ロストワン  (3)

 必要最低限の休みを残して思うさま営業をさせられた挙句、行きついた果ては今までのオーディション会場のイメージが吹っ飛ばされるほどに大きな会場だった。
控室に通されたはいいが、周りを見回すとやはりFランクやEランクの連中の顔しかなかった小規模オーディションとは居合わせたライバルたちの顔が一枚以上は垢抜けているように見える。
おまけに他社の動向にあまり敏くない伊織ですら知っているような有名どころの顔もちらほら見受けられた。
 連中の目に自分はどう映っているのだろうか。
そんな風に思っていたのをプロデューサーに見抜かれたのか、プロデューサーは不謹慎にもぷくくと笑いを堪える素振りをする。
ムカつく。オーディション会場という事で少々の手心を加えてプロデューサーの脛を蹴りあげると、プロデューサーはまるで痛くも痒くもないという顔を伊織に向けた。
「なんだーいおりんビビってんのか」
「そっ…そんな事、」
「へえ。その割に震えてらっしゃるようですがお嬢様」
 この変態めと腹の中で毒づく。
実際のところさっきから膝周りで関東大震災が起きているのはまあ事実だが、だったら毒牙にかかった哀れな蝶に救いの手を差し伸べるのがプロデューサーの仕事ではないのだろうか
―――そう思って気づいた。そういえば蝶を毒牙に掛けたのはこの変態だ。
「ふんっ、武者奮いよ。何よこんなオーディション、私の実力を出せば簡単に抜けられるんだから」
 すると変態はふっと肩の力を抜いたように笑い、
「そうだな、まあいつも通りやれや。一回ビビっちまえば後は屁みたいなもんだ」
 要はショック療法なのだろうか。
確かに5000人規模のオーディションももちろんオーディションではあるが、尻につく丸が一つあるのとないのとでは単純に目標であるAランクへの到達時間は天と地との差にはなる。
「…ねえ」
「ん?」
 屁みたいなもんと言い置いて鞄をごそごそと漁るプロデューサーの尻に向かって問いかけると、尻から短い返答が返ってきた。
これはこれでいいのかもしれない。今プロデューサーに顔を見られてしまったら向こう3ヶ月は笑いの種にされるに決まっている。
まったくこの変態は人をいじって遊ぶというろくでもない趣味があるようで、完全無欠を自負する伊織にとってこの尻は目の上のたんこぶ的な扱いである。
「他の連中、私の事をどう思ってるのかしら」
「んー」
 尻ががさごそ揺れている。
一体何をしているのだろうか。ひょっとしたらこのオーディションを勝ち抜くための虎の巻的な何かを出してくるのではないかと期待したくなるが、この2カ月というもの尻はすべからく伊織の期待を裏切り続けてきた筋金入りの紙一重である。
一瞬でも紙一重を頼ろうとした自分が馬鹿馬鹿しくなり、何でもない、と続ける。
「何だって?」
「…いつまでも汚いものこっちに向けてないでって言ったのよ」
「責めるのもいいが責められるのもまた快感」
 本気で寒気を覚えたところで、ようやくこちらを向いた尻の手にはペットボトルが握られている。
100%オレンジジュースである。
ほれと言われて渡されたジュースはしばらく鞄の奥底で放っておかれたのか妙に生温く、それでも緊張からくる喉の渇きは無視しがたくて差し出されたペットボトルの飲み口を一舐めする。
「アンタね、この伊織ちゃんに渡してくるジュースが生ぬるいってどういう事よ」
「本番前に冷たいもの飲んじまうと喉が委縮するんだよ」
 そんな事を言われたって温いものは温い。
気が効いているのか効いていないのか分からないプロデューサーに向けて顰め面をし、若干ヤケになって喉すら鳴らしてぐびりとジュースを胃に落とす。
少しだけ落ち着いてしまったのが何だかハメられた気がして悔しい。
「たぶんな、それと同じだ」
 声にプロデューサーを見ると、プロデューサーは妙に真剣な表情で伊織を見ていた。
「なにがよ」
「伊織を見る周りの目」
 意味が分からないと表情に出たらしい。プロデューサーは一息つき、次いで長机に肘を立ててこう言った。
「ジュースは冷えてるのが相場だからな。舐めきって飲もうともしない」
「…要するにあんたは私が舐められてるって言いたいのね」
「でも飲んでみると中身の旨さに驚く。あれほど舐めきっていたのに、だ」
 不覚にもなるほどと思い、少しだけではなく思いきりハメられていた事に怒りすら覚えた。
要するに周りの連中は自分の事を歯牙にもかけていない。むしろ存在を認めてすらいないのかもしれない。
だが確かに、思う、伊織だって自分がDランク以上ならこの場にEランクがいることはふさわしいとは思わないだろう。
しかし、それはあくまで自分がDランクだったら、という話であり、自分は現在のところふさわしくない側である。
 つまり、高みから見下ろされる側である。
「面白くないわね」
「じゃあ問題。これを伊織が面白く考えるようになるためには?」
 知れ切った事を言う。
「おいしいジュースだって納得させればいいんでしょ。ぶっちぎりでトップに立つ」
「おお怖え」
 わざとらしく両腕を前に組んだプロデューサーに半眼を向けると、プロデューサーはそこでへらへらと笑いを漏らした。
不承不承ながら変態とコンビを組んでもう2ヶ月になるが、いまだにこの変態の考えていることはよく分からない。
社長を介して初めて紹介された時からプロデューサーはいつもこんな感じで、事前に知っていたことと言えばこの変態はすでに何人かのヒヨコ共をAランクに引き連れていった敏腕であるという事だけだ。
蓋を開けたら単なる変態だったが。
「ねえ、私ならこのオーディション、通れると思う?」
 ダンスレッスンスタジオで棚に上げられた質問を再び繰り返してみると、プロデューサーは何をいまさらという顔をしてこう言った。
「通れないなら連れてこないさ」
 しかし、この変態が伊織のプロモーションよりも前に何人かをAランクに連れていった実績があるのもまた事実だ。
こんな変態に支えられるのも癪ではあるが、しかしそう言われれば何となく何とかなるのではないかと思ってしまうのは仕方のないことだろう。たぶん。きっと。
「ま、いつも通りだな。最悪でも6人のうち上から2番目までに入ってれば合格なんだから、変な欲持つなよ」
 変な欲。
「ぶっちぎりでトップに立ちたいって思うのは、変な欲かしらね?」
「いや別に。そのくらいの気概があった方が頼りになるわあ」

 結果だけを述べる。
 今回のオーディションで、伊織は2位通過を果たす。



 事務所に帰ってオーディション通過の報告をしようと社長室に入った瞬間、突然乾いた破裂音が伊織の鼓膜を揺さぶった。
突然の衝撃音に心臓が止まるかと思うが、心臓に毛でも生えているのかと疑いたくなるほどいつも通りのプロデューサーは爆音を全く気にする素振りもなく扉のすぐ脇にある蛍光灯のスイッチを入れる。
ちか、という音を立てて照らされた社長室には、伊織の驚いた顔に半分喜び、プロデューサーの面白さの欠片もない顔に半分失望したという複雑な表情の高木社長がクラッカーを片手に立っていた。
「…えーと」
「いいか伊織、あれが765プロデュース社長にして小鳥さんをトップに構成される社内セクハラ対抗組織『極東機関』が最終的な標的にする高木順一郎社長だ。目を合わせるな石にされるぞ」
「何よその複雑な設定」
「そんなものが社内にあったとは初耳なのだがね」
「はい。でっち上げました」
 伊織の本当に温度の低い視線と社長の驚いた視線にプロデューサーは悪びれもなくそう言う。
社長はプロデューサーに向けて短い溜息を吐き、ついで伊織に視線を合わせた。
「ランクアップおめでとう、伊織君。これで君も今日からDランクだね」
「…どうも」
 社長の言葉に短く返すと、プロデューサーがやれやれと肩を竦めたのが目に入った。
「何だよ伊織、嬉しくないのか?」
「…そんなわけないじゃない。嬉しいわよそりゃあ」
「じゃあもうちょっと喜んでもいいんじゃないか?」
「わー嬉しーいありがとうございますプロデューサーに社長」
 棒読みになった。腹芸はあまり得意な方ではない。
 本当の所を言えば複雑な心境ではある。確かにEランクがDランクへと躍進を果たしたのは単純に喜んでいいと思う。
あれほど無駄だと思っていた2ヶ月間のトレーニングもそこそこ意味のあったものではあったのだろうとも思う。
 しかし、である。2位である。
2ヶ月を費やしてすらまだ伊織の上に誰かがいたのだ。
その覆しがたい事実が、伊織の心の中にどす黒い影を落としている。

 自分では何一つ手に入れられないと思っていたのは2か月前だ。
 何もかもを手に入れてやろうと思えていたのは業界にカチ込みをかけたその夜だ。
 それ以来、伊織は自分では何一つ手に入らないかもしれない、という悲観じみた疑問だけを持ち続けている。
 父を見降ろし、上の兄を超え、下の兄の望めることはない高みから何もかもを見下ろしてやろうと思っていたのは2か月前のあの日の晩だ。
あれから2ヶ月が経ち、トレーニングに費やされた2ヶ月を超え、初めて挑んだ大規模オーディションでは上から2番の順だった。

 腹立たしいとも思わなかった。

 何のことはない、伊織はあの大規模オーディションの結果において、上から見下ろされる立場にいたのだから。
 手足の生えたダサさ満点の地球の横にあった募金箱に皺だらけになった野口英世を三人まとめてぶち込んだあの日と、抱いた印象は同じなのだから。
 0か1かで言えば、0に近い結果だったのだから。

「…Dランク、ね」
 伊織のつぶやきを拾うかのように、プロデューサーの声が聞こえた。
「ま、目指すところは遥かな高みのAランクだ。まだ始まって2ヶ月くらいなんだし、気負わずに行こうや」
 馬鹿は単純でいい。密かな溜息をつき、伊織はプロデューサーに言葉なく頷く。
プロデューサーはそんな伊織に向ってほんの少しだけ怪訝な表情を向け、しかしすぐにいつもの変態面でとんでもない事を言い出した。
「まあ、Dランクでいるのも今週だけだけどな」
「…は?」
 何か聞き捨てならない事を聞いた気がする。
思わず疑問の声が漏れると、プロデューサーはまさに変態の鏡的な表情をしてこう言った。
「だって俺言ったじゃん。そろそろCランク狙うかって」
 要するに―――プロデューサーは来週もオーディションを受けると言っているのだ。
なんだそれはと思う反面、もしかしたら、と思う。
「今回と同じ規模のオーディションを?」
「この規模のやつが通れるって分かってランクを下げる必要はないな。もう慣れたろ?」
 表情に獰猛な笑顔が浮かぶのを意識の力で殺し損ねた。
「…やっぱりあんたサドだわ。馬鹿で変態でおまけにサド。社会で生きていくの辛くない?」
「責められるのも快感なんだ俺。両刀?」

 もしかしたら、である。
 もしかしたら、次こそ1位通過できるかもしれない。
 もしかしたら、今度こそ上から見下ろせるかもしれない。
 もしかしたら―――

 表情の変化を読み取られたのか、プロデューサーがニタリと笑った。
「やる気でた?」
「バカは単純でいいなって思ってたところ」
「おお単純だね。生きてられるだけで楽しいさ」
 と、ここまでの会話を聞いたところで、今まで完全に蚊帳の外にいた社長が妙に朗らかな声で水を差した。
「楽しいのも結構だがね、君たちもいい加減営業活動に―――」
 声に伊織はプロデューサーと顔を見合わせ、まるで知りあってから2ヶ月しか経っていないのが嘘に思えるそっくりなウソ臭い笑顔を、見ていて不気味にすら思える完璧にシンクロしたタイミングで社長に見せた。



 もしかしたら、次こそ1位通過できるかもしれない。
 もしかしたら、今度こそ上から見下ろせるかもしれない。

 もしかしたら、今度こそ自分の力だけで何かを得ることができる、そう思えるのかもしれない。



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