ワイン  (後編)

 只今、電話に出ることができません。お手数ですがお掛け直し頂くか、発信音の後にメッセージをどうぞ。

ぴ――――――――――――――――――――――――――――――――。

―――善永です。先輩…の携帯ですよね。
あっく…阿久君、4月から芸1に転属になるそうです。
あの、その辺の報告も兼ねてもう一回お会いしたいんですけど、時間作って貰えますか?



 人事発表の日時は例年通り明日の正午に行われると聞いた。
例年通りならば芸2編集部の扉のすぐ横に貼り出される紙っぺらの前では事前に本人にのみ通告される4月期からの人事異動を動かしがたい紙の証拠で突き付けられた社員たちが悲喜こもごもの狂乱を繰り広げるはずで、
しかし一緒に仕事をして分かったヘタレっぷりからすれば恐らく阿久は久我に己の異動の事を教えていまいとは思う。
事は当人たちだけの問題であって事門外の自分が口を突っ込むのはいささか筋違いの気もしなくはないが、しかし善永としてはそれ以上にどうしても理解しておきたい事がある。
 今回の阿久の件もそうだ。
 上層部の受けが実によかったシャシンは阿久が自分で撮ったものだ。
言っちゃあ何だが別に阿久がどこで何をしようと知った事ではないし、本人が自ら望んで〆日がキツくてデスクがズラの芸1に転属してくるなら善永としては取り立てて何を思う事もなし、ただ芸3上がりの若者に芸1のしきたりを骨の髄まで分からせるだけの話である。
久我の頼みが善永にしてみればノーカウントであっても向こうはおそらくそんな事を知る由もないのだろうし、善永は久我に頼まれたことをさておくにしても阿久に仕事を手伝わせただけである。
それで彼が芸1に来るならそれも結構。
 が、善永にはどうしてもあの酒の席で聞いた久我の転籍の理由が分からない。

―――…人間ってさ、綺麗なだけじゃないんだよな。

 久我のその一言を思い出す度、己が内にどうしようもない疑問がふつふつと沸いてくる。
あれから7年も経ったのだ、今更裏切られたとも逃げやがったとも思わないし奴には奴の人生があるのだと分かってはいる。
が、あの一言を思い出すたびに善永の思考は今年と同じく芸2の扉の前に貼り出された紙っぺらの前で棒立ちになって考えたあの時に記憶が飛ぶのを感じる。
これも年季のできる技か―――そう思って善永は久我が指定したたるき亭の目の前でぶんぶんと頭を振る。
アラサーになってもオバサーになるまでは社内では若手の扱いだ。
若さを生かしたフットワークの軽さが唯一ではないにしても他の追随を許さない善永のチームの売りであり、今や芸1内部で善永組とも称される己のチームを省みるにリーダーが老いたと言っては洒落にならない。
 煌々と照る提灯の腹の中では電気で己を光らせる電球がその使命を全うしている。
こんなに短期間でたるき亭の扉を二度くぐることになろうとは終ぞ思わなかったが、しかし今をときめく765プロデュース株式会社の事務所跡で765発祥の地巡りをするミーハー共のみならず未だに765はここにあると信じて疑わないファン共をその腹に食らって生計を立てるたるき亭を善永はふと羨ましく思う。
久我はもう来ているのだろうか。



 タコ親父の「へいらっしゃい」に出迎えられた善永はツレがもう来てるはずなんでと言い置いてさっさと地下への階段を降りる。
追いかけてくるバイトに一番奥の個室に何だか人生に疲れたおっさんがいないかと問うと、おそらくは前のバイトよりは後に入ったであろうバイトの顔がそういえばと答えてくれた。
そこで飲むから中生持って来て頂戴というと、バイトはすぐお持ちしますと言って厨房のある地上階へと戻って行く。
顔に出る時点で客商売としてはどうなのかと思うが、しかし今は仕事ではないんだと思いなおすとあれはあれで分かりやすくていいのかもしれない。
 歩を進めた先にある最奥の個室の引き戸を無遠慮に引くと、久我の背中がとうの昔に熱燗を開けましたと語っていた。
「―――もう飲んでたんですか」
「お、ああ、悪いな、先始めちまった」
「いいですよ別に。時間作ってもらったのあたしだし」
 己の口から出た声のくせに声色が気にくわなかった。
善永はさっさとコートを脱いでなぜか再び通された上座の座布団の上に正座をすると、丁度いいタイミングでさっきのバイトが生ビールを持ってくる。
まずは一発、とばかりに中生を一息で3分の2まで空けると、久我の感心したような眼がこちらを見ている事に気が付いた。
「この間も思ったけどさ、お前結構飲みっぷりいいよな。覚えてるか、2年目の春の歓迎飲み」
 懐をあさった久我に物欲しげな視線を投げて10mgを一本頂戴して火をつけ、代わりに火が付きっぱなしのライターを久我の目の前に差しだしてやると、久我は一度だけ目を瞬かせて素直に咥えた煙草に火を付けた。
「叶うんなら忘れたいです。あれはあたしの人生の汚点ですから。それに―――」
「ん?」
 入社してから多分飲みっぷりは変わってません、と言う言葉はついに口から洩れてはこなかった。
入社1年目の酒などどこに落ちたか分からないし、2年目の歓迎飲みの席で壮絶な結末を迎えてからは久我も交えた部署飲みは善永の記憶しているところ無い。
2年目の新人には月末の飲み会にフル出席できる余裕はなかったと思う。
 善永はそこでろくに肺に落ちなかった紫煙をぼふっと吐き出し、ストレートに話を切り出すことにした。
「阿久君、4月から芸1に転属ですよ。良かったんですか?」
「何が」
「や、だって先輩、あっくんの事目に掛けてたんですよね?」
 久我は煙交じりに「別に」と返す。
嘘つけこの野郎と思う反面そうなのかなとも思う。少しくらいなら寂しがるかなと思ったのはこちらのいらぬお節介だったらしく、久我の表情には善永の問いかけの後にも微塵の動きもない。
「あいつが芸1でやるってんなら俺にゃ文句ないさ」
「―――人間を知らなさすぎると、芸1に転属になるんですか」
 言葉尻に棘が混じったような問いかけをした善永はそこで口を噤んだ。
久我は問いかけにすぐには口を割らず、10mgを深く肺に落とした後に煙と共に口を開いた。
「あいつが自分で決めたことだ。俺は別にあいつの世話役でも何でもないからな、手前の身の振り方を手前で決められるんならその方がいいだろ」
「あたしの世話はしたくせに?」
 善永は思う、世話役でも何でもないくせに自分の背中をさすり続けた久我のでかい手と掛けられた上着の途方もない暖かさは一体どこから来たのだろうか。
だんまりを決め込んだ久我の目の前で善永は少しだけ息を吐き、腹の中に抱えたあの日からの疑問を遂に口にする。
「もう一回聞きます。先輩、何で芸1辞めちゃったんですか」
「―――」
 久我は黙ってテーブルの上の呼び鈴を押した。
どこか遠くで垢ぬけないチャイムの音が鳴り、ついでどかどかと大股で誰かが座敷に向かってくる音がする。
やってきた黒地にでっかい「た」の文字に向かって久我は一言ワインとだけ言い、お前はどうするという視線に善永は黙って残りの3分の1を腹に落として空になったジョッキをバイトに渡した。
直ぐにお持ちしますと言って転がるように走って行ったバイトのケツを見ながら、善永はぼんやりと口を開く。
「あたしは、先輩の頼みをききました。次は、先輩の番ですよ」
「前に言ったじゃねえか。あれが答えだ」
「意味分かんないですもん。あたし仙人じゃないですから」
 すっかりイジけてしまったような声に久我はちらりと善永を横目で見て、熱燗一本の攻勢に今の今まで耐え抜いてきた通しを一気に食らい尽くす。
摘みも頼んどきゃよかったかな、という呟きは善永の耳には遠く響いた。
「つまんねえ話だぞ」
「あたしにとってはどうでしょうね」
 ブン屋をやっていればつまらない話など日常に腐るほどある。
が、話が面白いか詰まらないかは結局のところ聞き手の判断である。
善永が8年もの長きに渡ってブン屋を続けていられたのは一重につまらない話を面白く聞けるというその一点に由来する。
話をどう思うかは人それぞれの判断だが、聞く耳のある奴には人の話は何でも面白いものだと善永は思う。
それに、この話は7年越しの「面白い」はずの話だ。この辺が自分がブン屋に向く最大の武器だと善永自身常々そう思っている。
一言一句たりとも聞き逃さんとばかりに目を爛々と輝かせた善永に久我は煙草の火を消して、少し前に口にした問いかけを再び善永に投げかける。
「覚えてるか、お前がぶっ潰れたあの飲み会」
「覚えてるから、あたしは先輩の頼みを聞いたんじゃないですか」
 お待たせしましたー、ワインと生中ジョッキになりますー。
 目の前に置かれたワイングラスを久我はくるくるとまわし、黒色の液体を少しだけ口に入れた。
「『芸1はスクープを、芸3は醜聞を』って、聞いた事くらいはあるな?」
「先輩が栄転したならあたしだってこんな事聞きません」
 それもそうかと少しだけ笑う久我をしり目に、善永もまた少しだけビールを飲んだ。
ビールは嫌いな方ではなかったはずなのに、同じジョッキで返されてきたビールは少しだけ苦かった。
「最初はな、俺も芸1でいいと思ってた。人間の綺麗なところ見たくてさ、俳優やら女優やらアイドルやらのケツ追っかけるだけで満足してた」
「今は、違うんですか」
 善永の静かな問いかけに久我はいや、と首を振り、
「今も似たようなもんだ。だけどな、芸1で扱うような綺麗な部分ばっかり見てて、そのうちこれでいいのかって思うようになった」
 俺は人間の上っ面だけ眺めてたんじゃないかと思ってな、という小さな呟きは、しかし善永の耳にはやけに大きく聞こえた。
「…先輩、何でブン屋になったんです」
「俺は―――…そうだな、やっぱり『人間』が見たかったんだと思う。志望理由なんかもう思い出せないけど、結局突き詰めればそういう事なんじゃないかとは思う。…結局飽きただけなのかもな、俺が芸1辞めたの」
「綺麗なケツを追っかけることに、ですか?」
 久我はそこでワインをちびりと飲んだ。
善永も久我に倣ってビールを一舐めする。苦い。
 こんなに苦いビールを飲んだのは久しぶりだ。
「どんな奴にも裏側はある。お前がどう思うか知らないが俺はそう思う。お前が入社してしばらく経った頃から俺はそう思ってて―――あの日お前がゲロ吐いた」
 ふと善永は背中に暖かな手が乗っているような気がした。
少しだけ首を動かして背後を探るが、土色の壁以外には善永の背中を守るものは何もない。
どうしたと尋ねられた善永は何でもないですと返し、視線だけで続きを促した。
「あれが決定打だった。俺はあの日から、人間の表だけじゃなくて裏側を見ることを意識し出した。その辺行くと芸1だと縛りきついからな、芸3は裏側見るのに丁度よかったのさ」
「裏側、」
 善永の呟きに久我はああ、と返し、
「上っ面のいい奴なんて世の中ごまんといるからな。でもどんな奴だってやな奴にゃ陰口叩くしヤニ塗れで酒に溺れたい時だってあるし便所に行ったらケツ拭くだろ。お前にも経験あるはずだ」
 経験がない訳ではない。
同期連中と話せば聞こえてくる己の出世を疎む心ない罵声と陰口。
「あいつ枕営業したんじゃねえの」という妬み交じりの笑い話に無関心を決め込めるまでには善永とてそれなりの時間を要した。
 久我は、それを追い求めたのだろうか。
「…そうじゃない、表が駄目で裏が良いとかそういう話じゃない」
 顔に出たらしい。思考を読まれた善永が顔を驚いて上げると、久我は死人のような顔で笑っていた。
「人間にゃ色んな顔がある。いい顔だけじゃない。悪い顔も全部丸めて人間は『人間』なんだろうと思う。それだけさ」
「―――いい顔を見るのには、もう飽きたってことですか」
 久我はそこで口を噤み、図ったかのように呼び鈴を鳴らしてバイトを呼んだ。
呼ばれて出てきたバイトに「これと同じの」と言って久我が見せたのは飲みかけのワインであり、まだ二人の前の酒が消えてはいない事に首を傾げながらもバイトは伝票にワインと書き込んで厨房へと走って行く。
「…お前のブンな、よく書けてたよ」
 そう言い、久我は壁に寄せていたバッグから印刷されて間もないと思しき自社の新聞を取り出して善永に渡した。
まず真っ先に目につくのは1面を大きく飾る『天海春香』の弾けんばかりに輝く笑顔であり、横のブンは忘れもしない善永が徹夜の果てに行きついたライブの記事である。
「入社したての頃は全然だったのにな、1年くらい経った後のお前のブンには正直驚かされた。ここまで書けるなら上々だ―――そう思ってたら、お前が夜の公園でゲロ吐いてな」
 筆名「悪徳」が後輩を褒めないのは社内では有名な話だ。
 そして今、筆名「悪徳」が7年越しに今の自分を評価していた。
「良いブン書くのも善永なら、調子こいて便所でゲロ吐くのも善永だった。お前が芸1でやるんならさ、俺はゲロ担当になってもいいやと思ったんだ」

 要するに―――善永は思う、どんな奴だって良い事もするし悪い事もする。
良いでも悪いでもなく、久我にしてみればそれが『人間』なのだろう。
プラスがそいつを構成する一要素ならばマイナスもまたそいつを構成する要素なのだろう。

 それら全部をひっくるめて久我は『人間』を見たかったのかもしれない。

「あたしが良い面を見て、先輩が悪い面を見る?」
「そう思って貰っていい。悪いかどうかは価値観だがな。でも俺は、悪態つこうがゲロ吐こうがケツ拭こうが、やっぱり『人間』を見たかった。それが、俺が芸3に転属した理由だ」

―――人間って、綺麗なだけじゃないんだよな。

 やっと理解できた。
久我が陽の当らない世界に飛び込んだ理由は、すなわちそこに尽きるのだろう。
いいブンを書くのも人間なら、ゲロを吐くのもまた人間なのだろう。
 良いでも悪いでもなく、久我がやりたかった事とは、すなわちそういう事なのだろう。
 背中に置かれていた暖かな手がうっすらと消えた気がして、善永は少しだけ笑みを零した。
「先輩、あたしが先輩追っかけて芸3に行ったらどうするつもりだったんです?」
「ばあか、そこまで自惚れちゃいねえよ」
 そうですか、と笑った瞬間、引き戸を引いてバイトがワインを持ってきた。
久我は一息で手元のワインをグビリと飲み干し、善永に向けてどうだと尋ねる。
「あたしがまたゲロったら、先輩介抱してくれます?」
「雑巾みたいなハンカチでよければな」
 久我の答えに善永は笑い、バイトが差し出したワイングラスを受け取る。
黒黒しい色のワインは水面に電飾の明りをたたえ、静かに光るその映りに善永は7年前の自分を思い出す。
「…あたしも誰かにゲロ吐かれるんですかね」
 笑いながらの声に、はたして久我はそこで笑った。
「阿久が抜けて芸3のカメラも一人減るからな。カメラでよければ席はあるぞ」



「本日から芸1でやらせていただくことになりました! 善永さん、よろしくお願いします!」
 4月1日、善永のチームに配属が決定した阿久は出社してきた善永の顔を見るなりでかい声でそう言って頭を下げた。
芸1の他の記者たちはまさに体育会なノリの阿久と善永を何だという顔で見て、善永はそんな編集部に大したことじゃないからさっさと仕事に戻れと身振りで出歯亀どもに指示を出す。
「あっくん、芸1はあんまり体育会ノリじゃないから。もうちょっと気楽にね」
「す、すんません」
「だからそこで謝らない」
 全くクソ真面目な男だ。
久我の手によって育まれた5年間は阿久の中に染み付いているのだろうし、阿久が芸1に来ようが何をしようが本人の自由とは思っていたものの自分のチームに所属するとなれば阿久を芸1の色に染め抜くのは一苦労のような気もする。
何せこいつはあの「悪徳」の隠し子である。
「あのねあっくん、芸1でやってく上で注意してほしい事があるの」
「はい」
「ひとつはデスクにズラって言わないこと。みんな知ってるけど誰も言わないの。もう一つは締切厳守。芸3みたいに直前差し替えとか芸1じゃ出来ないからね、時間はきちんと守る」
「分かりました」
「宜しい。じゃあ、そうね―――あっくん、今日の夜空いてるわよね?」
 まるで空いてないとは言わせないとばかりの口調に阿久は驚き、控え目に「あ、多分大丈夫っス、けど」と言った。
「じゃあ、夜はあっくんの歓迎会しましょう。チームのみんなとも上手くやってってね」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、俺店取ります。善永さん、希望とかあります?」
「希望?」
 そこで、善永と阿久のやり取りを聞いていた芸1の連中が奇声を上げた。
俺ビールのうまいトコ、あたし焼酎がいいなーという声が飛び交う朝の芸1編集部で、善永はそうね、と一言置いた。

―――雑巾みたいなハンカチでよければな。

「―――ワインの美味しいところがいいかな」

 善永はそう言って、阿久の背中をポンと叩いた。



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