ロストワン  (4)

 翌週の空は残念なことに曇りであった。
前回の会場と同じ会場で行われるオーディションを選択したのは伊織自身だが、今のところ変態は腹の裏側にあった少しくらい慣れた会場でやっておきたいという気持ちに気付いた素振りはない。
タイミングも良かった、今回のオーディションもまた5万人規模の前回と似たようなオーディションである。
 つまり、前回と同じ状況で同じ環境である。
違うのは、伊織自身の腹の決まり具合だけだ。
 今回こそ、と思う。
今回こそぶっちぎってやる。周りを見回せば前回と同様に他社の有名どころがいくらかいて、伊織はそれら主力株に気付かれないように注意深く周りを見回す。
「…何やってんだ伊織、トイレなら出て左だぞ」
「私デリカシーのない男は嫌いなの」
「そーか」
 変態は手元の資料を興味なさげにパラパラとめくる作業に戻り、伊織は伊織で再びライバルたちの顔を注意深く見回す作業に戻る。
伊織自身では絶対にバレていないと信じているが、ライバルたちの顔を血眼で凝視する今の伊織を例えるならば爆装ヘリのコクピットから樹海に潜むゲリラを躍起になって探している米空の顔である。
このままでは枯葉剤を投与しなければならないと非情なる結論を下そうとしたところで、ふと変態が顔を上げた。
「前の1位の連中なら今日は来てないぞ」
「…え、べ、別に、そんな事気にしてないわよ」
「ほれ、今日のオーディションの参加者名簿」
「だから別に気にしてないってば」
「嘘つけよ。そんな必死になって周り見てたって説得力ないぞいおりーん」
 そんなに自分は必死な顔をしていただろうか。
変態にグーをくれて奪うように資料を眺めると、確かに前回1位の連中は今回エントリーをしていないらしい。
少しだけほっとして、視線を上げると変態がニヤニヤしていた。
 嫌な予感。
「まーた負けるとか思ったんだろ」
「思ってない」
「あっそお。ふーん。ならまーいいんだけどねー俺としちゃ2位でも通過してくれりゃーいいんだし。いやーでもいおりんってばイジラシイわー前の会場とおんなじ所選んじゃって。そらそうだよねー全然知らない会場に行っちゃうよりはちょっとくらい安心できオブッ」
 割と本気で腹が立ち、伊織は右に固めた拳を思いきり変態の腹に突き刺した。
せめて変態にだけはバレて欲しくなかったのだが、この変態にはどうやら伊織が誰を探していたのかだけではなく何故このオーディションを選んだのかという事すら見抜かれていたらしい。
多少感心はするがムカつくものはムカつく。
テーブルに突っ伏してぐぐぐと呻く変態を鼻で笑うと、テーブルの下の方からくぐもった声で「いいパンチだ…」と帰ってきた。こいつは学習というものをしないのだろうか。
「誰が負けるもんですか。見てなさい、1位通過して思いっきり後悔させてあげる」
 そうだ。1位で通過してやる。
 この場にいる誰もかれもを上から見下ろしてやる。
 今度こそだ、今度こそ自分の手で栄光を掴むのだ。
 誰からも馬鹿にされない、誰もが認めざるを得ない、誰もが「水瀬伊織がここにいる」と認識せざるを得ない結果を出して、そうすればようやく自分は何かを手に入れられるのだと思う。
 0か1かで言うなら、そうすれば今度こそ自分は1になれるのだと思う。
「まあいつも通りやってこいよ。変な欲持たないでな」
 変な欲。
「1位通過を狙うのは持って当然の欲だと思うんだけど?」
「ま、気合いがあるのはいいことだよな。それにしても―――」
 何を当り前の事を、と思っていた伊織の耳に、変態の一言が入ってきた。
「そんなに2位通過が嫌かねぇ」
 プロデューサーの言葉が、嫌に鼓膜を揺さぶった。

 こいつは一体、何を言っているのだろうか。

 オーディションとは勝負だ。1か0かを決める世界だ。勝負の世界において、自分が0でいいと抜かす馬鹿がいるのだろうか。
「いやよ。嫌に決まってるじゃない」
「そーか」
 変態の気のない返事に、頭に血が上るのを止められなかった。
「当り前な事言わないでよ、みんなそうでしょ。頭の上に誰かがいて、私の事を見下ろしてるのよ」
「そうかねえ」
「私は嫌よ。誰かが私の事を見下ろしてるなんて絶対に嫌。オーディションの結果もそう。2位なんて認められない。オーディションを通過したって、もし私が2位なら1位のやつに見下ろされるじゃない。そんなの、」
「……」
 ここまで言い、ようやく伊織はここがオーディション会場であり、そして自分の声が意図せずに大きくなっているのに思い至った。
が、今の発言は紛れもない自分の本心であり、そして今は丁度いい機会だとも思う。
この変態は救えない事を言っている。2位でもいいと遠まわしに言っている。

 1か0かで言うのなら、「水瀬伊織」は0の側でいいと言っている。

「そんなの、私は嫌」
「…まあ、負けっぱなしが性に合わないのは分からんでもないが」
 絶対分かってないくせに。
変態のため息交じりの返答にふんと鼻息を一発し、伊織は再び変態から奪ったエントリーメンバー表の吟味に移る。
目下のところ敵は2番手のランクBで、前々回から敵は独走状態でオーディション1位を独占しているらしい。
相手にとって不足はないと思う、こいつを相手に打ち負かせれば今後の弾みくらいにはなってくれるだろう。
「…しかし、生きづらくないその生き方?」
「社会不適合者に言われたくはないわね」
「それもそーか」
 あっさりと引き下がった変態に顔を向けず内心で溜息をつく。
世の中勝負だらけであるし、という事はどこに行っても自分が1の側か0の側かという問題は否応なく付いて回るのが世の常である。
この変態も肩書だけなら立派な敏腕プロデューサーなのだからその程度の事を分からないはずはないのだが―――そんな事を思っていたら、横から不遜な声が降ってきた。
「セコンドも楽じゃねえやな」
 横を見ると、変態がへらへらと笑っていた。
 ムカつく。誰もこの変態にプロデュースを頼んだ覚えなどない。
考えてみればこいつは初めて会った時からへらへら笑ってばかりいた。
一度だけ真面目な顔をされた時もあるが、それ以来こいつはずっとへらへらと口角を歪めてばかりいるし、おまけにこっちを弄って遊ぶ悪癖すらあると来た。
確かにこの変態の導きでDまでは上がったが、別にこの変態でなくたって良かったのかもしれない。
もっとまともなプロデューサーなど世の中には掃いて捨てるほど―――765にだって何人かはいるのだろうし、いるかもしれない剛腕のプロデューサーが付いたなら今頃はCランクなどとっくに超えて全国ネットで全国の茶の間に向かって歌を歌っていたのかもしれない。
「そうね、あんたには絶対分からないでしょうけど」
 今頃はDランクなどではなく、あの無意味な2か月など経ることもなく何もかもを手に入れていたのかもしれない。
「これが私の生き方よ。あんたに何かを言われる覚えはないわ」
 大事なのはバランスだという。よかろう。
 天秤の釣り合いが肝要だという。それもよかろう。
 問題になるのは、天秤に何を乗せるのかという点だ。
「水瀬伊織」のここまでの貴重な2ヶ月を片側に乗せたのだから、もう片方に乗るのはそれ相応の「何か」のはずだ。
それがアイドルランクDという「何か」など、納得しろという方が無理だ。
そんな1なら、こちらから願い下げだ。
「生き方、ねえ」
 アイドルランクDとこの変態がもう片方の天秤に乗っているなどと、認めるわけにはいかないのだ。
「そうよ。勝負するならトップで勝つ。それ以外なら負けと一緒。世の中には1か0しかないの。あんたは私にどっちになって欲しい?」
「俺か?」
 するとプロデューサーは伊織から視線を外し、天井を仰いでうんうんと唸り出した。
もうすぐ審査員たちが入場してくる時間であり、伊織的にはさっさと馬鹿の馬鹿な回答を聞いてオーディションに集中したいのだが横で唸る変態が邪魔で仕方ない。
どうせまともな回答のはずがないのだし、散々人をおちょくるくせに妙に鋭いこの変態の事だからこの問いに「1」または「勝つ方」以外の答えを返してくるはずがない。
もしそうなら小馬鹿にしてやろう。社長に直談判してプロデューサーを変えてもらうのもいいかもしれない。
「セクハラまがいの変質的行為で精神的な侮辱を受けた」とでも言えばいくら社長でも担当を変えざるを得ないだろう。
 やがて時計の針がもう間もなく集合時間を指そうという頃、変態はようやく伊織を向いてぽつりと一言を零した。
「…0.75?」
 このオーディションにもし落ちることがあったらこの変態のせいにしてやる、と伊織は固く心に誓う。

 結果だけを述べる。
 このオーディションもまた、伊織は2位通過を果たす。



 Cランクに上がったことで、変態は今までトレーニングで埋まっていたスケジュールの比重を徐々に営業に移してきた。
この4カ月というもの、変態は今までの遅れを取り戻すかのような勢いでスケジュール表に「営業」の非情な2文字を入れている。
昨日も今日も変態のお付きで営業活動をしなければならないのは正直癪だが、あのオーディションの後にちらりと聞いたプロデューサー陣の配置については現在のところ余裕がないらしい。
幾人ものAランクを輩出したくせにあまり経営規模を拡大させない社長の方針ならば仕方がない、とは思う。
 仕方がない、と言えば変態の車での移動もそうだ。
大形のロケならばロケバス等も出るし伊織自身も何度かロケバスにはお世話になったが、正直に言えば伊織自身はロケバスが嫌いである。
というよりは大型バス的なでっかい箱型の車というものが壊滅的に駄目だ。あの揺れは三半規管に響く。
不承不承ながら変態の車に乗ることでこのあたりは改善されているのだが、個人的に正直な事を言えば変態の車での移動など、
「まーったくガキじゃねえんだから酔うなよないおりーん」
「うっさいわね黙って運転しなさいよこの変態」
 これだ。
 自らを省みれば今すぐにでも鉄格子の別荘で臭い飯を食っているはずなのに、あろうことか変態は妙にニヤニヤしながらこちらの弱みをからかう始末だ。
今に始まったことではないがこの変態は全く手に負えない。
 伊織は今日何度目かの溜息をつき、変態の好奇の視線から己が顔を外すべく時速50Kmで後方に流れゆく景色をぼんやりと眺めようとする。
 眺めようとしたところで、実にタイミングよく車が止まった。
「…窓の外を眺める自由もないのね」
 皮肉たっぷりに言ってやると、果たして変態はポリポリと頭を掻いてこう言った。
「赤信号だっつうの。道交法無視でスキャンダルなんて冗談じゃねえよ」
 前を見れば目の前を長袖の通行人が歩いている。
確かに赤信号だった。もうすぐ10月になるからか、健康を誇示するように半袖を着ている連中よりは長袖の連中の方が多い。
確かに少し肌寒くはなってきたのだろうか。
「…いいじゃない別に。アンタ一回捕まって留置所にでも入った方が世の中のためよ」
「何か最近カリカリしてるなあ。…ああ、そうか今日はひょっとしてあの日か!」
 ギアに乗っていたデリカシーのデの字も知らない大馬鹿者の左手に向けて右のグーを思いきり落とし、変態の絶叫をしり目に伊織は頭の中で思考を巡らせる。

 カリカリしているとは自分でも思う。理由もはっきりしている。前回のオーディションだ。
腹の決まり具合も1位通過に向けた意気込みも前回に輪をかけた気合いの入れようだったのに、結果は何のことはない、また2位での通過だった。
 また、だった。
 今度こそ、1位で通過できると思っていた。
 やるだけの事はやったと思う。いつも通りなど生ぬるい、いつも以上に気合いを入れた。
歌もダンスも魅せ方も申し分ない出来のはずだった。
それなのに、審査員は3人そろって「水瀬伊織は0の方だ」と判断した。
 意味が分からなかった。
オーディション後に送られてきた資料用のVTRも舐めまわすように見たが、1位に比べて自分のどこが劣っているのか分からなかった。
親のコネとはいえ765に入社してアイドル業に手を出すまではこんな焦燥に駆られた試しはないし、自分で焦燥だと感じられるくせにどうやってそれを解決していいのか全く分からない。
 客観的に見れば、「水瀬伊織」のプロモーションそのものには現在のところ全く問題はないように思える。
6か月でCランクなら765から排出された歴代のAランクに比べても速度的には劣っていないし、このまま順調にいけばAランクに上がる事は不可能ではないと希望的観測なしにそう思う。
 が、「水瀬伊織」がAランクに上がることと、伊織自身が望みを叶えることとはまた別の話だ。

 自分では何一つ手に入れることができないかもしれない、と思っていたのは今年の春のあの夜までだ。
 何もかもを手に入れてやろうと思ったのはその日の晩だけだ。
 次の日に変態から衝撃的なカミングアウトをされたあの日から今まで、何もかもを手に入れることができるかもしれないと思える事は遂になかった。

 単純にAランクに上がるだけでは駄目なのだ、と思う。
水瀬伊織がそこにいる、という事を世の中に知らしめなければならないのだと思う。
父を超え、上の兄を見降ろし、下の兄が及びもつかない遥かな高みに至る事というのは、すなわちそういう事だと思う。
 世の中には1か0しかないのだ。誰だって1の方がいいに決まっているのだ。
それなのにこの変態と来たら、
「今日はレコードショップのプロモだからなー。向こうついたら1曲お願いしますなんて言われるかもな。伊織、喉の調子大丈夫か?」
「大丈夫じゃなかったらアンタのせいね」
「ごもっともで」
 あろうことか0.75と抜かした。1でも0でもない。
何も1から10までこっちを理解してくれとは言わないし、むしろこの変態にそこまで自分を理解してもらいたくはない。
が、「水瀬伊織」の望みの根幹をなすその考えを理解していないというのはどういう事なのだろうか。
ひょっとしてこの変態がAランクを育て上げたというのは真っ赤な嘘なのではなかろうか。
「あと10分くらいで到着だ。今のうちに準備しとけよ」
「準備することなんてないわね。どうせ営業が終わったら今日もトレーニングなんでしょ? せいぜい疲れないようにするわよ」
「…お前な、朝の話聞いてたか? 今日は営業回り2件。レコードが終わったらラジオの方だって言ったろ?」
 溜息。
「どっちだって同じようなものじゃない」
「いつもの通りにやるって意味なら問題ないんだけどな」
 このやり取りの後、営業先の駐車場に着くまで車中では会話らしい会話は皆無に等しかった。
何度か変態がこちらに向かって会話を振ってはきたものの、到底相手をする気にもなれない。
いい気なものだ、生きているだけで幸せなら何をしていたところで幸せだろう。
車を運転するのだってそうだし、横に思い悩むアイドルがいてもこの変態にすればどこ吹く風なのだろう。
「あっそ」と「ふーん」だけで会話を終わらせるこちらに間が持たなくなったのか、変態はやがてギアに置いていた左手でラジオを入れた。

 スピーカーから流れる曲に、イラッとした。

「…ラジオ、変えるわよ」
「おお」
 変態の気のない返事に伊織はコンソールを弄る。すぐに別の局の周波数がヒットして、そこで伊織はラジオの電源を落とした。
 どちらの局も、掛けていたのは一度目の大型オーディションで伊織を打ち負かした連中の曲だった。

 溜息をつく。世の中にはもう自分の味方は一人もいないのだと思う。
 自分は一体、何をしているんだろう。

 世の中には0か1しかいないのだと思う。
そして、2度の大型オーディションを経て自分に下された判断は「どちらかと言えば0の側」だった。
本当の本当に本音の部分を言えば、今からでもオーディション会場に殴り込みをかけたいくらいなのだ。
2位などという認めがたい判断をした審査員連中に、どちらかと言えば0の側という堪忍ならない判断をした世の中の連中に、
横でへらへらと笑う変態に向けて「自分は1である」と証明したいのだ。
「水瀬伊織」はここにいると証明したかったのに、今の自分は変態に連れられてレコードショップへと向かっている真っ最中だ。
 自分は一体、何をやっているんだろう。



 レコードショップの駐車場はショップから少し離れたところにある。
プロデューサーは慣れた手つきでビル陰にある駐車場にバックで車庫入れし、「隣気をつけろよ」と言い置いてさっさと運転席のドアを開けた。
変態にはもう助手席のドアを開けるという気の利いた行為は期待していない。
ダルさと焦燥で思い通りに動かない体をねじってドアを開けると、変態はボンネットの手前で体を投げ出すように背伸びをしていた。
「いやー、車内でも思ってたけどやっぱ今日天気いいな。心も体もフレッシュな気分になるね」
 馬鹿は単純でいい。
変態に返す返事などないとばかりにさっさと歩を進め、ビル陰から出た伊織に向って日輪が容赦なく残暑の日差しを照りつける。
思わず顔をしかめ、掌を額に当ててバイザー代わりにしてみる。
備品として帽子を申請したら予算は下りるだろうかと考え、忌々しげに伊織はさんさんと輝く太陽を睨みつけ、シミになったらぶっ壊してやる、と全国の農家が反対しそうな危険な思想のもとに少しだけ視点を下げて、

 それを、見た。

「おおい伊織、置いてかないでくれよ…って、なんだお前そんなところで立ち止ってからに」
 実測で2mも離れていないであろう伊織に声をかけた変態はそこで伊織に倣って立ち止まり、あー、と口から声を漏らした。
「あれって確か前のオーディションで1位だった、」
 スクリーン看板である。
レコードショップはビル街にあり、という事はビルが山積するコンクリートジャングルであり、見上げればビルの壁面に備え付けられた馬鹿でかいスクリーンがあり、スクリーンの中では伊織を打ち負かした2度目の大型オーディション1位のコンビが所狭しと踊っていた。

 また、だった。
 また、見下ろされる側になった。

 スクリーンの中で2人のアイドルが跳ねまわっている。近々発売されるという100%オレンジジュースのCMだ。
視覚効果を高めるためかスクリーンはひたすらに跳ねまわる2人組と「新発売!」という元気のいいテロップを繰り返しており、伊織はそれをどこか胡乱な眼で眺めている。
「おい伊織、どうした?」

 自分は一体、何をやっているんだろう。

 あそこは1の側のポジションだと思う。
もしもこの間のオーディションを1位で抜けることができたら、もしも自分があのオーディションで1になることができたら、もしかしたらあそこで歌い踊っているのは自分だったかもしれない。
 あのオーディションだけではない。
その前のオーディションでも、もし自分が1位で抜けることが出来たなら、もしあのオーディションで自分が1の側に立つ事が出来たなら、変態の車のスピーカーが鳴らしたのは自分の歌だったのかもしれない。

 どれもこれも、もし、の話だった。
 どれもこれもが、だったのかもしれない、の話だった。

「伊織、大丈夫か? 気分でも悪いのか?」
 世の中には1か0しかないのだと思う。有るか無いかだ。勝つか負けるかだ。
そうして、自分は0の側だった。
無いほうで、負けた方だった。
 本当なら今頃自分は何をしていたんだろう。
大形のスクリーンに映って飛び跳ねながらオレンジジュースのCMをしていたのだろうか。
ラジオ局に詰めて、生歌を披露していたのだろうか。
それとも茶の間に歌を提供していたのだろうか。

 自分は一体、何をやっているんだろう。

「おい、伊織! しっかりしろ!!」
 唐突に変態の腕が肩に置かれ、伊織はそこで今日初めて変態の顔を真正面から見た。
変態の顔にはまるで親の危篤を聞いたかのような必死な色があり、伊織はそこでぼんやりとこう思う。

 自分は一体、何をしているんだろう。

「…何、でも、…ない」
 普通どおりに話したはずなのに、声が枯れていることに自分で驚いた。
「嘘つけよ何でもないわけないだろ。大丈夫か? 熱でもあるのか? 変なものでも食ったのか?」
 アンタなんかと一緒にするな。変なものならアンタの顔だけで十分だ。
「お前顔真っ青だぞ!? おいしっかりしろよ、車に戻るか!?」
「…た、しは、」
 見上げた残暑の空、ウソ臭いほどに晴れ渡る空を移すビルに掛けられた巨大なスクリーンの中、跳ねまわるアイドルが伊織を見下ろしていた。
「…きたくない」
「…何だって?」
 何気なく掛けられたラジオの音楽、スピーカーが奏でた曲すら、こちらを見下ろしている気がした。
「…行き、たく、ない」
「…伊織、」
 どこにも行きたくなかった。
 1か0しかない世の中で、周りは敵だらけで、どこに行っても何をしてもこの状況は変わらないと思った。
 どこに行っても、何をしていても、「水瀬伊織は0だ」と言われているような気がした。

 もう、息をしていい場所すらないように思えた。

「…なあ、伊織」
 声に顔を上げると、さっきまでの必死の形相が嘘のように思えるへらへらした笑いを顔に湛えた変態がまっすぐにこっちを見ていた。
呆けたような伊織の表情を見て、プロデューサーは一度だけ下を向き、今度は上を見上げて目を瞑り、次にこちらを向いた変態はまるでいつものような笑顔を浮かべ、
「逃げっちまうか!」
と、いつもなら絶対に言わない事を言い出した。



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