声 (7)

 初のオーディションは次の日曜に決めた。
失神寸前に至るという素敵な経験をしながら作詞家への挨拶を何とか終わらせた春香は現在、プロデューサーの引率で都内のダンスレッスンスタジオにて滝のような汗を流している。
件のプロデューサーはと言えば春香の頭の先から足先まで見える程度に春香から距離を取り、紙ベースで書かれたダンスの振り付けを懸命に捲りながら春香のダンスを目で追いかけている。
「どっ、どうですか、プロデューサーさん!」
「いい感じ、だけど少しキレがなくなってきたかな。そろそろお昼にしようか?」
 やった、と声を上げた春香はそこで慌てて掌で口元を覆った。
恐る恐ると言った雰囲気でこちらを見る春香に苦笑して、プロデューサーは予め買ってきておいた緑茶のペットボトルとタオルを春香に渡す。
「疲れた?」
「あ、あはは、…その、少しだけ」
 だと思う。
 体を動かすのが好きと言うだけあって春香は同年代と比べても体力はある方だと思うが、ダンスの動きは「水泳で何メートル泳げる」や「1000メートルを何分で走れる」と言った種類とはまた違う体力が求められる。
俗に「キレのある動き」や「メリハリのある動き」と言うのがそれで、これが厄介な事に最初のうちは意識しなければ全くと言っていいほど身につかない代物である。
指先にすら神経を配らなければならないこの動作は日常で体を動かす時の無意識の動きとは完全に別種のもので、ひどい話になれば1ステージを経る前と経た後では顔つきどころか体重までもが如実に違うアイドルもいるらしい。
 しかし、今はまだランク外とはいえ春香もまたアイドルなのであって、何万ものファンが入るホールの遠席から見た時の動きが何をやっているか分からないようではアイドル失格である。
 そう思っていると、ペットボトルを実に豪快な角度で傾けていた春香と目があった。
とたんに春香の顔が真っ赤に染まり、いかにも恥ずかしい所を見せたと言わんばかりの顔で、
「みっ、見ないでくださいよプロデューサーさん! ああもう恥ずかしいなあ」
「水分の補給は大切だよ。室内にいたって熱中症にはなるんだし、春香この間倒れ掛かったじゃないか」
「…そういう事じゃないです。ベーだ」
 舌を出す春香に苦笑して、プロデューサーはそばに置いておいた鞄からスタジオ入りする前に買った昼食を取り出した。
今日の昼食はサンドイッチと梅おにぎりが一つである。
「プロデューサーさん、それ何ですか?」
 声に春香の方を見ると、春香は実に興味深そうにプロデューサーの昼飯を覗き込んでいる。梅おにぎりがそんなに珍しいのだろうか。
「何って、梅おにぎり。紀州梅の」
「いやそっちじゃなくて、」
 そう言うと、春香はまさしくイロモノを見るかのような目つきでサンドイッチを指さした。
確かにイロモノかもしれないこのサンドイッチは明らかに昨日の夜に売れ残ったと思しき新発売の梨サンドなる珍妙極まりない物体であり、プロデューサー的にこのチョイスは春香に言われるまでもなく大冒険の類である。
「梨サンドだってさ。僕食べたことないんだけど、安かったから」
 食べてみる? と尋ねると、春香はまるで初めてレバノンの地に降り立った地雷処理班のような顔をした。
半分ほどを千切って春香に渡し、二人は傍から見たら今から硫化水素でも炊くのではなかろうかと言う顔をする。
 食べる。
「――――――――」
「…何か、残念でしたって感じの」
 春香は一言も漏らさずに黙って自分のバッグを取りに行き、戻ってきた春香の手には小ぶりな弁当箱が握られていた。
毎回の練習のたびに持ってくる弁当箱の中身は春香が自分で作っているものらしく、今日の弁当箱の中身はミートボールに煮浸しに野菜のサラダで、弁当箱の蓋が暴れないように押さえていたゴムバンドに挟まっていた爪楊枝をひっつかんだ春香は黙ってミートボールに爪楊枝を突き刺した。
「食べます?」
「いいの?」
「だって、プロデューサーさんも被害者じゃないですか」
 ご相伴に預かることにする。
どうやら冷凍ものではないらしいミートボールはよく味が染み込んでいて、何だかヘドロで鯛を釣ったような気分になった。
おいしいですかと聞いてくる春香に素直に頷くと、春香はそこで溜息を一発し、
「…やっぱり、梨はそのまま食べる方がおいしいですね。ケーキとかでもいいんですけど」
「そう言えば、春香は自分でもお菓子とか作るんだっけ?」
「この間も事務所に持って行きましたよ。あれ、プロデューサーさん、ひょっとして食べてないんですか?」
 そう言えば―――この間の土曜日の昼ころ、社長室に用事があって席を外したプロデューサーが帰って来たときに見たのは口元に生クリームをつけた先輩社員たちだった。
もしかして誰かの誕生日か何かと思っていたが、要はそういう事か。
「…食いっぱぐれた。食べたかったな。自信作?」
「お母さんほどじゃないですけどね。私が食べられるものしか持ってきてません」
 と言う事は、食べられるものに至るまでに多量の屍があると言う事か。
春香をプロデュースし始めてからまだ2週間ほどだが、何となくプロデューサーは春香が砂糖と塩を間違えて生地に混ぜる様を想像する。
「…プロデューサーさん、まさか私が砂糖と塩を間違えるなんて思ってません?」
「―――春香君、君はエスパーか何かかね?」
「怒っていいですか?」
「間違えたことないの?」
「…プロデューサーさんって、結構意地悪ですね」
 そう言う割には春香の顔には笑みがある。
笑みにももちろん色々な種類があって、春香が今顔に浮かべているのは失敗がバレた時の照れ笑いの類だ。
「実はこの間もちょっと。内緒ですよ?」
「今度食べさせてくれたらね。楽しみにしてる」
「えへへ。お母さんみたいに上手くは出来ないかもですけど、頑張ります」
 頬を掻く春香に、プロデューサーはふと眩しさを感じた。
「目標はお母さん?」
「はい! うちのお母さんとっても上手ですよお菓子作るの。憧れです」
 憧れか。プロデューサーは少しだけ笑い、思春期真っ盛りのはずなのに反抗期のはの字も感じない春香の眩しい笑顔に少しだけ引け目を感じる。
まっすぐで一途なところは春香のいい所ではあるし、これからメジャーになるにつれて春香のそんなところから元気をもらえるファンたちもきっといるだろうと思う。
「―――きっと、春香なら凄いの作れるよ。あーでも、味見し過ぎて太らないでね?」
 冗談めかした言い分に春香は見事に膨らんだ。
へらりと笑ったプロデューサーは件の残念なサンドイッチを袋にぶち込んで梅おにぎりのパッケージを開け、ついでとばかりに鞄を引き寄せて中から分厚いファイルを取り出した。
ファイルの背表紙には「営業資料 春〜夏」というタイトルが書いてあり、渇く前に引っ張りでもしたのか文字列の資あたりの字はまるで右上から降って来たかのような塩梅だ。
握り飯をほおばりながら資料を眺めるプロデューサーの視線は真剣そのものであり、そんなプロデューサーの様子を見た春香は白米が半分ほどなくなったところでプロデューサーに向けて口を開いた。
「プロデューサーさん、それ何ですか?」
「ああ、これ?」
 春香の問いにプロデューサーはファイルを渡す。
数枚のファイルをめくったところで春香の顔に浮かんだ大きなハテナマークにプロデューサーはええと、と言い、
「初めて会った時にさ、僕の事を会議室に押し込んだ先輩の名前って覚えてる?」
「あ、ええと、確か…」
 2分ほど悩んだところで春香はすみませんと頭を下げた。
別に謝られることはないと思う。何せ半年前の会話にちらりと出てきただけの名前だ。
プロデューサーは春香からファイルを受け取り、
「大江さんって言うんだ。僕にプロデュースのイロハを教えてくれた人。その人が去年にやったプロデュースの資料が入ってる」
「プロデューサーさんの、先輩、」
「うん。―――僕の、目標みたいな人かな」
 春香の視界に映るプロデューサーの顔には、どこか漠然とした憧れのような色が見える。
ここではないどこかを見るような眼をしたプロデューサーに、春香は思いのままの問いかけをする事にする。
「どんな人だったんですか、プロデューサーさんの先輩って」
 そこで、プロデューサーは虚をつかれたような顔をした。
どんな人って、と呟いたプロデューサーは顎の下に手を当ててうーんと唸って春香の顔を見て、そこで「実に面白そうだ」とはっきりと書かれている春香の顔を見た。
自分もアイドルのくせに春香には随分とミーハーなところがあって、このあたりはプロデューサーとして不安の種でもある。売れ出した後に楽屋で他社のアイドル達のサインなどねだり出さなければいいが。
「…そうだなあ。まず、片付けは出来ない人だったね」
 へ、と言う顔をした春香に苦笑する。
結局大江の机が綺麗になったところを見たのはあの1年で自分が掃除したあの日だけだ。
このファイルに挟まれた資料にしても、―――大江の事だから恐らくわざと机の上に春から夏にかけての資料を乱雑に見える置き方でまき散らしていたのであろうが、ひょっとしたらそんな意図は本人には全くなかったのかもしれないと思うのはいくらなんでも失礼だろうか。
「だから、とりあえず僕は机の整頓だけはちゃんとしとこうかなって。反面教師みたいなものかな」
「それだけ、じゃないですよね? さあプロデューサーさん、白状しちゃいましょうよ」
 春香のニタリとした顔には「吐けばすべて楽になるぞ」と書いてあった。
まったく――男が男に惚れた話など聞いていて面白くないに決まっているのに、一体何が知りたくて春香はこんなに突っ込んでくるのだろうか。
 プロデューサーは仕方なく1年前の記憶を辿り、
「野郎を励ます気はないって言ってみたり、経理に回ったらって言ってみたり、ホントに人の事からかうのが好きな人だったよ。…でもそうだなあ、アイドルに対する姿勢は掛け値なしに真剣だったと思う」
 春香の眼が追及の色をなくさない。
プロデューサーは頬を掻き、「この話面白い?」と聞き、春香の首が縦に振られたところで苦笑を漏らした。
「アイドル・アルティメットって、もう話したっけ」
「アイドル…アルティメットですか? たぶん聞いてないですけど、」
 そこからか。プロデューサーはどこから説明したものかと首をひねり、制度の概要を極めて大雑把に説明することにする。
「前に話したと思うんだけど、ランクアップは全国芸能界総会ってところの仕切りでやってるんだ。で、アイドル・アルティメットって言うのは総会が今度始めた全国区の勝ち抜きトーナメント戦。2ヶ月に一度予選があって、次の予選は6月かな。予選参加基準になってるファン数を獲得したアイドルだけが予選に参加できて、予選を勝ち抜ければアイドルランクが上がる仕組み」
「…と言う事は私も―――その、アイドル・アルティメットでしたっけ、に参加するって事ですか?」
 神妙な顔で正座まで始めた春香にそう、と頷き、
「で、勝ち抜いて行った先に…2月だったと思うけど本戦があって、そこで勝ち抜ければ晴れてAランクの仲間入り。だから要するにさ、アイドル・アルティメットって選別なんだよ。『日本でいちばん力のあるアイドルって誰だ』っていうのを決めるわけ」
 そこまで聞いて、春香は何ともいえない微妙な表情を浮かべた。
それが大江の話にどう繋がるのか分からない、と表情で訴えられているように感じて、プロデューサーは説明の口を速める事にする。
「実を言うと僕はこの制度に反対でさ。なんだか売れるロボット作ってるみたいで嫌だし、アイドルだって人間だし色んな人がいていいと思うんだ。もう決まっちゃった制度だし今から文句言っても仕方ないんだけど、そしたらさ、」
 そこで、プロデューサーは途方もない憧れを追いかける少年のような顔をした。
「大江さんが言ったんだ。アイドルは人形でも何でもないんだって。人間なんだって。なんだか嬉しくてさ、ああやっぱり僕は765に入ってよかったって、あの時久しぶりにそう思った」
「―――いい人だったんですね、その人」
 一瞬心臓が強く拍動する。春香は何だか遠くに思いを馳せるような顔をしている。
春香のプロデュースをしてからまだ2週間とちょっとだが、春香は時折非常に大人びた表情を見せることがある。
その度に経験不足のプロデューサーは「実は春香が女子高校生なのは嘘ではないか」という本人が聞いたら膨らむ程度では済まない事を考えているのだが、このあたりの思考は幸いな事に春香にはまだ気付かれていないらしい。
「僕は僕の思うようなプロデューサーになればいいんだって、そう言ってた。だから、僕は僕が思うような―――いつかあの人に認められるような、そんなプロデューサーになりたいと思ってる。どのくらい掛かるか分からないけどね」
 そこでようやく、プロデューサーは自分の事だけを話し過ぎてしまった事に気が付いた。
左腕をまくって時計を見るとまだ12時40分を少々回ったところだ。
春香はと言えばプロデューサーにニコニコとした笑顔を向けているし、もう少し会話を楽しんでもいいかなという気がする。
「春香は―――Aランクになったら、何がしたい?」
「私、ですか?」
 会話の中心が自分になった事に驚いたのか、春香はその大きな眼を瞬かせた。頷くと春香はそこで口元に手を当てる。
「人に元気を与えられるようなアイドルになりたい」と言っていた春香の事だからきっと明るい答えが返ってくるに違いないと考えるプロデューサーの前で、春香の顔からはどんどんと色が抜け落ちていく。
「―――春香?」
「…考えたこと、なかったかもです」
 意外な返答が来た。
え、と思わずつぶやいたプロデューサーの前で春香は実に深刻そうな顔をする。
そんなに難しい問いかけではなかったと思っていたのはプロデューサーの方だけだったらしく、春香はそこで色の抜け落ちた表情をプロデューサーに見せた。
「アイドルになりたいって、ずっと思ってました。みんなに元気になって貰えたらって。…でも、Aランクに上がったら何をしよう、なんて全然考えたこともなくて」
 なるほど。
プロデューサーは思う、確かに春香がアイドルを目指した動機は「みんなに元気を与えられるような存在になりたい」だ。
実に立派だし、プロデューサーとしてはそれ以上ない動機だと本気で思う。
 しかしそれは即ち春香がこうありたいと願う目標像であって、「こんな事がしたいからAランクに上がる」という具体性には致命的に欠ける。
いわば目標が抽象的なのだ―――しかし、そう言ってしまえばプロデューサーの目標もまた相対的ではある。
「大江に認められる」というのも、結局のところは大江が頷かない限りはゴールの見えない目標である。
「…Aランクに上がれば、マスメディア系の仕事も増える。そうしたら、沢山のファンに春香が元気をあげられるようになる。それは、確実だよ」
「―――そう、ですよね」
 自分の事を棚に上げて言った一応の慰めはしかし、春香の不安を払拭するには至らなかったようだった。
なおも不安そうな顔の春香を見、プロデューサーはひとまず自分の事は考えない事にする。
「…ねえ、春香」
こちらを見た春香の瞳には、途方もないほどの不安があった。
 こんな時、大江なら何と言うだろうか。
きっと一発でアイドルを励ませることを言うに違いない。アイドルが迷う事のないような、アイドルが道を見失う事がないような、きっと格好のいい事を言うに決まっている。
翻って自分はどうだ、こんな時こそプロデューサーの出番なのに気の利いた言葉は脳みそのどこを探しても出て来てはくれない。
 だから、言う。
「ごめん、今の僕じゃ何にも言えない。こうしてみてとか、ああしたらいいとか、そういうのは今の僕じゃ無責任だと思う」
 春香の眉根が少しだけ下がった。
情けないにも程がある。自分で自分をぶん殴ってやりたい、などと思ったのは久しぶりだとどこか頭の冷めた部分で思う。
「でもさ、」
 プロデューサーの仕事とはアイドルの不安を払拭することだ。
アイドルが不安に思う事のないよう、アイドルが自分の持てる精一杯の力を出せるよう、アイドルの笑顔を見たファンが元気になれるようにするのがプロデューサーの仕事だ。
 今の自分は、プロデューサーを名乗るのもおこがましいと心から思う。
 そんな自分がプロデューサーとして春香に掛けられる言葉は、たった一つしかない。
「春香がそれを探すの、手伝えるとは思うんだ。僕はまだ半人前だけど、一緒に悩んだりする事くらいはできると思う」

―――プロデューサーが半人前のアイドルを支えてさ、アイドルが未熟者のプロデューサーを支えんだ。

 いつか大江が言っていた言葉が脳裏をよぎった。
実践がおぼつかないと言われたあの秋から半年が経ち、大江の姿は765からなくなり、プロデューサーの目の前には今、悩み苦しむアイドルがいる。
これくらいしか言えない自分の頭の弱さ加減にはほとほと呆れ返るほかないが、今の自分が出来る事はこのくらいしかないとも思う。
「…プロデューサーさんも、一緒に探してくれますか?」
 春香の顔に少しだけ陽が射し、プロデューサーは春香のそんな様子に自分の言葉の正否を思う。
「もちろん。言ったじゃん、春香が行きたい所ならどこへだって連れてくよ」
「どこへでも?」
「うん。『春香がなりたい春香』がやりたい事を見つけられるようにさ。頼りないかもしれないけど、全力でサポートする」
 その言葉に、春香はようやく下がっていた眉を上げた。
プロデューサーは腹のうちで胸を撫で下ろす。春香はそんなプロデューサーを見て鼻息を一発してやおら立ち上がり、
「なんだか元気出てきました! 午後もダンストレーニングでしたっけ?」
「そうだよ、今日は一日トレーニングの日。オーディションまで日もないしね」
 プロデューサーを見つめる春香の眼には、もう不安の色はなさそうだった。
プロデューサーは今度こそ隠さずに息を吐き、これから夢へと漕ぎ出す相棒に向けて激励の一言を口にする。
「『春香がなりたい春香』がしたい事への、第一歩だね」
「はい! ご指導よろしくお願いします、プロデューサーさん!」
 元気一杯の声でそう言った春香の顔には、春の陽光のような明るさがある。



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