ロストワン (11)
プロデューサーの車に揺られて営業先で愛想笑いを振り撒き、挨拶もそこそこに次の営業先を回り、移動中の車内の会話をいつも通りにこなし、夜には事務所に帰って社長からファンクラブの動向とプレゼントを受け取り、家に帰って布団を被って悶々とする、という1週間はあっという間に過ぎてしまった。
家に帰ってから間もないというのに、伊織はすでにパジャマ姿でベッドに横になっている。
さすがにAランクともなれば一日2件3件の営業先回りはザラだが、しかしこの1週間で仕事が増えたという気はしない。
いつも通りと言えばいつも通りではあるが、この1週間はいつも以上に疲れた気がする。
横になったまま眼球だけを動かしてぼんやりと部屋の中を見回すと、ぬいぐるみだらけの部屋の真ん中で脱ぎ散らかした上着は絨毯の上で見事な降伏のポーズを取っていた。
まさに降伏である。
伊織は自嘲気味に口元を歪めてゆっくりと目を閉じる。
何故いつも以上に疲れたかなど考えたくもない。
考えたくもないが、こうして一人でいると本当に余計な事を考えてしまう。
――― 一プロデューサーが同一アイドルを担当するのは最長1年。
自分らしくない、とは自分でも思う。
いつもの自分ならプロデューサーを問い詰めてこの間の社長との話は何だったのかと問い詰めるはずだ。
ふざけるなと心から思う。何が最長1年か。
今はもう2月で、プロデューサーと初めて会ったのは去年の4月で、という事は1年とはあと1か月とちょっとで終わりであり、という事はあの土曜の夜に盗み聞いた話が事実であるのならプロデューサーが伊織のセコンドをするのはあと1か月とちょっとで終わりである。
そう考えた瞬間、言いようのない虚脱感が全身を襲う。
土曜のあの夜からこの1週間、ちょっとした暇にそんな事を考えてはどうしようもない恐ろしさが脳ミソの裏側から這い出してくる。
―――セコンドって言ったろ?
あの言葉は嘘ではあるまい、とは思う。
1度目の大規模オーディションにしろ、その後の花火や夜景にしろ、プロデューサーは頼みもしないのに肝心なポイントでこちらのサポートをしてきてくれた。
先週だってそうだ、飲み会明けで仕事をして、考えてみればプロデューサーだって疲れていたはずなのに文句を言いながらもショッピングに付き合ってくれた。
―――今の俺はプロデューサーじゃねえからさ。
だとするなら、あの日こちらの頼みを断っても良かったはずだ。
プロデューサーは馬鹿で犯罪者予備軍で手の施しようのない変態だが、それでも自分に接するプロデューサーは確かに本物の1だったのだろうと思う。
そうして自分はその本物に導かれ、12月の夜景を見下ろして何もかもを手に入れたのだと思った。
今にして思えば、そんなものなどいらなかったのだ。
重要な事はバランスである、と誰かが言った。
それが真理であるのなら、なるほど「世界」という1を手に入れた自分はそれ相応のものを天秤に掛けねばならないのだろう。
一歩引いた視点から天秤を眺めるのなら、なるほどプロデューサーは今の自分にとって「世界」と釣り合いのとれる唯一の存在だと思う。
クソくらえも甚だしい。
伊織はずり下がる様に布団の中に潜り込み、ベッドの底のほうで膝を抱えて丸くなる。
知らなかったのは自分だけだとは思う。
社長もプロデューサーも小鳥も、765に勤めている連中はエンディングを知っていたのだろう。
知っていて、連中は結末を自分にだけ一切言わなかったのだ。
下手にそんな事を言えば「水瀬伊織」のモチベーションに影響するから、それが原因のドタキャンや営業先での失敗の可能性の芽を摘んでおきたいから。
いや、
―――ありがとな。
思い出す、あのオーディションの後、眼下に「世界」を見下ろす前に二人で登った山道、うっそうと茂る並木から立ち上る様に広がっていたあの濃い藍色の空の下、車内でそう言ったプロデューサーは確かにいつもと様子が違った。
―――俺の事信用してくれたって事だろ?
そうでないエンディングも、ひょっとしたらあったのかもしれない。
プロデューサーについて自分が知っていることと言えば、どうしようもない変態で手のつけられない紙一重で、犯罪者予備軍でテロリストで両刀で格好付けで喫煙者で、今までに何人ものヒヨコをAランクに育て上げた敏腕という事だ。
『一プロデューサーが同じアイドルを担当できるのは最長一年』ならば、プロデューサーは今まで育ててきたアイドル達と数えたくもないエンディングを何度も迎えているはずなのだ。
あいつはあの瞬間、覚悟を決めたのだろうか。
『水瀬伊織』とのエンディングを迎える腹を、あの時決めたのだろうか。
勝手な話だと思う。
こちらの気持ちも知らず、1年たったらサヨナラでは余りにも余りな話ではある。
文句の一つくらいなら言う権利もあるだろうが、そのためには先週の土曜の夕闇の社長室での会話の中身が真実かどうかを確認しなければならない。
そこまで考えて、布団の底で膝を抱えた伊織は己の思考がこの1週間ぶっ通しで考えることを止めたポイントに行きついた事を感じた。
そんな勇気は逆立ちしたって出てきやしない。
プロデューサーという1とともに歩んだこの1年、自分は一体何をしてきたのだろう。
要は怖いのだと思う。プロデューサーにあの話が真実だと告げられた時、はたして自分はどうなってしまうのか。
想像した瞬間、物のいい羽根布団にくるまっているはずの体がぶるりと震えた。時速140kmで高速を爆走されたことが鼻で笑えてしまうほど怖い。
引くも地獄で引かぬも地獄の夜が、伊織の腹の底を無視してずるずると過ぎていく。
翌日も朝から営業が入っていた。
朝一の営業を無事に終了させると、まだ昼前だというのにどっかりとした疲れが体中にのしかかってきた。
流石に不眠な夜が1週間も続くと疲労も取りきれないのかもしれない。
プロデューサーの車に揺られながら、伊織はぼんやりと窓の外を流れゆく2月の雑踏を眺めている。
バレンタイン直後の日曜だからなのか街中には盛った若者たちが多く繰り出していて、伊織はふっと自嘲気味な溜息をつく。
自分も先週は連中のような顔をして街中を動き回っていたに違いないと思うと、なんだか先週の楽しさが遠い幻のような気がしてくる。
「どーしたいおりん、恋の悩みか?」
「、…仕事、多いのよ。ちょっとは厳選して楽させようとか思わない?」
「これでも絞れるとこは絞ってるよ。今やってる仕事は全部大手の奴だろ?」
とっさに仕事のせいにしてプロデューサーに棘を向けると、案の定プロデューサーはへらへらと笑いながら路肩にセダンをゆっくりと寄せた。
慣れた手つきでハザードをつけると、プロデューサーは後部座席に放り投げた鞄からズタボロの手帳を取り出す。
「えーと、次の営業先は―――」
いい気なものだ。
こちらは迫りくる別れの日を恐々と過ごしているというのに、プロデューサーは全くそんな素振りを見せていない。
あの日のプロデューサーと社長の会話が事実なら、あと1か月でプロデューサーはセコンドではなくなってしまうのに、だ。
次の営業先やその次の営業をこの先1ヶ月間繰り返せば、プロデューサーという1を失う事と引き換えにこのどうにもし難いダルさと恐怖は消えてくれるのだろうか。
プロデューサーという1を失う事と引き換えに?
「伊織、ホワイトデーは何がいい?」
突然の質問に、伊織は弾かれたように横を見た。
伊織の視界の中で、まるでいつもと変わらないへらへらした顔のプロデューサーがガキ丸出しの笑顔でこちらを見ていた。
「…自分で考えなさいよ。答え聞くなんて卑怯じゃない」
「そう言うなよ。あと1ヶ月しかないんだし、準備の時間くらいくれ」
あと1ヶ月しかないんだし。
プロデューサーの言葉が、心の底を揺さぶった。
何にも要らない。もう何も欲しくない。ただ自分から奪わないで欲しいとだけ願う。
「私は―――」
何もいらないから、ただこれからもずっと傍にいてくれればそれでいい。
そう言ったら、はたしてプロデューサーはどんな顔をするのだろうか。
たぶん驚くだろうな。驚いて、何て言うだろう。
「―――ねえ、」
「ん?」
声を、聞いた。
プロデューサーが、へらへらと笑っていた。
こいつを、失うのだろうか。
「アンタにとって、水瀬伊織は、1と0のどっち?」
「―――今日のパンツは青と白のストライプでな。爽やかだろう?」
まるで答えになっていない答えを返したプロデューサーに、伊織はぷっと吹き出す。
こいつは質問の答えを最後まで返さないつもりなのだろうか。
プロデューサーらしいと言えばプロデューサーらしいその返し方に伊織は1週間ぶりに心の底から笑い、
「答えになってないわよ。ちゃんと答えなさい」
その瞬間、プロデューサーはへらへらとしたガキ丸出しの笑顔をひっこめ、替わりに12月のあの車内で見せた穏やかな笑顔を浮かべた。
「そうだな」
次の営業は夕方かららしい。
2人で簡単な昼食を済ませると、プロデューサーは口数少なくセダンのハンドルを握ってアクセルを踏んでいる。
都心からゆっくりと遠ざかる様に車を動かすプロデューサーに何も言わずにポチポチとコンソールを弄ると、どの局に回しても先月から売り出した自分の新曲が流れていた。
「ねえ、いい加減教えてよ。どこに行くの?」
聞いておきながら何だが、実のところもう目的地については見当が付いている。
夜と昼間とでは確かに道路の見え方も違うが、この道はあの日「世界」を見に上った道と全く同じだ。
プロデューサーは横目でちらりとこちらの様子を見て、想像と全く同じ答えを返してきた。
「秘宝館」
遠くなってしまったあの日がほんの2か月前の出来事だったことに気がついた。
放っておいたら思い出が手の中から離れて言ってしまうような気がして、伊織はあの日と同じ質問を繰り返してみる。
「秘宝館って何」
そして、プロデューサーは伊織の意図を汲んだかのようにニヤリと笑い、あの日と同じ答えを返してきた。
「知らぬなら教えてやろう。秘宝館とは古来より続く男女の夜の」
それならば、こちらもこう返さなければならない。
「もういい聞きたくない。あんたに聞こうと思った私がバカだったわ」
セダンが山道の入り口に頭を突っ込んだ。
たった2か月前の出来事のはずなのに妙に懐かしい震動が伊織の体を上下に揺らす。
山道の両端を並走して走る並木の深さはまるで森のようで、見上げた真っ青な空にはやはりウソ臭い雲がぽっかりと浮かんでいる。
こうして明るい日の光の下で見る山道はまさに獣道を地で行くアスファルトの匂いもしない野良道であって、ボコボコの道路にはトラクター専用道とでも書いた方がよさそうな大きな石が道路の脇に鎮座していたりする。
公道を走るバスですら酔うはずの自分が、こんな道を走っても気持ち悪いの気の字も感じない。
「―――えーと、次何だっけ。伊織、俺なんて言ったか覚えてるか?」
「変態の哲学は奥が深いって言ったのよ」
「そうだそれだ、いやあ学問とは奥の深いものでね」
王道なしとはよく言ったものだ、というプロデューサーに向けて伊織は噴き出す。
「何よ今更。奥が深いって自分で言ったんじゃない」
「おお言ったね。まごう事なく俺の言葉だね。昔から言うじゃないか、少年老い易く学成り難しってな」
何が少年だ何が、
「アンタが変態道を極めた老人になったら迷惑極まりないわね。牢屋にでも入りなさい」
「えー」
―――えー一緒に入ろうよいおりーん。
いつかのプロデューサーの言葉が、脳みその裏側から聞こえてきた。これはいつの言葉だっただろう。
伊織はにやりと笑って横を見て、プロデューサーの頬に穏やかな笑顔が浮かんでいるのを見た。
「何よ、いつかみたいに一緒に入ろうって言わないの?」
「何だいおりん俺と一緒に臭い飯でも食うか? 俺はいいけど」
「冗談。…ねえ、トランクの中にはまだ花火積んであるの?」
「花火?」
思い出す、あの10月の高速道路。
へこんでへたって座り込んだ自分に向かってプロデューサーが投げてくれた綺麗なタオル。
夏の残り香とまずい焼きそばの匂いにまみれたあの思い出の中で、確かプロデューサーの車には検問でも敷かれていようものなら一発検挙間違いなしの量の花火が詰まっていたはずだ。
今この瞬間にあの時を再現したら、それこそ二人揃って牢屋にでも入るのだろうか。
「いや、湿気っちまうと勿体ないから降ろしてある。花火やりたい?」
そうしたら、まだプロデューサーと一緒にいられるのだろうか。
「今度またやりましょうよ。ちゃんと夏に。そうね、夏の夕方がいいわ。仕事の帰りに浴衣に着替えて、どこか誰もいない浜辺に行って」
声が震える。あと1か月でプロデューサーと逢って1年になる。
あの日のあの時の言葉が真実ならば、プロデューサーはこの魅力的な提案に何と言うのだろう。
「―――あのさ、伊織、」
いい、と言うだろうか。
無理だ、と言うのだろうか。
心臓がバクバクしているのが自分でもわかる。呼吸が浅くなる。
見上げた春の入り口の空はどこまでもウソ臭く、伊織の視界のなかにデコボコの獣道の終わりが見え始める。
「なに」
「―――いや、何でもない」
それきり黙ったプロデューサーに伊織もまた口を閉じ、今度はちゃんと駐車場の白線の指示に従ったプロデューサーの車はガードレールのそばに停車した。
助手席の扉を開けてプロデューサーの後を追いかけてあの日と全く変わった様子のないガードレールに歩み寄ると、そこには3尽くしのでかい電波塔から薄く細く続く高速道路まで何一つ変わった様子のない「世界」があった。
あの時の自分の叫びが、まだ耳の裏側に響いている。
あの時、自分は何もかも手に入れたのだと思った。
入社してから10か月の鬱積の果てに掴んだはずの「世界」が、春先の陽光を一身に浴びて鈍く光っているのが見える。
「―――綺麗ね」
「そうだな」
それきり二人とも何も言わない。
口を開こうともしない。ただ二人揃って眼下に広がる「水瀬伊織を1と認めた世界」を目に焼き付けんばかりにじっと見ている。
「1、 だ」
唐突に口を開いたプロデューサーは、ついに質問の答えを言った。
やっと聞けた、とも、遂に聞いてしまった、とも思った。
「―――…あのさ、伊織、」
「なに?」
横を見ると、懐に手を突っ込んだプロデューサーが結局何も取り出さずに手をポケットに仕舞ったのが見えた。
今までずっと横にいたのだからプロデューサーの懐に何が入ってるのかくらいわかる。
煙草だ。
―――定時で社内なら吸わないけどな。今の俺はプロデューサーじゃねえからさ。
「765の営業部規則のうち、プロデューサー会が恐れる鉄の掟って知ってるか」
知りたくなかった、とは思う。
「――――――うん」
「そうか」
短くそう言うと、プロデューサーはポリポリと頭を掻いて伊織の視線から逃げるように街並みを見下ろした。
伊織もそれに倣う。「世界」は何一つ変わらずにそこにあり、唯一つ、伊織と伊織の1だけがその関係を変えようとしている。
「…ねえ、」
パンツの柄を素直に応える変態が、応えることを渋った答えだ。
聞くなら、今だと思う。
「あと一か月で終わりって、ホント?」
口にした瞬間、それは動かしがたい事実として伊織の心に落ちてきた。
プロデューサーは一度口を開きかけてまた閉じ、ウソ臭い青空を見あげ、絞り出すような声で、
「3月の最後の日曜にな、ドームで伊織単独のライブを予定してる。それで、セコンドは終わり」
遂に、それを聞いた。
1年前の自分には中身なんてなかったのだ、と思う。
頭から爪の先まで強気の姿勢で武装して、何もない中身を必死になって守っていたのだと思う。
そして、プロデューサーは伊織自身が何もないと思い込んでいた中身を1だと言ってくれた。
プロデューサーを、なくすのが怖い。
「…何でよ」
結局、1年かかってなお、プロデューサーがいなければ自分は未だに中身を持てないのだと思う。
「なんで、」
あふれ出る感情の渦は制御する手に余り、伊織は怒涛のように口元をつく言葉を飲み込むことにも失敗する。
「あんた言ったじゃない! 私のセコンドだって! ずっと一緒にいるって言ったじゃない! 社則なんて知らないわよ! 私はっ、私はこれからもずっと! ずうっと、アンタ、と、」
怒声が震え、涙声になり、そこから先の言葉はてんで言葉の態をなさない。まるで子供だと自分で思う。
声にならない声を口を塞ぐことで殺し、コートに涙や鼻水が落ちるのを全く気にせずに伊織はプロデューサーを睨みつける。
そして、プロデューサーは伊織の視線から眼を外そうとはしなかった。
「…泣くなよ。お前の世界が見てるぞ」
プロデューサーの静かな声に、伊織の頭の中で大事なものがばきりと折れた。
大事なものはバランスだという。よかろう。
天秤の釣り合いが大事だという。それもよかろう。
そして、片側に「世界」を、「何もかも」を乗せた天秤は、プロデューサーをそのバランスに選んだのだろう。
クソくらえだった。
どちらを選ぶかなど、考えるまでもなかった。
「いらっ、ないっ! こんな、そんなの、いらないっ!! いらないから、私はっ、あんたが、いればっ、」
「居るさ」
どこに居ると言うのだろう。
プロデューサーは去り、空っぽの自分が一人ぼっちで残された「世界」のどこにプロデューサーがいるのだろう。
「おいおい、今更ハブりはキツいな」
伊織の目の前で、プロデューサーは今度こそ懐から煙草を取り出した。
ライターの打ち石と要石が火種を作る音はぐしゃぐしゃになった耳にもはっきりと聞こえ、コートの裾で目じりをぬぐった伊織の視界の真ん中でプロデューサーが紫煙を吐き出している。
「伊織のプロデュースが終わってもさ。俺は、お前の『世界』にいるよ」
嘘だ、と思う。
あと1か月で終わりなのではなかったか。
こればっかりはキツいと言ったという事は、プロデューサーは別れる腹を決めたのではなかったか。
プロデューサーの言葉の意味が分からず、ひょっとしたら分かりたくないのかもしれず、伊織は己の心の内すらも分からずにただ「世界」の頂点で泣き続ける。
迫りくる動かしがたい別れを受け入れられず、ただ子供のように泣き続ける。
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