声(63)

 暫く死んだように動かなかったが、10分ほども経った後に歪な痙攣を起こした。黒井が顔面を踏みつけたあの年若い看守である。

 歳の頃はもうすぐ20代の仲間入りをするころで、初の戦場はよりにもよってあの日の当方戦線第2守衛線から少し前に出たところだった。
タカネが腰を抜かすハメになったあの惨状を作り出した戦闘である。幸いにしてあの日の戦闘は第1守衛線の少し手前が激戦地であり、彼自身が戦闘行為をすることはなかったが、それが結果として負傷兵の後退護衛というハズレくじのような任務を彼に押し付ける羽目になった―――が、そのハズレくじ、と言うのが実にトラウマものだった。
何せ前線から自分の足で帰ってきている奴の方が少ないのだ。片足がもげた片手がもげたは銃撃戦のお陰かそうそう多くはなかったが、代わりに胴体に穴が開いた奴は数えるのも嫌になるほどだった。
 前線に出なくてよかった、という気持ちは、正直に言えばあった。
 が、それと同時に、この有事においても何の手助けにもならない自分のふがいなさは、正直に言えば、骨身にしみるほど堪えるものがあった。
 だからこそ、エイフラム少尉から「クロイタカオの監視役」を仰せつかった時、彼は、これも正直に言えば、不満があった。
革命はアルテモンドの危機的状況を打破するために誰かが行わなければならない義挙である、というお題目を鼻で笑うことが既に出来なくなっていた彼にとって、音楽堂襲撃班にアサインされなかったということ自体が既に戦力外通告されていたような気がしたのだ。

 薄らと目を開ける。口と鼻一杯に広がる鉄の味に顔をしかめようとして激痛に悶絶する。
 何とか気を失うことなく、それでも立ち上がる気力なく周りを見やると、恐らくは自分の鼻や口から出たのであろう血液が浅黒い池を作っていた。
 この量の血を鼻から出してよく窒息しなかったものだ、と自分の事を不思議に思う。
 出血の量を認識した瞬間に一瞬意識が遠のいた。詰まりはしなかったがその分随分と血が流れてしまったようだ。

 だが、口には出さずとも顔には出した文句を見たのか、エイフラム少尉は「それは違う」と言った。
クロイタカオには革命後初の国政取引をしてもらう相手であり、いわばこの革命の最後のキモなのだ、と語った。
唯一国交のある国の人物が商取引というイーブンな行為を行うことで、革命後のアルテモンドが国として有効であるということを証明するために、彼は必要なのだ、と言った。
従い、彼の監視を行って必要な時に表に出てもらうことは、音楽堂襲撃と同様か、あるいはそれ以上に大切なことなのだ、とも言った。

 遠のきつつある意識を気力で振り絞り、懐をまさぐる。
首を動かす余力はないが檻の鍵がないからクロイはとっくに外に出てしまったのだろう。
残りわずかな体力を振り絞って寝返りのような斑点をしようと試みて、とっくに麻痺していたと思っていた痛覚が腰に当たるゴツゴツした異物の存在を訴えた。

 これも正直に言えば、飛び上がりたい気持ちを抑えて最敬礼した。
まさか自分がそんな重要な任務を遂行できるとは露ほども思っていなかった。
てっきり他の連中と一緒に音楽堂襲撃前の市街警備隊をかく乱する任務に就くと思っていたのに。
あるいは、セレン生産工場のゲートを破壊する方の任務だと思っていたのに。
絶対に地味な任務の方だと思っていた彼にとって、地味だが意味ある「クロイの監視」という任務はまさに望外のものだった。口にも顔にもやる気を出した彼に向ってエイフラム少尉は「クロイは重要人物であるから無礼のないように」という話と、事が万事うまく言った暁には通信で呼び出すからその際は事前の取り決めに従ってクロイを音楽堂に連れてこい、という話をした。

 うめき声すら上げて、彼は腰から通信機を取り上げた。上部の通電灯が光っているから電源は壊れていないらしい。
重いくせにバッテリーの持ちも大して良くないこの通信機の唯一の取り得はとにかく頑丈なことで、対戦車ライフルに上半身を持って行かれた兵士の通信機に傷一つついていなかった、と言うのはアルテモンド国軍第1廟の中での笑えない冗談の一つである。

 そして、その話の最後に、もし万が一クロイが逃げ出したら、という話を、エイフラム少尉は実に真面目な顔で言った。
曰く、クロイは大変頭の回る男であり、鉄格子の中に押し込めたとしても油断はできない。常に警戒し、もし万が一彼が逃げ出してしまうような事が起きたらすぐに連絡をして来い。
 これを聞いたとき、彼は頷きつつも「そんな事があるものか」と思った。いくら頭が回ると言っても、そして頭が回るのであればなおさら、丸腰の人間が簡易とはいえ武装した人間にたてつくような真似はすまい。
むしろ、過度に悲観的な状況にさらされたことで自殺でもされてしまうことの方が問題なのであって、どちらかと言えばそちらに注意を払うべきではないのか―――彼の進言に、しかしエイフラム少尉は笑うこともせず怒ることもせず、しかし真っ直ぐに彼の瞳を見たままでこう言った。
 あの男を甘く見るな、と。

 そして、状況はエイフラム中尉の言う通りになった。
 通信機にはあらかじめ短縮メッセージを登録してあった。ボタンを一つ押せばエイフラム少尉の持つ小型端末にメッセージが送られるようにしてある。
震える指先でボタンに指を掛け、彼は薄れゆく意識の中でぼんやりとこう思う。
 やっぱり、エイフラム少尉は正しかったです。どうか革命を成功させ、願わくばこの国を正しき方向に導いてください。
 そうして、彼は意識を手放す寸前にボタンを押した。



 その日のウィサップ特務軍曹殿の足取りを辿るとこうなる。
 養育院の今年最後の登院日が半ドンなのは養育院の教育方針に多分に日本式が取り入れられているからで、その日のスケジュールと言ったら成績表の授与と長い冬休みの過ごし方、という名前の注意喚起くらいしかない。
養育院でのタカネの素行に文句を付けた成績表に対してウィサップが「因縁をつける」という不届きな発言をしたのは昼一番の出来事で、タカネを王宮に届けた後、ウィサップはアルテモンド第2廟・第3廟合同警備の最終打ち合わせに参加している。
 これは、生誕祭の日に、警備対象地区を2か所に分けなければならないことに起因する。
 アルテモンド祖父王―――タカネの祖父が病魔に体を蝕まれてから既に5年経つ。病の進行は思いのほか早く、発覚した時には既に経って歩けなくなる寸前だった病は現代医学を以ってしても最早手の施しようがないほどだったという。
タカネの母はそれを機に女王となり議会調印という名前の実権を握ったのだが、いかに実権なく国政の大事に参加しないとはいえ祖父王もまた貴人には違いなく、しかし最重要警備ポイントを王宮と音楽堂の2か所に分けられるほどアルテモンド第3廟の要員は潤沢ではなかった。
 状況に窮したアルテモンド第3廟は、そこで一計を案じる。
生誕祭当日に限り、主任務の似通った第2廟兵士にも第3廟兵士の真似事を要請したのだ。
 もちろん、市街警備を主任務とする第2廟の兵士は戦闘行為そのものがメインタスクの1廟兵士に比べれば余程警備向きではあったが、要人警備を本職とする第3廟兵士と同じタスクを求めるのは酷な話であり、上層部の紆余曲折を経たやり取りの結果として出来たものはそれぞれに第2廟と第3廟の兵士が配置されるという急造もいいところのチームだった。
これはもちろん、祖父王はそう長くはないだろうという当時の軍上層部の現実的な判断によるもので、もちろん急造のチームをまさか5年も保たせることになるだろうとは当時誰しもが予想していなかったに違いない。
 が、骨と皮だけで老いさらばえた祖父王はその後5年の長きにわたって崩御することなく、そもそも僅か1日の、それも東の襲撃の少ない冬場の警備という甘えもあったのか、碌な合同演習もしていない出来合いのチームでその年の生誕祭を乗り切ったという実績は悪しき前例として残ってしまった。
大筋の警備計画は前々から決めていたもののコミュニケーション不足からくる細かな決め事は直前に決まるような有様で、哀れなウィサップ特務軍曹はこの締りのないミーティングに参加していたらしい。
 そしてウィサップは、うんざりするような些事を妥協と諦念で取り決めて隊に戻ろうとしたところで第1廟の兵士に捕まったとのことだった。
抵抗らしい抵抗など丸腰に近かったウィサップには出来ようはずもなく、しかして暴れたウィサップに処せられた刑は反革命罪という名のリンチであり、本人の弁曰く「その場で殺せばよいものを」、なぜか私刑人たちはウィサップを収監所にぶち込んだとのことだった。
 最も―――ウィサップが丸腰だったのはミーティングの会場が王宮内の一室だったからだ。
よほどの理由がない限り王宮内での武装は認められていない。そのため、王宮内での打ち合わせは今回のような事件が起こらないよう非公開で行われるのが慣例で、それでも待ち伏せのような形で捕えられた事を考えると第3廟内にも革命派はいたらしい。
ウィサップが時折せき込みながらも話した最後に「恥ずかしい話ですが」と付けたのは恐らく、そんなことは黒井に指摘されるまでもなく気が付いていたからだろう。
ちらりと見たウィサップの横顔は痛み以上に自嘲に歪んで見えた。
「…っつ」
「痛むのか?」
「すまん、それ以上強い痛み止めは持ってない。無事に日本に戻れたら手術用の麻酔を商売品に加えるよ」
「いえ、大分楽です。クロイ殿のジャケットは魔法ですな。まさか鎮痛剤まで入っているとは」
 運よく雪道を走行できる車を確保できたはいいが、ドライバーの方は満身創痍もいいところだった。見たところ骨は折られていないようだが、こうして裾から見える腕だけでも黒紫に変色してしまっている。
 商売柄全世界を飛び回る黒井の必需品は実は手帳でもペンでもなく二日酔いの薬と鎮痛剤である。
二日酔いの薬を持ち歩くのは至極簡単な理由であり、安全な水が飲めるのは日本をはじめとしたごく僅かな国だけで、水が確保できない地域の唯一安全な水分といったら酒しかない、と言うのは実際に割とある話である。
鎮痛剤の方はどちらかと言えばお守りに近いものではあるが、商売柄その筋の方々と話をしなければならない機会もないわけではない。
持っていて損はない、と言うのは実のところ同じような仕事をしていた四条から聞いた話ではあったのだが、まさか奴の国で初の活躍の場を迎えることになるとは黒井も露ほども想像していなかった。
もっとも、それ以上に驚いたのはウィサップその人に違いなく、黒井の上着の隠しポケットからイブプロフェン入りのカプセルドラッグが出てきた時は痛むはずの顔全体で驚きを表していた。
「魔法のジャケットにも限度はある。俺も大抵の悪路なら運転できるだろうが、こんなダンパーなしの車で雪道なんぞ運転したら多分すぐ事故る」
 アルテモンドの軍用車は雪道に埋まった地雷を踏んでも走行できるように二重ゴム履きになっており、仮に地雷を踏んだとしてもエンジンを始めとした機関部が破損しないよう底面に対戦車地雷用シェルタが貼られている。
そのため、軍用車内の居住性など競技用自転車といい勝負で、でこぼこした雪道の僅かな段差すら車内に響く有様だ。
ましてウィサップは歯を食いしばりながらアクセルを吹かしているものだから車内に響くその衝撃たるや凄まじく、額に流れる汗は緊張の外に痛みもあるのだろうと思う。
が、黒井としても同情はするが出来る事など最早何もない。結局のところ、けが人に鞭打って現場に急がせるしか黒井に出来る事はないのだ。

 問題。何の権力もないオヤジと国民に慕われるアイドルである娘、見せしめとするにはどちらが損が少ないか。

 出来なければ、四条が殺されるかもしれないのだ。



 訳が分からなかった。
 どうして雪中行軍しているはずの兄貴分がここにいるのか。
 どうして第1廟の兵士たちをひきつれて音楽堂を包囲しているのか。
 どうして暗中装備などと言う物々しい格好をしているのか。
 どうして銃口をこちらに向けているのか。
 どうして、そんなに冷たい表情をしているのか。
 エイフラムの両脇にはやはり銃口を室内に向けた兵士が二人膝立ちしており、まるで発砲する指示を待っているかのようなその様子にはただならぬ雰囲気が漂っている。
ちらりと視線を飛ばすと上戸にも下戸にも同じ姿勢の奴がいて、NVG越しの視線は一体何を見ているのか察するのも不可能だった。
ぎり、という歯ぎしりの音がして横を見ると、襟証から第2廟の中尉と分かる初老の男が歯の根も折れよとばかりに歯ぎしりしている。先ほど状況確認のために兵士を派遣した男だ。
中尉の兵装はぱっと見ただけで拳銃1丁と知れた。中尉レベルでこうなのだから、恐らく音楽堂内に詰めている数少ない兵士だけでは状況の打開は不可能だろうな、とタカネは頭の冷えた部分で思う。
そもそも拳銃一丁で応戦しようにも、ここには余りにも多くの市民がいる。応戦しようとするなら少なからず犠牲は覚悟しなければならないのだろうし、すぐにでも銃を乱射しないところを見ると少なくともそれは連中にとって好ましからざる事態なのだろう。
 我々の要求が達せられれば、とエイフラムは言った。
 では、『我々の要求』とは一体何なのだろう。
「―――神聖な生誕祭の場において何事ですか。神前での粗相には罰が当たりますよ」
 軽いジャブだった。タカネは首だけをゆっくりと背後に回す。
王族捧祈を中断した母は厳然たる表情でそこにいて、それは既にタカネの知っているアレな母ではなく、まぎれもなく連綿と命脈を保ってきたアルテモンド第12代皇女の表情だった。
「罰など既に当たっている。女王陛下は国営東部戦線病院を訪れたことは?」
 国営東部戦線病院と言えば、エイフラムがタカネを連れていったあの病院だ。あの惨状を罰と言うのであれば、彼らは一体どんな悪いことをしたというのだろうか。
タカネは口にたまる唾の嚥下すら忘れて二人のやり取りを見ている。
子供の泣く声がして、必死になって子供の口を押さえる母親の気配がした。
「幾度となく。今年の議会でも医療費の増額は約束したはずです。すぐにとは言いませんが、春先には間違いなくより良い医療設備が整うでしょう」
「押し着せを」
 今や、エイフラムの銃口はまっすぐに母を向いていた。
母にだってそんな事は分かっているだろうに、まるでそんな事は些事だと言わんばかりにエイフラムを真っ直ぐに見詰めている。
非はあるが負う覚悟もある、というその視線に、エイフラムもまた真っ向から己の主張をぶつける視線を放っている。
ビリビリとした緊張感は寒さという感覚をタカネの体から奪い去り、まるでこれから取り返しのつかないような、何か途方もない事が起きるような感覚だけがタカネの脳髄をはいずり始める。
「ですがそれ以外に方法がない。それは貴方もお分かりでしょう?」
「摩耗していくのは我々兵士だ。最前列の方々はそれをお分かりでないと見える」
「アルテモンドに士官学校はありません。ここに座っている方は皆前線からの生え抜きでしょう。貴方も第1廟の兵士として前線にいたのなら、それが何を意味するかは分かるでしょう?」
「まるで前線にいたかのような物言いだ。我が国の女王陛下は勇ましい。東のライフル斉射を生き延びるとはなかなか強運をお持ちだ。―――だが、」
 母が時間を稼ごうとしているのはタカネもとっくに気がついてはいた。
付き合うエイフラムもエイフラムだが、それが意味する事もまたタカネは気が付いていた。
奥歯を噛みしめていた中尉が顔を赤くしたり青くしたりしている様はタカネの推測が正しいと証言している。
恐らく、連中は音楽堂一体の警備を担当していた兵士たちを軒並み無力化してからここに来たのだろうし、であれば母がどれだけ時間を引き延ばそうとも援軍など来よう筈がないのだろう。
エイフラムが母につき合っているのは、一言で言えば、状況の完了による余裕の成せる業だ。
 そのはずだが―――NVGを外して素顔を晒しているのはエイフラムただ一人だった。
誰とも知れない他のテロリストたちは皆一様に統一規格のNVGを外しておらず、壁半分を5.56mmに弾かれたために明度の落ちた教会からは誰が誰だが一向に分からない。
他の誰もが口を開かない中、唯一エイフラムだけが母と会話をしているという事実を取れば、タカネとしては認めたくなくとも他の大多数はエイフラムがこの強襲者たちの首魁か、あるいは少なくとも陣頭指揮をとるほど首謀者に近いところにいると判断するだろうが、だとすれば、この薄暗い空間でフルフェイスタイプのNVGを外させないのはエイフラムである。
 エイフラムは一体、何を警戒して兵士たちの顔を晒させないでいるのか。
「だが、今般の前線で生き延びる方法は2つしかない。雪上迷彩で匍匐し車線から逃れるか、あるいは逃げ出したかのどちらかだ。即応部隊への打撃応戦指示しか出せない無能に雪上匍匐などできようはずもないとすれば、あるいはどうして生き延びられたかは考えるまでもないと思うが?」
「つまりあなた方は文字通りの生え抜きであると? 丸腰の国民に銃口を向ける無法を働く者を精鋭と呼ぶようになったとは、私の知らないうちにアルテモンド国軍は随分と品がよろしくなったようですね?」
 母の言葉の直後に、タカネは視界の中に二つの動く物体を納めた。
 一つはエイフラムの右脇を固めていた兵士で、明らかに誰ともない照準を母に合わせた動きだった。
 そしてもう一つに、タカネは意図せず口の中に溜っていた唾を飲み込んだ。

 父が、母を庇うように立ち上がった音だった。

 生唾を飲み込んだ「ゴクリ」という音が、嫌に大きく耳朶を打った。
「これはこれは閣下。そんな場所に座っておられたとは」
 エイフラムの声には、隠すこともない非難の色が込められていた。
タカネもその座席には驚いている。父が列席しているのは聞いていたが、まさか母の真横だとは思っていなかった。
大体にして母の座っていた最前列は神職や軍人が固めるしきたりだ。父は神職ではないし軍人でもないし、まして生粋のアルテモンド国民と言うわけでもない。
本来ならば、しきたりに沿うならば、父はどう頑張ってもタカネより後ろの方に座らなければならないはずなのだ。
「―――私の生まれた国には父兄参観ってのがあってね。自分の子供が普段学校でどんな事してるのか見るって行事があるんです。そういう時はどんなオヤジでも仕事サボって子供見に来るものなんですよ」
 父の声は僅かだが震えていた。当たり前だ、完全武装の兵士に銃口を向けられて平気な人間など居はしない。
だが、それでも父は二本の足でしっかりと立ち、母を庇うように、正確にはエイフラムの両脇の兵士の射線を母から遮るように立っていた。
「アンタ達は何をしにここに来たんです? 貴音の歌を聞きに来たにしては、随分と物騒な格好ですな?」
 エイフラムは、ふいと口の脇を歪めて見せた。
「既に拝聴しております。…天使の歌声とは、まさにあの事を言うのでしょう」
 タカネの背中を、絶望が覆った。
 エイフラムの目の色はいつもと同じだった。タカネを静かに見守るあの目と全く同じだった。嘘であればどんなに良かったかと思う。エイフラムが二人いるなど思ったことはなかったが、やはりあそこで銃を構えたテロリストは、3年も自分を見守ってくれた兄貴分なのだ。
 兄貴分が、銃を持ったテロリストを従えて、何かをしに来たのだ。
「ならば、何が目的ですかね?」
「その前に、閣下は何故そこに居られるのか。そこは神職の座る席のはず、どうしてアルテモンド人ですら貴方がそこに居られるのか」
 父に反問した時、エイフラムの瞳に暖かさは微塵もなかった。
どう見ても明らかにエイフラムは父を敵視しており、消炎の匂いすら漂ってきそうな銃口は余りにも物騒であり、そして父ははっきりとこう言った。
「私が妻に頼んだ。娘の成長を見たいという願いは不粋ですかね?」
 エイフラムは、目を細めた。
「望めば与えられるのであれば、貴方は恵まれている」
「―――要求は?」
 母の声に、エイフラムは再度、ゆったりと右手の銃を父越しに母に向けた。
カチ、という音が無音の音楽堂に響く。父はそこで僅かに震え、しかし避けようともせず伏せようともせず、瞬きすら忘れたようにエイフラムの顔をじっと見つめている。
「我々の要求は二つ。一つは無策により無用な犠牲を強いた議会員の処断、」
 この言葉で、タカネの前方に座っていた父以外の連中が震え始めた。
タカネの前方に座っていた連中、というのはもちろんエイフラムの言う処断対象であり、拳銃1丁とアサルトライフルの彼我の差はいかんともしがたく、要するに彼らは自分たちを明確に殺そうとしているのだ、とようやく理解に至ったらしい。
混乱している頭で『こいつらは何をいまさら慌てているのだろう』と思う。
にわかにどよめきだした会場を一瞥したエイフラムは何の抑揚もなくSIGを頭上に向けて指切射撃、どよめきがざわめきに変わる一歩手前の音楽堂はサイレンサーなしの激発に一瞬で静まり返る。
「そしてもう一つは、女王の持つ調印の譲渡である。なお、後者の条件達成を我々の至上目的とし、そのために前者を利用することを我々は厭わないと申し添えておく」
 女王が後者の条件を呑まない場合はこの場で議員を処断する、と言っているに等しかった。
 天井に向けた銃口を再び父に向け直し、エイフラムは静かに、本当に静かに、呟くように問う。
「回答は」
「断る、と言ったら?」
「先ほども申し上げた。我らの目的は二つある。後者が果たされないのであれば、まずは前者を達するのみ」
 母の疑問に、エイフラムは取りつく島もないような回答を返した。
 上戸と下戸と正門前から金属の擦れる音がする。どう考えても兵士たちが射撃準備をした音だった。
「お互いのために、賢明な判断を期待する。回答は」
「―――だめだ」
 回答したのは母ではなかった。
父は震えながらも、しかしはっきりとした口調で言う。恐らくそれに一番驚いたのは母でもその他大勢でもなくエイフラム本人で、しかしすぐに非難染みた目を真っ直ぐに父へと向ける。
「閣下。今は女王との会話をしている。沈黙は金、というのは貴方の国の格言では?」
「それでもダメだ」
 長い付き合いのタカネだからこそ分かる、エイフラムの表情の違い、と言う奴である。
その時のエイフラムの表情にははっきりと「何故第三者が口をはさむのか」と書かれていたが、もちろん父はエイフラムとそれほど親しい付き合いをしているわけではない。
「この国が東の攻勢で多数の負傷者を出しているのは十分理解している。だがもう少し待ってくれ。今、私の伝手でこの状況を訴える準備をしている。上手くいけば状況が改善される可能性は十分ある。まだ間に合う、銃を下ろせ。後もう少し耐えれば、この状況は終わるんだ」
 父が出まかせを言っているわけではない事は十分に分かっていた。
 家に帰る間も惜しんで仕事をしていた父は何も貿易だけをやっていたわけではない。
暇さえあれば関係各所を回り、資料をかき集め、事情を説明する機会をうかがっていた事をタカネは知っている。
一度忍び込んだ父の部屋には何やら難しい書面がおびただしい山を作っており、何気なく引っ張り出した写真は包帯でぐるぐる巻きの兵士の写真だった、などと言うことも更だった。
父は父なりにこの国を憂い、父は父なりの手段で状況を改善しようと奔走していたのだ。
「なあ、もう少しだけ待ってくれ。賭けたっていい、悪いようにはしない。私の命に賭けてもこの状況は必ず改善してみせる。だから」

 そして、タカネはそれを見た。

 エイフラムの懐、ガンホルダーの少し上、左胸の辺りにある四角い何かが赤い光と電子音を立てた。
 規則的な電子音は何かの暗号のようにも思え、エイフラムは銃口を父からはずさないまま、その四角を耳に当てた。
 通信機、のように見えた。

 自分の背中がぞわりと泡立つのを、タカネはどこか人事のように感じた。

「もう少しだけ時間をくれ。必ずやってみせるから。アンタ方の気持ちは痛いほど分かってる、だから」

 ドン、という音と、バン、という音の中間のような音がして、父の必死の口上が途切れた。
 母の白いドレスの胸から下が、一瞬で黒く染まった。
 タカネの目の前で、エイフラムの持つ銃口から煙が沸いた。
 排夾が床を転がる音が、嫌に大きく響いた。

「…父上?」

 横を見る。父が立っていた場所に父がいない。いるのは目を見開いた母だけで、今までいたはずの父の姿が見えない。

 兄が、父を、撃った。

 たったそれだけの事実を認識するために、タカネは気の遠くなるような一瞬を費やした。


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