声 (19)

 さて、大江の巣は765時代から神懸り的に汚い。
土俵をどこに移そうがその悪癖はとどまることがなく、これが例えば自宅の台所ならば一体何年前に廃棄したのかと勘繰りたくなるほどの進化を遂げた納豆が出てきたりする。
ナットウキナーゼが新たなる生態系を模索するという生物科学者が狂喜しそうな環境で寝起きを行う大江の神経の図太さはまさに天晴れの一言に尽きるが、除湿の梅雨とその後訪れた高温の夏をこれ幸いと繁殖の機会にしたGやその他微生物類にいい加減嫌気がさした大江は最近になってバルサンという名前のナチスドイツも真っ青な毒ガス兵器を導入、WHOもあっと驚く恐怖の珍種細菌製造工場は現在のところその製造ラインを一時停止している。
 そんな大江が961で巣を張っている4畳ほどの専用個室は当然のことながら勿論汚い。
ものが食品でないだけまだましというレベルの散らかりっぷりは、しかしものが食品でないだけに凄惨の一言に尽きる。
足の踏み場もないほどの床には表面に大きなバツ印の付いた書類が散見されており、これは大江が貴音と相談して営業しないことに決めた店舗の書類だったりする。
765ではこの惨状に目を覆った小鳥が事あるごとに大江をつついていたから新米にドリンクを奢る程度の被害で済んではいたが、残念な事にここは961の大江専用個室である。
 では、大江の巣は人が文化的な最低限度の生活すら送れない魔界なのかと言えば実際はそんなことはない。
もちろん床面積の比率で言ったら8対2で魔界だが、では残りの2には何があるかと言えば人の良心とも言うべきオアシスが広がっている。
 要は4畳一間の東の隅に置いてあるA4かける2サイズの段ボールである。
西南北の3方向は不用品回収業者が諸手を挙げて逃げ出すほどの腐界が広がっているくせに、東の隅にある段ボールには不思議な事に上には何も置かれていない。
もともと物持ちの悪い男である、765から961へ越してきた時の荷物など数えるほどしか存在しない大江の私物ではあるはずのないそのダンボールの天辺には『貴音ファンレター』と書かれた手紙が丁寧にも日付順に輪ゴムで纏められて入れてある。
 そこで、今まで無法の限りを尽くしていた巣の主が時計を見た。
間もなく時計が15時を指そうとしている。
 今日の営業は16時からであり、10時に出社して個人練習をすると言って聞かなかった貴音に大江は「じゃあ15時までに帰って来い」と言ってその背中を見送っている。
去り際に貴音は「大江様は部屋を少し片付けたらよろしい」と言っていたが、この男その辺りのありがたい忠告に耳を貸す気は全くないようである。
 貴音が自主練習から戻ってきた時にどうなるかはさて置くとして、大江には最近気になることがある。

『貴音ファンレター』の中身だ。

 これは何も961に限った話ではないが、961ではアイドルに贈られたファンレターは必ず事前にチェックを受けることになっている。
過激なファンが中に白い粉を入れてくる可能性もあるし、大江が765にいた頃には他社のアイドルのファンがファンレターを装って剃刀を入れてきたこともある。
今にして思えば765のアイドルが他社ファンに疎まれるほどに活躍していたのだと無理に自分を納得させることもできるが、当時若かりし頃の大江は返礼として包みを一つ送り返している。中身は『完全自殺マニュアル』だった。
 さて、『貴音ファンレター』である。
もちろん『四条貴音』は日本で活躍をしているからファンレターの消印は大抵が国内だ。
たまにエアメールが入っている時もあるが、これは海外で『四条貴音』の活躍を日本国チャンネルで目撃した単身赴任者が差出人であることが殆どである。
 気になるのは、宛先たる961の事務所が日本にある以上ファンレターの宛先は日本語で書かれていることが常なのだが、時折不思議なファンレターが届くことだ。

 日本語の、特に平仮名の造形は国際的に見て複雑な部類に属する。
だからなのか義務教育の最初の方では「きれいなにほんごをかきましょう」とか書かれた紙が学童の目につきやすい高さに貼ってあったりするし、宿題と称して出される書き取りのプリントなどはわざわざ灰色で下書きした平仮名が書いてあったりする。
幼少から家庭や義務教育に鍛えられた日本国民は成長するにつれて多かれ少なかれ何とか読める程度の綺麗さで平仮名を記述できるようになるのだが、例えば幼少期を母国で過ごした外国人などは日本語表記で最も習熟に手こずるのは平仮名だという。
鋭角的なフォルムをした漢字や片仮名に比べると平仮名独特の丸っこい文字はなかなか書けないものらしい。
 大江がそんなことを思い出したのは、貴音あてにどうも成人してから日本語を習ったと思しきやたらにカクカクした宛名のファンレターが多く届くからだ。
しかも宛名には揃って「しじょうたかねさま」と平仮名で書かれている。
さては外国人のファンかと思えばさにあらず、差出人の名前にはどう見ても日本人としか思えない名前が記載されている。
貴音はテレビでもいつものように時代がかった口調で話すから、日本語に不自由した連中に憧れのような眼で見られているのかもしれない―――そんな失礼なことを思ってその類のファンレターを初めて検閲した大江は、そこで目を丸くした。

 中身は日本語ではなかったのだ。

 それなりに売れていたプロモーション会社にいた大江である、話すことはできないが文章英語程度なら何とか読める。
が、どう見てもそこに書かれている文面は英語ではない。
もしやと思って辞書を引っ張ってきたがフランス語やイタリア語の類でもなかった。
文面がアルファベット構成されているのだからまさかヘブライ語やスワヒリ語ではないだろうが、アルファベットの見てくれに反するように文中にあるコロンやダッシュのような記号は大江をして見た事のない文体を構成していた。
文の見てくれはどこかドイツ語と似たような匂いがするが、中に書いてある文面が全く意味を汲み取れない以上貴音に見せるべきではないと思っている間にその手の不思議なファンレターは段ボール一杯分になってしまった。
不思議なファンレターは貴音がDランクに上がったことで爆発的に数が増え、Eランクまでは月に1通2通くらいだった不思議レターはDランクに上がってひと月で段ボールを占領するに至っている。
 どうすっかなこれ。
 丁度そこまで考えた時、4畳唯一の出入り口である扉を控えめにノックする音が聞こえた。
「開いてるよ。貴音か?」
「はい。では失礼しま、」
 扉を開けて入ってきた貴音は視界一杯に飛び込んできた腐界に思うさま溜息をつき、
「…大江様、作業の効率化は整頓から始まるのですよ」
「お前は俺のお袋か。いいんだよプロデューサーなんて忙しくなれば片づけなんてしないもんだ」
 小鳥に聞かれでもしたら去勢間違いなしの暴言を吐き、大江は回転椅子をくるりと回してバツ印だらけの床を足で乱雑に擦った。
出来たちょうどイスひとつ分の空白地点に大江はパイプ椅子を引っ張り出すと、
「まあ座れよ。出社までまだ暫くあるしな。ノド大丈夫か?」
「問題ありません。今日も“らじお”でお話をすれば宜しいのですよね」
「そう。Dランクになった『四条貴音』の新曲の売り込み。実際はCD掛けんだけどな、始まる前と終わった後にMCに合わせて話すだけ」
「では、仕事が終わったらこのお部屋を片付ける時間はありそうですね」
 げんなりとした大江にそう言うと、貴音は見ていて実に気持ちのいい笑顔を浮かべて持ってきたバッグを手繰り寄せた。
このバッグは貴音が出社した後に大江の巣に放置していったもので、部屋の掃除などはじめからやる気のなかった主の背中を朝に置かれた場所から1ミリも動かずにじっと見続けている。
 ところで、貴音のハンドバッグは中に化粧品と新曲の楽譜くらいしか入っていないはずなのに妙に大きい。
宿泊用の荷物でも入れてきたのではなかろうかと勘繰りたくなるほどの大きさだ。
貴音は歳に似合わずに物に機能美を求める傾向があり、バッグは貴音の趣味が如実に反映されたと思しき代物だった。
無意味に数の多いポケットには目もくれずに貴音は頂部にあるジッパーを開き、中から白い何かを取りだす。
「何よそれ」
「四条の家にいた頃に頂いたものです。清掃の時には便利ですので」
 言うと、貴音は真っ白なそれを開いて見せた。

 割烹着と三角巾だった。

「汚れてもよいようにと作られたものだと聞きました。家を掃除する時はいつも着ているのですが―――大江様?」
 まさしくどこからどう見ても割烹着だった。
広げられた割烹着の袖は手首までを覆う作りで、腰辺りに誂えられた二つのポケットは実に婆臭い。
フリルや華美な模様とは正反対にある無地白色の割烹着は確かに貴音らしいと言えば貴音らしいのだが、これを着て頭に三角巾を着けた日には古き良き日本のオカンを連想させること請け合いだ。
年頃の少女としてそれはどうよと思う大江である。
「…貴音、お前何、本気でここ掃除するつもり?」
 貴音は何を言っているのかと言わんばかりの顔をした。
「手袋も必要かと思いましたが、水ものはないと思いましたので」
 どうやら貴音は本腰を入れて巣を掃除する気らしい。
では早速と腰を上げた貴音に大江は慌てて、
「と、取り合えず貴音、掃除は営業が終わってからにしよう。それに、掃除くらい別に一人でだってできるさ。お前に何かしてもらわなきゃならんことは」
「『別に一人ででもできる』という甘言を聞いていたが故にこの惨状になりました。大江様を信用していないわけではありませんが、私は断固として私の意地を通させて頂きます」
 にっこりとほほ笑む貴音の眼は全く笑っていない。
そう言えば3か月ほど前に行った貴音の家は生活臭がしないほど綺麗に掃除されていた。
あの時はむしろその綺麗さにぞっとはしたが、考えてみれば確かにこの4畳は大江以外に貴音も存外に出入りする。
今にして思えば単に貴音は汚い環境に耐えられないだけなのかもしれない。
「できるって、大丈夫だよ。ほら見ろ、あの段ボールの周りは綺麗なもんだろうが」
 大江は貴音の背後に位置する東の隅を指さすが、貴音は振り返りもせずに溜息を一つ付き、
「『整頓されている』事と『ものがない』という事は似て非なるものです。それに、あそこだけ整頓できて他ができないというのはいささか解せません」
 完全に大江の主張は封殺された。
これは残業確定かなと脳裏に諦観じみた感情が浮かび、それでも諦めきれない脳みそにふと件の段ボールが浮かぶ。
「そういえば貴音、お前宛のファンレターなんだがな」
「大江様、お見苦しい真似はおやめ下さい。今日はしっかりお掃除して頂きます」
「いやいや聞けよまあ。あのさ、変な話していいか?」
「なんでしょう」
 この期に及んで何か聞きたいことでもあるのかという貴音の表情は重犯罪者を前にした裁判官とどっこいの代物で、大江は一つわざとらしい咳払いをすると、
「貴音、お前外国語話せるんだっけ?」
 魔界の掃除には全く関係のない話題を振られた貴音はそこで虚を突かれたような顔をして大江を見る。
大江の表情には純粋な疑問の色があり、貴音は一度だけの逡巡ののち、
「…幼少を海外で過ごしましたので。主要な言語は嗜む程度に」
 貴音の「嗜む」とはそのジャンルで不自由しないことを意味する、ということはこの半年で身をもって体験している大江である。
大江は「そうか」と呟いて頭を掻き、次いで言いづらそうに、
「いやな、お前宛のファンレターでよく分かんねえのが来てるんだよ。宛名は日本語なのにな、中身は未知の言語でさ。検閲しようにも検閲できなくてな、どうしようかと思ってたところだ」

 そこで、貴音の目に形容しがたい色が浮かんだ。

「その手紙は、どこに?」
「そのダンボールの中。Dに上がった瞬間べらぼうに数が増えてさ、今までは月に1通くらいだったんだが」
 大江の言葉が最後まで行く前に、貴音は床一面に散らばった書類を蹴散らして段ボールを開封した。
A4かける2の大きさの段ボールには3列にまとめられた封筒が日付順に輪ゴムで止められて奇麗に整頓されており、貴音は震える手で最新の日付のファンレターを一封取り出して中身を見た。

 次の言葉を発する3分間の間、貴音は何度も何度も大江には分からない不可思議な言語で書かれた文面を眺めていた。

「読めるのか」
 3分後にそう聞いた大江に、
「とても、」
 言葉を続ける貴音は、亡くした宝物を見つけたような、穏やかな表情を浮かべていた。
「…とても、懐かしい言葉です」



SS置き場に戻る      声に戻る                その18へ        その20へ

inserted by FC2 system