊下の片隅で、黒井は己の考えが正しかった事を理解した。
 牢屋にはウィサップがいた。
もっとも、こちらの牢屋は黒井が入れられたそれよりも随分粗雑だ。手っ取り早く言うなら文字通り映画に出てきそうな簡素というより貧相な作りの牢の中に、ウィサップが文字通り寝かされていた。
廊下に背を向けるように寝ているウィサップの脇腹は上下しているから恐らく生きてはいるのだろうが、黒井は静かに、静かにウィサップに向けて声をかける。
「黒井だ。生きてるか?」
「…クロイ?」
 このボリュームの声に反応するところをみると寝てはいなかったらしい。
ウィサップは億劫そうに体を持ち上げ、黒井の顔を見るなり驚き半分痛み半分のような顔をした。
「驚いたな。クロイ殿も監獄に入れられたと聞きましたよ」
「看守がアホで助かった。人の事言えた義理じゃないが、あんたら初等兵の教育はもう少ししっかりした方がいいぞ」
 笑おうとしたのだろうが、ウィサップは肩を動かそうとした瞬間にすぐに眉間にしわを寄せた。
ちかちかと明滅する蛍光灯の光ではよく分からないが、随分と手ひどく可愛がられたらしい。
「何だ、ちょっと見ない間に随分格好良くなったじゃないか」
「お恥ずかしいところを。…糞、エイフラムあの野郎」
 黒井はジャラジャラと鍵束をいじり、南京錠の番号の鍵を探し始める。
「詰め所にいた3廟の連中はみんな捕まりましたよ。あっと言う間でした。武器も何も取り上げられて、せっかくの生誕祭はここで震えあがるばかりだ。…っ、あの野郎め」
 合う鍵を探しながら、
「アンタなら雪道でも車回せるだろ。出してやるから手を貸せ」
「聖歌を聴きに?」
「ダチを助けに」
 ようやく南京錠にはめ込める鍵を見つけ出し、黒井は鍵をねじ切らんばかりに回し、呟くようにこう言った。

「間に合うなら」



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