声 (20)

 16時からの営業は961本社の近場で行われた。
公開ラジオ収録現場は大通りに面した壁が一面の窓になっていて、窓に張り付いたファンたちに惜しまれながら17時きっかりにラジオ局を後にした貴音は現在掃除そっちのけで4畳の東の隅を独占している。
時折大江が「何書いてあるんだ」と尋ねるたびに貴音は「様々な事が」とだけ返し、三度同じことを聞いて三度同じ返答をしてきた貴音の背中に溜息をついた大江はそれ以降何を言うこともなく営業書類をまとめている。
貴音は黙々とファンレターと思しき段ボールの手紙を読み進め、読んでは丁寧に畳んでまた読んでは丁寧に畳んでを繰り返しているうちに40平米の壁掛け時計が録音された女の声で「19時です」と言ってきた。
「…お、もう7時か。貴音、そろそろミーティングしようや」
「……」
「貴音ー? おーい」
「…あ、はい、何でしょうか」
 溜息が出た。
大江は息付いた反動のようにゆっくりと椅子を回し、
「悪かった。もっと早めに見せればよかったかな」
 大江の謝罪に貴音は一度目を丸くし、その後散々な散らかりようの床を一瞥して再び段ボールに納められている綺麗に並べられたファンレターに視線を投げ、
「…いえ、こちらこそ申し訳ありません。ご心配をおかけしました」
「いや別に心配掛けられてはいないけどさ。悪かった、前にファンレターにセクハラ紛いの事とか読んでてムカつく事とかが書いてあったことがあってさ、そういう類の奴はアイドルには見せられねえから」
 剃刀は極端な例だが、公共放送で顔を売っている以上嫉みや僻みは様々な形でアイドルを襲う。
それらを真摯に受け止める必要はあったりなかったりと様々だが、ファンからの励ましが多数を占めるファンレターの中にその手の中傷が混じっていたりするとアイドルの精神に大きな影響を及ぼす。
自分自身765で活動していた頃にもその類の中傷レターが担当アイドルの精神をえぐってしまった時があり、以来自分は必ずファンレターの内容に目を通すようにしているんだ―――大江は下手糞にそんなことを説明し、言い訳じみたことを言っているのは十分に自覚しているのか、
「…何言っても今更だ。すまん、これは完全にこっちの不徳だ」
 そう言って大江は頭を下げた。貴音はもう一度4畳の床を眺める。
バツ印が付いた書類は二人でああでもないこうでもないと言いながら営業をしない事に決めた店舗の地図と営業条件のプリントアウトであり、最早腐界と表現してもさし障りのない4畳の中で東におかれた段ボールの中身の整頓具合は奇跡に近い。
 ファンレターを束ねた輪ゴムに挟まれた日付の直近のものは昨日の日付だったから、大江はどうやら段ボールの中身にだけはなけなしの整頓を心がけていたようだった。
「この種類のファンレターを、捨てたことは?」
 カマをかけた物言いに大江はガバリと顔をあげ、いかにも心外な事を言われたと言わんばかりの表情で、
「捨てるわけねえだろ、貴音に届いたファンレターなんだ。今までの奴も全部取ってある、見るか?」
 貴音はクスリと笑う。
だと思う。大江は自分の仕事場の整頓には恐ろしいほど無頓着な癖に、こと自分が関係した資料の類はしっかりとファイリングしている。
4畳に収まりきらなくなったその手の資料は地上17階の資料室に納められているが、前に一度迷い込んだ資料室で自分の名前が書かれたファイルが戸棚の1面を占めていたときは冗談ではなく驚いた。
「大江様を信頼します」
 貴音の微笑みに今度は安堵からのため息をつき、大江は頬を掻いて、
「なんて書いてあったんだ、それ」
「『がんばれ』と、大きく言えばそのような事が」
 一部の逡巡もなく貴音はそう答えた。
「誰から? っつーかどこの国の言葉だそれ。南オセチア?」
 大江の冗談にも似たその問いに貴音は曖昧に笑い、
「―――私が幼少時を外国で過ごしていたことは、ご存知ですね」
「どこかは聞いてないけどな。ってことは、差出人は田舎のファンか」
 それにしては妙だ。
差出人の住所も消印も、何より差出人の名前も日本名だったそのファンレターを見る限り、差出人は少なくとも日本国内で生活をしていると思われる。
エアメールでのファンレターだって来ることはあるのだ、何も『四条貴音』へのファンレターをわざわざ国内から発送する必要などどこにもない。
「そんなところです」
 対して貴音は「そんな事はどうでもいい」とばかりの様子だった。
貴音は「ファンレターが来た」というその一点のみに焦点がある様子で、それが「どこの誰から来たか」という点に関しては大した問題とは捉えていないようだ。
大江には読めない文字だから何が書いてあるかは謎だが、少なくとも段ボールの中ほどまで手紙を読み進めた貴音がショックを受けている様子はないようだし、心配された誹謗中傷の内容がないなら貴音がどんな手紙を受け取っても大江としては何を思うこともない。
「読んでないのあったら持って帰っていいぞ、どうせ読み切れてないんだろ?」
 大江の言葉に貴音は弾かれたように顔を上げ、
「よろしいのですか!?」
 いいも何も、
「だってそれもともと貴音宛だし。俺が読んでも意味ないしっていうか読めないし。社で保管した方がいいなら読み終わったら持ってきてくれ、17階に運んじゃうから」
 分かりました、という返事もそこそこに貴音はでかいバッグにファンレターを詰め始めた。
 その様子は実に明るく、大江は腹の底に少しだけ後悔の念を覚える。
貴音がこの種の嬉しそうな顔を見せたことはなかった気がする。まるで大昔にしまった宝物を見つけたような表情。
初めて会ってから半年くらいが経ったが、今までの貴音の表情はすべからくどこかに影があった。
手紙をバッグに詰め込んでいる貴音の表情はまさしく年相応の少女のそれで、これならばもっと早めに手紙を見せてもよかったのかも、
「あれ?」
 そこで、貴音の手がぴたりと止まった。
何かとみると、貴音はネッグストラップの付いたカード様の物体をしげしげと眺めており、その表情は見る間に実に険しいものに変わっていく。
「…大江様、中にこんな物が混じっていたのですが」
 低い声で見せられたものに、大江は「ああ」という顔をした。
「…大江様は、961のプロデューサーです。なぜこのようなものをお持ちなのですか」

『765プロデュース株式会社営業部 大江』。貴音から渡されたネッグストラップ付きカードには、そう書かれていた。
 どこからどう見ても、765の社員証だった。

「何だそこにあったのか。見つけてくれてありがとな貴音」
「答えになっていません。大江様は961のプロデューサーです。何故未だに765の社員証をお持ちなのですか」
 受け取ろうと伸ばした手に剣呑な質問を載せられ、大江は「何を言っているんだお前は」という表情を浮かべて、
「いいじゃねえか俺が何持ってたって。今の俺の首に掛かってんのは961の社員証なんだから」
 胸元から引っ張り出したネッグストラップには顔写真入りの社員証があり、そこに記載されているのは紛れもなく「961プロデュース株式会社営業部 大江」の文言であり、貴音はそんなことは百も承知だと言わんばかりの顔で、
「存じております。ですから、なぜ不要な物を未だに持っていらっしゃるのか、とお伺いしているのです」
「不要じゃないんだ。俺にとっては必要なの」
「あり得ません。大江様が765に出向くことなどもうあり得ないはずです」
「いや実際のところそれじゃもう765には入れないんだけどな」
 765プロデュース株式会社の社員が会社から支給される社員証には小型のICカードが埋め込まれている。
社内の機密情報を簡単に外部に漏らさないための工夫であり、たとえば9階のプロデュース課に入室するためには自動ドア横にあるIC読み取り機にカードを翳して鍵を外す必要がある。
社員証に埋め込まれたICカードは社員番号と対になって暗号化される仕組みで、ということは辞職により社員番号を喪失した大江のカードではセキュリティルームへ入室することはできない仕組みだ。
大抵社員証は辞職する時に会社に返納することになっているが、長年勤務をしてきた古株のカードは再利用するにもいろいろ問題が多く、セキュリティ上も番号を抹消してしまえばよいだけなので古株の社員証は回収されずに元社員の手元に残ることも多い。
 要は今の大江にとって765の社員証は思い出の品であり、それ以上でもそれ以下でもない代物である。
「であれば尚の事今の大江様にこれは必要がないはずです。なぜこのような物を未だにお持ちなのか、と聞いています」
「だから俺には必要なんだって。なあいい加減返してくれよ、頼むから」
「では、どう必要なのか、お答え頂けますか」
 貴音の問いかけは有無を言わさない迫力に満ちていた。
大江は困り果てたように4畳の腐界から天井を眺め、絞り出すような声で、
「笑うなよ」
「笑う要素など在りません。私は真剣にお伺いしています」
 確かに貴音の声色には怒気こそあるが嘲笑の色はなかった。
大江は観念したとばかりに両手をあげ、諦観の念を浮かべながらこう話した。
「…俺はさ、10年くらい765にいてさ、まあ10年くらいプロデューサーやってたんだよ」
 はい、と相槌を打つ貴音に大江は曖昧に笑い、
「でまあさ、10年もやってれば色々後悔することもある。今でこそ敏腕なんて呼ばれちゃいるが、昔は頑張ってもアイドルをCランクに連れていくのが精いっぱいだったりとかな。それ以外にももっとやりようがあったんじゃねえかとか、もっと効果的にやれるんじゃないかとかさ、そう思うことは今でもある」
「今でも、ですか?」
 大江の顔には穏やかな笑顔がある。
大抵の場合、つらい過去とは笑顔で語られるのが常である。
「今でもさ。IUが始まったおかげで半年でDランクなんてみんな足並みそろえちゃいるが、昔はIUなんてなかったしアイドルランクもやる気になればもっと早くに上げられたしな。『四条貴音』を売り込むにはどうすればいいかって考えるのは俺にとっては楽なんだ。これから先の事を考えればいいだけだしな。でも、昔の資料とか読んで『あのときどうしたっけな』って考えんのは…俺はちょっと辛い」
 まあ後悔だよな、と大江は呟く。
「それ見るとな、思い出すんだよ昔のこと。それぶら下げてた時の俺と今の俺ではどっちが力があるのかってな。もちろん普通に考えりゃ今だが、たまに自分で調子くれてんなって感じるときはある。そういう時、それ見るんだ」
 指さされた社員証には、もう10年も前の大江の顔写真が載っていた。
貴音は今の大江と昔の大江の写真をまじまじと見比べ、視線だけで続きを促す。
「あの時よりうまくやれてるか、あの時よりアイドルに負担掛けてないか、ってな。まあ自戒のための大事な道具ってわけだ。765でアイドル引っ張ってた頃と『四条貴音』を売ってる今と、ちょっと遠くから見るために必要なんだよ」
 だから返してくれ、という大江の頼みに、
「ではもう一つ。なぜこれが、私宛のファンレターの中に紛れていたのです?」
 問いかけに大江は呆けたような顔をして、
「…いや、俺も失くした側だから分かんねえけど。多分あれじゃないか、大事な物しまってる最中に紛れ込んだんじゃないか? …なあもういいだろ、返してくれよそれ」
 貴音は無言のまま一度だけ頷いて社員証を大江に、
「…お返しする前に、一つだけ確認させてください」
「なんだまだ何かあんのか。言っとくけどこれ話したのお前が初めてなんだかんな、他に言うなよ」
 恥ずかしそうにそう言う大江の顔に貴音を謀った様子は見えない。

 なるほど―――貴音は思う。
誰にでも捨てられない過去というものはあるものだ。
大江にしてみれば765で過ごした後悔の10年がそれに当たるのだろうし、自分にとっても「捨てられない過去」は『四条貴音』がトップランクを目指す動源力である。
時折見返して今を顧みるためという理由ならば、貴音も大江に社員証を返すことはやぶさかではない。何よりも―――
 何よりも、大江が自戒のためにこの社員証を見るのなら、その視線の先には自分がいるのだ。
大江がプロデューサーとして自戒しなければならないのは、紛れもなくその先に『四条貴音』がいるからなのだ。
大江は『大事なものをしまっている最中に紛れ込んだのかもしれない』と言っている。大江が仕舞っていた「大事なもの」とは、紛れもなく段ボールに3列で整頓されていた自分宛のファンレターである。
中身を見ても何も分からず、さりとて不審に思って捨てることはせず、もう少し早めに見せてくれたっていいとは思うが、それでも周りの散らかりっぷりに気など一切払わない大江は『四条貴音』宛のファンレターだけは綺麗に整頓していた。
 床一面に散らばるバツ印もそうだ、プロデューサーの立場ならアイドルに一言の相談もせずに営業先を決めることくらい造作もない。
むしろプロデュース計画に則って『四条貴音』を売り出すのであれば一々こちらの意向など気にする必要は全くない。
にもかかわらず大江が営業先を自分と毎回打ち合わせるのは、それはつまり『どれほど大江が貴音に気を使っているか』ということを証明することではないだろうか。
 言いません、と返した貴音の表情にはどこか隠しきれない不安があり、何かと思う大江に向けて貴音はこう尋ねた。
「大江様は、まだ765に未練が?」
 何だそんなことかという顔をした大江は、重力に引っ張られるまま首からだらりとぶら下がっていた961の社員証を見せ、
「今の俺は961の、『四条貴音』のプロデューサーだ。俺はお前をトップに連れてくためにいるんだ。未練がないって言ったら嘘さ、でもな、」
 そこで、貴音は大江の顔を見た。

 大江の目には、獰猛な笑みがあった。

「今の俺には、やる事がある。―――俺を、信じるか」
 返事の代わりに苦笑を洩らし、貴音は古巣の社員証を大江に渡した。
かちゃりと音を立てて手の平に収まった社員証をポケットにねじ込むと、大江はそこでへにゃりと笑い、
「いやーしかし見つかってよかったよ。失くしたかと思ってたんだ、ありがとな貴音」
 破顔した大江の顔を見ていたら、ふと腹の底辺りに加虐的な発想が浮かんだ。
貴音は大江の顔を見ながら一瞬だけ実に深い笑顔を浮かべ、次いで散らかりきった4畳の床をぐるりと眺め、
「そのような大事なものを失くしてしまう環境はやはり問題です。大江様の執務室は整理した方がよいと存じます」
「…あー、そういう風に持っていくのか。策士だな貴音」
「そうでしょうか? 先ほども申し上げましたが、私宛のファンレターをあれほど整頓されていた大江様が執務室を整頓できないというのは、私には解せません」
 そこまで聞いて、大江は改めて貴音を見た。
善は急げとばかりにいそいそと割烹着を着こみ始めていた貴音はそこで大江の視線を感じたのか歳相応の少女のような笑顔を浮かべ、

「私は、大江様の事を信じていますから」

 大江の頭の後ろの方で、「残業確定」の4文字が躍った。



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