声 (4)

 冬の気配が未練がましくも漂う3月末の澄んだ空気が導く夕暮れの滲んだ光が惜しげもなく社長室を照らしていた。
社長が背負う形になったブラインドカーテンは夕暮れの陽光を遮り、社長の前に立つ大江の顔に光の梯子を描いている。
丁度逆光になってしまっている社長の顔色は大江からはいまいちはっきりと見えないが、せわしなく社長が煙草を吸う気配は何かに苛ついているというよりはこれから重大な決断をしなければならないという雰囲気の方が濃厚だ。
さもありなん―――大江はそう思う。この計画を出してきたのは確かに大江の方だが、IUの最終説明会のあの日から確かに社長は大江の画を何度となしに脳裏に描いては破り捨てているようだった。
「…何度も言うようだがね、私は君の話には乗れん。博打としては大きすぎる」
「否定はしません」
 大江のきっぱりとした物言いに、社長は再び煙草を咥える。
滲んだ空気に揺らめく紫煙がかすかに揺らめく社長室の中、社長は大きな溜息をついた。
「君の案は私も何度か検討した。だが、やはり私の立場からは認められん。私の言っていることが分かるかね?」
 大江は疲れたように笑う。
社長らしくないボロを聞いた。何度か検討したという事はつまり、事を始めるに当たって社長もまたあいつの成長を十分と判断した証拠ではないか。
 群衆割拠の芸能業界において一代で財を成した例はごく少数だ。
そして、大多数の並び立つ小規模プロデュース会社がドングリの背比べから抜け出すためには、時として社運をかけた大博打に手を出す必要にも迫られる。
 博打に敗れた多くの同業他社があるいは店じまいをしたり、あるいはその規模を縮小させていくという泥沼の中で己が身を抜きん立たせるためには途方もない判断力が要求されてきたことくらい、765最古参のスタッフとして大江とて知っている。
 社長が何度か当時はまだまだ小さかった765を背比べから抜け出させるために社運をかけた大博打を打たなければならなかった事も、そのたびに幾度となく死線を潜ってきた事も、それらの決断を社長は決して誰にも相談することなくたった一人で博打の責を負い続けてきたことも、大江は765最古参のスタッフの一人として知っている。
 そして、大江はそのごく少数の中の一例となった高木順一郎社長の判断力を人並み以上に信頼している。
 その社長をして、この計画は何度となく検討するに値する計画なのだ。
「私には…やはり君の計画はあまりにも尚早すぎると思えるのだよ」
「別に社運を掛けているわけじゃありません。最悪あいつと俺が潰れて終わりです。あいつを抜いてもまだ765には9人―――いや、」
 大江は首を振り、自嘲気味に笑った。
「8人のプロデューサーが残る」
 橙色に染まった社長室の中で、社長の喉が引き攣ったような音を立てた。
社長もまた笑ったのだと気付くのにしばらく掛かる。
「君の眼に、彼は計画に足る成長を見せたのかね」
「社長から見たら、あいつはまだ足りませんか」
 影の中から社長の腕がにゅっと突き出てきた。
突き出た手にはソフトケースの煙草が握られていて、驚く大江に社長は一服どうかと勧める。
黙って受け取った煙草に懐から取り出したライターで火をつけると、丁度社長もまた大江が入室してから5本目となる煙草に灯りを灯そうとしているところだった。
すかさず翳した火に焙られた社長の顔には、どこか諦めの色が見える。
「仕事の遅さを音無君に責められているところは何度か見たが、あれは君の指導かね」
「人形相手ならおざなりな仕事でも文句は言いませんけどね。あいつの仕事の先にはアイドルがいる。プロデューサーの仕事ってのは、そういうもんだと教わりました」
「誰からかね」
「思い出しますね、まだうちがたるき亭の上だったころ」
 強烈な皮肉に社長は思わず噴き出す。まだ社屋がたるき亭の上だった頃の大江の直属の上司は誰であろう高木順一郎その人だ。
私のせいかねと笑う社長に、大江はどうでしょうねと白々しく答える。

―――…僕、それどうかと思うんですけど。

「…彼は1年目にしては良くやってくれている方だと思う。考えもしっかりしているようだしね」
「OJTとしては鼻が高いですね。…だからこそ俺は、話を進める気になった」
 ふむ、と社長は影の中で身じろぎした。両肘を置いて手を組み合わせ、鼻下に両の人差し指を当てて考える社長の仕草はたるき亭の上で毎日ああでもないこうでもないと二人揃ってアイドルの方向性を考えている時と何一つ変わっていない。

―――いや、
 変わったのだろう。事務室の机の数は両手で数えられ、足の指まで入れれば事務所の机の全てを数えるに不足なかったあの頃とは、取り巻く環境も考えなければならない事も、そしてこんな計画を社長に伝えた自分も。
「…君の眼に、彼はどう映る?」
「昔の俺を見てるみたいですよ。何にも考えずにただアイドルを売っていけばよかった頃の事思い出します。―――それに、」
 次の言葉を、大江は一言ずつ区切る様に話した。
「俺に、人を見る目を教えてくれたのは社長です」
「―――君は変わらんな。こうと決めたら梃子でも動かん」
「…はじめは単なる思い付きだったんですけどね。でも、俺はやっぱり諦めきれなかった。すみません、これは俺の我儘です」
 頭を下げない代わりに、大江の顔にはまるで親を裏切るような色がある。
社長は大江の顔を見て一度だけ溜息をつき、
「765がここまで大きくなったのは君たちのお陰だ。…それを、忘れないでくれ」
「―――恩は、返します」
 一言痛み入りますとだけ言い、大江は懐から封筒を取り出した。
漂白された上質な封筒の表面には墨書きの漢字3文字が丁寧に書かれており、社長はデスクの上に置かれたその封筒を手に取りもしない。
「…6時までに俺が戻ってこなかったら、その封筒受理してください。古株の連中にはもう伝えてありますから、トラブルは起きないはずです」
「? これから、何かあるのかね」
 見上げた社長の顔には驚いたと書いてある。計画のスタート時に何をするかはあらかじめ伝えていたから、デスクの上に出した封筒に驚いたわけではないだろう。
大江はへらりといつものような笑顔を浮かべ、
「俺が先輩として、あいつにしてやれる最後の答え合わせが残ってるんです」

 時計の針は、午後5時13分を指している。



 時計の針が、午後4時30分を指している。
 時計を見上げた新米の顔には色の濃い疲労がある。
新米の目の前には綺麗に整頓された机があり、液晶のモニターの横の時計の秒針が最後のテストをかろうじて仕上げた新米を無機質な機械音で称賛している。
 テスト、である。
 何がテストだ。
新米は心の底からそう思う。何を隠すこともなく今新米の目の前にある液晶モニターは新米に支給された備品ではないし、まして新米を絶え間なく称賛し続ける秒針を持つ時計は新米の私物のはずがない。
あと3日も空けずにプロデューサーとして活動を始める新米に大江がテストをしてやると言ってきたのは今日の昼頃で、しかし夕方になって実際に課せられた問題とは何のことはない、大江の机の整理整頓だった。午後分の時間を返せと思う。
 どんなテストが課されるのか気が気ではなく、午後の営業回りの中身は全く頭に入っていない。
もはや習慣を通り越して自律神経のみで行えるようになったメモのお陰でおぼろげながら午後分の営業の輪郭は掴めたが、これを元に小鳥先輩に怒られない営業報告書を書けるなら自分自身で大したものだと思う。
 溜息をついてまわりを見ると先輩社員たちが4月に向けた準備を余念なく行っている。
テストとやらを始める前にお前も大変だなと声をかけて来たまだ若い先輩社員に「何で僕が先輩の机片付けなきゃなんないんですかね」と愚痴にも似たテストの中身を伝えたら先輩は笑ってファイルを一つくれた。
だが、大江の机を片付けている間に出てきた資料は訳のわからない落書きだらけの真に残念な代物であり、この中のどれにファイリングしなければならないものがあるのかと本気で思う。

―――「どこに大事な書類があるか分からないような机に座っているプロデューサーなどタカが知れている」。

 何を偉そうに。新米は整えられた先輩の机を前に盛大な溜息をつく。
確かに大江の事は尊敬しているしいつか並び立ちたいとは思っているが、4時少し過ぎに目の当たりにした余りにもあまりな机の上を見た時は脳裏に「それはそれ、これはこれ」という実に見事な言いまわしが浮かんでいる。
 30分程をかけてどうにか机の上に書類やファイルを広げられる程度に地ならしは完了を迎えたものの、整頓の途中で出てくる提出期限を迎えた古代化石と呼んでも差し支えないような書類の山には発掘の度に頭を抱えた。
今のところ発掘した化石資料は大江の隣にある自分の机の上で山を作っているが、これでよくもまあ今年のユニットもAランクで終えられたものだ
―――そう思った瞬間、新米の体に痺れにも似た感覚が走る。

―――別に俺が何かしたわけじゃない。あいつらがここに来れたのは単にあいつらの功績だ。

 化石の山をもう一度見る。
一枚目、「765プロデュース株式会社アイドルユニット支援計画企画書春季」、十六枚目、「765ユニット活動計画報告書4半期編第1部抜粋」、山の中ほどにあった「春の765プロ課企画営業部合コン@ポロリもあるよ参加可否アンケート」は見なかった事にしてゴミ箱に放り投げ、底の方にあった「765アイドルユニット営業状況と他社アイドル営業比(春季〜夏季)」あたりで新米はある事に気付く。
 一つ、捲りにめくった紙にはどれも「社外秘」の判が押されているのに、どれ一つとして色の付いたものがない。
社外秘の判は社長直属のプロデューサー課において事務統括をしている小鳥が一つ一つに押しているもので、通常赤インクで押される「社外秘」の判が黒インクで押されることはまずあり得ない。
 二つ、捲りにめくった紙にはどれも夥しい数のト書きか書き込まれている。
一目見ただけなら落書きに等しいその走り書きは目を凝らせば何とか日本語と認識できる文字列で、その時々の大江の文字からは次期の計画を立てるにあたって何に留意していたのかが朧げながら見えてくる。
 三つ、捲りにめくった紙のタイトルにはどれも春から夏にかけての時期を示す語句が並んでいる。
「企画書春季」も「4半期第1部」も「(春季〜夏季)」も、そのどれもが明後日から見れば去年度の資料である。
約1年も前の資料を乱雑に机にまき散らしていた大江の天晴れな精神には舌を巻くばかりだが、それにしては夏以降の計画資料は今のところ一枚も見ていない。
「…これ、」
 明後日から使えるんじゃないだろうか―――見上げた先の壁掛け時計の針は4時42分を指している。
テストを始めるにあたり大江に指示された制限時間は5時半だったから、今から書類をファイリングし始めればぎりぎり間に合うかもしれない。
ふと思うところがあり、整理の過程でとりあえず液晶モニタの横のブックスタンドに凭れ掛らせたファイルを適当に引っ張りぬいてパラパラとめくると、こちらには古代標本のような夏から秋にかけての資料のコピーが乱雑極まりない収められ方で字面を惜しげもなく晒している。
まさかと思って他のファイルにも手をつける、秋と冬と年明けの無駄にも思えるファイルの冊数はおそらく担当ユニットが上位ランクに上がったからだろう。

―――「どこに大事な書類があるか分からないような机に座っているプロデューサーなどタカが知れている」。

 考えると同時に新米は貰ってはいたが手をつけていなかった真新しいファイルの背表紙を引き抜き、やはり大江の机から発掘した夥しい数の文房具の中から使えそうなマッキーを選んでキャップを外す。
タイムカプセルのような風格漂うマッキーの中のシンナーは未だに揮発していなかったらしく、蒸留に蒸留を重ねた刺激臭が新米の鼻をくすぐった。
気にしない。背表紙に「営業資料 春〜夏」と書き込んで自分の机の上で乾かす事にし、新米はともかくも最初は一番上の資料からファイリングを開始する。


 この新米の動作を営業部プロデュース課の面々が固唾を飲んで見守っていることを、新米はもちろん知らない。


 山を中程まで崩したあたりからファイリングの動作が楽しくなってきた。
こうして山を一枚一枚捲る度に大江のプロモーション方法とその時のアイドルの様子がぼんやりだが分かってくる。
Fランクではまず何をすべきなのか、Eランクに上がった時の課題は何だったのか、春先から夏にかけての営業は何を目的にしていたのかという情報の輪郭が大江の書いた走り書きから見えてくる。
一度はごみの山と思った紙っきれが今や宝の山に見えてくるから不思議であり、新米は脳みその容量の75%を目の前の作業に当てて残りの15%でアフリカの金山にて一攫千金を狙う労働者の気分を思う。

―――いつだって問題は当事者だけのもんだしな、あの時の苦労と今の苦労を単純に秤にゃ掛けられないだろうし。

 と同時に、今度は自分がこれをやらなければならないと思う。
大江の資料はあくまで大江の苦労であり、今年経験するであろう自分の苦労はこれと単純に秤には掛けられまい。
不安から一瞬手の動きが止まるが、新米は頭を振ってファイリングの作業に戻
「よう、終わったか?」
 首の骨が折れるかと思うスピードで後ろを振り向くと、そこには大江のニヤ付いた顔があった。
大江の顔から視界を右にスライドさせると、壁掛けの時計が5時15分を指している。
やばい。あと15分しかないのに山はあと半分もある。
「す、すみません大江さん、もうちょっと時間貰えませんか?」
「別にいいけど。まだ15分だしな。…ところでお前、今何やってんの?」
 大江の顔が興味深そうに新米の手元を覗き込む。あー懐かしいなーという声色がウソ臭いのは気のせいだろうか。
「いや、机片付けてたら春先の資料が結構見つかったんで、まとめとこうかなと」
 いつかのように、大江の眉がぴくりと動いた。
「へえ」
「いやあのですね、整理自体は5時前に終わってたんですよ。でもこれ来年の資料になるかなって思って、あー…」
 ダメですかね、と見上げた新米は、そこで大江の予想もしない顔を見た。
 大江は、裏のありそうな穏やかな笑みを浮かべていた。
「ゆっくりやっていいよ。試験は終わり。お疲れさん」
「…ら、落第ですか…?」
 意図せずして肩が落ち、新米は流れるままに頭を垂れた。
それは困る。文句を言いつつも1年間も大江の下で研修を積んだのは一重に明後日からプロデューサーになるためなのだ。
何もこの試験で来年からの人事に影響があるとは思えないが、何となしにこの試験には落ちてはいけないような気がする。
 明後日からプロデューサーとして活動することを、大江に認めて貰えない気がする。
「お前な、明後日からお前もプロデューサーだろ? お前が不安に思ってたらアイドルだってブルっちまうぞ。もうちっと自信持てよ」
 驚いて顔を上げると、大江は実に意地の悪い顔をしていた。
「その資料な、まとめ終わったらお前にやるよ。役立つだろ」
「…………あの、それじゃ、」
 腹の中に熱が湧いた。
熱は神経を伝って全身に行きわたり、ファイルを掴む手が寒気とは違う震えを感じる。
脳髄まで達した熱は新米の顔に笑顔を出力させ、大江はそんな新米の顔を見て大きな声で高らかに宣言する、

「ごうか――――――――――――――――――――――――く!!!」

 瞬間、物凄い声量がプロデュース課の外まで響いた。
突如起こった歓声に新米の鼓膜は限界を超えて揺さぶられ、ついで飲み会コールが湧き上がる己の配属先の様子に里親と別れた旭川動物園の小鹿のような表情を見せる。
「いやーっ、俺お前の事信じてたぜーっ!!」から始まり「飲み会なんて久しぶりだなぁ」というしみじみとした声を聞き、しまいには「たっるきっ亭!! たっるきっ亭!!」という訳の分からない音頭まで付いた嬌声が課内を揺さぶる中で大江を見上げる新米の顔はまさしく大本営設置をラジオで聞いた帝国期日本の反戦派国民の顔である。
「…な、何なんですか?」
「何って、お前の歓迎会に決まってんだろうが」
 何だそんな事も分からないのかと言いたげな大江はこれから祭りが始まると言わんばかりの口調で一言、
「歓迎するぜ、『プロデューサー』」

 この時、時計は午後5時48分を指している。



 先輩たちに拉致と呼んでも一向に差し支えはないと思わざるを得ないような連れられ方で引っ張り込まれたのはたるき亭の地下一階北東の小部屋である。
大江が乾杯の音頭を取ったのは新米も酒に呑まれていないなら確か2時間ほど前の話で、いつの間に予約を取っていたのかと思えるような机の上の料理の山が765プロデュース株式会社営業部プロデュース課の面々を迎えたのもまた2時間ほど前の話だ。
飲み開始から2時間が経った机の上でビールと零された食品によって汚染されていない部分は最早なく、アルコールによって頭のネジが緩くなった新米はふとブラジルの秘境で今も続けられているであろうアマゾン森林の伐採を思う。
「よーう、どうした新米、飲んでるかぁ?」
 うっわ酒臭ぇ、という呟きは近づいて来た大江には全く聞こえていないようだった。
ふと大江が今まで絡んでいたであろう卓に視線を飛ばすと、担当していたアイドルが見たら卒倒するような腹丸出しの格好でくたばっている死体が目に入る。実に安らかそうに見えるその顔は冗談ではなく青白い。
確かあの人あんまり酒強い方じゃなかったんじゃ―――という思考は茹でダコの様な大江の吐き出す熟成10年物の日本酒の匂いにひとたまりもなく吹き飛ばされる。
「…飲んでますよー。大江さんお猪口空じゃないですか、ダメですよ飲まなきゃさあ飲んで飲んで」
 新米とて大学生活では飲み会にぶっ潰された口だ。
あまりアルコールに親しみのない新米が社会人になって潰される回数が減ったのは一重に絡んでくる飲兵衛達を一人残らずアルコールの海に沈めてきた功績による。
徳利から注がれる日本酒を大江は中毒の鏡のように「おっとっと」と言いながら手持ちの猪口に受け取り、まるで新米の隣が指定席であったかのような自然な動作で座布団に腰を下ろす。
本来の新米の横席は大江に潰されたであろうドザエモンである。
「おう悪ぃな、んじゃま一杯」
「先輩方大丈夫ですかね。みんな死んじゃってますけど」
 新米がいるのは北東の部屋の中心に据えられたテーブルの真ん中であり、視界を回して未だに机の上に頭が出ているのは大江と新米だけである。
別にプロデュース課が全員揃ってアルコール弱者だったはずはないのだが、わずか2時間でここまで乱れてしまう程度には全員それなりにストレスが溜っていたのかもしれない。
 暗に飲み過ぎを責めるような新米の口ぶりは明日の仕事の心配をしてのものだったが、大江はそれに少しだけ眉をひそめ、
「お前の歓迎会じゃねえか、なーに一人でいい子ぶってやがる。さあ飲めそれ飲め今飲め」
 諦めてガラスのコップを大江に差しだすと、あろうことか大江は吟醸をなみなみと注いだ。
腹を決めてコップを一息に傾ける、大江の嘆息した声が聞こえる。
「何だお前飲めんじゃん」
「飲めない事はないんですけどね。揺り戻しが怖くて飲んでません。明日に響くと厄介じゃないですか」
「ああ、」
 そこで、大江は猪口を置いて懐を漁った。もったいつけたように煙草をつける仕草は酔っているからだろうか。
「お前も、明後日からプロデューサーか。早いもんだ」
「おっさん臭いですよ先輩、まだ若いくせに」
 何が面白かったのか大江はそこでイヒヒヒヒと笑った。
嘆息して注がれた吟醸を少しだけ舐める。シャープな味に少しだけ頭のネジが閉められ、新米はそこで改めて大江の方を見た。
「…大江さん、ありがとうございます」
「何が」
「いろいろ教えてくれたじゃないですか。効率的なプロデュースの仕方、事務書類の書き方」
「、ああ―――」
 笑いを引っ込めた大江は吸い込んだ紫煙を勢いよく吹き出した。
出来た当時はおそらく肌色に近い白だっただろうたるき亭地下一階北東の部屋の壁はすでにヤニに塗れて黄土色の様相を醸している。
「別に。俺が教えてもらったことそのまま伝えただけだし」

―――いつだって問題は当事者だけのもんだしな、

「でも、僕に教えてくれたのは大江さんです。ありがとうございます」
 大江は胡乱な眼を新米に向け、そこで再びイヒヒヒと笑う。
「何神妙になってんだよ。これからじゃん。ようやくスタートラインに立てたとこじゃないか、感謝するならアイドル卒業させてからにしな」
 その言葉に、あの秋の日に思った疑問がぶり返してきた。
いよいよ明後日から新米もプロデューサーである。立場だけなら畳の上で死んでいる先輩たちと、真横で笑う大江と同等だ。
開始からわずか2時間で潰れるような上司にだけはなりたくないとは思うがしかし、解釈を変えれば2時間で潰れざるを得ないほど真剣にアイドル達と向き合っていかなければならないのだ。
 不安と緊張でまるで浅草の大門を守る仏像のような顔をした新米に、大江は猪口に伸ばした手をひっこめた。
「…大江さん、僕、ホントにプロデューサーになれるんですかね」
「自信ねえの?」
 思わず見た大江の顔には満開の笑顔がある。
「あったらこんな事聞きませんよ。あー止め止め今のなし、明後日大江さんが素面になってたらまた聞きます」
 酔っぱらいに真面目な答えを期待した僕が馬鹿でしたと一人ごちると、大江の笑顔の質が変わった。
「プロデューサーって、一人でなるもんじゃないからな」
 酔っぱらいの声とは思えぬ、静かな澄んだ声だった。驚いて大江の顔を見る、

 大江は、何かが抜け落ちたような透明な顔をしている。

「アイドルもだ。一人でアイドルになるんじゃない」
「…どういう、事ですか」
「小学生の頃、二人三脚ってやっただろ。あれと同じだよ。プロデューサーが半人前のアイドルを支えてさ、アイドルが未熟者のプロデューサーを支えんだ。他はどうか知らんがな、765のプロデューサーってのはみんなそうやってやってきた」
 大江の瞳が郷愁の色を帯びる。
新米が入社する前からプロデューサーとして第一線を活躍していた大江の瞳には今、一体何が映っているのだろうか。
「俺達に出来るのはな、担当のアイドルを信じ抜くことだけだよ。それだけ出来りゃ何も、」
 たるき亭の地下一階の北東の部屋の、真ん中に据えられた机の真ん中から少し奥側で、大江は思い出の宿る瞳に蓋をするようにゆっくりと瞼を閉じた。

「―――何も、後悔なんてない」

「…大江さん?」
「ん?」
「あ、あの、いやええと、…僕も、そんな風になれますかね」
 何だか不思議な気分だった。
憧れがどこかに行ってしまうような気がして掛けた声は大江に拾われ、思わずうろたえた新米の口から洩れたのはいつかとは違う質問だった。
「別にこうなれってんじゃないよ。言ったろ、お前はお前の思うプロデューサーになればいい」
 いつか、あの背中に追いつきたいと思っているのだ。自分の思うプロデューサーなど何の目標にもならないと思う。
いつかあの背中に並び立ち、一人前のプロデューサーとして大江に認められたいと新米は切に思う。
 そんな思いが顔に漏れたのか、大江は静かに笑った。
「だがまあ、お前がこうなりたいってんなら止めねえよ―――お前なら、大丈夫さ」
 瞠目した。大江がここまで露骨に励ましてくれたことはない。
 いつだってこの人はそうだった、と思う。
「野郎を励ます気なんかない」と言いながら、後ろなんかちっとも見ない振りをしながら、この人は時折後ろを振り返っては声に出さない励ましをくれていた。
 そんな大江の下で働けた1年は、あまりにも得難いと素直に思う。
「…僕、頑張ってみます」
 大江の期待を裏切るマネだけはしたくなかった。
意志の宿る新米の返事を聞いた大江は実に晴れやかな笑みを浮かべ、
「さて、辛気臭い話は止めだ。お前覚悟しとけよ、今日はぶっ潰すからなヒッヒッヒ」
「ええいやマジ勘弁してくださいって大江さん!! ちょっとそれテキーラ!!」
 壁掛けの時計が、午後8時20分を指していた。


 壁掛けの時計が、午後8時20分を指していた。
 窓辺に立った社長は夜闇の下界をぼんやりと眺めている。
午後6時までにもう一度社長室を訪れなければ計画を始めると大江は言っていた。
そして、5時13分に大江が社長室から出て行って3時間、大江は遂に再び社長室を訪れることはなかった。
咥えた煙草から多量のタールとニコチンを肺に入れ、視線を上げた社長はまるであざ笑うかのような光を下界に降らせる薄明るい月輪を見た。
 大江が置いて行った封筒は未だに机の上にある。
あれから誰も社長室には来なかったから、社長と差し出した大江本人以外は封筒の表面に書かれた黒筆の漢字三文字を見ていない事になる。
明日受理の手続きをして発表になるのは明後日だ。奇しくも新米のプロデューサー業務初日に発表になってしまうが、大江はそこまで計算に入れていたのだろうか。
「…まったく、」
 会社の規模が大きくなったのは喜ばしい。いろいろな奴が社に集まるのは楽しかった。
 だが、これも会社の規模が大きくなった一つの弊害なのかもしれない、と社長は思う。
 窓から踵を返して机の上を見ると、薄明るい照明に照らされた机の上には封筒の漂白された白がうっすら浮かび上がっているように見えた。
催促されたような気がして社長は疲れた笑いを口角に漏らし、浮かび上がった白を皺の目立つようになった手に取った。
「この仕事も、因果なものだ」
 封筒の表面に書かれた墨の、達筆な筆使いで書かれた三文字を、一言一句正確に記載する。



 辞職願。




SS置き場に戻る       声に戻る                 その3へ    その5へ

inserted by FC2 system