声  (5)

 「“新規加入アイドル”」と書いてある。身も蓋もない書き方だと思う。
 新米が失笑を買うような顔で見上げているのは765プロデュース株式会社営業部プロデュース課の入り口を入って左の壁に貼られた馬鹿でかい摸造紙であり、摸造紙の一番上には“今期担当アイドル一覧”と書かれていて、新米の名前はその摸造紙の一番下に申し訳程度に書かれており、引かれたラインの先にある担当すべきアイドルの名前の部分には前述の身も蓋もない文字列がやはり申し訳程度に書かれていた。
まさかアイドルの名前が性は新規加入で名はアイドルなわけがないからちゃんとした名前くらい持っているだろうに。
“新規加入アイドル”の上を見ればまさしく荘厳な名前がラインナップを作っているが、よくよく見れば何も“新規加入アイドル”なる日本太郎的な名前が入ったマスは他にもいくつか見つかったし今期のプロデュース活動はないのか空欄のマスまである。
安心するように少しだけ胸をなでおろして表を眺めていると、ふと新米の目がおかしな点を発見する。
 大江の名前がない。
 プロデュース課に置いて新米の通し連番は10番目だ。という事は横に長い表の行は10あるのが当然なのに9行しかない。
そういえば今朝から大江の顔を見ていない。他の先輩たちも4月期からの活動を始めるに当たって担当のアイドルと会ったり資料をかき集めようと奔走していたから大江もその類かと思っていたが、しかし先輩たちの名前の横のラインをたどった先が空欄の行もあるのだから在籍していれば表に名前は載るのだろう。
しかし、何度瞬きをしてもプロデューサーの名前が載る列には大江の名前は存在しない。
「あ、おはようございます。今日からプロデューサーですね」
「おはようございます小鳥先輩。あの、ちょっと伺いたいんですけど」
 掛けられた声の主を探る様に横を見ると、そこには出社直後にしては嫌に軽装な小鳥が立っていた。
鞄すら持っていないところを見ると社長室にでも行ってきたのだろうか。
はい何でしょうと近づいてくる小鳥に新米は困惑一杯な視線を投げて、
「あの、この表ってプロデュース課の人は全員書かれるんですよね?」
「基本的にはそうですね。人事異動した人に関しては書かれませんけど」
 人事異動ではない、と思う。
765では3月の頭頃から人事部署移動の発表は社内LAN上で閲覧することができるが、何気なくちらりと眺めていたpdfには大江の名前は見当たらなかったと記憶している。
だからこそ大江は一体誰を担当するのかと思って自分の担当アイドルを確認するついでに表を見上げたのだが、そこに大江の名前がないというのは一体どういう事なのだろう。
「大江さん、人事異動対象でしたっけ?」
 そこで、新米は小鳥の顔色に起きた如実な変化を見た。
笑顔でとことこと近づいてきたはずの小鳥の顔色は新米の質問と同時に綺麗に抜け落ち、まるで無表情な顔をした小鳥を前に新米は己の質問がパンドラの箱だったのかと思う。
「…あの、小鳥、先輩?」
「あれ、聞いてなかったんですか? 大江さん昨日付けで退職ですよ」

 は?

 頭の中にまず浮かんだ疑問符は意図せず口から洩れたらしかった。
小鳥は口から洩れたは行の単語に「何で新米が知らないのか」とでも言いたげな顔を見せる。
「…ひょっとして、ホントに知らなかったんですか?」
 知らないも何も。
「な、何で、いきなり退職って、」
 寝ているところにいきなり冷水をひっかけられたような新米の表情に小鳥もまた困惑気味な顔色を見せる。
1年間も一緒に活動していてまさか知らなかった事はあるまいにと言いたげな小鳥の表情からは困惑以外の何色も見いだせない。
「…いや、私も退職の理由は分からないですけど。社長だったら何か知ってるかも―――あ、」
 そこで小鳥は両手を胸の前で打ち鳴らした。
突然の突飛な動作に何かと思っていると、小鳥はそこで重要な事を思い出したと言わんばかりに「そういえば」と言う。
「そうだ社長です。新米さん、社長がお呼びですよ。何かお話があるとか」
「大江さんの話ですか?」
 食いつくような新米の反応に小鳥は「違うんじゃないですかね」と予想を裏切るような事を言い、
「今期新米さんが担当するアイドルの話だと思いますよ。たぶん面通ししてミーティングするようにっていう話じゃないかと」


 掛け出さんばかりの勢いでプロデュース課から出ていった新米の背中を見ながら、小鳥は「ごめんなさい」と呟く。



「失礼します」
 社長室へと続く扉は重厚な木造りではあるが、ノックの音は意外に軽かった。
緊張の面持ちで社長室への扉を潜った新米の目に、そこで春の陽光をブラインド越しに背負った社長が机に座っている様子が写る。
「やあ、来たか。まあ掛けたまえ」
 社長が促したのは社長室入ってすぐ横のソファーであり、二つのソファーに挟まれるように設置されたガラストップの机の上にはいくつかの封筒が置いてあり、そのどれにも小鳥が押したと思しき「社外秘」の赤い判が押されている。
ソファーの見てくれは大して豪華なものではなかったが、掛けた瞬間にソファーに食われたのではなかろうかと錯覚するほどケツが沈んだ。
反動で足が浮きそうになるのを太腿に力を込めて何とかくい留めていると、社長は新米のそんな様子に口角を歪めながら正面のソファーに腰を下ろし、机の一番上の「社外秘」から一枚の書類を取り出した。
「まずはおめでとう、と言っておこうかな。君の扱いは今日から正式にプロデューサーだ。心境はどうかね?」
 机の上に広げられた書類の一番上には「辞令」という単語が書かれている。
その下には新米の名前がご丁寧な事に「殿」付きで書かれていて、「本日付けで765プロデュース株式会社営業部プロデュース課に配属を命じる」と書かれた本文の下には社長の判がでかでかと押されており、社長の判の上には「上記辞令を受け、765プロデュース株式会社営業規則に則り活動を行います」という署名欄がある。
「…あの社長、お伺いしたい事が」
「何かね。勤務地なら今まで通りこのビルの9階だが」
「いや違います、そうじゃなくて、」
 では何かと問いたげな社長の眼光に射抜かれ、新米はそこで言い辛そうに下を向いた。
「…あの、大江さんが昨日付で退職したっていうの、本当なんですか」
「―――…彼は、何も言っていなかったのかね」
 思わず社長の顔を見る。
そうとも違うとも言わない社長ではあるが、大江が退社したという話が事実と異なるのならまずは違うと言うと思う。
という事は大江が退職したのは紛れもない事実であり、新米は己の心のどこかにぽっかりと穴があいたような気分になる。
 黙って首を振ると、社長の溜息が聞こえた。
「…何で、辞めちゃったんですか」
「一身上の都合、だそうだ。私も詳しくは分からないのだが、彼は彼で何か思うところがあったのかもしれん。心当たりはあるかね?」
「心当たりなんて―――」
 不意に、一昨日の飲み会の時の大江の顔が脳裏に過った。
思わず顎下に手をあてた新米を見て、社長は勘ぐるような視線を投げる。
「何か、知っているのかね」
「…一昨日、プロデュース課で飲み会があったんですよ。その時、大江さんちょっと様子がおかしかった気がします」
 社長はそこで身を乗り出した。
驚いて身を引こうとし、質のいいソファーにケツを食われた新米の足が意図せず上がりそうになる。
「彼は何か言っていたかね?」
 社長の瞳には有無を言わせぬ迫力があり、新米は瞳の色に気押されるようにあの飲み会の会話を頭の中で再生を試みる。
「あの、質問してみたんです。僕もプロデューサーとしてやっていけますかねって」
「それで?」
「…酒の席の話なんで間違ってるかもですけど、確か『プロデューサーに出来るのは担当のアイドルを信じ抜くことだけだ』って。それだけ出来れば後悔なんてないって、確かそう、」
 社長の眉がぴくりと動いた。未だ社長の人となりを掴めていない新米にしてみれば社長の動作がさ裁判所での検察官の動きのように見える。
社長はその後大きな溜息をついてソファーの背にどっかりと凭れ掛かり、
「―――後悔はないと、そう言ったのかね」
「飲み会の話ですから、確証は持てないですけど」
 そこで社長は一度天井を仰ぎ、「そうか」とだけ言って目を閉じる。
何か途方もない事を言ってしまったような気がして新米は言葉を探し、助けを求めるかのように自分の辞令の下にあった「社外秘」の封筒に視線を落とした。
「…どういう事なんですかね、後悔はないって」
「…人の心の内は余人には分からないものだね。私にもよくは分からんが、ただ私が今言えることは」
 そこで社長は天井へ向けていた顔を新米に向けた。
社長の目には心配と期待が半々に入り混じった複雑な色味があって、新米はそこでごくりと生唾を飲み込む。
「今後プロデューサーとして活躍していく君には、後悔はして欲しくない、という事だ。…書類にサインを貰えるかね?」
 ここが分水嶺だ、と新米は思う。
辞令の書類にサインをすれば、これからは自分も一人のプロデューサーとして活動していくことになる。
胸ポケットに収まっていた安物のペンを取り出した右手は、そう意識した瞬間にまるでアルコール中毒患者のように震え始めた。
 正直に言えば自信など欠片もないのだ。
大江は「お前の思うプロデューサーになればいい」と言っていた。では自分はどんなプロデューサーになりたいのか。
決まっている、二度問う必要もない。
 辞令の書類を前になんとか右手の震えを抑えようとしている新米を見た社長は一言、
「…君は、どんなプロデューサーになりたいのかね」
 震えるペン先を、署名欄の一番左に着けた。
「…僕は、大江さんみたいなプロデューサーになりたいんです」
 ペン先に力を込める。
この書類は新米が765にプロデューサーとして在籍している間は常に社長室入って左のスチールラックに保管される事になる。
一度大江の辞令書を見せてもらった事はあったが、字面はまさに堂々としたものだったことを思い出す。
「彼の辞職は、ショックかね」
「…」
 ペン先が動かない。震える右手を何とか抑えるのに精一杯で全くペンが右に動いてくれない。
自分の腕ではないのではないのかと馬鹿な事を考える新米の頭上から、社長の声が降ってくる。
「いつか君が大江君を超えられる日が来ると、私は信じているがね」

―――お前なら、大丈夫さ。

 脳味噌の裏側で聞こえた声に、震えが止んだ。
「…僕は、あの人に認められたかったんだと思います。プロデューサーとして、大江さんの後輩として―――多分、『よくやった』って、それだけ言って欲しかっただけなんだと思います」
 ペン先を動かす。
あれほど震えていた右手は意図したとおりに動き、書き出してから5秒もたたずに『プロデューサー』は己の名前を書き終える。
「何で大江さんが辞めたかは分かりませんけど、でもあの人が僕の目標だって事に変わりはないです。いつか大江さんに会えたとき、僕は大江さんに認められるプロデューサーになりたい」
 だったら―――だったら、思う、たかが辞令へのサインに戸惑っている時間なんてない。
いつかあの背中に追いつき、並び立ち、アイドルを引っ張っていけるようなプロデューサーになるためには、時間は限られているのだから。
プロデューサーは社長に向けて力強い視線を送り、社長はその表情に穏やかな笑みを浮かべる。
「…今の君なら、彼女は適任だろう。張り出されていた表を見たかね?」
 プロデューサーは一つ頷き、
「“新規加入アイドル”でしたっけ。どんな子なんです?」
 問いかけに社長はうむと上体を起こし、辞令の下にある「社外秘」の封筒を取り出す。
開けてみたまえと視線で促されたプロデューサーは糊付けまでされた封筒を丁寧に開き、出てきた何枚かの資料の一番上に知っている名前を見た。
「いい子だよ。性格も明るいし素直だ。少々そそっかしいところが珠に傷だが、なに、それも彼女の持ち分だろう」

―――プロデューサーさんも、元気になりました?

「彼女は今、裏の公園で発声の練習をしているそうだ。さっそく彼女と合流し、今後のプロモーションについてのミーティングをしてくれたまえ」
 言葉にプロデューサーはソファーから立ちあがる。
社長はプロデューサーの顔から視線を外さない。見上げる格好になったプロデューサーを社長はどこか眩しそうに見上げ、プロデューサーはそんな社長に力強く頷く。
「やってみます。僕が、僕の考えるプロデューサーになれるように」
 社長もまた、プロデューサーに向けてひとつ頷く。
「期待しているよ、『プロデューサー』君」


 資料には、『天海春香』という名前と、少女の顔写真が載っている。



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