ワイン (前編)

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ぴ――――――――――――――――――――――――――――――――。

―――ああ善永か? 俺だ俺、久我。久しぶりだな、元気にやってるか?
あのさ、えーと…ちょっと悪いんだけどお前に頼みたい事があるんだ。
忙しいとは思うんだけど、ちょっと時間作ってくれるか?



 敏腕の肩書きを着せない気さくな人柄で人気の、四捨五入などしなくても自はともかく他は認めるアラサー世代になったことを本人が少しだけ気にしていることすら今や芸能出版界で知らない寸足らずは一人もいない善永にも当然新人時代というものはあって、当時の善永を知っている連中からすれば善永は実に見事な出世コースを歩んだというのは彼らが善永を語る時にまず出る話である。
性格よしで見た目もそれほど悪くはなく、多くの新人が芸2からブン屋人生を歩み始めるに際しいきなり芸1へと配属された善永の出世を妬んだ連中からは「あいつ枕営業でもしたんじゃねえの」という負け犬根性丸出しの批判もあるにはあるが、当の善永本人はそれらの妬みに耳を貸す様子は今のところ一切ない。
 が、そんな善永にも本人的には実に思い出したくない新人時代の失敗というのがあって、その事件は善永が2年目となってお酌をする役目を後輩に譲った飲み会のその日に起きた。
 1年目はひたすらに先輩社員や上役に酌をするのが飲み会の席の仕事であり、世間一般の水準に照らし合わせればそれなりに酒に強い方の善永ですら緊張のあまり1年目に飲んだ酒は胃に落ちた気がしない。
酒に強いやつは酒が好きなやつ、という法則が見事に当てはまる善永にとっては「1年間の疲れを取って」だの「無礼講」だのと言われる職場の飲み会の席は「目の前に酒があるのにちっとも酔えない」全く意味のない言わば儀式の場であり、月末や年度末に行われる飲み会の日付に丸が付いたカレンダーを見るのは当時新人だった善永にとってはため息の原因となっていた。
 が、それも今日で終わりである。
社内新人歓迎会への出席が2度目となった善永の目の前では去年の自分を重ね見るような可哀そうな新人の連中がビール瓶を片手に座敷を右往左往しているのが目に入り、新人どもは善永のコップが空になるのを見るや我先にと酒を注ぎに来る。
なんだか自分が急に偉くなったような気がした酔いの回りは1年振り以上のスピードで、勧められるままに飲んだ酒の中にビールとは一線を画す色の酒があった事についに善永は気付かなかった。
 ワインである。
 今でこそ芸1編集部の中で公然の事実となってはいるが、いくら酒に強いとは言っても善永も人の子であり、中には当然飲めない種類の酒くらい存在するという事実は残念ながら当時の社内には知れ渡っていなかった。
善永にとっての飲めない酒とは焼酎とワインであって、それまで大量にビールと日本酒を注がれていた胃は飲み放題の安ワインを注がれるに至って遂に悲鳴を上げた。
30分ほどその場で耐えたのは良かったが、下手に飲める分トイレに入って吐くという防衛手段は未だかつて取った事がない善永は遂に飲み会からの早引けを決意した。
『―――おい善永、送って行こうか?』
『いやらいよううえす、ひといでかええます』
 そして、呂律すら満足に回らなくなった青い顔の善永が席を立つところを見たのは善永が所属するチームの先輩社員である久我だった。
久我は善永の見事なまでの酔いっぷりに一度だけ息を吐き、次いで上座でどんちゃん騒ぎを繰り広げる編集長に向かって声を出す。
『オヤジ、すんません俺善永送っていきます。―――はい大丈夫です、飲んでませんから』
 ウソつけこの野郎てめえさっきポン酒一気ってたじゃねえか―――そんな声が座敷に響くころ、すでに久我は善永に肩を貸してペンキで社名を潰したバンの助手席にドザエモンを1匹突っ込んでいた。

 ひたすら寒い。公園の女性用公衆トイレの個室で善永はようやくそう思う。
何が『今日は夜まで暖かくコートのいらない日でしょう』だ。朝方に見たニュースキャスターの満面の笑みを思い出した直後に、何がトリガーになったのか善永は再び便器に顔を突っ込んだ。
恐ろしいまでの吐き気が脳幹を支配し、善永はもはや外聞を気にすることなく恐ろしい程に迫りくる胃からの反撃を便器にぶちまける。
すっとすると同時に胃酸に焼かれた喉が恐ろしく痛く、そうこうするうちに再び嘔吐の奔流が迫って善永はそれからも何度か便器に頭を突っ込む羽目になった。
10分ほどもそうしていたか、天晴れな事に最後に水を流すだけの理性が復活した善永の眼には昼に食べたラーメンのナルトの無残な姿が便器の水面にぷかぷかと浮かんでいる様子が映っている。
『―――おい善永、大丈夫かお前』
 トイレから出ると、そこにはバンに寄りかかって缶コーヒーを飲んでいる久我がいた。
ほれ、と渡されたのはエビアンのペットボトルで、今口を開いたら世にも恐ろしい胃の反撃の残り香が出そうで首を振った善永に向かい、久我は一言『辛いのは分かるけど飲め』とだけ言った。
 恐る恐る飲んだエビアンはまさに甘露であり、思わず一息でペットボトルを空にした善永を見た久我は少しだけ笑ってもう一本のエビアンを善永に渡す。
『いや、大丈夫です、あの、私、』
『いいから。あとこれやる、顔拭いとけ』
 そう言って渡されたのはいつ洗濯したのか分からないほど皺だらけのハンカチだった。
もはや雑巾と呼んでも差し支えないようなハンカチを素直に受け取ると、恐る恐る善永は口元を拭って雑巾のようなハンカチを見た。
 自分の胃液のはずなのに、腐臭が鼻を突いた。
あれだけ戻したくせに再び込み上げてきた吐き気を善永は意志の力で何とか喉もとで押えようとし、人が見たら哀れと思われても仕方がない視線を久我に向け、
『吐けるなら全部出しちまえ。その方が楽になる』
 久我のその一言が、復活しそうだった善永の最後の理性を吹っ飛ばした。
善永はその場にうずくまり、ついには膝をついて思いきり公園の入り口付近にぶちまけた。
胃の中にはもはや何も残ってはいまいと思っていたのは善永の脳みそだけの話であって、一体自分の体のどこにこれだけの量の食い物が入っていたのかと思える量のゲロをまき散らしているその間久我はずっと善永の背をさすり続けていた。
 やがて10分ほどが過ぎるととうとう胃の残弾も尽きたらしく、善永は震えながら何度かの空えずきをし、
『―――昔な、俺も新人の頃先輩のスーツゲロまみれにしたことあってさ』
 ふわり、と久我のスーツが善永の肩に掛かる。
人肌に温められたスーツは大して暖かくもない見栄だけが取り柄のようなブランド物のコートとは雲泥の差で、善永は震える肩をかき抱くようにスーツの襟を握り締めた。
ほれ、と差し出されたエビアンを少しだけ飲んでうがいをし、
『…あ、の、すみ、ません、先輩、わたし、』
『おう』
 そこで、善永はいまだに自分がハンカチを握りしめている事に気が付いた。
見てみるとハンカチは実に残念な事になっていて、寒いと感じる以上に滅茶苦茶な恥ずかしさと猛烈な申し訳なさが冷静になった頭の中を支配していく。
『あの、わたし、ハンカチ、』
『やる。…あーでも、それで顔拭くなよ。えらい事になる』
 もうなってます、とは流石に言えない。
『でも、その、わたし、先輩にご、迷惑、』
『あーまあ、そうだな…じゃ、』
 そこで久我は言葉を区切り、何か途方もない事を言った。
『じゃあ、俺がもし困ったら、―――』



 ゲロと胃液と涙と腐臭にまみれた記憶の中で、善永は確かにあの時久我が「お前が俺を助けてくれ」と言ったのを聞いた。
 そしてその日から3か月後、久我は一度たりとて善永に頼ることなく芸1から芸3へ転籍し、その筆名を「悪徳」に変えた。
 別に部署によって編集方針に明確な違いがあるわけではないが、「芸1はスクープを、芸3は醜聞を取り扱う部署」という区分は社内では暗黙の了解だ。
社内の上役の殆どが芸1編集部出身という背景もあってか芸1の扱いは社内でもエリートコースのそれであり、芸2からスタートする殆どの新人はその多くがスクープを上げて芸1への転籍を夢見ている。
それに比して芸3の扱いは完全に色モノのそれで、歴代の主筆の出自を見ても芸3から主筆になった成金は長い社の歴史の中で数えるほどしか存在しない。
いわば落ちこぼれの吹き溜まりのような扱いの芸3に、しかし善永が後に聞いたところによれば久我は自分から志願して転籍したという。

 あの夜から7年経った今でも、善永は久我の転籍の理由を知らない。
 あの夜から7年が経ち、善永はあの夜以降ワインを一滴たりとも飲んではいない。



 煌々と照る提灯の明りに、善永は少しだけ安堵のため息を吐いた。
年末進行の出版社の忙しさは目を見張るものがあり、おまけにちょっと前までは忘年会と言って飲んでいた連中は最近では新年会と言って飲んでいる。
別に善永自身あれだけの事をしておきながら酒は嫌いではなかったのでその辺りに何を思う事もないのだが、あの出来事以来善永はワインを飲むことにだけは二の足を踏んでいる。
またゲロったら堪らないし、久我はもういないのだ―――そう思っていた矢先、昨晩の留守電に懐かしい声が吹きこまれていた。
7年越しのヘルプの中身が一体何なのか善永には全く見当もつかないが、しかしハンカチのみならず一張羅のスーツまで飛沫で汚してしまったのは自分である。
向こうもそれなりに大人なのだから今更スーツを弁償しろという話ではないだろうが、しかし久我の頼みを無碍にする気は起らなかった。

 近代化した電飾照明に媚を売るでもなく強かにも腹の中にため込んで己を照らす提灯には「たるき亭」と書かれている。
善永は年が変わる前、ここで酒酔いのせいではない暗い顔をした青年に仕事を手伝うように半ば強引に説得している。
天海春香の年明けライブチケットが効力を発揮するのは3日後の事だ。
確か名前は阿久と言った青年の顔には薄ぼんやりとした現状への不満のようなものが見え隠れしており、そして経験豊富な善永にも経験があるその手の鬱に対処するにはいくつかの方法がある。
 一つ。酒にのまれて全てを忘れる。
 二つ。敢えて仕事で鬱をひっくり返す。
 もっとも、阿久の不満とやらが仕事に対してのものならば選択肢として1は消える。
資本主義の社会において労働とは日々の糧を得る唯一無二の方法であって、今日何もかもを忘れたところで明日の仕事は確実に鬱を待ち構えている。
それならばどうにかして仕事で鬱をひっくり返すしか現状を打破する方法はないと完全な勝ち組思想の善永は思う。
 今日日珍しくなった引き戸を開けると、カウンターからの元気な「へいらっしゃい!」が善永を出迎えた。
久我で予約してるんですけどとカウンターの親父に伝えてやると、バイト始め1週間以内と思しき似合わない黒字にでっかい「た」と書かれた前掛けをした大学生風の男が善永を地下の座敷に誘った。
連れはもう来てますかと尋ねると、バイトは「10分くらい前からですかね」と答える。
 どうやら久我は座敷の一番奥の席を予約したようで、引き戸の閉まった扉の向こうからは誰かが先に酒を飲んでいる気配がする。
御用の際は呼び鈴を押して下さい、と言う敬語のなっていない大学生に礼を言って引き戸を開けると、あの夜のスーツを着た丸まった背中が一足先にビールを飲んでいた。
「―――先輩、お久しぶりです」
 声をかけると、はたして振り返ったのは久我だった。
「よう。…久しぶり」
 振り返った久我の顔は、あの夜から少しだけやつれて見えた。



 何故か上座に通された善永は開いた品書きのページにあった枝豆と鳥唐揚げのセットとビールを追加で注文し、7年ぶりとなる久我の顔をしげしげと眺めた。
「―――なんだ、俺の顔に何か付いてるか?」
「人生の悲哀的なものが付いてますかね。何かホシでも追いかけてたんですか?」
「芸3じゃネズミって言うんだよ。ったく、ラブホ張り付いてたのはいいんだけどよ、肝心のネズミが裏口から出やがってスクープがパーだ。正直堪える」
 ぶ、と口から笑いが漏れた。情報秘匿の観点的には久我は完全に落第の回答を返している。
ブン屋になるにはいくつかの条件があるが、どのような条件をあてはめるにしろまず第一に求められる素養は口の堅さだ。
阿久の辛気臭い顔はこちらとしても好きにはなれないし腹の中に何を押し隠しているかは知らないが、ブン屋としては阿久の方が出来はいいのではないだろうか。
「先輩、酔ってます?」
「酔ってねえし悲哀もねえしおまけに今の俺は別にお前の先輩じゃない。部署違うだろ」
「そりゃそうですけど。あたしに記者の―――ブン屋の仕事のイロハ教えてくれたの先輩じゃないですか」
「そうだっけ」
「そうですよ」
 善永は思う―――8年前の自分は随分と久我に泣かされた。
自分では直すところなど一欠けらも存在しなかった記事を久我に上げたら「これじゃ使い物にならん」と言われて目の前で突っ返されたことは数知れず、久我に言われた部分を直した記事がデスクによってロクな審査もなされずに紙になっていくところを何度か見た善永がこれでいいのかと自問自答した回数もまた数知れずであり、ある日下剋上もいい所に直接デスクに持って行った記事を目の前で破り割かれたその日、悔しさから善永には社内での明確な目標が出来た。
 あたしは、先輩を超えるブン屋になってやる。
 そして、目標はある日突然陽のあたる場所から姿を消した。
 裏切られたとも逃げやがったとも思ったが、それ以上にあの日芸2の扉の前に貼り出された人事異動のペラ紙を前に善永の頭に去来したのはそれらマイナスの感情から隔絶された純粋な疑問であった。

 何で、先輩はいなくなったんだろう。

 お待たせしましたー、生中と枝豆と唐揚げのセットになりますー。
「…それで、先輩の頼みって何なんですか」
 まるで空気の読めないバイトが持ってきた生ビールのジョッキを一息で一度に半分ほど開け、善永はまるで酔ったそぶりもなく久我に向けてそう切り出した。
もう少し再開を懐かしむ情緒があってもいいのかなとは頭の片隅で思わなくもないが、仕事なら話は別にしても個人的にはその辺りの腹芸は得意でもないし好きでもない。
 久我は黙って善永の前に置かれた枝豆に手を伸ばし、
「―――お前んとこでさ、うちの若いの使ってやって欲しいんだ」
 一時期は目標にしていた男の顔が、一気にうらぶれて見えた。
社内での芸1の扱いはまさしくエリートコースであって目下多くの新入社員たちは芸1への転属を目標へと掲げている。
研修こそ芸2だった自分がいきなり芸1に配属されたのは運か実力か疑わしいところだが、聞くところによれば芸2はもとより芸3に行った連中の中でも芸1への夢を捨てきれずに上役への接待を繰り返す連中もいると聞く。
その若いのとやらがどんな手練手管で久我を抱き込んでこちらに陳情をするよう唆したかは分からないが、顎で使われた様なその言い回しに善永は遠い自分の目標が既に目標たりえないことを悟る。
「そういう事はデスクにでも言ってくださいよ。あたし別に人事配属の権限持ってるわけじゃないし」
「ああいや違う。そういう事じゃなくて―――」
 じゃあどういう事なのか。
煮え切らない久我の態度に竹を割った性格も手伝ってかイライラし、善永は中程まで無くなっていた中生の残りを一気に煽り、ジョッキをテーブルに叩きつけると同時に呼び鈴を押す。
小走りでやってきたバイトに再びジョッキを注文して投げるような視線を久我に向けると、久我はあろうことかワインを注文した。
「別に芸1で働かせろってんじゃない。バイト感覚で構わない。ただちらっとお前の仕事見せてやれば、あいつもすっきりすんじゃねえかなと思ってさ」
 へえ、
「随分買ってるんですね、その子の事」
「俺の下に5年いた。文字の上下はともかくとしてシャシンの腕は保証する」
 驚いた。
筆名「悪徳」が後輩を褒めないのは社内でも有名な話で、新人のころの善永が書いた文を突っ返されるたびに何くそと思えたのもその辺りに由来する。
そんな久我をして褒めさせるその若いのとやらがどんな人物なのかと思い、善永は興味に引かれるまま質問を口にする。
「何て名前なんです、その子」
「ああ、阿久って言うんだけどな」
 !
 バイトがジョッキとワイングラスを持ってきた。
一息で再び半分ほどを空けてから久我の方を見ると、久我はワイングラスをゆらゆら回しながらちびりと一口飲んだところだった。
「別に仕事が嫌いなわけじゃないらしいしシャシンの腕も1年坊の時から比べりゃ使えるようにはなった。でもあいつ、やっぱり芸3にゃ向いてないみたいでさ」
「あたしに何をしろって言うんです?」
 そして、久我は善永のその問いに、懐から10mgの煙草を取り出して火を付けた。
「あいつは、芸3でやるにはちょっと人間を知らなさ過ぎる」
 どうだと差し出された煙草を受け取り、善永は久我の言葉を反芻しながらニコチンを肺に入れた。
人間を知らないとはどういう意味なのか全く分からず、しかし久我の頼みはすでに事後の話である。
 素知らぬ振りをして、善永はこれ幸いと質問を再開する。
「どういう意味です、それ」
 そして、久我は善永のその問いにちらりと善永の瞳を覗いた。
「俺さ、思ってたよりも人間が好きだった」
 回答が回答になっていない気がして暫くだんまりを決め込んだが、それ以上久我が口を割る気配は全くなかった。
回答を素直に受け取るならば衆道と思えなくもないが、それにショックを受けるような歳でもない。
世の中にはいろんな奴がいる事など入社してから8年経った今でも毎日繰り返すように思う。
「―――引き受けてくれるか?」
「もう一つだけ、聞かせてください」
 ああ、と返してきた久我に向けて、善永は一度口を噤んで残りのビールを一気に空けた。
酔いのせいにしてしまわなければ、この質問ができる機会は今後訪れないような気がした。
「先輩、何で芸1やめちゃったんですか」
「俺は―――」
 そこで、久我はワイングラスをテーブルに置いた。
「―――言わなきゃだめか」
「勝ちの見える交渉って楽しいですよ」
「そうか」
 そこで、久我は忘れていたかのように灰皿に手を伸ばして10mgを咥える。
音がするくらいに深く紫煙を入れて吐き出した久我の顔には喜怒哀楽の色が激しく入り混じっていて、善永には久我がどこか死人のように見えた。
「…人間ってさ、綺麗なだけじゃないんだよな」
 今はそれだけ、と言い、久我はおもむろにコートを手に取った。
善永は慌てて己のコートを引っ掴み、それ以上何を語ることもなく地下から地上へと至る階段を上り出した久我の背中を追いかける。
久我が釣銭を受け取っているところでようやく善永は久我の背中に追いつき、黙って暖簾を潜った久我の背中に掛ける声は何をどうやっても思いつかない。
「―――それ、どういう意味ですか」
 最寄駅のタクシープールまでストーカーのように付いていき、ようやく出た声は我ながら間抜けな質問だと思う。
久我は善永に向けてあの夜のような疲れた笑いを見せ、タクシーに乗り込みながら善永に向けてこう言った。
「俺の鼻が確かならな。―――あいつの事、頼む」



 冬を越え春になり、芸1への阿久の転属は阿久が凄まじいまでの気迫で撮った写真が上層部に評価されて異動会議は何の抵抗もなく進んだ。

 1月に返された久我からの答えの意味は、善永には未だに分からない。




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