声 (22)

 10月も半ばになればようやく夏の残滓も秋の入口に飲み込まれ、朝晩はそれなりに冷え込むようになった3次予選の会場はしかし2次予選のときと全く変わらない熱気を湛えていた。
『天海春香』の出演番は午後の2番手で、午前中から通算で見れば4番手に当たる。
春香は軽めの昼食を取った後に宛がわれた控室で最後のダンスのチェックを行っており、プロデューサーはプロデューサーで朝一の打ち合わせ時に配布された本日の出演者リストを険しい顔で眺めている。
3次を数えるまでに回数を経たIU予選会は回数が増えるほどに予選会そのものの回数が減る仕組みで、3次予選にまで来れば名の通ったアイドルたちと勝負する確率は会を重ねるごとに高まっていく一方だ。
3次予選も開催月である10月の毎週日曜日と回数だけ見れば4回あるが、プロデューサーにしてみれば一回落ちたらそこでアウトという意味で回数の多さは何の救いにもなりはしない。

 『四条貴音』は今日の2番目にその華々しいまでの歌を披露していた。

 「9:02 pm」のダンスを歌なしで踊る春香の様子を確認しながら、プロデューサーは左腕を通した腕章に手を添える。
春香にせがまれる形で午前中の『四条貴音』のステージを見に傍聴席に座ったプロデューサーは、そこで再び『四条貴音』に指示を送る大江の顔を見ている。
その腕に巻かれた腕章に書かれた文字は距離の関係で見えなかったが、出演する6組に合わせて色分けされた赤青緑黄色黒白の6色の内大江が腕に通していた腕章は黒だった、と思う。
プロデューサーがつけている腕章は765プロを表わす緑であり、配布された資料によれば大江の黒は961の黒らしい。
 最早疑いようがなかった。
 大江は、961に行った。
 いや―――プロデューサーはそこで首を振る。
「…? プロデューサーさん、ダンス、どこか変でした?」
「あ、ああいや、調子よさそうだなと思ってさ。『四条貴音』見た後だから緊張してるのかなと思ったんだけど、」
 いらないお節介だったらしい。
春香はその場でくるくると回った後ににこりと笑い、
「四条さんは四条さんですから。私は私ですし。四条さんがどんなにうまくても、私は私のやってきたことをやるだけです。プロデューサーさんがそう言ってくれたんですよ?」
 肝の据わった春香の弁に、プロデューサーは参ったなと頭を掻いた。なるほど予選会とはいえ2回も修羅場を潜れば腹も座るものらしい。
 なんだか一本取られたような気になり、プロデューサーは持っていたスポーツドリンクを春香に渡した。
どこかで見た豪快な飲み方が目の錯覚かのようにくぴくぴと喉を鳴らしている春香に向け、プロデューサーは苦笑交じりに、
「そうだね。春香は春香のやったことをやればいいだけだ。春香が思うような『9:02』を歌えばいいだけだね」
「はい。ハッピーエンドへゴーですよプロデューサーさん!」
 春香は強い、と思う。
2次予選で『四条貴音』を見た春香はその後なにがしかの衝撃を受けていたようだったが、2か月の間に完全に受けた衝撃を腹の中で消化してしまったかのように思える。
 IUのような一発勝負の場において、メンタリティ不調からくる失点は命取りだ。
どれほど練習を重ねようと、どれほど曲の解釈に頭をひねろうと、当日に何かの拍子で調子を崩してしまえばそれまでである。
審査員は結果のみを見るのだ。
 『四条貴音』が何をしてこようが、『天海春香』は『天海春香』らしくやるだけだ―――春香の眼は臆面もなくそう言っており、プロデューサーはほんの少しの気恥ずかしさを味わう。

 大江は、961に行った。
 それは認めがたいが、認めざるを得ない事実だ。
 では、なぜ大江は961に行ったのか、というのが現在の問題のはずだ。
この期に及んで「大江が961に行った」という事実すら認めないのは、肝心の大江の移籍の理由を考えないことと同じだ。

「そうだね。ハッピーエンドの方がいいや。みんなそうだと思うよ、僕もそうだし春香もそうだ。審査員には楽譜も渡ってるから、その辺は見られるポイントだろうね」
「あれ? そうなんですか?」
「うん。音程とか歌詞の聞きとり易さとかも審査の対象だから。審査員も一日で6組も見なきゃいけないんだし、ユニットごとの曲全部は覚えきれないんだって。…まあ、ほとんどは覚えてくるみたいだけど」
 へえそうなんですか、と呆けた顔丸出しでうなずく春香にプロデューサーは苦笑を洩らす。

 春香は「何か理由があったはず」と言った。
 プロデューサーもそう思う。
 何かやむをえない事情がなければ、プロデューサーには想像もできない途方もない理由がなければ、あの大江が765を裏切るはずがない、と思う。
 プロデューサーは、今でも愚直にそう思っている。

「じゃあ、インパクトのある歌詞の解釈って結構重要なんですね」
「うん。その意味ではこの間の解釈は大切だね。『天海春香』は『9:02』をこう考えますっていうのは、それだけで十分なアピールだ」
 時計を見る、春香の出番まで30分を切っている。
10分前にはステージ袖で待機しなければならないし、出演者控室も次の組に明け渡さなければならない。
審査員は1ユニットが終わった後に休憩を兼ねた得点の示し合わせに30分の時間を設定しており、耳を澄ませば前のユニットが終わった後の騒がしい会場の足音は控室にもわずかに響いている。
「…だから、春香は春香の思うように歌っておいで。今までやってきたことは絶対に無駄にならない」
「私の思うように、」
「ハッピーエンドがいいんでしょ?」
 呟いた春香ににへらと笑いかけ、プロデューサーは春香に向けて手を差し出す。
春香は差し出された手を一度だけじっと眺め、
「私が想う、『9:02』、ですね」
 次いでプロデューサーの顔をじっと見つめ、呟くようにそう言った。



 仄明るい会場はバタバタと忙しのない足音で覆われている。
大江は傍聴席に座り、わずかな明るさに頼って『天海春香』の資料をぺらぺらと捲っている。
貴音はと言えばそんな大江の横で行儀よく座っており、ヤクザ丸出しで座っている大江と比較すれば正しく「正しい座り方講座」での良悪の例のようではある。
 が、良い例の顔を見てみればNHKあたりでやっていそうな「正しい座り方講座」の表情とは似ても似つかない。
貴音は不機嫌を隠そうともしない膨らんだ顔をしたまま分速4センチという非常に微妙な速度で会場内を見回しており、やがて大江の顔が視界に収まったあたりで貴音は実に大げさな溜息をついた。
「…何だ貴音疲れたか。知ってるか、ため息ってつくと幸せ逃げるんだぞ」
「逃げたならもう一度掴み取るまでの事です。それに、溜息が日常茶飯事な大江様に言われたくはありません」
 言うと、大江は違いないとばかりにヒヒヒと笑いだした。
まったく―――貴音は思う、IUは頂点を極めんと熾烈な争いを勝ち抜いてきた猛者たちの決戦の場のはずなのに、会場のざわめきは一向に収まる気配がない。
これから戦いに赴かんという勇者たちを鼓舞するざわめきならまだましにしろ、“ますめでぃあ”とやらの騒ぎ立てぶりにはほとほと閉口する。
2次予選の時は昼一番だったから午前中は表で過ごしていたが、昼前にステージとなった今回は朝からずっと会場に入りっぱなしだ。
本番前でピリピリしていたのはまあ認めるが、それにしても「本番前のアイドルへの“ますめでぃあ”接触は禁止」というのが大会のルールではなかったか。
思わず口を突いて出た「退け下郎」というのは確かに少し言いすぎた感がしなくもないが、それにもめげずにステージ後に突撃取材をかましてくる“ますめでぃあ”の根性にはほとほと頭が下がる。
 だがまあ、“ますめでぃあ”に騒ぎ立てられることで『四条貴音』の名が知れ渡るならば貴音にとってもその方がいいし、貴音の目的に照らしてみれば“ますめでぃあ”の煩雑ぶりはかえっていいのかもしれない。
「…『天海春香』がこの次だな。なあ貴音、どうよライバルたちの動向は」
「前にも申し上げました。挑んでくるなら清々と打ち砕く、それだけのことです」
 何を言うのかと思えば。
実際問題として貴音が今日見たライバルのステージは3番手だけだが、IU3次予選にしてこのレベルしかいないのかと思えた3番手のステージは貴音にしてみればいっそ哀れな代物だった。
 これならばIUも知れたものだ―――貴音は本心からそう思う。
大江が気にしろと言っていた『天海春香』のステージはこの次だが、しかし3番手も結構名の売れたユニットだったはずだ。
名の売れたユニットがあの程度なら、3次予選などあっさりと抜けてしかるべきだと思う。
「『天海春香』にしてもそれは同じです。頂点に立つのが一人なら、いずれふさわしい場で決着をつけるのみ。何度も申し上げますが、『天海春香』が私の障害になるとは到底思えません」
「…ふさわしい場、ねえ。それってなぁあれか、決勝の事か?」
 どうも大江は『天海春香』の事をこちらに意識させたいらしい。貴音は腹の奥底で溜息をつく。
「『天海春香』が決勝まで勝ち残るならばそうなるでしょう。もしそれだけの力がないなら、この先の予選会で『天海春香』は姿を消す。それだけのことです」

―――…四条さんが何て言っても、私のプロデューサーはプロデューサーさんしかいません。私はプロデューサーさんを信じます。

 最も―――あれだけの大口を叩いたのだ、『天海春香』にはぜひとも決勝まで残ってほしいとは心の片隅で思う。
あの一言は貴音に言わせれば挑戦に等しい。「みんなを元気にしたい」などという甘ったれた動機は是非ともこの手で砕いてやりたいとは思わなくもない。
貴音の表情に浮かんだ薄暗い笑みに大江はふと気持ちの悪い笑顔を浮かべ、
「前にも言ったがな、あの手合いは化けて出るぞ。お前もそう思ってるからここに残るって言ったんだろ?」
 大江の言葉に反論しようとしたその時、ただでさえ乏しかった会場の明かりが一気に消えた。
一瞬で暗転した視界に意見を封じられた形になった貴音は静かに息を吐き、大して上等でもない背もたれに体重を乗せる。
ぎしりという音を立てた椅子はその後何の音も出さず、消えた光は会場を覆っていたざわめきを引き潮のように沈めていく。
「…だとしたら、多少の興味は惹かれます」
「へえ」
 薄暗い会場の中、沈みきらないざわめきの残滓の中で、冊子を閉じる音がすぐ横から聞こえた。
「『みんなを元気にしたい』などという理由で歌う『天海春香』がどのような進化を遂げ得るのか、それを確認できたならここにいる意味もありましょう。もしなければ、」
 未だ暗いステージを見つめる貴音の瞳に、薄暗い闇に鋭い光が宿る。
「もしなければ、『天海春香』が私の障害足り得ることは決してありません―――何度も申し上げますが。ですが、もし『天海春香』が何らかの進化を遂げたのなら、その時は改めて打ち砕くのみです」
 闇の中からため息が聞こえた。
「王様のお眼鏡に叶やぁいんだけどな。『天海春香』」

 その時、ステージのライトに火が灯った。
 ゆっくりと、まるで深呼吸をするかのように両肩を上下させた『天海春香』がステージの中央に歩み寄る。
その動きはまさに素人同然であり、遠目からも『天海春香』が何かを呟いている様子は手に取るように分かる。
やがてステージ中央にたどり着いた『天海春香』はマイクの前でぺこりと頭を下げ、後ろに振り返って何事かを言った。
おそらくはバックバンドへの開始の指示だ。
その証拠に小さなメトロノーム状の音が聞こえだし、控えめなライトがバックを照らし始めた。
しっとりとした前奏は前の『relations』とは真逆の出だしであり、貴音はそこで初めて目を開いた『天海春香』の表情を見た。

♪  Goodnighi ひとりきり ♪

 最初の1小節で、貴音は大江が決して嘘をついていなかったことを悟った。
『天海春香』は格段にレベルアップしている。
歌い出し、声の張り、情感にあふれた足運び、高く上げられた腕の艶かしさは春香の歳が自分とそう違わないはずという意識を一瞬吹き飛ばし、その歌に込められた『天海春香』の感情は『9:02』の感情であって『9:02』のそれではない。
 まさに『天海春香』オリジナルの感情が込められた『9:02』は貴音だけでなく会場に詰めた関係者たちから一斉に言葉を奪い、会場が暗くなってからも聞こえたざわめきは最初の1小節で完全に消し飛んでいる。

♪ Make Up 落とした素顔 ♪

 化けた。
 貴音はそう思う。
ステージで歌っているのは4か月前に見た『天海春香』とは似ても似つかぬ別人である。
が、それでもなお『天海春香』が『天海春香』らしさを失わないのはその歌い方によるもので、『9:02pm』が本来表わしているはずの物悲しさ以上に、帰ってくるはずがない恋人がいつかきっと帰ってくると信じ抜く途方もないまでの暖かみに満ちているその歌に、貴音の脳裏にいつかの春香の声が蘇る。

―――…みんなに、元気になってって、

 この歌は、『天海春香』の覇道とは真逆のはずだ。
それがどうだ、『天海春香』は歌に乗せる感情を巧みに操って本来なら前面に押し出されるべき寂寥感を感じさせない。
信じていればいつかきっと願いは叶う、そう言われているようなその歌は貴音を含めた会場全体を覆っていく。

♪ ねえ… 幸せ…? ♪

「…化けましたね、『天海春香』」
 飲まれないように出した声は震えていた。
まったく思わぬ伏兵もいたものだ、3番手と『天海春香』は比べるのが馬鹿らしいほどに完成度が違っている。
これならば『天海春香』も3次予選を抜けてくるだろうし、またそうでなければ面白くない。
相手の力量を認めるようで癪ではあるが、確かに『天海春香』もまたIUの頂点を目指す一人だったのだろう。
 面白くないが、これは認めざるをえまい、
「大江様?」
 そして貴音は、そこで初めて横を見た。

 大江は、『天海春香』を見てはいなかった。

 大江の首は審査員席の後ろにまっすぐ向けられており、そこには審査員席のスタンドから漏れ出る光に照らされた男が立って『天海春香』にまっすぐな視線を向けていて、その腕には緑色の腕章が通されていた。
あれは、765の、『天海春香』のプロデューサーだ。
そして765のプロデューサーは、大江と貴音が見つめる前で、両手で大きく丸を作った。

♪ 逢いたい… ♪

 そこで、『天海春香』の歌声が響いた。
耳だけをステージに注力させると、『9:02』は今まさにクライマックスを迎えようとしているところだった。
765のプロデューサーと思しきその男は『天海春香』の声の張り具合に遠目からもはっきりと分かる程大きく頷き、

 その顔を、まっすぐにこちらに向けてきた。

 ビビった。まさか向こうもこっちを見てくるとは思わなかった。
貴音は唐突に一種の居辛さを感じて顔を背けるように『天海春香』のステージに顔を向けるが、大江は765の突然の行動を何も感じないかのようにじっと緑腕章に向けているようだった。
なんだ自分から『天海春香』は要注意だって言ったくせに、大江はまるで『天海春香』など気にもしていないかのように先ほどから765のプロデューサーだけしか見ていない。
最初の一小節で『天海春香』が化けたとはっきりしたのだ、この上ならばせめて自分だけでもしっかりと『天海春香』を見ておかないと、

♪ 鳴らない tears 泣いてるよ ♪


 ここで、貴音はようやく『天海春香』の歌声の異変に気が付いた。
異変、と言っては語弊があるかもしれない、おそらくは会場の誰も気付いてはいないであろう『天海春香』の歌い方の変化。
本当に僅かだが、しかし貴音はこの時『天海春香』の歌に混じる、前パートの歌い方にそぐわない感情の色を鋭敏に感じ取った。
 言葉に表すのは難しいし、本当に貴音が感じた通りならまず混ざるはずのないその色は、しかし意識すればするほど耳に残る色だ。

♪ 君を今 感じられたら ♪

 本当に僅かな色だ。
聞く耳のある連中でも分からないかもしれない、「みんなを元気にしたい」などとのたまう『天海春香』なら絶対に混じらせないはずのその色は、無理して言葉にするのなら「無力感」だった。
 全体としては「恋人は絶対に帰ってくる」と言って憚らないその雰囲気の中でぽっかりと浮かぶ僅かなその感情を違和感なく溶け込ませる『天海春香』の技量は確かに化けたと言っても何のさし障りもないように思えるが、その僅かな色は僅かなだけ貴音には奇妙に思えた。
「大江様」
 再度の呼びかけにようやく大江は反応する、
「ああ」
 大江は顔をこちらに向けない。
あくまでもじっと765のプロデューサーを見ている大江の背中には「なぜ『天海春香』があんな歌い方をするのか」と聞いても仕方のないように思え、貴音は一瞬の逡巡ののち、
「化けましたね、『天海春香』」
 貴音の言葉にようやく大江は765のプロデューサーから視線を外し、
「だから言ったろ、あの手合いは厄介なんだ。ひたすら信じて打ち込んでくる奴ほど蹴落とすのは手がかかる。だからこそやりがいもあるってもんだが―――貴音?」
 貴音は大江に応じず、顔を大江に向けたまま視線を『天海春香』に向ける。
「ひたすらに信じて打ち込んでくる奴」が果たしてあんな色を歌に混ぜるだろうか。
 ただ「みんなを元気にしたい」という一念で歌うはずの『天海春香』が、僅かとは言えまるで自らの負けを認めるような色を歌に混ぜ込むだろうか。
「…大江様、『天海春香』のステージののち、少しだけお時間を頂けますか」
「? ああ、いいけど。どこ行くんだ?」

♪ 君を今 感じられたら ♪

「…『天海春香』のところに。少々、『天海春香』の化け具合に興味が湧きました」
 貴音の言いづらそうなその言葉に、大江はにやりと見ていて気持ちの悪い笑顔を浮かべ、
「んじゃさ、その時ちょっと頼まれて欲しいんだが」
「何でしょう」
 応じた貴音に大江は一言「助かる」とだけ言い、ちらりと審査員席の後ろで西條秀樹を彷彿とさせるYの字を作った男に視線を投げ、

「あいつにさ、765のプロデューサーに、『屋上で待ってる』って伝えて欲しいんだ」

 そう言った大江の笑顔に、貴音はどこか薄ら寒さを覚えた。

♪ ずっと… ♪

 『天海春香』のステージが終わる。ステージの真ん中で礼をする『天海春香』に拍手が送られていいる。会場に光が灯る。

 貴音と大江が、揃って席を立つ。



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