見事なまでに夜だった。
街灯がなければ真っ暗な歩道であり、横を走る車道には車の数もあまりない。
この道はいつ来ても空いているいわば裏道的な道路であり、このあたりを走るトラック野郎たちは幹線が込んでいるときは必ずと言ってもいいほどこちらを通る。
しかし今日辺りはそれほど主線の方が込んでいないのか、車一台横を通らない。
人通りのない道を、美希がひとりで歩いている。足元がおぼつかない、時折ガードレールに掴まって荒い息を吐いている。
「…そんなの、嘘なの」
メカ千早の表情が読めなかった。能面のようだった。『それは嘘ではない』とも『もちろんそれは嘘だ』とも読めた。だから一度はやっぱり嘘だったと思った。
だから、その後の言葉は衝撃が大きすぎた。
―――私は…
『それは嘘ではない』と思いたくはなかった。
メカ千早の言葉が溢れてくる。思い出が溢れてくる。
―――私の名前は、識別コードBST-072、です。初めてお会いします、ホシイミキさん。
あの時初めて彼女に会った。千早が帰ってきたのだと思った。
―――私の名前は、メカ千早、です。
あの時の、嬉しそうな笑顔。
―――お帰りなさい、ミキさん。皆さんもお揃いで。
首筋にプラグを刺していた時の、あの笑顔。
―――オリジナルは、凄いのですね…。
初めて歌を歌った時の、あの羨望の表情。
―――終了しました、先生。いかがでしょうか。
あの時の、成績発表の前のような表情。
―――発声用のデバイスに問題は見つかりませんでした。私はいつでも歌えます。
あの時の、得意そうな表情。
―――私は、ミキの、友達です。
全部嘘だったというのか。何もかもみんな嘘だったのか。初めて会った時の困惑も、初めて歌を歌った時の喜びも、Aランクに上がった時の祝福も、病院の屋上で『友達』と言ってくれたことも、何もかもみんな961のためだったのだろうか。
信じられないし信じたくない。何も考えられずにいられればどんなに幸せだろう。何も知らずにいられたらどんなに幸せだったのだろう。何が悪かったのだろう。
何でだろう。美希はいつもそう思う。
何でプロデューサーが血まみれで倒れていたんだろう。
何で猫なんか追いかけたんだろう。
何でミキは千早さんに追いつけなかったんだろう。
何でアイドルなんかになったんだろう。
何で、メカさんがスパイなんだろう。
分かっていたはずなのだ、そんな都合のいい話はオハナシの中だけなのだ。それでも認めがたいし、信じたくないし信じたかった。
足がふらつく。T字路を境にガードレールが途切れる。捕まるものが何もなくなり、美希はその場にぐったりと倒れたくなる衝動を必死にこらえる。
倒れてしまったら、千早が帰ってこない気がする。倒れてしまったらプロデューサーがもう決して目を覚ますことはない気がする。
メカ千早がスパイだと、認めてしまう気がする。
考えがまとまらない。必死になって歩こうとして、踏み出した足の先に美希はあるものを見た。
猫。
足が勝手に動いた。首輪は付けていないようだった。ブチで野良だ。近づこうとして猫が美希を向き、妙に野太い声で「ニャア」と鳴いた。
チッチッと声を立てる。美希の呼びかけに答えず、猫は踵を返して車道に歩いていく。まさに堂々たる態度。追いかけようと思ったところで、美希の脳裏にあの言葉が顔を出す。
―――…なあ、美希、……、美希は、
猫が歩いていく。追いかけようとして足がもつれた。ガードレールはとうに切れていて、寄りかかるものはもう何もない。
アスファルトにしたたかに腰をぶつけたはずなのに、痛みをまるで感じない。
いきなり美希の視界が光で焼かれる。T字路から曲がってきたトレーラー。出来の悪い夢を見ている気がする。いきなりのスローモーション。ぼんやりと迫ってくるトレーラーの採空口を見る。大音量のクラクションを鳴らされる。
もう本当に疲れた、迫るトレーラーのバンパー、もうナンバープレートまで見える、轢かれるような気がする、美希の顔にくたびれ果てた笑顔が浮かぶ、タイヤの溝まで見える、立ち上がろうという気は微塵も起きない。
こんな事を考える。
あの時、プロデューサーは何て言ったんだろう
当たる直前、危ない、という声が、確かに聞こえた。
見事なまでに夜だった。外は思い切り真っ暗だった。
アイカメラは網膜に投影される光量の乏しさを認識した瞬間にサーモに切り替わった。ルーチンを思いきり無視したせいか妙に足が重い。メモリの5割ほどで勝手にサーモに切り替わったアイカメラを苦々しく思い、4割を美希の捜索に、1割を思考に充てる。
良かったという感想が1割のメモリの大多数を占め、メカ千早は首をふって社外に飛び出す。サーモのお陰で大分夜目が効くから、下手にライトなどつけなくても遠くまではっきり見えるから。
サーモに切り替わったことで、外界の景色が薄緑のフィルターに覆われている。メカ千早はアスファルトに覆われた道路を目視する。
アスファルトに残った足型の残滓がうっすらと浮かび上がっている。
メカ千早が唇をかみしめた。サーモのおかげで美希の足取りは分かるが、こんな目がなかったらと考える。足型に導かれるように走り出す。歩幅の間隔が広いのは恐らく美希が走っていたからだ。美希はどこに行ったのだろう。
アスファルトの直線を走り切り、十字路とT字路と変形交差の道路を渡りきったところでクラクションの洗礼をもらった。全く気にせずに交差点を抜ける。
何度か横をすり抜ける自動車と街頭にぽつりとある自販機の光のせいで幾度となく切り替わるアイカメラが非常に面倒くさい。随意パスを使ってアイカメラをサーモに固定する。ルーチンが不適切な処理に警告を表示し、プロセッサがあっさりと警告を遮断する。
さっきからルーチンが邪魔ばかりするのが嫌になり、プロセッサの処理能力にものを言わせてルーチンを封じ込める。
思考に充てた1割が、勝手に美希の表情を再生する。
―――嘘なの。
嘘だと思う。自分でもそう思う。そう信じているが、プロセッサもルーチンも「状況を鑑みるに、それは本当の事だ」という無情な判断をしている。
なぜ自分にはこれほどのアイカメラが搭載されているのか、なぜ自分にはこれほどの集音マイクが搭載されているのか、もっとよく考えてみるべきだったのだ。
自分はロボットだ。機械だ。リツコさんは「機械は何か目的があって製造されることが普通」と言っていた。という事は、ユーザーは自分を何らかの目的を持って765に送り込んだという事になる。それなのに―――
美希の捜索に当てているメモリ以外を一度リフレッシュし、新たに出来た余剰の6割を美希の捜索に充当して残りの4割を思考に回す。
それなのに、自分は最も大切なはずの疑問を棚に上げてきた。765を訪れた時から考えるべきだった疑問に自分はずっと蓋をしてきた。何のために生まれ、何のために存在しているのかを考えてこなかった。
その結果がこれだ。一番大切な友達を傷つけてしまった。
脚部人工筋肉の乳酸堆積値が70%を超えた。プロセッサにアラートが表示されるが、メカ千早は警告表示に一切注意を払わない。
本来ならばルーチンが自律反射を受け持っているために脚部の運動行動を制限し出すはずだが、ルーチンは先ほどからプロセッサに殺され続けている。
メカ千早のアイカメラが十字路の角を捉える。ぼんやりと浮かび上がっている足型は右に折れている。
一番大切な、友達だったのに。
美希の表情がよみがえる。一番大切な友達は、ひどく裏切られたような顔をしていた。
心の底から悔いる。美希にあんな顔をさせた自分がひどく罪深いものに感じる。
美希は何と思ったのだろうか。裏切られたと感じたのだろうか。
自分の事を、どう思っているだろうか。
人工肺が活動の限界を訴えてきた。樹脂製の横隔膜が完全に上がり切ってしまっている。これ以上の運動は今後の活動に重大な損傷を与えると臓器が訴えている。足型を追いかけ、メカ千早は十字路を今度は左に曲がる。
もしかしたら―――もしかしたら、美希はもう自分の事を友達と思ってくれないかもしれない。961の手の者である自分は765からすれば敵だ。仲良くする理由は何もない。もう美希は自分の事を友達と思ってはくれないのではないだろうか。
排熱量が基準値を大きく上回った。脚部の運動熱が全身に行き渡っている。
まだ1月だと言うのに、発汗用にストックしてあった調整液タンクは要補充のシグナルを盛んにがなりたてている。
ルーチンは動かない。自己防衛プログラムの主導権はルーチンが握っているから、プロセッサがルーチンを殺している限り防衛用のプログラムは動かない。足跡はまっすぐ伸びている。脚部のセルモーターに動作続行を指示する。
もし美希がメカ千早の事を友達ではないと思ったのなら。もし「もうメカさんとは絶交だ」と言ったとしたら。
そうしたら、恐らくもう美希はメカ千早に笑いかけてくれることはないのだろう。もう歌を聞いてくれることも、一緒にCDを聞いたりすることもできなくなるのだろう。
それは嫌だ、とメカ千早は思う。美希を失いたくないと、この期に及んで自分は考えている。
失いたくない。
そうだ。失いたくないと思ったのだ。どこでそう思ったんだっけ。
疑問に呼応するようにプロセッサがサブメモリを洗う。美希を探して走るメカ千早の脳裏に、あの日のあの屋上の会話が蘇る。
Rept:―――だからね、美希ももうやめようって思ったの。千早さんを追いかけるのも、プロデューサーを待つのももうやめようって。
あの会話だ。美希は髪を切る前にそう言っていた。あの時自分は確かに失いたくないと思ったんだ。何を。分からない、サブメモリに格納されていない。メインメモリが破損した時の思考だ。バックアップできなかった。ショートしてしまったメインメモリの中にデータは残っているだろうか。
脚部の乳酸化合値がついに80%を超える。電力の供給が強制的に減衰される。まだ止まれない。まだ美希が見つかっていない。
主記憶に回していた維持電力を減衰させてセルモーターに回す。足跡が徐々に濃くなってきた。集音マイクに感あり、「ニャア」という猫の鳴き声。かなり近い。
足跡が右に折れている。ブロック塀のせいで美希は視認できない。強制稼働で発熱量が基準値を大きく上回った脚部を動かし、メカ千早はそこにあるものを見た。
小動物。
小動物の手前2メートルの位置に人間大の熱源反応。同時に、熱源の右側から大型の輸送機が接近している。デジベル波測定によれば輸送機は音源に向けて接近している。
サーモをノーマルカメラに切り替えて、メカ千早はそこにいるのが猫と美希だと分かった。目測で10メートルちょっと。やっと見つけた。
安心した次の瞬間、美希より手前のT字路から輸送車が現れた。角を曲がろうとしている。
猫が輸送車に隠れ、輸送車が大きなクラクションを鳴らした。
美希が轢かれてしまう。
とっくに脚部のセルモーターは悲鳴を上げている。中身をバラせば煙まで出ているかもしれない。乳酸の化合値ももうすぐ90%を超える。
人工肺も遥か前に限界を迎えている。全身に人工血液を送りこんでいるモーターが異常なまでに加熱している。すでに発汗用の調整液は空っぽだ。ルーチンは今だプロセッサのアタックを受け続けている。
だから、どうしたと言うのだろう。
もう失いたくないのだ。そう思ったはずなのだ。あの時の屋上でも、今までの道のりでもそうだったのだ。もう美希を失いたくない。友達を失くしたくない。
人工筋内の乳酸蓄積率もセルモーターも人工肺もルーチンも、全てを無視してメカ千早は転がるように走る。
蓄積率が96%になる。人工筋肉が断裂し始める。人工肺の内部に収められた肺胞が火花を上げ始める。右脚セルモーターに油圧を提供していたダクトにヒビが入った。
あと4メートル。美希の表情を見る。笑っている。ふざけるなと思う。
あと3メートル。ダクトから輸液が漏れ出す。表皮近くまで漏れでた輸液が足をどす黒く染めて行く。
あと2メートル。片肺の肺胞がついに耐熱限界を突破した。発火する。プロセッサが一瞬だけ気を取られてルーチンへの攻撃を中止する。隙をついてルーチンが緊急プログラムを作動させる。
あと1メートル。緊急用プログラムが本格的に動作開始、イカれた片肺をパージ、人工血液中に送られる酸素の量が一気に減る、ルーチンが本体の重要な障害を検知、本体保存のために磁化骨格に提供していた電力を分捕ろうとするが遅い、プロセッサが右腕セルモーターと声帯のコントロールを奪う。残りの肺が急激な負荷に耐えきれずにショート、いくつかの肺胞が高負荷に破壊され、残った肺胞が取得できたなけなしの取得酸素を右腕に回し、
叫ぶ、
声が聞こえた瞬間、美希は肩を何者かにつかまれて後ろに引き倒された。
頭からアスファルトに叩きつけられる事は何とか避けられたが、両肩を思いきりアスファルトにたたきつけられた。
痛くはなかったが、その代りに一瞬だけ呼吸が止まる。顔をしかめて目を閉じ、かふ、という音を立てて空気を吸い込んだ時に、嫌に近くから悲鳴のようなブレーキの音を聞いた。
驚いて目を開けられない。何時間にも感じた数秒後にブレーキの音が鳴りやみ、美希は体を起こしてアスファルトを見た。
道路をめくり上げるかのような勢いで付いた4つのブレーキ痕が目に入った。
何でだろう、と純粋に思う。これではまるであの夜の再現だ。猫がいて車が近づいて来て音がして、我に返った時に目にしたのはブレーキ痕だ。
脳の冷静な部分でまた轢かれそうになったのか、とぼんやり思う。腰が抜けてしまったのか、足に幾ら力を入れても立ちあがる事はできそうになかった。
仕方なしに美希は周りを見やり、何か支えになりそうなものを探し、
ブレーキ痕の手前に、液体を見つけた。
何だろう、と思った。
抜けてしまった腰に喝を入れてなんとか起き上がると、美希はその液体に近づく。神経が麻痺した気がする。液体は街灯に照らされているくせに真っ黒で、かすかに油の匂いがした。
不思議な事に液体には進行方向上に擦ったような跡が付いていて、なんだかひどくそちらを見るのが躊躇われる。
これじゃまるであの時の再現だと思う。誰かが助けてくれた気がする。危ないという声が頭の中に響いている。
しかし、あの時助けてくれたプロデューサーは今はいない。そう言えば何か考えた瞬間に声を掛けられた気がする。
そうだ、声を聞いたんだ。とても大切な人の声だったはずなのに、誰の声だか思い出せない。誰だっけ。
液溜りを見る。進行方向上に擦った後が付いている。液溜りが点々と続いている。
何があったのかとっくに分かっているはずなのに、心が拒絶している。起きたことをなかった事にできたらと思う。液溜りはガードレールの反対方向に続いている。
ライトに焼かれたせいで目のピントが上手く合ってくれない。導かれるように黒い液溜りをたどり、やがて美希は対岸のブロック塀の壁に突き当たり、
それを、見た。
人の形をした何かが、倒れていた。
美希は、悲鳴を上げた。
美希の悲鳴が聞こえた。
間に合わなかったのだろうか、とメカ千早は思う。
起き上がろうと腹を捻り、脚部から返答されるはずの電気信号がないことに気が付いた。酷使したからだろうか。せめて首だけと思ったが、どうも首周りも動いてくれない。
他の四肢はどうだろうかと思い、プロセッサに信号を送らせる。帰ってきたのは左腕の信号だけだった。もっとも左腕にも相当の信号遅延がある。もう使い物にならないかもしれない。
美希は無事だろうか。さっきの悲鳴は何だったのだろうか。美希の声だと思う。あんなに大きな声は聞いた事がないから判別できない。
怪我などしていないでしょうか。怪我だけならまだしも、間に合っていなかったら嫌だなあ。美希をなくしたくない。友達と言ってくれたのです。でも、もう無理かなあ。
美希にひどい事をしてしまった。謝らなきゃいけないのに、体が動いてくれない。体が熱い。中で何かが燃えている。
美希は大丈夫でしょうか。また歌を歌いたいなあ。美希に聞いてほしいんです。朝ごはんにもう一度挑戦したいのです。美希は笑ってくれるでしょうか。もし笑ってくれたら嬉しい。
「…メカ、さん」
体が誰かに抱え込まれた。誰だろう。視界がゆっくり下がっていく。美希の顔が上がってきた。
美希は大丈夫でしョウか。怪我なドしてないでしょうカ。怪我してたらごめんナサい、私ノせいデスね。美希がナいている。どこか痛イノでしょうか。
「…なんで、庇ってくれたの?」
美希が泣イテイる。何でだろウ。どこ か痛いノでショウ カ。私の せい デ しょうか。だっタラ嫌だ な。
友 達に 怪我させ てしマ ッタ なんて友達失 格だ なあ。
「…ねえ、めかさん、」
泣カ なイで、ナかないで下さイ美希。お願 いだ から、おネガい だか ら泣かない で。話 を聞いて あゲル から、何 でもしテあげ るから 。
ソう だ、歌を歌 ってあ げヨウか。それがい い。美キ は ワタシ の 歌 に 笑 ってクレ る。美希のこトな ら何でも 分かる。
だって、ワタシは、
ワ タシ ハ、
「…ワたしは、ミ きの、トモ ダ チ、です、カ?」
Emergency: system BST has critical damaged. Please call administrator or maintenance if you wish consecutive use.
「…そうだよ、…ミキと、メカさんは、友達だよ」
メカ千早が目を閉じている。眠っているようにも見える。美希はメカ千早の頭を抱きかかえ、はらはらと流れる涙を全く気にすることなくメカ千早の顔を見ている。
あれきり口を開かなくなったメカ千早の顔を見ながら、美希はただ茫然と惨状を見ている。遠くに腕と思しき物体が落ちている。左腕はまだ付いているから右腕だろうか。
いつまでそうしていたのか、ふと美希の耳に誰かの足音が近付いてきた。顔を上げると、男がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
美希の目の前で男は千切れとんだ腕に近づいて無造作に拾い上げ、そこでしばらくの間物思いにふけるかのように腕をじっと眺めていた。
やがて男は腕を片手に持ったまま振り返り、美希の方に近づいた。
「―――メカ千早は、機能を停止しただけだよ」
高くもなく低くもない声だった。美希は一瞬だけ驚いた表情を見せ、次の瞬間にはメカ千早の頭を強く抱いて男を睨みつける。
一体こいつは何者なのか。メカ千早の事を知っているのは765のスタッフと961のスタッフだけのはずだ。しかし美希の記憶の中に男と一致する顔はない。
という事は必然的に目の前の男は961側の人物であるはずだ。
美希の強い視線を敵対の意思と取ったのか、男は降参するように手をひらひらと振り、
「間違いないよ。まだGPSの信号は死んでない。プロセッサ連動式のやつだから、もしメカ千早が完全に死んだなら信号も途切れてるはずなんだ。だけどほら、」
そう言って見せられた男の手の中には小型の電子マップが乗っていた。カーナビみたいだと思う。美希の目の前で電子マップが拡大され、T字路を中心にして光が点滅している。この光点は現在位置なのだろうか。
「光ってるでしょ? 本体に異常があった時は点滅して現在位置をこっちに送るようになってるんだ。これが光ってるってことはまだ彼女は死んじゃいないよ。磁気ディスクに内蔵されてた緊急用プログラムが作動して、一時的に人工脳に電気を送ってないだけ」
「―――あなた、誰?」
そこで男はふむと頷き、腕のあった場所を見た。腕のあった場所ではいつの間に現れたのかもう一人の男がノートか何かに書き込みをしていて、男の視線に気が付いたのか腕で大きな丸を作った。
「もし、俺たちがメカ千早を直せるとしたら、君はどうする?」
問いかけに美希の瞳から涙が落ちる。何を置いてでも治してほしいと思う。
美希はゆっくりとメカ千早の頭を下げ、男が「よっこいしょ」と言ってメカ千早のボディを拾い上げる。
「…付いてくる?」
男の問いかけに一も二もなく頷く。美希の返事に満足したのか男は疲れたような笑みを作り、メモをしていた男に向って大きな声を上げた。
「三河さんっ!! 記録取りました!?」
向こうから「取った!!」という元気な声が返ってきた。返事に満足したのか男はゆっくりと歩を進め、交差点のすぐ後ろに止めてあった白塗りのバンにたどりついた。
中に何人かいるらしい。男はメカ千早のボディを大事そうに後列の女に渡し、中列に美希を手招きした。
「…ああ、俺の名前ね、加持って言うんだけど」
美希がバンに乗り込んだのを見て、加持は美希に缶のココアを渡しながらこう尋ねた。
「君、車酔いする方?」
補足のため、須藤が記録した略式の見分結果を記載する。
車内での072の略式損害状況見聞は三河、須藤、加持の3名によって行われた。バンの中には内部精査用のユニットは積まれていなかったため、3名は外部からうかがえる損害についてレポートをまとめている。
072の右腕部は美希の肩を引っ張った直後に頭部を庇うため右側頭部に添えられた。
緊急用プログラムの設定に従ったこの動作のため、右側頭部に格納されたプロセッサ、ルーチン用デバイス、主記憶装置及びメイン・サブメモリが衝撃で物理的に破損されることはなかったが、右腕はそれと引き換えに磁化骨格を破損、及び衝撃により人工筋肉が断裂し表皮ごと本体から分離している。
左脚部は車両に衝突して飛ばされた後に路面及びブロック塀に強打され、磁化骨格を損傷した。電磁信号は磁化骨格を通して人工脳に送られる方式のため、遮断プログラムが動作する直前は左脚部は全く動かなかった事が予想される。
右脚部はセルモーター下の表皮から切断されていた。セルモーターは膝関節の少し上にあったため、072が車両と接触する前に膝を折り曲げたことが推測できた。セルモーターそのものと表皮の間にはカバー用の緩衝材があったため、衝撃のエネルギーが切断場所に集まったと予測される。
ここまでの見分中、三河が小さな声で「これはまずいな」と発言したことが須藤に確認されている。
また、腰部に設置されていたセルモーターレンジの大幅な変形が確認された。右脚部が車両に衝突した際に右脚可動域を大きく逸脱したために起きたものと考えられる。
現場に映像保全機器がなかったために後にアイカメラの画像を解析して判明したことだが、072は美希の両肩を掴んだ後に本体を投げ出すようにして美希を後方に引き倒し、車に接触している。
右側頭部の損傷は認められなかったが、左側頭部は表皮が削れてアイカメラが露出している事態を鑑みるに、072は一度輸送車に接触後アスファルトに左側頭部から接触したことが予想される。
また、右脚部、左脚部ともに人工筋肉が著しく疲労を起こしていたという解析結果と合わせると、072が美希の肩を掴んだ時には既に右脚部か左脚部、あるいはその両方の人工筋肉が断裂していた可能性がある。
072の運動性能的には一連の運動時間で人工筋肉が断裂することは通常考えられないが、プロセッサとルーチンの間で何らかの競合が起き、結果として金属疲労が両脚部に蓄積していたことが考えられる。
よって、車内に置かれた072が保持している四肢用マニュピレータは左腕部と左脚部のみであり、随意反応で072が動かせるマニュピレータは左腕部のみと推測される。
以上の見分中、美希がしきりに072の安否を気遣っていたことはあえて特記しておく。
また、以下に072のGPSと961本社がモニターしていた回収チームの動向、及び765を訪れた渡部の日報を元に当日の事故直前からのスケジューリングを判明している範囲まで記す。
午後8時37分、高木順一郎が音響部屋に072を訪ねる。
午後8時46分、星井美希及び秋月律子帰社。
午後8時50分、星井美希が事務所を飛び出す。
午後8時51分、072が事務所から星井美希の捜索に向かう。
午後8時52分ころ、高木順一郎が事務所に飛び込む。手の空いている者は美希を探すように指示を出したと思われる。
午後9時36分、072が星井美希を確認。
午後9時37分、072が輸送車と接触。
午後9時40分、加持、三河および須藤、072を回収。
午後9時42分、渡部が765プロ事務所エントランスに到着、代表者に面会を求める。
午後9時46分、渡部が765プロ社長室に通される。同時刻、秋月律子および音無小鳥が社長室に入室。
午後9時57分、回収チームが首都高速道路3番ゲートに到着。
午後10時19分、回収チームがGPS圏外に出る。以降GPS反応追跡不能。
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BST-072 (17)