声 (24)

 控室の長机の列を走り抜いた。
見てくれだけはそこそこに立派な控室の扉をぶち破らんばかりの勢いで開け放ち、左折して一番近くにあったエスカレーターの踏み板を踏み割る勢いで駆け上がる。
エスカレーターから会場の一番東の非常階段の距離は30メートルほどあるが、ものの6秒ほどで30メートルの距離はゼロになる。
勢いにものを言わせて最初で最後の階段を3段飛ばしで一気に駆け上がり、見えた扉は普段も誰かが出入りしているのかそれなりに見栄えのするものだった。
 鍵は、掛かっていなかった。
 この扉を開けたらどうなるかなど、この時のプロデューサーには考える余裕はなかった。
 聞きたいことは山ほどあった。
なぜ765から出て行ったのか。なぜ961に行ったのか。なぜ『四条貴音』のプロデューサーをしているのか。なぜ、
 なぜ、765を裏切ったのか。



 開け放った扉の向こうには、雲ひとつない秋の空がある。
すでに傾きかけた太陽は給水塔の裏側に東に伸びる影を作り、それ以外には建造物の影も形も見当たらず、近いような遠いような屋上の縁には情緒も何もあったものではない転落防止用の緑のフェンスがひっそりとその存在を主張している。
 大江は、開け放った扉の真正面にたたずみ、フェンス越しに会場の正面に広がる駐車場を眺めている。
「大江、さん」
 その腕には、秋の陽光をまるで反射しない黒い腕章が通されている。
走る気力は最早なく、プロデューサーは夢遊病患者のようにおぼつかない足取りで大江に近寄る。
足音に気が付いたのか大江はゆっくりと振り返り、一瞬だけ何と言葉をかけたらよいのか分からないという顔をして、ようやく垢抜けない声を出した。
「…よう。久しぶり」
 半年振りに聞いた大江の声は、半年前の記憶と何の違いもなかった。
違うのは大江の腕に通されている腕章の色で、プロデューサーがつけている緑の腕章とはまるで違うその色は否応なしにプロデューサーに今の大江の立場を分からせる。
「机の上、綺麗にしてるか?」
 軽口染みた大江の声に、プロデューサーは恐ろしいまでの虚無感に襲われた。
「…不出来な先輩を持って苦労しましたから。まだ小鳥さんに怒られたことはないです」
 言いやがるよ、と大江は笑う。
その笑顔には半年前とどこにも違うところはなく、記憶の通りの大江の姿にはまるでこの半年が夢ではないのかと思う。
むしろ夢であって欲しい、この半年が夢ならば大江が着けている腕章は決して黒ではないはずだから、IUなどというろくでもない大会など存在しないはずだから、大江が961に行ったはずがないのだから。
 そして次に大江が言った言葉は、プロデューサーに「これは現実だ」と認識させるに十分なものだった。
「元気だったか」
 それを聞いて、プロデューサーはようやく理解した。
 大江は、961に行ったのだ。
「…なんでですか」
 プロデューサーの問いに大江は表情を変えない。
大江の背後には途方もなく青い10月の青空があり、雲ひとつないその空は果てなどない程嘘臭く、プロデューサーは己の頭の中にぐるぐると渦巻く言葉の羅列からようやく最初の一言を拾った。
「なんで、961に行ったんですか」
 大江は一つも表情を動かさず、プロデューサーの問いを咀嚼したかのような間を置き、
「理由が欲しいのか」
 何言ってるんだ、
「大江さん言ってたじゃないですか。アイドルは人形でも何でもないって。ちゃんと一人の人間なんだって、人形なんかじゃなくて人間をアピールするから大江さんは765にいるんだって言ったじゃないですか。765は、961とは違うんだって、」
 一息にそこまで言い、プロデューサーは口を噤んで大江の腕を見た。
大江の腕に通された黒の腕章には紛れもない白文字で「961プロデュース」と書かれており、全身を襲う耐えがたいまでの虚脱感は夢や夢想の類にしては現実味があり過ぎた。
「…大江さんがそう言ってくれたから、僕は765で良かったって思ったんだ」
 なのに、なぜ、大江は961に行ったのか。
 なぜ、765を裏切ったのか。
 そこで、そこまでプロデューサーの訥弁を聞いていた大江は黙って胸ポケットをまさぐり、次いで上着の内ポケットをまさぐって溜息をついた。
覚えている、春香と初めて会ったあの日のあの休憩室、大江のポケットには煙草のケースが入っていた。
「…禁煙したんですか」
「ああ。貴音がな、煙草嫌いだって言うからよ」
 『プロデューサーの仕事はアイドルが全力でステージに向えるようにバックアップをすること』とプロデューサーに教えたのは大江だ。
その大江が、担当のアイドルが嫌いだからという理由で煙草を止めていた。
 大江が今担当しているアイドルは、961のアイドルだ。
「例えばさ、」
 大江は、言う。
「例えばな、765時代の3倍の給料を出すって言われたんだ。おいしいとは思わないか?」
 大江は一体、何を言っているのか。
自分が今どんな顔をしているのかプロデューサーには分からない。
大江はプロデューサーの顔を見ると溜息をつき、
「じゃあこんなのはどうだ。『四条貴音』っていうトップアイドル間違いなしの逸材が961にいてだな、961に言ったら『四条貴音』のプロデュースをやっていいって言われたんだ。いい話だろ?」
 大江の表情にはへらへらとした軽薄を絵に描いたような笑いがある。
からかわれているのかおちょくられているのか、プロデューサーは一瞬にして頭に血が上ったのを脳みそのどこか冷静な部分で知覚する、
 怒声が上がる、
「ふざけんなっ!! 僕がそんなの信じると思ってんのか! ウソ付くならもっとまともなウソ付けよ!! あんたそんな人じゃないだろ!?」
 対する大江は、プロデューサーの怒号にうるさそうに眉をひそめ、
「だって理由が欲しいんだろ? 俺が765捨てて961に行った理由がさ」

―――きっと相手の人にも何か理由があったんだと思います。自分じゃどうする事もできない理由が。

 プロデューサーもそう思う。
大江が961に行ったのは何かやむをえない事情がある。
大江にはどうしようもない理由が、抗う事の出来ない理由があるのだと信じている。
 そう信じていたから、大江が理由もなく765を裏切るはずがないと思っているから、今の今までやってこれた。
 そして大江は、鼻息荒く己を見つめるプロデューサーに向かい、その『理由』を言った。
「理由なんて無いもんなぁ。無いモン捻り出そうとしたって出てこねぇよ」
 理由が、ない、
「ざけんじゃねえよっ!! 理由がないなんて事あるわけないだろっ!! 何で961に行ったんだよっ!? あんたが言ったんだろ、僕たちには僕たちのやり方があるんだって!!  あいつら人形でも何でもないって、あんたが言ったんだろ!?」
「そうだよ。俺がそう言った」
 怒りそのものをぶちまけるような弁を丸ごと肯定され、プロデューサーは鼻白む。
二の句が継げなくなり、しかしこみ上げる怒りだけはどうにもし難く拳を握り締めるプロデューサーに向かい、大江は言葉を繋げる。
「そう思って10年間765でやってきた。10年間もアイドル育てて別れて、その間ずっとどうやったらアイドルをもっと売り込めるのか考えて、どうやったらアイドルに負担掛けずにドサ回りできるのか考えてよ。最後の年にゃお前の面倒も見て、それでな、俺ぁこう思った」
 まるで夕飯の献立を言うかの如き気軽さで、大江はこう言った。
「そこまでしてまだ、俺は『アイドルマスター』になれないのか、ってな」
 突き抜けるほどの秋の青空は、どこまでも澄んでいた。
「だってそうだろ? 今じゃ業界のトップを争う765の一番最初っからプロデューサーやってさ、Aランクにも何人も連れてってさ、まだ俺はその器じゃねえのかって思うだろ? そこ行くとよ、961は確かにぽっと出だし『四条貴音』なんつう滅茶苦茶才能ある奴もいるしな。腕試しには丁度いいじゃねえか」
 大江は一体、何を言っているのか。
 自分が求めた答えは、こんなものだったのか。
「才能なら春香だって負けてない! 別に961じゃなくたってよかったじゃないか! あんたが言ったんだ、アイドルは人形なんかじゃないって! 何で人形作る961になんて行ったんだよ!!」
 プロデューサーの言葉に、果たして大江は笑った。
今までのへらへらとした軽薄な笑みではなく、まるで言われた事が面白くてたまらないと言わんばかりの笑顔をした大江は腹から体を折り曲げるようにしてゲラゲラと笑い、15秒ほどもそうして笑った後に改めてプロデューサーの方を見た。
 大江の顔は、全く笑っていなかった。
「何が個性だ」
 大江は一体、何を言っているのか。
「なあ、思わないか? アイドルなんつったって結局は客商売だ、売れなきゃアウトなんだって思わないか? 客ってのはいい身分だよな、自分の趣味に合わなきゃ別にCD買ったりテレビ見たりしなくていいんだからよ。俺たちの仕事はそういう連中に『うちのアイドルはあんたの好みに合いますよ』って言うことなんじゃないか? 俺たちの仕事は、そういうアイドル作ることなんじゃないのか?」

―――お前、ホントにそんなんでプロデューサーやれると思ってんの?

「違うっ! 僕たちの仕事はアイドルが全力を出せるようにサポートすることだ! アイドルを支えて、ファンに最高のアイドルを見せることだ! あんたがそう言ったんだ、僕は覚えてる!」
「―――そんで、そうしてきた俺は『アイドルマスター』にはなれなかった」
 大江の言葉に、プロデューサーは息を止めた。
「お説ごもっともだ。個性豊かなアイドルを陰日向で支えてよ、アイドルが最高のポテンシャルを発揮できるように下準備するのがプロデューサーの仕事だ。実に綺麗な話さ。それでうまくいきゃ万々歳だ。だけどな、結局そのやり方じゃ万々歳にはならなかった。わかるだろ俺の言いたい事」
 足元に穴が開いた気がした。
プロデューサーは崩れ落ちそうになる足に力を入れて屋上の床を踏みしめ、大江の顔を見つめる。
 大江の顔には、何の表情も浮かんでいない。
「765のアイドルは個性派ぞろいさ。だけどな、それは決して万人受けするアイドルってわけじゃない。それは決して俺たち『プロデューサー』の評価にはつながらない。だったらよ、俺はこう思うんだ、」
 そして大江は、プロデューサーが最も聞きたくなかった事を言った。

「だったら、俺たちの仕事は万人受けする『人形』を作る事なんじゃねえの?」

 頭の中が真っ白になった。
今目の前にいるのは大江であって大江でない気がする。
しかし、プロデューサーの目の前に真顔でたたずむ男は記憶の中にある『目標』の姿そのままで、だからこそプロデューサーは大江の言う事に矛盾があると思う。
それこそが今のプロデューサーにとって大江が大江だと思える理由であり、だからこそ大江は嘘をついているのだとプロデューサーは思う。
 そう思う理由を、言う。
「だったら、だったら何で『四条貴音』の売り方をそうしないんだ。あんたの売り方は765の時と何にも変わってないじゃないか。『四条貴音』は個性で売ってるじゃないか。人形なんかじゃないじゃないか。あんたさっき言ったじゃないか、『どうやったらもっとアイドル売り込めるか、どうやったらアイドルに負担掛けずに営業できるのか』って言ったじゃないか。それはあんたが765でやってた事と同じだろ?」
 震えた言葉を聞き、大江はまるで己の失策にため息をつくような表情をして、
「だからさ、その辺が10年間の弊害なんだって。答えは簡単なんだ、『人間』じゃなくて『人形』にしちまえばいいんだよ。本音出すより仮面作った方が簡単だろ? 分っちゃいるけどなかなか難しくてさ」
 まだ引っ張られちまうんだよな、という言葉を、プロデューサーはどこか遠くで聞いた。

「なあ、お前もそう思わないか? 『天海春香』にしたってそうじゃないか。『みんなを元気にしたい』んだっけ? 立派な志だとは思うけどさ、ゴールじゃない目標なんか追いかけて何が楽しいんだよ?」
 どこか遠くで、大江が何かを言っている。
「俺たちの仕事は定量で測られるべきだろ。ファンの数にしたってCDの売り上げにしたってよ。どう測るんだ『みんなを元気にする』って。お前だって気づいてるんだろ? ゴールなんかないって分かってるんだろ? 『天海春香』の夢のゴールはプロデューサーのゴールじゃないって、お前ももう気付いてるんだろ?」
 押し黙るプロデューサーの前で、大江は遂に、その言葉を言った。

「重くねえ? それ」

 自分がどうして立っていられるのか、それだけが今のプロデューサーにとっては疑問だった。
「…それで、あんたは自分の夢を追いかけることにしたのか。765を捨てて、人形作って、『アイドルマスター』になるために961に行ったのか」
 絞り出したような答えの確認に、大江はため息を一つ付き、
「もう飽きたんだよな、アイドルのために自分の夢を諦めるの。ここらで一つ立派な人形作ってよ、IUだか何だか知らないがそこで優勝でもさせりゃあ、俺も『アイドルマスター』になれるんじゃないかと思ってさ。それなら765にいるより961に行った方がいいだろ? 『個性』とかいう測れない目標立てて頑張らせるよりさ、どんだけ売れたかストレートに見える961の方が都合いいだろ? それがまあ、強いて言うなら理由になるのかな」

 プロデューサーは、ここまで聞いて、ようやく悟った。
 自分が目標としていた大江はすでにもう、どこにもいないのだ。

「…優勝なんかさせない」
 恐ろしいほど底冷えした声が自分の喉から出たことに、プロデューサーの脳みそのどこかが驚いていた。
「『四条貴音』を優勝なんかさせない。あんたなんかに優勝させたりはしない。『天海春香』は自分の夢を叶える。765のバックアップも完璧だ。あんたには、絶対負けない」
 明確な宣戦布告をしたプロデューサーに向けて、大江はふと疑問の表情を浮かべた。
「765のバックアップも完璧?」
「そうだ。社長だって『天海春香』の活動は認めてる。あんただって765にいたんだ、765の営業バックアップの凄さ知らない訳じゃないだろ。全部使ってやる。全部使って、あんたの下らない夢なんか叩き潰してやる」
 精一杯の凄みを利かせた声はしかし、大江には何のプレッシャーにもなっていないようだった。
それどころか大江の表情に浮かぶ疑問は一層色を濃くし、やがて大江は万が一の可能性に気付いたかのようにプロデューサーにこう問うた。
「…何だ、お前ひょっとして何も聞いてないのか」
「何を」
 そして大江は、さも面白い事を聞いた、と言わんばかりに笑った。
腹を九の字に折り曲げ、つむじまで見せて先ほどよりもなお大きな声を上げた大江の顔は、まるで決して叶う事のない子供の夢を笑い飛ばす意地の悪い大人の表情だった。
「あーそっかそっか。聞いてないのか。ならまあ夢も語れるわ。いいなーお前、周りの連中はみんな味方だとでも思ってんだろ? めでてえなあ」
 最後の「めでてえなあ」を吐き捨てるように言い、大江はもう話すことなど何もないとばかりに屋上からの唯一の出口に向って歩を進め出した。
「…何の、話だ」
 すれ違いざまに問いかけると、大江は淀んだ眼のままにやりと笑い、

「お前たちはな、モブなんだよ。言ってみりゃ咬ませ犬だ。なあ、おかしいと思わなかったのか? いくら俺でも765退社して即961に入社なんて芸当できるわけないだろ。俺の移籍には誰かが噛んでるとか思ったことなかったのか?」
 
 どうして、自分は立っていられるのだろう。
「まあ、考えてみりゃそれもそうか。新米プロデューサーと新米アイドルを犠牲にするなんて高木さんが言えるわけないもんな。言われなかった事は分からないもんな。知らないってのは罪だねぇ」
 そして大江は、色を無くしたプロデューサーをあざ笑うかのような瞳をして足を扉に向けた。
「社長室のチェストの一番下の引き出しだ。ダイヤルロックは0765。そん中に社外秘の赤い封筒入ってる。見てみな、お前もそれで分かる」
 そして大江は歩みを止めることなく、別れ代りにこう言った。
「お前に、味方なんかいない」



 車に戻っていた春香に何も言わずに765へと戻り、ミーティングで話した内容も話された内容も何一つ頭には残っていない。
春香の様子は別段どこも落ち込んではいなかったから、おそらく『天海春香』はCランク昇格を果たしたのだろうと思いはする。
ミーティング後に何か言おうとしていた春香に「次は3日後」とだけ言ってプロデューサーは廊下に出て社長室の扉をノックし、5秒だけ待って何の返答もなかったので扉を蹴破った。
 すっかり上った月光以外に、プロデューサーを出迎えるものは誰一人としていなかった。
 好都合である。
プロデューサーはその場で周囲を警戒し、誰も社長室に近づいてこないことを確認して机に備え付けてある上物の椅子に座った。
視線を右下に送るとそこには重厚な造りのチェストがあり、上から下まで合計で4段ある引出しの一番下には4桁のダイヤルロックがかかっていて、すべてが0で合わせられているロックキーを大江の言ったとおりに回した。
 鍵が開き、プロデューサーは何のためらいもなく引き出しを引き抜いた。
 引出しの中には夥しい封筒が入っている。
そのどれにも小鳥が押したと思しき「社外秘」の印が擦り切れた盤面をさらしてプロデューサーを嘲笑っており、引出しの一番奥には他の書類と明確に分ける意図があったのかブックスタンドで止められた一角があって、その中にあった真っ赤な封筒はチェストという防犯の意識が感じられない引出しの中でひときわ目立っていた。
 頭の中で、誰かがこう言った。

―――なあ、本気で見るのか。
やめとけよ、社長室の中で社外秘の書類見るなんて正気の沙汰じゃないだろ。大江に何言われたっていいじゃないか。社長だって言ってただろ、『天海春香』のバックアップは任せとけって。変な欲起こさないで黙って社長室出ろよ、今ならまだ間に合うぞ。

 震える手で赤い封筒を引き出しから引っこ抜き、地が赤いためか黒判で封をされた封筒の背面を見た。
背面にはひときわ大きな文字で「極秘」と書かれていて、よく見れば封筒のそこかしこには何度も手に取られたからか綻びが起きているのが分かる。

―――なあ、満足しただろ? もう充分だろ? それ以上やったらお前ここでプロデューサーなんてやってられなくなるぞ。バレた時のこと考えろよ、黙って封筒しまってなかった事にしちまえよ。そんでさ、明日社長に聞いてみればいいじゃないか、大江の移籍に社長は絡んでませんよねって。

 糊付はされていなかったが、よく見れば誰かが開けたのか乾いた糊の跡がある。
ここ最近の跡ではないその封筒の切り口にプロデューサーは吐き気がするほどの緊張を覚え、机の上に上げた封筒の中にワニの口に手を突っ込むが如くの表情を顔に張り付けて封筒の中身を漁る。

―――なあ、これが最後だぞ。ほんとにこれ以上は取り返しがつかないぞ。そんなにムキになることじゃないだろ、ただ単純に今まで信じてた大江が思った以上にクソ野郎だったってだけじゃないか。これ以上深追いするなよ、壊れちまうぞお前。

 震えた手で書類を掻き出し、そこに書かれている『計画』冊子の文面を、プロデューサーはそこで見た。

 『アイドルマスター計画』と書かれていた。

 不思議な事に書類の上の縁には半分に切れた印鑑の跡が2つ並んでいる。
企業間で重要な契約を結ぶ際の割印のように思える。
契約会社双方が契約計画の締結書類を2つ準備しておき、確かに書類の内容で合意した証拠として締結書類を2枚重ねて判を押すやり方だ。
では契約会社はどこかというと、表紙の下の方に『765プロデュース株式会社』の判と並んで『961プロデュース株式会社』というあって欲しくない名前の判が見紛えることなく綺麗に押されている。

―――なあ、もういいだろ。ここらが潮時じゃないか。どうすんだお前明日から。明日社長の顔見れんのかよ。3日後に春香の顔見れるのか。何にも聞いてなかった事にしとけよ、明日笑って社長におはようございますとか言った方がまだいいじゃないか。本気かよお前、ほんとにこれ以上踏み込んだら戻れなくなるぞ。

 うるさい。

 そしてプロデューサーは、『アイドルマスター計画』と書かれた冊子を開いた。

 誰かが、頭の中でこんなことを言った。



―――あーあ。



 冊子には、こんなことが書かれていた。
 『アイドルマスター計画』は765と961が合同で行っている大江をアイドルマスターにするための計画であること。
 そのために大江は961へと移籍し、IUの優勝を持ってアイドルマスターへの昇格を狙っていること。
 『計画』の遂行にあたり、961には社名認知度の向上、765にはプロデューサー教育方針の認知をその目的としていること。
 『天海春香』は大江がプロデュースしている『四条貴音』のIU決勝での優勝を確実にする布石とするため、Aランク昇格後に765が『天海春香』のバックアップを行わないこと。
 『天海春香』を最低限Aランクに昇格させるため、大江が1年間をかけて自分を鍛えたこと。

 そして、『計画』は961プロデュースの黒井社長と、765プロデュースの高木社長が双方の同意の上で実行されること。

―――いいなーお前、周りの連中はみんな味方だとでも思ってんだろ?

 冊子を投げ出すように机の上に放り投げ、プロデューサーは月明かりだけが光源の社長室で椅子に靠れて天を仰いだ。
「…はは、」
 脳の奥深く、大事に大事に取っていたはずの記憶が、滔々と蘇ってくる。

―――お前の言ってる事も最もだ。あいつらは商品でも人形でもないからな。お前はお前の考えるプロデューサーになればいい。

―――うむ。我々765は961とは違う。それを誇りに思い、実践してくれたまえ。それは―――君たち『プロデューサー』にしかできない事だからね。

「ははは、」

―――ごうか――――――――――――――――――――――――く!!!

―――お前なら、大丈夫さ。

蘇った記憶は鮮明に脳裏で再生され、見る間に色褪せていく。

「あははははは、」

―――彼を超えろ。それが君の仕事だ。



―――春香。あったよ、理由。

「はは、あは、はははははは」
 プロデューサーが笑っている。
誰もいない、電灯すらつけていない社長室の中、月光の芯から冷える光の中で、机の上に『理由』を載せて、プロデューサーは目を覆うように顔に手を載せ、込みあがる笑いを隠そうともせずに笑っている。

―――でもさ、ほんとにどうしようもない理由だった。信じてた僕が馬鹿みたいだった。

「あははははははは、はははははは」
 『理由』は『アイドルマスター計画』という名前だった。
その心はアイドルマスターを人為的に作り出すもので、大江はそのために961に行った。
自分に植え付けた765のプロデューサーとしての誇りや矜持をすべてぶち壊し、大江は『天海春香』と新米プロデューサーを犠牲にして己の夢を叶える道を選んでいた。
 自分が信じていたものは、何だったのか。
「あははははははははははははは」
 月は雲に覆われ、ただでさえ光源に乏しかった社長室は完全な闇に包まれる。
闇の中からはプロデューサーの力のない笑い声がどこまでも響き渡り、まるで先の見えない闇の中でプロデューサーはこう思う。
―――信じていたから、裏切られた。
 大江を、高木社長を、765を信じていた。
 己が身を粉にしてもよいと、そう思ってすらいた。
 765は、高木社長は、大江は味方なのだと、何の根拠もなくそう思っていた。

 10月の社長室の中、漆黒の闇に抱かれ、乾ききった笑い声を上げながら、プロデューサーはこう思う。

―――俺はもう、何も信じない(・・・・ ・・・・・・)



 地上23階地下4階建て、おまけにエレベータは3つもある961プロデュース株式会社の地上から数えて3つ目のエレベータは本社のど真ん中にガラス張りのラインを惜しげもなく晒している。
太陽はとっくに沈み、旺盛な経済活動に焼かれた都心の空は黒というより藍色で、『四条貴音』のランクアップ報告のために乗り込んだエレベータの前面からは空を焼く光たちがよく見える。
 呟く。
―――這い上がって来い。
 たかだか一階分の高さの移動が、途方もなく遠く思えた。
―――そうして初めて、俺たちは、
 そこまで呟き、大江は眼下の光を見下ろす。
空を焼き、昼間と変わらないほどの光を湛えた下界の歪な姿を、大江はぼんやりと眺めている。

 気味の悪そうな眼をした大江が、どこまでも広がる明るい夜の街を見下ろしている。



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