声 (62)

 深呼吸を一つ。
 タカネが現在早鐘のようになり続けている心臓の機嫌を取っているのは、音楽堂に備え付けられた控室である。
控室と言っても設備が整っているわけではなく、椅子が一つテーブル一つのその部屋の明かりと言ったらテーブルの上でゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりのみで、窓一つない部屋からは今がどのくらいの時刻かすら分からない。
もっとも、献上歌を歌った後に街中を練り歩くパレードがあることを考えれば、それほど遅い時間でもないはずだとタカネは思う。
それでなくとも冬のアルテモンドの夜の帳は下りるのが早い。どうせ窓が見えたところで時間のヒントにはなりはしないだろう。
 生誕祭はまず、神父が主の生誕を祝う詔を謳うことから始まる。
詔の後は神系に連なる王族より神に今年の安全の礼と来年の護国を祈り、そのために捧げる歌としてタカネが歌を献上する。
タカネの歌を以って教会での行事は終わり、その後は聖職者と王族を先頭に参列者が街中を練り歩いて聖別された水を振りかけて回る。
街中を練り歩く際、塔のようなアルテモンドの家々には浄化を表す火たる松明が掲げられ、参列者たちは一人ひとりがランプを持つ。煌々たる灯火はアルテモンドを取り囲む山頂からもぼんやりと見え、それが得も言われるほど幻想的なんだ―――と、父は話したことがある。
もっとも、東にしてみればそれは即ち的であり、だからこそ第1廟の兵士たちは生誕祭の間中山岳警戒に当たるのだ。
 去年までタカネと一緒に街中を歩いていたエイフラムは、今年は山の警備にあたることになっているらしい。
聖歌を歌うタカネは生誕祭直前まで世俗と隔離されなければならないしきたりで、養育院から送ってもらってからはウィサップを始めとした兵士たちと一切顔を合わせていない。
 一人静かに待っていると、本当に色々な事を考える。
 エイフラムは今、一体何をしているのだろうか。
あの男の事だから味方が挙動不審になるほどの超警戒姿勢で山の中を警戒しているのだろうが、その姿を想像すると少しだけ笑みがこぼれる。
それにしても急な話ではある。エイフラムがタカネの護衛に当てられてから結構長い時間を一緒に過ごしたが、異動の話はあの時初めて聞かされた。
せめて兄貴分にはデビューを見守ってほしかった、というのが正直な思いではあったのだが、どうも軍上層部にはその辺の機微を察することのできる者はそう多くないらしい。
 音楽堂の座席数は全部で300人分である。
最もこれは座ることのできる人数が、であって、実際に音楽堂に集まる数はそれより多い。
前述のとおり、生誕祭の最中に教会で行う行事はそう長い時間ではない。
それこそパレードには例年相当数の国民が参列するので、立ち見でよいから最初から行事に参加したい、と思う連中は音楽堂に入れないと分かり切っているにも関わらず詔の段階から音楽堂に詰めに来る。
クラスメートたちは口々に見に来ると言ってくれていたがさて、その何人が音楽堂の中に入ってこれるだろうか。



 音楽堂の中に入れない、という点では、もちろんエレンは負け組だった。
生誕祭の翌日に各家庭で給されるのは既に一般家庭でも食されるほど普及したホールケーキだが、これを取り扱う店と言ったらアルテモンドには2件しかない。
一つはド・アルデンテという名前のケーキ屋で、もう一つはエレンの家であるバートナー製菓店である。
とはいえ、ド・アルデンテはもうそろそろ還暦を迎える爺さんが一人で回している店で、一人息子が後を継がずに昨年セレン精製技師の道を歩み出してからは開いているより閉まっている方が多くなってしまった。
必然的にケーキはバートナー製菓店で購入する、という流れが出来てしまい、これが文字通りエレンの手を借りるほどに忙しいバートナー一家が生誕祭時に音楽堂に入れない原因となった。
翌日のケーキを買いに来る客を捌き切った頃にはもう座席に座るなど望むに望めない時間になってしまい、店の片づけはいいから友達の応援に行って来い、と言われて姉と一緒に家を出たのは生誕祭開始までもうまもなく、という頃合いだ。
「あーあ。お姫のデビュー最前席で見たかったのに。お父さんももうちょっと察してくれたっていいじゃんか―…」
「あのね、そもそも最前列でなんて見れるわけないじゃない。一番前の席は神父様と皇女様って決まりよ。それに、お父さんとお母さんがあれだけ忙しくしてるのに手伝わないっていうのはどうかと思わない?」
「エミリア姉は聞きわけ良すぎ。あたしにとってお姫のデビューは人生一度きりなんだよ?」
 誰にだってそうよ、という姉の顔にはやれやれという表情がありありとにじみ出ていた。
オトモダチ特権でどうにか最前列に座る事は出来ないか、という実現の可能性が極めて低い夢想をしている妹に合わせ、姉はのんびりと教会に向けてカテナ通りを歩いている。

 実際のところ、バートナー夫妻にとってエレンは「遅い子」であった。
歳の頃7つも離れたこの姉は小さいころから良くエレンと遊んでくれ、もうすぐ10歳になるエレンにとって姉は大きな憧れの存在である。
多忙を極めたバートナー製菓店を切り盛りするために母親はエレンを出産後すぐに店に立っており、エレンにしてみれば姉のエミリアは半分母親代わりでもあった。
我儘を言って困らせる事はたくさんあったが、それをニコニコ笑って許してくれる優しい姉は遊びたい盛りのエレンにとっては稀有な存在であり、だからこそ最近乳が膨らんできたエレンには姉に浮いた話がないというのが信じられない。
ひょっとして自分のせいで恋愛ごとにうつつを抜かす暇もないのか、と思って養育院に入ったころは距離を置いたこともあったが、結局浮いた話を聞けるどころか寂しそうな顔をさせるだけだった。
アルテモンドの若い男は皆工場に行くか軍隊に行くかだったから、一度だけ姉が洩らした出会いがない、という一言は本当の事だったのかもしれない。
 とはいえ、本当に出会いがなくて枯れているのかと思えばさにあらず、
「でもさエミリア姉、ひょっとしたら例のあの人が教会の警備してるかも知れないよ。そしたらチャンスじゃん」
「チャンスってあのね…。いいの。兵隊さんはお忙しいんだから。あんまり迷惑かけないようにしなきゃだめよ?」
 糞真面目一徹のあの兵隊―――確かエイフラムと言ったか―――に姉がホの字であることを知ったのはつい最近のことだった。音楽堂に忍び込もうとして真面目が服着たような奴に捕まった、と言う話をしたら姉が尋常なからざる様子で食いついてきたのだ。
何故あんな堅物に、と思って話を聞いてみたら、どうもエレンが養育院に言っている間に厨房で起きたボヤ騒ぎを消し止めたのがあの堅物だったらしい。
 アルテモンドには消火設備らしい消火設備がない。これは、まず火を消すための大量の水を搬送できるだけの設備が存在しないことが第一の理由である。
道路状況の悪いアルテモンドでは水を搬送するための機材―――例えば消防車―――など望めないためだ。
が、ではその状況が改善されることがあるのかと言えばさにあらず、そもそも夏の間でも日蔭を探せば雪が残っているアルテモンドでは初期消火のための水源がいたるところにあり、積極的に改善がなされない理由はそのあたりにある。
もちろん、これは火事やボヤ等が起きないことを意味するわけではなく、その日エレンが養育院に行った後、新作のケーキに挑んだ父親が目を離した隙に火がコンロからはみ出てしまったらしい。
その頃、義務教育を終えた姉は健気にも家業の手伝いをしており、生まれてこの方遭遇したことのないようなそのアクシデントに右往左往するほかなく、ちょうどその日が非番であったその青年兵士は迅速に事態の把握と初期消火に努めて事なきを得る、という事件があった。
エレン自身もその騒ぎについては聞かされてはいたが、お姫の専属警備員が自宅の危機を救ったなどと言う話はその時初めて聞いた。
なるほど世の中というのは狭く出来ているものだと思う。ちらりと脳裏をよぎったあの時の鋭い視線には幾らか疑問を感じないわけでもないが、その後のやり取りで感じたあの男の印象はそれほど悪いわけではない。
あれと姉がくっつくならまあそれでもいいか、と思うマセたエレンである。
 姉をからかいながらカテナ通りを進んでいくと、やがてぽつぽつとランプの明かりが見えてきた。
どうも負け組は自分たちだけではなかったらしい。時折ランプの明かりが揺れたり跳ねたりするのは年に一度のお祭りを心待ちにしている子供が火元を持っているからで、耳を凝らせば笑い声のようなぼんやりとした声が聞こえてくる。

 ランプの明かりに導かれるようにバートナー姉妹もまた道の角を曲がり、目の前に聳え立つ教会の横道にそれなりの数の負け組がいることに気がついた。
自覚はしていたが、やはり相当後ろの方にいるらしい。前の方からは「押さないでくださーい! 並んでくださーい!」という丁稚なのか兵隊なのか判断がつかない哀れな声が聞こえてきており、どうやら今年は立ち見どころか音楽堂にすら入れなさそうだ。
恐らく音楽堂には入れまい、と腹をくくった幾らかのグループは入堂を求める列からは早々に離れているようで、開かずの扉と入堂用の扉を除いた2つの扉を取り囲むように幾つかのランプが煌々と照っているのが見えた。
もうランプの光がなければどこに人がいるか分かったものではない。
「あーあ。やっぱり今年外かな」
「仕方ないわよ。上戸も下戸も解放してくれるみたいだから、そっちに行きましょう? 後でお父さん達も来るって言ってたから、分かりやすいところにいた方がいいわね」
 上戸、下戸というのは開かずの扉と正門を除いた二つの扉のことだ。祭壇に近い方が上戸、正門に近い方が下戸である。
解放する、というのは文字通り生誕祭の間ずっと扉をあけっぱなしにしておくことで、これにより負け組連中も詔から聖歌まで一通りを聞く事ができる。
が、もちろんどこにでもヒエラルキーと言うのはあるもので、扉から遠いより近い方が聞きとりやすいのは間違いなく、既に聞きやすそうなところには幾つものランプの明かりが仄見えており、最前列で見る、と豪語しておいて音楽堂に入れないどころか外組の最前列にすら居れないという結末にエレンとしては不満タラタラである。
「エミリア姉、あたしちょっと係の人のところ行ってみる」
「はい?」
「だってお姫のデビューだもん。友達の晴れ舞台だもん。最前列はダメでも、せめて近くにいてあげなきゃダメっしょ」
 この舌足らずなやり取りで妹が無理やり音楽堂に入ろうと試みている事を、姉は姉らしく機敏に察した。溜息一発、
「あのねエレン、他の人だって早くから来て並んでたんだから、ズルはダメよ。大体エレン自分で言ってたじゃない、『お姫の声はすごく大きくて、あれなら生誕祭の時どこにいたって聞こえるよ』って」

―――緊張してしまうから考えたくない、という気持ちには気付いて頂けないのですね…。

 必殺鼻息返し。エレンは何も分かっていない姉にやれやれと肩をすくめて首を振る。
夜の間中補給がいらないくらいに油を詰め込んだランプがちゃぽちゃぽと音を立てる。
「違うもん。それとこれとは話が別だもん。そりゃお姫は歌うまいし声だって大きいけど、キンチョウするかしないかはまた別の問題だもん」

 ひょっとしたら、タカネは生誕祭の後、どこか遠いところに行ってしまうのではないか―――とエレンは思う。
そもそもが神系に連なる王族の娘ということで、どこかが自分たちと異なる何者かがクラスに来ると聞いた時のエレンは、今だから言えるが、正直に言えば得体のしれない異物がクラスに入ってくるような気がして若干の拒否感を持っていた。
蓋を開けたら授業はまともに聞かない不良もいいところで、おまけに動きはトロくて―――今にして思えば、あれもタカネが集中していなかっただけなのだろうが―――ドッジボールが顔面にあたった時の驚いた顔は今でも忘れられず、その鼻から自分と同じ赤色の血を垂らしたタカネを見てエレンは深く己を恥じた。
 なんだ、何も自分と変わらないじゃないか。
 神様の家庭の子だ、だとか何だとか言われていたくせに、タカネは別に自分たちと違うことなどありはしなかった。
ろくすっぽ授業など聞いていなかったくせに先生の質問に答えられるのは家庭教師との地獄のようなマンツーマンの結果だと聞いたし、あれほど上手い歌だって実際のところは天与の才というよりは特訓の賜物だとあの糞真面目一徹は言っていた。
タカネが凄いのは、別に家庭が凄いのではなく血統が凄いのでもなく才能が凄いわけでもなく、単純に努力が凄いのだとエレンは思っている。
 そしてエレンは、こんな事は今まで誰にも言ったことはないが、そんなタカネの友達である、と言うことにちょっとした矜持を持っている。
 だからこそ、自分とそう大して違わない友達だからこそ、辛い時は支えになりたい、と思うのだ。
 ましてデビューの日である。
これを機に、タカネはお国をどうこうするメンバーの一員になると聞いている。エレンはまだお国をどうこうする、と言うことがどういうことなのか分かっていないが、少なからず分かるのは、恐らくタカネはもう指示棒を持って街中をふらふらしたり休み時間に雪玉を作って投げ合ったりアザラシ体操したりはそうそう出来なくなるのだろう、と言うことだった。
ひょっとしたら養育院に来ることもなくなるのかもしれない、と言うところに思い至ったのは成績表を授与されているその時で、あの時のタカネの暗く重く、しかし透明なその表情は俗世からの解脱を思わせるに十分だった。
 友達がどこかにいってしまう。けれど、自分はその友達に何もできない。
 頭の中のモヤモヤを、無理に言葉にするのであれば、それに尽きた。
「ちょっと聞いてくるだけだよ。エミリア姉とあたしだから2席くらい空いてませんかって。すぐ戻るから」
「ちょっと、エレン、」
「それに―――」
 そこでエレンは、人様に迷惑をかけようとし始めた妹に向けてたしなめようとした表情を浮かべた姉に、実にいやらしい笑みを浮かべてこう言った。
「あの兵隊さんいるかもしれないじゃん。いたら『エミリア姉が逢いたがってた』って伝えてあげる!」
「―――こっ、」
 そこからエレンは振り返らずに丁稚に向かって走り始めた。
想像などする必要もない、姉は今栗色の前髪に顔を隠すように下を向き、真っ赤になった顔を見えもしない周りから隠そうと躍起になり、そして結局は真っ赤な顔をしたままこう怒るのだ、
「エレンっ! ちょっと待ちなさい!!」
 ほうら、やっぱり。



 神職だ神系だと言ったところで寒いものは寒い。
生誕祭の前半は音楽堂で行われるが、解放された上戸と下戸の前には音楽堂に入りきれなかった連中がランプ片手にたむろしている。
ここでポイントになるのは音楽堂の各扉は式の間中ずっと解放されているという点で、外の刺すような冷気はまるで容赦なく音楽堂の中にも入り込んでくる。
外に立っていれば多少の身じろぎをしたり腕を組んだりして動いて熱を作ることもできるのだろうが、寿司詰めの座席では多少の身じろぎすらままならない。
屋内なのに全員厚着という被服の謎は結局それが回答であり、余り遅くなるとパレード中の警備が難しくなるだとか、神は簡素簡潔を尊ぶだとか、詔と王族の口上に例年それほど長い時間をかけない建前の理由の皮を一枚めくれば、出てくるのは「寒いから」という途方もない一言なのかもしれない。
 既に式は王族捧祈まで進んでおり、タカネとはまた別の椅子に座っていた母は現在進行形で前々から書いていたであろう原稿を朗々と読んでいた。このド寒い中で良く母の声は通るなと頭の片隅でぼんやり思う。
 残りの大半は、このすぐ後に控えている聖歌に当てられている。
 意識しないようにしていたが、それも母が口上を述べ始めるまでだった。考えまい意識しまいという思考は仇もいいところで、そう考えれば考えるほど脳味噌がしびれるような緊張を返してくる。
さっきまでちくちくと首筋を刺激していたボアについての悪態もどこかに霧散してしまった。麻痺してしまったような脳味噌で歌詞を振りかえり口の中で復唱しているタカネの周りは神職ががっちりと固めており、不浄まかりならんの原則は父の顔を一度しか見せてはくれなかった。
あなた方の教義は『父と子と聖霊』ではなかったか―――タカネは腹の中で毒づくが、緊張なのかしびれた脳のなけなしのフォローなのか、周りが怪訝な顔をしなかったところを見ると、どうやら自分の顔はそれほど文句を言わなかったらしい。
 ふと、エイフラムの顔が頭をよぎった。
 彼は今どこで何をしているのだろうか。きっと雪山の中で一人気合いの入った迷彩を着て匍匐前進でもしているのだろうが、あの戦線病院で転がっていた英雄たちの仲間入りだけはしないでほしいと切に願う。
最も、タカネが腹を決めたのはあの出来事があったからだし、母の言う孤独を真に理解したのもあの瞬間だったと思う。
 人は常に一人、と母は言った。恐らくは祖父も、その決断を何度となくしてきたのだろう。
それが故のあの地獄だったのだろうし、それが正しかったのかは今でも分からない。一朝一夕で回答の出る問題ではないのだろうし、むしろ一朝一夕で答えを出してしまう事そのものが大変な失礼に当たる気さえする。
それでも、死ぬほど悩んで苦しんで、100年先を見通して辛い決断をして、その罰を受ける事を決めたのは他でもない自分だ。腹を括るほかないのだと思う。
 その第一歩が、聖歌献上なのだと思う。
 その決断の背中を押してくれた兄貴分がいないというのは、正直に言えばやはり寂しくはあった。
直前に迫る聖歌以外の事を考えようとすると、どうしても「エイフラムは今どこで何をしているのだろう」に行きついてしまう。
山と言ったところでアルテモンドは三方が山だ。エイフラムの点と自分の点を結ぶ線は、余りにも遠いと思う。
 響かせよう。タカネはそう思う。
 山だろうがどこだろうが、どこにいても聞きとれるくらいの声で歌おう。
 自分の背中を押してくれた人に聞こえるように歌おう。
 母の朗々とした声に負けないくらいに歌おう。
 妹分はここにいると、貴方のお陰で決める事が出来たと、伝えられるように歌おう。
 自分の努力を、自分の決意を、自分の気持ちを、自分のこれからを、歌に乗せて響かせよう。それが出来て、初めて自分は報いを受ける資格を得られるのだと思
「―――永らくの寵愛を経て、また悠久の時をその愛で包みこまれますように。天と地と聖霊に」

 そして、タカネが思考を止めたのと、母が口上を止めたのはほぼ同時だった。

 ほぼ同時に、音楽堂の周りもザワザワとどよめきだす。
 車の排気音が聞こえたのだ。
 アルテモンドでは車の所有は一般に認められていない。車の所有を認められているのは王宮と軍部と一部の公共機関だけだ。
王宮の主要なメンツは既に音楽堂に集まっており、一部の公共機関はとっくに店じまいをしていた。
世俗から切り離されるべき音楽堂において車の排気音などと言うのはもっての外であるが、そもそも警邏担当の第2廟兵士と要人警備担当の第3廟兵士は、そのほぼ全員が音楽堂周辺で任務にあたっているはずだ。車に乗る必要などないのだ。
 既に、音楽堂にいたほぼ全ての者が、開け放たれた正門か上戸下戸の先を非難じみた目で見ていた。
 視線の先では先ほどまで動きもしなかったランプの明かりがどよめきとともに上下左右に揺れており、「バタンバタン」という複数のドアの開閉音でさらに大きくなった揺れは、正直に言えば、まるで人玉のように見えた。

 遠くで、銃声が聞こえた。

 どよめきが大きくなる。非難じみた目が疑惑の視線に変わり始める。音楽堂の壁に据え付けられた蝋燭の明かりが、立ち上がって何が起きたのか見極めようとする者たちの影を壁に大きく映し出す。
風など吹いていなかったはずなのに揺らめく蝋燭の陰に、不気味なまでに黒い巨人が右へ左へと揺れている。
何かが起きているのに何が起きているのかが分からない、という根源的な恐怖が、静かに、しかし確実に音楽堂とその周辺に伝播していく。
 誰か様子を確認して来い。誰でもいい、2組行け。
 タカネの横で誰かが声を張り上げる。聞いたことがある、この声は確か第2廟の中尉の声だ。
バタバタと走り去る足音はすぐに聞こえなくなり、軽装備の兵士4人が音楽堂の外の闇へと飛び出して、

 相当に近くで、機銃の射撃音が聞こえた。

 まるで、兵士が4人出てきたから撃った、というタイミングだった。
 その時点で既にパニックは起きていたのだろうと思うが、その割には誰も騒ぎ立てたり外に逃げ出したりしなかったのは恐らく『見えなかったから』の一言に尽きる。
 姿なく気配もない恐怖に人間はただ萎縮し固まるほかなく、ザリ、ザリ、という雪道をはいずるような音だけが、銃声以降ざわめきすら消えた音楽堂に響いた。
 既に、誰も動いていなかった。ざわめきも消えていた。先ほどまでとは別種の静けさに包まれた音楽堂は、まるで誰かが唾を嚥下する音すら響くようだった。

 ふと、タカネは気付いた。

 正門に誰かが立っている。
 暗中装備をしている。アルテモンド第1廟兵士に正式貸与される迷彩服の一種だ。
日中の雪中装備とともに、ゲリラ戦を旨とする第1廟兵士にとっては着なれた服装である。月明かりすら届かない山中での夜討ちのための装備で、頭頂からつま先までが真っ暗で、顔を覆う黒覆面の目の部分だけはまるでレンズのような暗視装置が取り付けられている。胸板から胴体までをカバーする防弾チョッキもまた真っ黒で、およそ闇夜に紛れたらすぐには見つけられないような格好をしている。
小脇に抱えた銃はやはりSIG社のモデル552であり、闇になお黒いその銃身だけが蝋燭の明かりを鈍く反射して、
 激発音よりも先に、マズルフラッシュが目を焼いた。
 まるで当たろうが当たるまいがどうでもいい、という動きで兵士は壁めがけて銃を撃った。
それが証拠に、兵士の構えは銃口の向きからおおよそ壁に据え付けられた蝋燭を狙ったのだろうというだけの極めて乱雑なものだった。
そもそもサブマシンガンは片手で撃つような代物ではないが、そんなことは百も承知とばかりに片手で撃たれた銃弾は音楽堂の壁面を斜めに舐めた。
幾らかの銃弾は蝋燭に当たって中程から上をあらぬ方向に吹き飛ばし、当たらなかった銃弾はステンドグラスの窓を砕いて屋根に幾つかの穴を開ける。
どういう力学が作用したのか砕けたステンドグラスが音楽堂内に降り注ぎ、悲鳴を上げようとしたタカネは神父に椅子の前に引き倒されて、誰かが代わりに悲鳴を上げた。
 そして、その時にはもうすでに、同じく暗中装備をしたテロリストたちはとっくに音楽堂とその周辺の制圧を完了していた。
光源らしい光源が表のランプだけになった音楽堂の扉と言う扉の前にはやはり暗中装備のテロリストがツーマンセルで立っており、その銃口は明らかに音楽堂内の特定できない誰かを狙っていた。
膝立ちでストックを肩に当てたその姿勢は命令一つで掃射を開始できる構えであり、ツーマンセルの間から見える音楽堂の周囲にはランプの明かりが随分と高い位置で止まっていた。
頭上に掲げられたランプに照らされる持ち手の顔は驚愕と恐怖に歪んでそこにあり、音楽堂の内外がとっくに制圧されたことは誰の目にも明らかだった。
 最早、誰も悲鳴を上げてはいなかった。音もなく静まりかえった音楽堂に、下手糞な射撃音の残響と誰かの悲鳴の木霊が残った。
「―――ここにいる者には、証人になってもらう」
 そして、下手糞な射撃で音楽堂内の光源を奪った兵士は一言、大きくもなく、奢りもなく、ただ音楽堂の隅々まで響く無機質な声を放った。

 タカネは、耳を疑った。

 そんなはずがないのだ。
 彼は今、山の中で雪中行軍をしているはずなのだ。
 大方、影という影、窪みと言う窪み、下手をしたら野生動物の足跡にまで神経をとがらせて東のスナイパーや実行部隊の残した痕跡をひたすらに追いかけているはずなのだ。
 あのテロリストが、断じてそうであるはずがないのだ。
 あのテロリストは、断じてあの糞真面目一徹であるはずがないのだ。

 あのテロリストは、エイフラムであるはずが

 瞬間、正門からすさまじいまでの光が音楽堂内を襲った。撃たれたのかと思った。大の男が少女のような情けない悲鳴を上げたのがちょっとだけ滑稽で、暗闇に突如現れた光に目を焼かれたタカネはとっさに目を背ける。
かすかに聞こえるエンジン音はこの光が軍用車のフロントライトによるものだと判断させるには十分で、誰かがひきつけを起こしたような荒い呼吸は耳触りにも程があり、ギシギシときしむ木製の椅子の音は恐らく誰かが姿勢を変えようとしたからで、横から聞こえるトンツーの打鍵音はどう考えても第2廟・第3廟の待機兵員を呼び出そうとした無駄な足掻きに他ならない。
「我々の要求が達せられれば、すぐにでも撤退する。抵抗しない限りはこちらも無用な発砲はしないが、抵抗する限りにおいては革命の反抗因子と看做す」
 聞き間違えるはずがない、と思う。
 3年も一緒にいたのだ。
 幾度となく、何度となく聞いた声なのだ。
 今は雪中行軍しているはずの声を、どうしてテロリストが発するのだろうか。
 分かっていて、認めたくなかったのだろうと、今にして思う。
 タカネは恐る恐る顔を上げる。起きたことに恐怖したのではない、これから起きることに戦慄しているのでもない、事実を認めるのがただ怖い、という思いで上げた顔は、

 その眼は、認めがたい、しかし認めざるを得ない、そんな驚愕に見開かれた。

 逆光に照らされたその男は、既にフェイスマスクを外していた。
その顔には見覚えがあり、その眼力ももちろん見覚えがあり、ただ1点、その表情にだけは、その決意に満ちた形相だけは、タカネの記憶には終ぞなかった。

「―――エイフラム…」

 タカネはぼそりと、テロリストの名前を呟く。


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