声(64)

「父上っ!!」
「姫様っ! 危のうございます!」
 駆けだそうとしたところを脇の神職に捕まえられる。
 もんどり打って床に倒れる。肘を指すように床に倒れただから痛くないわけがないのに、どういうわけか焦り以外の全ての感情が揮発していた。
 ざわめきが広がる。津波のような悲鳴が音楽堂内を木霊する。
扉の近くに座っていた連中は我先にと逃げ出そうとし、逃げ道にふさがる銃口にひきつった悲鳴を上げる。
「離してっ! 離して、父上が!」
 視界が下から滲んでいく。頬に熱い何かが流れる。頬の熱い何かはまあいいとして視界を滲ませる何かが邪魔で邪魔で仕方がない。
邪魔なのはタカネの腰をがっちり押さえた初老の神職も同じで、タカネは本気で神職の顔面を蹴飛ばす。
それでも彼はタカネを離さず、タカネは獣のような呻り声をあげて何度も何度も神職の顔を蹴飛ばし、その時ようやく、タカネの視界に父と母の姿が映った。

 床に倒れた父は、ピクリとも動かなかった。
 そして母は、まるで表情のない顔で、父のそばで屈んでいた。

 ドレスのすそが血を吸って赤く染まるのも、白いヒールが赤く染まるのも、最早母は一切気にしていないようだった。
 もしかしたら、そんな事など最早認識できていないのかもしれなかった。
「時間がない。前者と後者の間に因果関係はない。まずは前者を達成すると申し上げたはず。今の一発は、単なる一例に過ぎない」
 エイフラムの声が、嫌に大きく耳に入った。頭のどこかで、何だやっぱり殺すんじゃないか、という諦めにも似た声が聞こえる。
「女王陛下の、賢明なる回答を期待する」
 タカネは母を見る。母はタカネの視界の中で、もの言わぬ亡骸と化した父のそばに屈み、

「お断りします」

 そしてタカネは、その声を聞いた。
 悲鳴の溢れる音楽堂内を切り裂き、我先にと出口に殺到する聴衆の動きを止め、誰もがひれ伏さざるを得ないような、誰もが啓示として受け止めるような、耳よりも脳よりも魂に響くような、そんな声だった。

 母の声だった。

「控えろ下郎! 自らの我を通すのであれば己の行いを省みろ!! 貴様らの手にあるそれは一体何だ! 力によって我を通すその行いが、貴様らを傷つける敵のそれとどう違う!?」

―――何かを決める人は、その責任の所在において、ずっと、ずぅっと、孤独なの。

 今やすっくと立ち上がった母は、アルテモンド女王であった。
 母はタカネの母である前に、アルテモンドの女王だった。
 胸の内に途方もないほどの難題を抱え、誰かに相談はしていたとしても、全て母の名において人の生死を決めるような決定を腹に抱えていた。
 ネジを飛ばすような余裕もなく、頭にお花を植えるような余裕もなく、100年後のために明日死んでくれと非情に言わなければならない母は、やはり途方もなく強かった。

 母は、泣いてはいなかった。

「貴様らの行為が何を生み出すか考えろ! 貴様らの銃の向く先にいる何百もの無辜の民を見ろ! 貴様らが何を守ってきたのか考えろ! 父を母を子を友を守るべきその手で何を始めたのかを考えろ! 貴様らに国を託して逝った先達を思え! 貴様らの兄は、それを本当に望んだか!?」

 そして、タカネはそれを見た。

 顔を赤くしたり青くしたりしていた男だった。
軍服の襟首には、白地に青ライン星2つの階級章が付いていた。男の目は薄暗いこの場でもはっきり分かるくらい充血していた。
ひょっとしたら瞳孔も開いていたかもしれない。男は女王の激に固まったテロリストたちに悟られないようにぐるりと堂内を見まわし、それと気取られないようゆるゆると、しかし確実に懐に手を入れた。

「この国は貴様らを教え育んだ先達の血で出来ていることを知れ! 貴様らの先達が守りぬいたこの国より奉戴された調印は貴様らが考えるよりずっと重い!」
「ならばこそ」

 エイフラムがついに返しの口を開く。タカネはそれを聞いていない。
 男の顔は最早真っ赤だった。額のあたりから出血でもしているのではないかと思う。
懐から取り出されたのは薄闇にあってなお黒いSIG P226であり、正確に狙うことよりも発見されないことに主眼を置いた腰だめの構え方は本で読んだ西部劇のガンマンを思わせた。

「ならばこそ、我々はこの義挙に及ぶ。これ以上の犠牲は先達に顔向けできない。父や兄は何を守った? 国か? 人か? それともその印なのか? では我々は何なのだ? 命を捨て義を通すことは我らの覚悟であり我らの誉、では我らは何のために誉を通す?」
 エイフラムの静かでよく通る声は音楽堂の内外に響く。しかしタカネはそれを聞いていない。
 タカネの耳に入るのは、男の持つSIGが激鉄を起こされて起こした『カチ』という音だけだった。

 タカネは動けなかった。
 その音が何を意味するか知っていたはずなのに、タカネは動けなかった。

「調印を守ることではない。人を守ることのみが我らの誉、そして逝った父や兄も勿論人なれば、何故彼らは逝かねばならなかったのか? 国を守るためにか? 我々を守るためにか? それとも、彼らはセレンを守るために逝ったのか?」

 タカネは、動けなかったのだ。

「答えてもらおう女王陛下よ。彼らは何を守ったのだ? 彼らが命を賭して守ったのは何だったのだ? 国か? 民か? 調印か? それともセレンなの」

 間近で聞いた銃声は「バン」と「ガン」の中間のような音がした。
 聞いたことはあったはずなのに、この場で一番その音が出ることが分かっていたはずなのに、あまりの音量にタカネの頭は一瞬何かで殴られたかのような気がする。
よろめくように背もたれに凭れかかり、視界の隅に驚いたような母の顔が映り、そして中央にどこか病気なのではないかと思うほど顔を赤くした中尉の顔があった。
何かで見たサルなる生物にそっくりだと思ったのは、今にして思えば現実逃避の一環だったのかもしれない。
「俺の部下をどうした!」
 男の声がエイフラムの声を遮る。視界の中で、エイフラムが左肩を押さえる。肩に当たったのかと思う。
 会場に悲鳴が起きる、銃声にやられた頭に、その悲鳴が男なのか女なのか老人なのか子供なのかもわからない。
目を閉じることすら忘れて視界をさまよわせると、男の暴挙に応じたのか何人かの襟詰が銃を取り出そうとしているのが見えた。「女王を守れ」という声と同時に「おいやめろここにだれがいるのかわかってるのか」という声が聞こえた気がする。
タカネの鼓膜などお構いなしに男は銃を連射している―――というのはその時のタカネにとってそう見えた、というだけで、拡張もしていないSIGのマガジンには15発しか弾が入らないのだから男の連射は時間にして10秒にも満たない時間程度だったのだろう。
 が、完全武装の男たちにとって、その10秒という時間は目の前の危機に対処するのに十分な時間だったに違いなく、アンロック済みのトリガを引くにも十分だったに違いなく、そして連呼されていた「俺の部下を」が唐突に途切れるのはある種当たり前の帰結だったのかもしれず、だがその時のタカネにとって、鼻から上が千切れた男が覆いかぶさってきた、という結果を受け止めるのにはいささか平常心が足りなさすぎた。
 タカネの顔面に何か生臭く温かい粘性の液体がかかり、すぐに何かに圧し掛かられた。
椅子ごと転げ落ちたタカネがまず目にしたのは、おそらく顎側の歯、だったと思う。
それが何なのかを理解する前に喉奥がひきつったように痙攣し、タカネの喉は持ち主の意図と無関係に「ヒ」という裏返った声を出し、その音はさらなる銃声にかき消される。
助けを求めようともがいて腕をバタバタさせて、ごろりと転がった遺体からとにかく視線を遠ざけたくて、タカネはそこでそれを見た。

 上戸と下戸と正門を固めた兵士たちの銃が、まぶしいほどの光を放っていた。
 スローモーションのように感じるその風景の中で、女王を守ろうとして立ち上がった者、とにかく逃げようとして開かずの扉に走ろうとしていた者、何が何だか分からずに立ち上がって状況確認をしようとしていた者、それぞれの背や胸や腕に銃弾が吸い込まれていく。あるものはもんどり打ち、あるものはそれでも尚走ろうとしていた。なんだか現実味がわかなくて、誰かに薙がれたようにゆっくりと倒れていく「誰かたち」を見て、タカネはなんだかドミノ倒しみたいだと、足にかかる圧力が唐突になくなる、足元を見ると神職がいない、逃げたのかと思う、これがチャンスだと思って立ち上がろうとして血だまりに足を取られる、タカネの頭上を5.66mmが素通りして誰かに当たる、最早タカネの視界には母と父しかいない、父は先ほどから変わらず床に伏しており、母は迫るライフルの弾に決然と立ち、充満する硝煙の臭い、怒号、悲鳴、母に迫るライフルの弾がはっきりと見える、母はじっとエイフラムを見つめ、その胸に銃弾が吸い込まれるように、



 理路整然とは程遠い記憶の中、タカネは確かに、エイフラムが「撃つな」と叫んでいたのを聞いた。



「間に合わなかったか…っ!!」
 黒井は窓から身を乗り出して銃声を聞いていた。
 あれから何度か気を失いかけたウィサップをどうにかこうにか宥めて賺して街に入った直後に、黒井は最悪の宴の幕が上がってしまう音を聞いた。
ウィサップはただでさえ傷で痛むのであろう顔にさらに皺を作り、熟練のドライバーでさえスピンを恐れるような速度で街中に突っ込んでいく。
音楽堂に近づけは近づくほど逆方向に走る人が増えていくのは恐らくサバトが始まってからあまり時間も経っていないからだろうが、しかしこの時黒井は最早四条の生存は絶望的だと考えていた。
 と同時に、エイフラムは失敗したのだろうとも思う。
 四条を殺害し娘にも同様の危害を加えることをちらつかせて女王を動かすのであれば銃声は一度で済むはずなのに、今聞こえてきているのは明らかにフルオートの斉射音だ。
何か意図しないアクシデントが発生してサバトが始まったのだろう、と思っているのは黒井だけではなかったのか、ウィサップは先ほどからしきりに無線に向かって怒鳴り散らしている。
 誰かと会話しているようなやり取りだから第3廟は全滅しているわけではないのだろう。
「誰かいたのか?」
「ええ、市街警備の連中で残ってるのがいました。今召集かけてますから、すぐにでも音楽堂に集まります」
 とはいえ、それも戦力としては微妙な数だろう。
 何せ狭いアルテモンドの市街で起きたイベントである。フルオートの斉射音など街のどこにいたって聞こえるだろうから、聞こえる範囲の戦力は全て無力化されたと思っても間違いではないはずだ。
もちろんウィサップだってそんな事は分かっているはずで、眉間の皺が増え続けている事がその証明だった。やり取りの中でも一向にスピードを緩めないウィサップの運転技術はあっぱれの一言に尽き、そうこうするうちに角を曲がれば音楽堂、というところまで来て、
 ウィサップはハンドルを思い切り回した。
 奇跡のようなバランスで車がスピン、まるで回しすぎたコーヒーカップのように左に回る視界、シートベルトがロックされ、黒井は肺の空気を一気に吐いた。
「っ、なっ、何だぁ!?」
 横転しなかったのは運が良かったからなのだと思う。
 ウィサップも驚いたような表情でサイドミラーを見ており、黒井がミラー越しに見た白塗りの軍用車はウィサップもかくやと思うようなスピードで角を曲がっていくところだった。
「エイフラム…!」
 見えたのか、と聞こうとして首に鈍痛が走った。
 ひょっとしたら鞭打ちにでもなったかもしれない。黒井は視界だけでウィサップの表情を確認し、
「あいつどこ行ったんだ?」
「…あの方角には、セレン貯蔵庫が」
 セレン貯蔵庫?
 黒井は一瞬だけ考え、右手でグーパー運動をし、首以外に痛むところがないことを確認して、シートベルトをホルダーから外した。
「クロイ殿、どこへ?」
「アンタはあいつを追え。俺は音楽堂の方に行く」
 ロックを外そうとして肩を回し、やはり鈍痛を感じた。
 が、それだけだ。それ以外に痛むところはなかったし、この分ならどうやら動き回る分には問題なさそうだった。
「危険です! まだ連中がいるかも」
「ドンパチは終わったみたいだしな、―――どうせ碌でもない結果に終わったんだろうけど」
 先ほどまで聞こえていた銃声は既に聞こえて来ない。
何よりエイフラムがその場を立ち去ったのであれば、当面の危険は去ったと思っていいのだろう。
もちろん単純に制圧が完了したから指揮官が他に移動しただけであり、制圧点に兵士が残っている可能性だってあるにはあるが、角辺りから様子を伺うことくらいはできるだろう。
 それよりも、
「セレン貯蔵庫って言ったな。アイツ追え。絶対にそこで銃を撃たせるな」
「?」
「…俺の見立てが正しけりゃ、な」
 雪まみれの道に足を突っ込んだ。元々冷えていたのか緊張で神経が麻痺したのか冷たいとは思わなかった。
 代わりにつるつると滑る地面が忌々しい。スパイクシューズでも履いてくればよかったな、と思うが後の祭りである。
「詳しく説明してる暇はねぇが、多分そこには可燃性のガスタンクがあるはずだ。そんなところに銃撃たれてみろ、大変なことになっちまう」
「…!」
 ウィサップの表情がさらに険しくなる。
黒井としてもウソを言っているつもりはない。車からギアを嵌め直す音が聞こえ、次いで窓越しにウィサップからこんな声が聞こえる。
「私はアイツを追います。クロイ殿もどうかお気をつけて!」
「ああ。―――なあ、」
 小器用にバックと前進を繰り返し、ウィサップの車体は既に鼻先をエイフラムの走り去った方向へと向けていた。
大したテクニックだと思う。黒井はため息を一つ吐き、疲れた笑いを顔に貼り付けた。
「全部終わったらさ、この国のうまい酒でも奢ってくれよ」
 声にウィサップは目を丸くし、次いで眉間のしわを少しだけ緩め、
「名産ではないですが、いいバーボンを知ってます。ロックで飲むと文字通り喉が焼けるほど旨い」
「楽しみにしてる」
「私もですよ」
 黒井とウィサップはそこでようやく笑い、大人と子供程も差がある拳骨を窓越しに打ち合わせた。
「武運を」
「そちらも」



 黒井が音楽堂にたどり着いた時、何の比喩もなく動いている者は誰もいなかった。
 外からも感じる硝煙の臭いは明らかにここで銃撃があった事を意味し、踏み荒らされた雪は土砂や血にまみれて得も言われぬ汚物感を漂わせている。
眉をひそめて正門から音楽堂に入ると、照明が完全に落とされているのか1m先も見渡せない。
何かないかと周りを見ると、顔にNVGを付けた遺体が転がっていた。手を合わせるついでに腰にかかっていたサリュームライトを一本拝借し、ペキリと折ると意外に明るい光源になった。
こんなもの夜間に点けたらどうやっても的になると思うが、人間やはり明かりと言うのは必要らしい。

 サリュームライトの光に照らされた音楽堂の中には、まさに地獄が広がっていた。
 遺体を踏みつけないように壁沿いを歩き、銃撃の衝撃で出来たであろうささくれに何度か閉口し、ようやく一番先頭までたどり着いたとき、黒井はそれと目があった。
 薄暗い音楽堂の中、こちらを呆けたように見上げているプリンセスの瞳には、光らしい光がなかった。
 顔面の半分を真っ赤に染め上げ、母譲りだったはずの銀の髪は最早原色を留めぬほどの血に彩られ、呆けたようにこちらを見上げるプリンセスの顔は、まさしく生気をどこかに置いてきた死人のそれだった。
「…プリンセス」
 呟いて気がついた。
 ヘタリと座ったプリンセスの前、今までプリンセスがじっと見ていたであろうもの。
 見事に穴のあいたタキシードと、豊かだったであろう胸の抉れた様。
 顔には傷一つないくせに、土色の顔色は最早手の施し様という言葉を遠い昔に置き忘れてきたかのようだった。
「四条…」

 物言わぬ友の亡骸は、やはり何一つ返事を返さなかった。
 黒井はタカネの正面に、四条だったものを挟むように座り、何も言わず、何も問わず、全てが手遅れであったことを静かに悟った。

 黒井がそこに座ってから10分は経っていなかったと思う。
 やがてプリンセスは、四条の身体をゆさゆさと揺さぶり始めた。
麻痺した頭でこう思う。こいつは、一体何をしているのだろうか。
「…父上、父上。起きてください」
 あるいは、父は単純に寝ているとでも思っているのだろうか。
 錯乱した頭のなせる技なのだろうか、と頭の半分で思い、目の前で両親を亡くした娘に対してそんな感想を抱くほど自分は冷酷だっただろうか、と残りの半分で思う。
「もうすぐ聖歌を献上するのです。父上にはお聞かせ出来たことがなかったから、今度こそ聞いていただきますから」
「…止めろ」
 タカネはやめない。ゆさゆさと父の身体を揺さぶり続ける。未だ体に残る血液が、揺らされたことでじわじわと銃創から染み出していく。
「凄く練習したのですよ。オスピナ先生にもお墨付きを頂きました。きっと、父上にもご満足いただけると思うのです。母上にも『大丈夫』って言っていただいたんです、だから」
「止めろ」
 強い口調に、タカネはビクリと肩を震わせた。
 死臭の漂うこの場所で、プリンセスは間違いなく異界に魅入られていたのだと思う。
「俺を見ろ、プリンセス」
 言葉に、タカネは顔を上げた。相変わらず生気のない顔に張り付いた血糊は既に乾き始めており、水分の抜けたようなその表情にはあの時の小生意気な印象はどこを探しても出て来ない。
黒井はゆっくりと立ち上がり、タカネの首もまた黒井の顔を追ってゆっくりと上を向く。
「…高台に行く。いつまでもここに居られない」
「…嫌です…」
 タカネは再び下を向き、父を揺らし始める。黒井は無感情にタカネに向かって手を差し出す。タカネはそれを見ていない。
「まだ、父上と母上がここにいるんです。置いては行けない」
「…」
 黒井は再び屈み、タカネを正面から見た。タカネは黒井を見ていない。生気のない顔で、親の亡骸を揺らし続けている。
「行くぞ」
 タカネは答えない。黒井は業を煮やし、強引にタカネの腕を掴んで引っ張り上げようと試みる。
 触ってすぐに怖気がわいた。生きた人間の腕が、ここまで冷たいものだろうか。
「っ、いやっ!!」
 タカネは黒井の腕を驚くほどの強さで振り切り、しかしそこで余力を使い果たしたのか腕をだらりと下げた。
代わりに非難と言うよりは最早糾弾と言ってもよいような視線を黒井に投げる。麻痺した頭のどこかで、四条の娘はひょっとしたら演劇方面でも行けるのではないか、と思う。
「…もう、ここにお前の親父はいない」
 ややあって、黒井はぽつりとそう言った。
「お前の母親も、もうここにはいない」
「……」
 タカネは答えない。黒井もまた答えを待たず、10歳の少女に向けて、到底受け入れがたい、しかしいつかは受け入れなければならない一言を言う。
「お前だって分かってるだろ。お前の両親は、もうどこにもいない」
「――――――」
 顔も上げず、返事もせず、タカネは光のない目でどこかを見ていた。
 サリュームライトが照らさない漆黒の闇は黒井にとっては単なる黒だったが、タカネにとっては彼岸と此岸の境目だったのかも知れなかった。
「だが、確かにお前の親父とお袋はここに居たんだ。お前の存在がそれを証明している。これでお前まで『そっち』に行ったら、お前の親父とお袋がいた証拠がなくなっちまう」
 タカネは、胡乱な眼を黒井に向けた。その瞳からは何を考えているかなど到底伺うことはできず、黒井はそこでサリュームライトを床に置き、ゆっくりと静かに、両の掌を合わせた。
「…お前は、生きろ」
合掌を解き、黒井は再びタカネに手を差し出す。



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