BST-072 (14)

10.
 
 それほど電車が混んでいたわけではないし、美希の顔色を見る限りどこが悪そうとも思わない。しかし、メカ千早の記録している限り今日美希が口を開けたのは事務所の前で挨拶した時と電車の切符を買う時だけだった。
てっきり自分の分しか買っていないのかと思ったら、自販機から戻った美希は「はいこれ」と言ってメカ千早に連絡代込み560円の切符を渡してきた。もっとも今朝の挨拶も「おはようなの。じゃあ行こう」の一言だけだったので、何か相当な変化が美希に起こった事は想像に難くない。
 乗り換えは一度だけだった。最初の電車は地上しか走っていなかったが、乗り換えた電車は一度地上を走った後にモグラになった。
蛍光灯の不健康な光に照らされた美希の横顔には何の表情も浮かんでおらず、メカ千早は一度だけ会話を試みようとして止めた。今の美希には何を話しても反応してくれないだろうとプロセッサが判断している。
 もっとも、乗り換えてからメカ千早も美希が連れて行こうとしている場所には察しがついている。
GPSは地下に潜ってしまって以来一度も更新をしていないが、前の電車代と込みで560円なら行先は恐らく一つしかない。
社長の机の上にはいつも書類やCDが乱雑に置かれているが、昼休みには決まって紙っぺらが机の一番上に置いてある。美希が押し付ける形でメカ千早に渡したコートは流行物のコートで、メカ千早の横に並んでぼんやりと暗い窓の外を見ている美希は去年だか一昨年だかに流行ったポケットが大きいコートを着ている。
二人とも変装はばっちりで、メカ千早はライブの時のように髪をまとめて帽子にしまっていたし、美希にいたっては髪を栗色に染めていた。頭皮から近い毛根部分まで綺麗に染まっていたから、元々は金髪ではなかったのかもしれない。
 今一度の会話を試みる。
「…ミキは、もともとその髪の色だったのですか?」
 見事に無視された。眠たいような声の車内アナウンスが聞こえ、メカ千早の予想通りなら間もなく降りる駅に着く。
「着いたの」
 ややあって、美希が口を開いた。流れるような動きで座席から立ち上がった美希に遅れまいとメカ千早も席を立つ。
無闇に長いエスカレーターを登り切り、自動改札機に560円の券を食わせた後に美希はメカ千早に顔を向けた。
「…もともとは、もうちょっと黒かったよ。ブリーチしちゃったから、少し色が薄くなっちゃったの」
 バツの悪そうな顔で、美希はそう言った。
それきり口を開かなくなった美希についていく形で、メカ千早もまた無言で外へと繋がる階段を上っていく。登り切った先には複雑な交差を描く道路があって、見上げるとどこまでも広がる青い空にぽっこりと浮かぶ白い雲が見事なコントラストを描いていた。
 『←総合外科医はこちら』と書かれた看板を完全に無視してエントランスに入る。大理石に不気味な文様の付いたエントランスのカウンターには休憩室で絶対にマイルドセブンかセブンスターを吸っているであろう年若い看護婦がいて、美希はにこやかに「おはようございます」と言ってくる看護婦に面会に来た旨を伝える。



 真っ白い個室だった。
 カーテンが引かれていてベッドサイドは見えなかったが、メカ千早のカメラアイが病室には不釣り合いなほど広く取られた出窓を捉える。
出窓の窪みは見舞いの品を置けるようになっていて、置物のような大きめの物は棚には収まらないのか床にも見舞い品と見てとれる品物が窓側に寄せてあった。
何度も来ているのか、美希はためらうことなくカーテンを回り込むようにベッドの前に進む。
視線を横にずらすと大きめのテレビが鎮座していて、これならば入院患者が起きてきても確かに退屈はしなかろう。
「メカさん、こっちこっち」
 美希の声に誘われるようにドアを潜る。同時に椅子を引いたような音がした。ベッドをぐるりと回りこむような動きをして美希の姿を確認し、丁度テレビの真正面にきてメカ千早は横になっている男を見た。

 眠っているように見えた。

 腕には点滴の針が突き刺さっており、入院着の胸元からはコードが何本か伸びている。コードはベッドのすぐ脇に据え付けられた心電図につながっていて、ハートマークが大きくなったり小さくなったりしている。
音は小さくて意識しないと聞きとれないレベルだったが、ピッ、ピッ、と心拍を刻む音に合わせて点滴の雫が落ちているのが見える。心電計の乗っている棚には松葉杖が立てかけられていて、男がいつ起き出しても不都合のないようにと準備がされているようだった。
「…紹介するね。この人が、律子さんの前のミキのプロデューサー」

 Sub: Kotori Otonashi Data: 9/12
 Rept: ―――プロデューサーさんね、天麩羅が好きで。私が持ってくるとこっちのことずっと見てるの。
 Sub: Miki Hoshii Data: 11/20
 Rept: ―――うん。きっとここに千早さんとかプロデューサーがいたら、次に進もうって言うと思うの。
 Sub: Ritsuko Akizuki Data: 11/20
 Rept: ―――あの子、自分がAランクに上がったら千早もプロデューサーも帰ってくるって思ってるみたいなの。

 もうずいぶん前のような1か月前のデータソースを検索し、メカ千早はなるほどと頷いた。が、プロデューサーと呼ばれた男が今こうして病院のベッドに横たわっている理由が分からない。
病気かと思ったが、男の顔色は健康そのもののように見える。
「事故…ですか?」
「長くなっちゃうと思うから、座って」
 質問に答えず、美希はメカ千早にパイプ椅子を引いた。
座ってみると丁度出窓の棚の高さに目線が合って、メカ千早はそこで夥しい見舞いの品それぞれに貼り付けられたタグを見た。
『さっさと起きてこいこのバカたれ  高木』
『玉砕は意図にあらじ   765経理スタッフ有志より』
『メロン食べていいですか このムッツリ   765営業部一同』
『起きてきてくれたら テンプラたくさん作りますよ   小鳥』
『美希ももうすぐAランクよ 悔しかったら早く起きてきなさい  秋月』
 その他個人からとは到底思えないような代物も幾らかある。
いくつかは社長が持っていたのを記録しているから、それらはどこかの企業からの見舞いの品なのだろう。
 視線を飛ばした先に、メカ千早は寄り添うようにおかれた二つの小ぶりなラッピングを見た。

『早く元気になってください   如月』
『ごめんなさい    ミキ』

「まだね、最後になんて言われたかは思い出せないの」
 声に振り返ると、美希は何か大切なものを見る表情でプロデューサーの顔を見ていた。
何を、というメカ千早の表情を見たのか、美希はそこで静かに笑った。

「―――危ないって声が、まだ頭の中に響いてるの」

 全く今までの顔からは想像できないほど、美希は穏やかに笑っていた。
「猫がね、ふらふらって道路を横切ってたの。あの時は確かDランクへのランクアップオーディションの前で、毎日毎日トレーニングと営業とオーディションで、」
 美希はそこで言葉を区切り、静かにプロデューサーのベッドに手を置いた。
表情はまるで穏やかだが、その中にもどこか後悔のような色が見えている。
「なんでアイドルなんかになっちゃったんだろう、って思ってた」
「―――猫、ですか」
 相槌にうんと美希はうなずき、次いで小さな声で、
「猫って自由じゃない。その時のミキは、その自由な猫にあこがれたのかもね」
 そう言って、美希は寂しそうに笑った。
失敗を笑い話にするような照れ臭い笑いではなく、何か諦めの混じった笑い方だった。
 黙したメカ千早の方を見ず、美希は言葉を繋げる。
「その時一緒にいたプロデューサーに何を言われたかはあんまり覚えてない。でも多分、仕事の話だったに間違いないの。きっともうすぐDランクだからアイドルとしての自覚がとか、そう言う事だと思う。―――今は、」
 そこで美希はベッドから手を引き、起こってしまった事をなかった事にしたいかのように天井を仰いだ。
「今はちゃんと聞いておけばよかったって、そう思ってる」

 起きたことを、なかった事に出来るのなら―――。美希は思う。
 もしそんな事が出来るのであれば、自分はきっと何を差し置いてもそうするに違いないと美希は思う。
いつだって楽しかったし、いつだっておもしろかったし、たまに辛いこともあったけれど、そこにはいつも千早がいてプロデューサーがいた。
 あの中で、美希は笑っていられた。
 今は、どうだろうか。
 なぜプロデューサーがベッドに横になっているのか、なぜ自分はいつまで経っても千早に追いつけないと思っていたのか、なぜあの時猫を追いかけたのか、なぜ自分はアイドルになどなってしまったのか、
どうしてプロデューサーが庇ってくれたのか。
 その理由を考えたくなくて、今まで遮二無二仕事をしてきた。ライブを成功させればきっと、Aランクに上がれればきっとプロデューサーは起きてくれると信じていた。
 そんな事は、ありはしないのに。
 そんな都合のいい話が、あるわけがないのに。

 メカ千早の沈黙を続きへの促しと考えたのか、美希は言葉を繋げた。
「疲れてもいたんだと思うの。だけど、猫ばっかり見てて近づいてくるトレーラーに全然気がつかなかった。クラクションを鳴らされてね、全然動けなくなっちゃった。首だけ動かして横を見たら、ゆっくりトレーラーが近づいてくるのが見えたの」
 死んじゃうなんて思ってる余裕もなかった、と美希は薄く笑った。
「何にも考えられなかったし、―――頭が真っ白になるってああいう事を言うのかもね」
 つい昨日経験したけど、とは言わなかった。メカ千早を見ると、何ともいえない複雑な表情で美希の事を見ていた。

 そんな顔をしないで欲しいと思う。
 これは、ケジメみたいなものなんだから。
 今日は、ケジメを付けに来たんだから。

「―――それで、どうなったのですか?」
 美希の考えが表情から伝わったのか、メカ千早は静かに続きを促す。
メカ千早にありがとうと笑い、美希はゆっくりと続きを口にする。
「プロデューサーがミキの手を引っ張った時の事は、まだ思い出せないの。最後に何か言われたと思うんだけど、…思い出したくないのかもね。プロデューサーの言葉も、あの事故のことも」
 やはり事故だ、とメカ千早は考える。
 顔にも体にも、メカ千早の見たところプロデューサーにはどこにも外傷はない。
入院当初は手術のために丸刈りにされたであろう髪の毛もすっかり生えている。どこにも外傷はなく、起きてくるのに全く不都合な点は見つからず、あともう少し待っていればひょっこり起きてくる気さえする。
 それを、美希は幾度となく繰り返してきたのだろう。
 ひょっとしたら今日起きてくれるかもしれない。
 今日がだめでも、明日になったら起きてくるかもしれない。
 もしライブを成功させれば、起きてくれるだろう。
 Aランクに上がれたら、きっとプロデューサーは起きてくれる。
 美希はきっとそう思い、プロデューサーがいない5か月を死に物狂いで働いてきたのだろう。
 美希はすっと椅子から立ち上がった。プロデューサーの顔と心拍計をもう一度見て、何一つ変わらない電機系に溜息をつき、美希はゆっくりとコートを羽織った。メカ千早もそれに倣う。

 夥しいまでの見舞いの品の向こうで、遥かに広がる青い空が眩しかった。

「…でもね、危ないって声が、まだずっと響いてるの。忘れたくても忘れられないし、絶対に忘れない、プロデューサーの言葉」
 そう言って、美希はぐるりとベッドサイドを回り、ドアを潜った。ついて来てと言われ、メカ千早もまた椅子から立ち上がる。

 最後に見たプロデューサーは、やはり穏やかに眠っている。

「…また、来るね。プロデューサー」
 そう言って、美希は静かに病室の扉を閉めた。



 美希の後ろについて階段を上っていくと、やがて目の前に妙に錆の付いた扉が現れた。
屋上へ出る気なのだろうか。美希は扉に「進入禁止」の文面がないことを確認してドアノブに手をかける。
何の抵抗もなく開いたドアの向こうには無意味なまでにだだっ広いアスファルトの床があり、床と空を隔てる屋上の淵にはもとは緑色だったと思しき銅色のフェンスが立っていて、誂えたように色のはげた木製のベンチがフェンスの手前に置いてあった。
 美希は深呼吸をするとベンチに向かって歩き出す。メカ千早のアイカメラがあり得ない現象を捉える。

 美希が、空に溶けていく。

 慌てた様子で美希を追いかけるメカ千早に笑いかけ、美希はベンチにゆっくりと座った。風がなくてよかったと思う、周りに病院よりも背の高い建物がないからか陽だまりのようになっているベンチに美希は座り、穏やかに笑っている。
「メカさん、ここに座って」
 促されたベンチに腰を下ろすと、遠くに白くたなびくシーツの群れが見えた。数人の看護師が忙しそうにシーツをかけている。向こうには風が吹いているのだろうか。
 メカ千早が完全に座って美希の方を見ると、美希はそこで驚くべきことを言った。
「―――ミキね、メカさんに謝らなきゃいけないことがあるの」
「…私は、ミキに何かされた記憶はありません」
 して頂いた事なら沢山ありますがと繋げたメカ千早のカメラアイが美希の表情を映す。
ミキの瞳が揺れている。泣きたいのに泣けないような表情をしている。

 やがてゆっくりと、美希は口を開いた。
「最初はね、最初にメカさんを見たとき、千早さんが帰ってきてくれたんだと思ったの」
―――ちっ、千早さん!!
 つい昨日のことのような、3か月前のあの時に美希から投げられた名前を回想する。
あの時美希は必死の形相でメカ千早に向って走って来て、その場にいるわけがない者の名前を言っている。
「だけど、千早さんじゃなかった。そこにいたのは千早さんにそっくりな全然違う人だった。その人は自分の事をロボットだって言って、ずっと千早さんに会いたいって言ってた」
―――私の名前は、BST-072、です。初めてお会いします、ホシイミキさん。
―――ニューヨークでは、86時間では行けません。
―――可能なら。

「でもね、その人が千早さんじゃなくてもいいって思ったの。この人でもいいって、そう思った」

 美希が空を見上げる。メカ千早もそれに倣う。
 1月の青い空はどこまでも高く、風のない空にゆっくりと雲が靡いていく。
「最初はやっぱり怖かったよ。メカさんって千早さんにそっくりなんだもん。双子だったなんて話は聞いたことなかったし、最初はメカさんが千早さんじゃないって信じてなかった。それに―――」
 美希は言葉を切り、見上げた視界をメカ千早に落とした。
 髪をまとめ、流行のコートに身を包んだメカ千早は、美希の記憶にある千早とそっくりだった。
「千早さんは、2人もいちゃいけない人なの。ミキ、そう思うの。千早さんはまっすぐで、ずっとずっとミキよりずうっと前を見てる人なの。たった一人でまっすぐに行っちゃう人だから、そんな千早さんが2人もいちゃいけないって思ったの」
 それでね、と美希はつなげた。
 栗色に染まった髪が、穏やかな風にゆっくりと揺らされる。
「千早さんもミキの事置いて海外に行っちゃった。ミキの事なんか見ないで、千早さんは自分の夢のためにどんどん前に進んじゃってた。―――たぶん、」
 美希は笑みを形作っていた表情を顔の奥底に引っ込め、再び空を見上げた。
「たぶん、だからミキは今まで頑張ってこれたんだと思う。プロデューサーもいないし、千早さんもいなくなっちゃったけど、ミキが頑張ったら、千早さんもプロデューサーも帰ってきてくれるって信じてた」

 美希が空を見上げている。
 メカ千早が、その横顔を見ている。
 美希の瞳にはもう、空も雲も何も映っていない。ただ開いた瞳の奥に、遥か遠くにあった幸せな毎日を思い描いているように見える。
 右を向けばプロデューサーが笑っていた時の、左を向けば千早が苦笑していた時の、あの遠い日を懐かしんでいるように見える。

「―――でも、分かってたの。そんな事、あるわけないって」
 そこで、美希は再びメカ千早を見た。
「ずっと分かってたの。そんな事、あるわけがないって。きっとAランクに上がっても、ライブをどんなに成功させても、プロデューサーは起きてくるはずないし千早さんも帰ってくるはずがないって。だから、」
 メカ千早から視線を外す。美希は俯き、最後の最後まで言えなかった一言を言う勇気を腹の中に探す。

「―――だから、メカさんが千早さんになればいいって、そう思った」

―――私は、オリジナルに近づきたいのです。
 いつか言った自分の言葉が、頭の中で再生された。
美希は、最初からメカ千早の考えていることが分かっていたのだろうか。
オリジナルになりたいと直接告げた事はないが、美希もまたメカ千早がオリジナルになる事を望んでいたというのか。

「最初はね、本当にそう思ってた。メカさんの歌が最初あんまり上手じゃなかったのは考えてなかったけど、もしメカさんの歌が上手くなったら、もうメカさんは十分千早さんの代わりになるって思った。―――ミキは、メカさんに千早さんの代わりをして欲しかったの」

―――最初から始めれば、メカさんだってきっと上手くなるってミキ思う!
―――すごいすごい! やっぱりメカさん才能あるよ!
―――ね、ね、律子さん。メカさんって歌上手いよね!

 やっと理解できた。
 メカ千早の音声デバイスはその設定を大きく上回るような出力はできない。ハードの限界のためだ。
しかし、それでも美希はメカ千早相手に音楽の講義をしている最中事あるごとにメカ千早に才能があると言い続けている。
メカ千早に才能などというパラメータは存在しない。しかし、美希がメカ千早を通して千早を目していたからこそ、美希はそう言っていたのだろう。

「それで、もしメカさんが千早さんの代わりになってくれたら、そうしたら今度こそミキは千早さんに置いて行かれないようにするんだって思ってた。今度こそ、今度こそ絶対千早さんと対等になるんだって思ってた。千早さんはミキの事を置いて海外に行っちゃった。今度こそ絶対失敗しないんだって思ってた」
 メカ千早が千早本人になれば、美希の中では千早が帰国した事と変わらないのだろう。
メカ千早は目を閉じる。昨日の音響部屋での会話が蘇る。

 ―――やっぱり歌っている人が違うと、ぜんぜん違うんだって思うな。

 美希の試みは、失敗に終わったのだろう。
美希のバージョンではなく、千早のバージョンでもなく、メカ千早がメカ千早だけの『蒼い鳥』を歌ったことで、美希は自らの計画の失敗を知ったのだろう。

「でも、やっぱりメカさんはメカさんだった。千早さんじゃなかったし、千早さんの代わりにもならなかった。
―――何だかホッとしたの。やっぱり、誰かが誰かの代わりになんてなれないもんね」

 そこで美希は立ち上がり、恥ずかしそうに笑った。フェンスに歩み寄り、美希は錆だらけのフェンスにためらうことなく寄りかかった。

 プロデューサーの代わりに、律子がいた。
 千早の代わりに、メカ千早がいた。
 そして、そのどちらもが、美希にとってはきっと代わりにはなれなかったのだろう。

「…昨日ね、電話で、千早さんは嫌な事をなかった事にして向こうに逃げたって言ってた。ミキの事を置いて夢を追いかけたんじゃなくて、逃げたんだって言ってた。だからね、美希ももうやめようって思ったの。千早さんを追いかけるのも、プロデューサーを待つのももうやめようって」
 そう言って、美希は頭を下げた。
「…ごめんなさい。ミキは、メカさんの事を今までずっと騙してたの。メカさんに千早さんを演じてもらえれば、それで頑張れるって、今までずっと思ってたの」

 プロセッサが悲鳴を上げた。メモリの消費量が跳ね上がった。
 何と返していいか分からない。メカ千早は嘆息した後、適切な言葉を探してふらふらとあたりを見回した。
 何をどう見ても、空と雲と美希とフェンスしかなかった。

「―――ミキは、タカギ社長に疑われていた私の事を友達と言ってくれました」

 言葉に、美希は頭を上げる。
 上げた視界に、メカ千早の表情が映る。
 メカ千早は、複雑な表情をしている。

「あれも、嘘だったのですか?」

 美希の瞳から、涙が落ちた。
「…最初は、メカさんがこのままいなくなっちゃったら嫌だって思った。また千早さんがミキの事置いてどこかに行っちゃうのは嫌だって思った。だから友達って言ったの。だから最初は嘘だったの。でも、でもね、」
 美希は顔をくしゃくしゃに歪めている。泣きながら言葉を探しているようにみえる。
「一緒にいる、うちに、嘘じゃ、なくなったの。ホント、だよ。頑張って、る、メカさんを見て、るうちに、何だか、最初に考えて、る事、なんて、」
 どうでもよくなった、と美希はしゃくり上げながら繋げた。
「メカさんが、歌、上手くなって、ホントに、ほんとに嬉しかった。ちはっ、千早さんじゃ、なくていいっ、て、思った。メカさんは、めかさんっ、で、っ、」
 そこから先の音声は、全く聞きとる事が出来なかった。
 美希が泣いている。メカ千早はその様子を黙って見ている。
プロセッサとメモリが半端のないやり取りをしている。やがて風が吹き出し、美希の栗色の髪が風に流されていく。

 膨大な量の計算が終了した。
メカ千早は言葉を探す。美希にかけなければならない言葉がきっとある。何よりも、
 何よりも美希が泣いているのは嫌だと、メカ千早は思った(・・・)

「―――私は、ミキの、友達です」

 口をついて出た言葉に、美希は声を上げて泣いた。
メカ千早は美希のその様子を、どこか眩しく見ている。
心の底から美希の事が羨ましいと思う。
美希に友達と呼んでもらったことが、今にして思う、とても嬉しい。



 数分の後、恥ずかしいところ見せちゃったのと美希は泣き腫らした目で笑った。そんな事はありませんと言うと、美希はくすぐったそうに笑う。
風が強くなってきた。そろそろ中に戻りませんかという提案をしようとして、メカ千早はそれを見た。

 美希が、流行遅れのコートの大きめの右のポケットから、ハサミを取り出した。

「―――何をしているのですか?」
 問いかけに美希は恥ずかしそうに笑い、
「うん。なんだか吹っ切れたから、記念になることしようと思って」
 そう言って、美希は左手を首の裏に回す。
大きく開いた掌でおもむろに昨日までは金髪だった髪を鷲掴みにし、右手に持ったハサミを首の後ろに回して、
「―――ミキっ!!」

 今までで一番の風が来た。
美希はゆっくりと瞼を閉じてハサミを閉じる。
ジョキン、という鈍い音がしてハサミが閉じられ、左手より上にあった髪が戒めを解かれてふわりと広がった。

「これはね、記念なの。今日の事を忘れないように、ミキが前を向くために必要な事なの」
 そう言って、一瞬にしてセミロングになった美希は笑った。
「千早さんは、逃げたって言ってた。たぶんミキも逃げてたんだと思う。ずっといない人の事を考えて、ずっとダダこねていたんだと思うの。だから、そんなミキは今日でおしまい」
 これは、ケジメみたいなものなの。
そう言って、美希は風に任せるように左手を開いた。風が吹き続けている。
長い長い後ろ髪が、風に吹かれて屋上から逃げていく。

 美希の栗色の髪が、空に舞っていく。

 プロセッサがメモリとのやり取りを再開する。
それでいいのか、とメカ千早は思う。
もう待つことを止めたとい  う事は、もう起き てくるのを諦めたという事は、美 希は今までの美希で はなくなってしま うのでは ないだろうか。
自分が来てから  の3カ月を、プ ロデュ ーさーが眠り こ  んで  からの5か 月をなかっ   た事にしてしまうので  はないだろうか。
それ でいい の かと思  う    。 本 当に美希 は それ で い    いのだ ろう か  。
   自分 に は分からな    い    。ワか らない が、    なんだ   か そ れ はとても、
プロ セッサが メ モリから今の   美希 のカン 情ヨ測の 形容詞 がヒッ ト、どう    時にメ モリにが イ 当 し た形 容詞を 退  避し    て    、

Error: main memory system down. Retry: Load main memory... Error/ fragment are not able to access.

―――緊急用プログラム動作開始。メインメモリへの電力供給を補修まで停止。サブルーチンの動作開始。
―――メインメモリ破棄、サブメモリを代替として使用、ナノデバイスの縫合開始、完了まで12秒。
―――ログ収集完了、主記憶にバックアップ。網膜神経伝達パターンと聴覚神経伝達パターンをサブメモリにスイッチ、以降メモリルーチンはサブを優先。通電確認、完全再起動まであと16秒。



「…すっきりした。メカさん、帰ろう」
 晴れやかな表情で美希が笑う。メカ千早が口を開けて空を見ている。
「メカさん?」
 再度の呼びかけにメカ千早はようやく気が付いたのか、慌てたように美希を見た。
「すみません、何でしょうか」
 もう、と美希は膨れた。さっきまで泣いていたのが嘘のような表情を浮かべ、美希はメカ千早に向ってもう一度「帰ろう」と言った。
「帰る…そうですね、帰りましょう。ここは、とても冷える」
「さっきまでお陽様が当たってたから暖かかったけどね。風が吹いたらやっぱり寒いの」
 笑いかける美希に向って、メカ千早はそうですねと能面のように笑った。



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