ロストワン (9)

 休み、である。
 そんじょそこらの休みではない、Aランクアイドルの、2月の第一週の、世間ではもうすぐバレンタインデーで「今年こそ意中のあの人にチョコレートを!」だけでなく「今年は男性からも日頃の感謝を込めて」という製菓会社の欲望丸出しなキャッチフレーズが巷を賑わす土曜日である。
 そして現在、伊織はプロデューサーの車の中で折角の休みの朝を見てくれだけは見事な仏頂面で迎えている。
「なあ伊織いい加減機嫌直せよ、俺なんかしたか?」
「そうね、息してるわ」
「いおりん、俺に死ねと仰るか」
 すーげぇSM、と呟くプロデューサーの困り果てた顔を見ながら、伊織は腹の奥底でほくそ笑む。
いい気味だとは思う。せっかくの休みにプロデューサーを誘ってやろうと事務所に顔を出したら、あろうことかプロデューサーはキーボードに顔を突っ伏して涎まで垂らして寝ていたのである。
確かにいつもよりちょっとくらい早い時間にプロデューサーを訪ねてしまったとは伊織だって思う。
しかし、いつもよれよれのスラックスによれよれのシャツという出で立ちのプロデューサーに今更服装について言う事など何一つとしてありはしないが、もう少し身なりというものに気を使ってもいいのではないか、とは思う。
 何せAランクアイドルの隣にいるのだから。
 何せ水瀬伊織の隣にいるのだから。
 もっとも今日プロデューサーを誘ったのはそのためでもあるのだし、という事は今日の外出は最終的には巡り巡ってプロデューサーのためになるのだし、という事はちょっとくらい今朝早く出たところでプロデューサー的には何のマイナスにはなりはすまい。
とろとろと動くプロデューサーの車のフロントガラス越しに見る2月の初めの空は青く晴れ渡っていて、ガラス越しに見える空の手前の街路樹の先には寒さに震えた様子は微塵もない雀がカラスが穿った後の生ごみから今日の糧を得ようとゴミの山に虎視眈々と目を光らせている。

 これは勿論伊織側の言い分であり、プロデューサーの言い分をちゃんと聞けばプロデューサーに同情する理由は勿論ある。
 同情点その一。
 今日は「水瀬伊織」の活動が奇跡的に休みの日である。
もちろんプロデューサーの休日が伊織の休日と同じ日という規定は「765プロデュース営業部規定」及びその細則を見てもどこにもない。
という事はもちろん今日プロデューサーが休日ではなかったという可能性があるが、幸か不幸か本日のプロデューサーは休みである。
という事は、客観的に事実だけを述べれば、今朝765プロデュース株式会社の営業部室で行われた騒動は「休みの日の朝方までかかって仕事をしていたプロデューサーを伊織がたたき起こした」という構図である。
ではなぜプロデューサーが休みの日の朝方にキーボードに涎まで垂らして無意識のうちに画面に展開されたドキュメントに「hnoi8;」という意味をなさない単語の羅列を無意味に繰り返していたかと言えば、これはよりにもよって12月の末というとんでもない時期にAランクに上がってしまった伊織の今後のプロモーション資料を作っていたからに他ならない。
この時期に伊織をAランクに上げたのは他ならぬプロデューサーなのだから仕方ないと言えばその通りだが、多少は斟酌の余地があろう。
 同情点その二。
 いくら変態とはいえプロデューサーは曲がりなりにも敏腕の肩書きを持っている。
ではなぜそんなプロデューサーが伊織のプロモーション資料を明け方までかかって作らなければならなかったのかと言えば、これは小鳥をはじめとした営業部の飲兵衛達の策謀に因るところが大きい。
1月の特番宣伝が新聞の一番最後を占める割合はすなわちプロデューサーたち営業部の仕事の量に比例する。
すでにAランクを何人も輩出した765プロデュース営業部の忙しさと言えば閑忙期の税関の仕事の量といい勝負で、普段は宝物のように扱われるAランクアイドル達もこの時ばかりは信管の緩い爆弾と肩を並べる存在となる。
プロデューサーや伊織をはじめとしたAランク達が忙しいのは勿論ではあるが、小鳥を始めとした裏方の苦労たるや想像するに余りあり、例年2月の初めの金曜日に階下のたるき亭で行われる忘年会代わりの「1月なんて死んじまえパーティ」は例年阿鼻叫喚の蠢く大祭となる。
つまり、件の物騒な名前の祭りが行われ出したのは伊織がプロデューサーのケツをけり飛ばしてたたき起こした朝から数えて12時間前であり、涙を誘う事にプロデューサーは「このくそ忙しい時期に面倒増やしやがってテメェ」という難癖をつけられて小鳥にしこたま飲まされていた。
プロデューサーは仕事に託けてほうほうの態で逃げ出したことで何とかたるき亭でマグロになることは避けられたのだが、プロデューサーの階上への逃亡を手助けした良心的な同期の大半は現在小鳥やパーティの首謀者の手によってただ一人の例外もなくたるき亭地下1階の座敷にて死体と化している。
 同情点その三。
 「1月なんて死んじまえパーティ」が始まったのは金曜日の午後8時である。
 つまり、
「…あのな、どこ連れてこうってんだよ。まだ8時半だぞ」
「いいじゃない、たまの休みの日くらい健康的に過ごさせてくれる私に感謝することね」
「だから、」
 珍しくプロデューサーは昨日の酒の残る頭をガリガリと掻きむしり、
「まだ9時にもなってねえっての。買い物に連れてけってのは分かったよ。でもまだ開いてる店なんてないぞ」
 その通り。
伊織はプロデューサーのケツを蹴り上げた後、「ショッピングに行くから足になれ」としか言っていない。
もっとも伊織にしてみれば、わざわざプロデューサーを連れ出した理由を本人に言うわけにはいかないのだ。
どうせ格好付けの五重苦の事だから、下手に連れ出した理由を伝えてこちらの気遣いがバレてしまったら「別にいいって」と言うに決まっている。
 それでは伊織自身が我慢ならないのだ。
 「別にいい」訳がないのだ。
 これから先もプロデューサーが水瀬伊織の横にずっといるのなら、せめて格好くらいシャンとしてくれないと困るのだ。
「カフェくらいなら開いてるでしょ。アンタどうせ朝ごはんとか食べてないだろうから、まずはそこからね」
「それには賛成。で? その後はどこに連れてけって?」
 朝っぱらから溜息を付き出したプロデューサーに向かい、伊織は今朝から何度も言った決まり文句を再び口にするのだった。
「いいトコよ」



 当然のことではあるが、「いいトコ」というのは多分に主観の入り混じった表現である。
伊織にとってのいい所がプロデューサーにとってのいい所という保証は一切なかったのだが、昼を回るあたりからプロデューサーの体内を循環していたアルコールはようやく肝臓の働きで分解されたらしかった。
いつものように変態的な冗談が飛び交う伊織にとっての「いい所」巡りをするプロデューサーのセダンの後部座席には夕暮れごろには夥しいまでのブランド品の箱がうず高く積まれ、一体今日だけで幾ら使ったのか分からない有様である。
「いやしかし買ったなあ。お前これ全部使うのか?」
 今日何度目か分からない赤信号につかまると、プロデューサーはバックミラーを見ながらそう言った。
バックミラー越しに見える箱の中身は服や靴や小物の類であり、ミラーの見え具合を調整するように左腕を伸ばしたプロデューサーのワイシャツの横っ腹に皺が寄っているのが見える。
「前から言おうと思ってたけど、アンタももうちょっと身なりに気を使った方がいいわよ。アンタは私のプロデューサーなんだから」
「いおりん、男は見てくれではないのだよ。重要なのは内に秘めるハートだハート」
 変態が何を偉そうに。
「千歩譲ってそうだとしても、ハートを見せる前に恰好で引かれたらお話にならないでしょ」
「千歩て」
 自分で言って自分のツボに嵌ったのか、未だ信号が変わらないのを良い事にプロデューサーは腹まで抱えてイヒヒヒヒと笑いだした。
嫌な予感。
「いやあ、いおりん言うようになったなぁ」
 溜息。
「アンタの横で半年以上過ごしたのよ。このくらい言えるようになるわ」
「変態の世界へようこそ」
 やかましい。
 目の前の歩行者用信号がちっかちっかと点滅し出した。伊織は再び溜息をつき、己の世界をフロントガラス越しに眺めてみる。
 休みのくせに今日は忙しい日だった。
どこに行っても何をしていてもファンと思しき連中が声をかけてくる。
朝のうちは笑顔でサインや握手に応じてはいたが、昼ぐらいから面倒になって飛び込んだ先の店で帽子を買った。
それ以来この時間に至るまで声を掛けられる事はめっきりなくなったが、それでも「ねえ、あれ伊織ちゃんじゃない?」というひそひそ話は商品の物色中に嫌が応にも耳に入ってくる。
 面倒だが、悪い気はしない。
 「Long-Time」のオーディションの夜に見せられた光景は確かに自分の世界だったのだと思う。
いまや「水瀬」と言えば世論では家の事ではなく「水瀬伊織」を指すようになっているし、「自分がここにいる」というだけで多くの人が自分を見にやってくる。
もう自分を介して自分ではない何かを見る不届き者はいないのだと思うと気分が良かった。
 何もかもを手に入れられたのだと思う。
もちろん、自分だけの力だったとは思わない。
横で相変わらずへらへらと笑っているプロデューサーは確かに変態ではあったが確かに敏腕でもあったとも思う。12月末のAランク入りは765始まって以来のスピードだ。
 今にして思えば、このプロデューサーでよかったのだ。
2度目の大規模オーディション前は確かにプロデューサー変更という裏ワザを考えてはいたが、あの頃は自分もきっと幼かったのだろう。多分。
 しかし、腹立たしい事に当のプロデューサー本人はそんな伊織の視線に気づいている節は微塵もない。
やはり変態は変態であり、その変態性を表に遺憾なく発揮している分外からの視線を受信するアンテナはどこかネジ曲がっているのかもしれない。
 いや、
―――…何だそれ。ヤだよこっ恥ずかしい。
 あの時の自分の問いは、確か「水瀬伊織はプロデューサーにとっての1か0か」だったはずだ。
下着の柄すら躊躇わずに答えたプロデューサーが0と言うのに躊躇う事はまさかあるまい。
という事は、少なくとも0という答えは回答群の中から除外されることになるし、この問題はそもそも二者択一の問題である。
核心染みたところだけはちゃっかり受信するのだから都合がいいアンテナもあったものだ。
 だったら、もう少し根性出してみろとは思う。
 今日のショッピングで自分の衣服を買ったのはあくまでも前座であり、カムフラージュの意味合いが大きい。
そうでもしなければそろそろ向かってもよさそうな本当の目的地にプロデューサーを連れていく事は難しいだろうし、連れて行ったら連れて行ったで「いいって別に」と言うに決まっているのだから説得の意味でも多少金を落としておく必要があったのだ。
「…で、次はどこに行きゃいいんだ?」
「次で最後よ。紳士服のいいお店があるの。そこがゴール」
「伊織、性同一性障害の気があるんだったら最初っからそう言ってくれればよかったのに。えーと、そうしたらそうだな、伊織ちゃんじゃなくて伊織君て呼ぶように今からマスコミにリークを」
「グーとパーってどっちが好き?」
 勿論グーは拳、パーは平手の意である。
「何で私が男物着なきゃいけないの。アンタの服よアンタの」
 ここで再び赤信号に掴まった。
プロデューサーはフムと顎下に手を這わせ、ひとしきり考えた後に、
「何で俺の服?」
「何でって。私あんたが着てるスーツって今の一着しか見たことないんだけど」
「いや別にこれ一着しか持ってないって事は…伊織、ひょっとして俺の事貧しい人だと思ってるか?」
「貧しいじゃない。先月まで減俸だったでしょ」
「いやまあそりゃそうなんだけど」
 信号が変わる。
ブレーキを踏み続けるわけにもいかず、制限速度を遵守してとろとろと走り出したセダンの中で、3つ目の角を右、という伊織の声だけが響く。
「うーん。まあしかし、確かに今の懐具合でスーツを一着買う余裕はないんだが」
 溜息。
「アンタの中では未だに私の給料は3000円なのね」
「アホ抜かせ、3000円であそこまで働かせられたら堪ったもんじゃねえ…いや待て待て、何この流れ」
 都合のいいアンテナもあったものだ。今の会話の流れでこちらの本当の狙いが分かったのだろう。
制限速度をきっちり守った車の窓からは間近に迫ったバレンタインデーに向けて製菓会社の陰謀渦巻く広告が何の罪もない一般消費者を菓子屋に向けて誘導しているのがよく見える。
「なに、いおりんが奢ってくれんの? 俺に? スーツを?」
「悪い?」
「いや悪いってこたねえさ。だけどな、別にお前の稼ぎはお前の物なんだし、好きに使っていいんだぞ?」
 ゴールの前はガラ空きで、2人しかいないピッチの中ならオフサイドの心配はしなくてもいい。
伊織の目の前にはプロデューサーという名前のゴールキーパーがいるのみで、会話の流れという名前のボールは伊織の足もとに点々と転がっている。
「…私が自分で稼いだお金すら、私には何をする権利もないってこと?」
「そうじゃない。そうじゃないけど、俺だってスーツは何着か持ってるしだな、別にいいって伊織がそんな事気にしなくても」
 ボールが弾かれたことにちょっとだけカチンときた。
 事前に何度も繰り返してきたシミュレーションを開始する。
「別にいいわけないでしょ。アンタは私のプロデューサーなんだから」
「いやそうだよ。そうだけどさ、」
 三つ目の角が来たことで、プロデューサーは躊躇いながらも右折レーンに車を入れる。
「アンタは私の横にいるんだから、アンタの格好がシャンとしてないと私の品性が疑われるのよ」
「犬か俺は。ワンワン」
 補助信号が灯る。セダンの前に列を成していた車が流れるように右に折れてビルの陰に隠れていく。
「今時セコンドだって腹巻きじゃ格好付かないじゃない。それとも何、アンタは私の品性を疑われてもいいって言うの?」
「そうは言わない。言わないけどさ、」
 補助信号が消える前に、プロデューサーの車もまた右折に成功する。
「4つ目の角を左ね。大丈夫よ、私がちゃんとコーディネートしてあげるから」
「いやだからそういう意味ではなくてだな。別にいいって、今ん所服に不自由はしてないよ」
 要するに―――格好付けたがりなプロデューサーはこう考えているのだろう。
ここで伊織がプロデューサーにスーツを送るという構図を作ると、プロデューサーは年少者に贈り物をされるという構図になる。
確かにプロデューサーにしてみれば格好はつかないだろうが、そう考えているという事はすなわちプロデューサーは伊織と自身を対等と考えていないという事になる。
 冗談ではない。
プロデューサーとはこれからも隣でずっと一緒に活動していくのだから、そこに上下の差があってはならない。
これからもずっとずっと一緒に活動していくのだから、お互いに上下の差を感じて嫌な気分で活動するよりも気分がいい方がいいに決まっている。
お互いに気分を良くするためにはまず、プロデューサーにはきちんとした身なりをしてもらわなければならない。
 そのためには―――
「バレンタインよ」
「何だって?」
 そのためにも、伊織は最終手段を投下することにする。
「別に贈るのがチョコだって決まってるわけじゃないでしょ。今年はチョコの代わりにスーツを贈るってだけよ」
「…いやぁ、いおりんにそんなに想ってもらえるなんて俺ぁ幸せだなあ」
 4つ目の角を左に曲がる。
シミュレーション通りの回答である。昨晩何度もイメージトレーニングをしていてよかったと思う。
ここで無様に取り乱して赤くなったりしたら向こうの思うつぼだ。
2つ目の角を右と冷静に言いながら、伊織は何度も頭の中で掌に人の字を書く。
「そういう意味じゃないわよ。ここまで世話になったから、そのお返し。あんたに負い目を感じるなんて真っ平だからね」
 こう言えばきっとプロデューサーは「だから別にいいって」と言うはずだ。
俺がやりたくてやっただけだと今までずっと言い続けてきたプロデューサーの事だから、きっと「伊織が負い目なんて感じることはない」的な事を言うはずだ。
 それでは駄目だ。
もはやプロデューサーは単なる「プロデューサー」ではないのだから。
対等にならねばならないし、自分とプロデューサーの間に左右の差があっても上下の差があってはならないのだから。
そして、バレンタインデーを絡めたこの作戦はプロデューサーに嫌が応にも垂直の差ではなく水平の差を感じさせるはずだ。
プロデューサーが口ごもったらこっちの勝ちだ。口には自信があるのだからこのまま押し切ってやる、
「―――何だ、残念」

!?

 そう言うと、プロデューサーはあからさまに残念そうな溜息をついた。
思わずぎょっとする、このパターンはシミュレートしていない。
顔だけは平静を装って「そうよ」と言った伊織ではあるが、もはや頭の中はパニックである。
バレンタインを引き合いに出した搦め手を使ってもプロデューサーのアンテナはちゃんと受信すると思っていたが、都合のいいプロデューサーのアンテナはこちらの意図を全く受信していないようだった。
「べ、べべ、別にあんたの―――いや、アンタの事をちょっとも―――そう、いやええと、」
 そして、伊織は次の瞬間、プロデューサーの実に楽しそうな笑顔を見た。

 やられた。

「ま、そういう事にしておくか」
 2つ目の角を右に曲がった時、もはや隠しようもなく真っ赤になった伊織のグーがプロデューサーの腹に直撃する。



 ここまでで、水瀬伊織は何物にも代えがたいプロデューサーという1と、水瀬伊織を1と目する「世界」を手に入れたことになる。

 問題。
 重要なものはバランスなのだとしたら、「世界」を手に入れた伊織が天秤に乗せざるを得ないものとは、何か。




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