声 (25)

5.

 決定的な瞬間、というやつは実のところカメラを構えていない時の方が往々にして起きるものではある。
だからこそ『カメラは見た!! 決定的瞬間30連発!!』などというホームビデオの進化に支えられた番組が季節の節目節目に跋扈するのだし、しかも大抵その手の番組は特番様に組まれて2時間3時間ぶっ通しというのがザラで、ということは通常の番組はその手の特番が行われる度に週の貴重な1時間を食われてしまうという事を意味し、要するに春香が毎週録画までして見ている番組の間隙を縫うようなクッキングチャンネルなどの再放送の機会と来たら南アフリカのアパルトヘイトも真っ青な代物なのだった。
 最も春香としてもCランクへの昇格を機にその手の特番にお呼ばれすることも増えてきたし、仕事をもらっている以上大きな声でその手の番組を批難できないのは立場とはいえ少々複雑な思いではある。
去年の今頃などはうっかり特番があると知らずにいつもどおりクッキングチャンネルを録画していたはずのビデオを再生して画面に映る猛獣よりもなお珍獣のような表情のレポーターの表情に度肝を抜かれるというサプライズも経験しているが、実は春香としては大型特番よりもその手の間隙チャンネル的なものに毎週出てみたいと思っているのは内緒である。
 春香がそんな益体もない事を考えたのは、自主練習のための出社直後に小鳥に怒られるプロデューサーを見たからだった。
 まただ。
春香はため息をつく。プロデューサーの机が汚れ出してきた、などと考えられた1か月前はまだプロデューサーの机の乱れ具合はかわいいものだったし、書類の束の隙間を見れば事務机の灰色の肌はその艶をチラリズム的に晒してはいた。
 それがこの一か月、事務机は肌の露出を避けるかのように書類というファンデーションを隙間なく塗りたくっていた。
これが床ならばいわゆる「足の踏み場もない」状態というやつで、しかし「また」と言える程度に春香はプロデューサーが説教されている場面に遭遇しているものの、机の状態が改善される兆しは今日に至るまで遂に見ていない。
 IU3次予選を通過したあの日から、プロデューサーの様子は以前に輪をかけておかしくなった。
と言ってもプロデューサーの春香に対する態度が如実に変わったということはないし、話だって春香から振れば返答は返ってくるしトレーニングで分からないところは尋ねれば教えてくれる。
 が、ではプロデューサーがどう変わったか、といえば話は簡単なもので、それまで訥弁ながら様々に話かけてくれていたプロデューサーは最近春香に話しかけるという事をしてこない。
営業に行くとかトレーニングをするとか、その手の仕事的な話はプロデューサーからし始めるのは間違いないが、ちょっと前までは話していたプライベートな話をした記憶はここ最近の春香にはない。
 特に顕著なのがプロデューサーが営業用の資料を机に齧りついて眺めている時で、今まで以上に熱心に資料を読み漁るプロデューサーの横顔からは熱心以上に病的な執心が感じられるほどだった。
 何がプロデューサーを変えたのか、など、今更考える必要もない。
 ボイストレーニングルームのコンソールにもたれかかり、春香は重ったるい溜息をつく。
 3ヶ月くらい前から始まったプロデューサーの変化に大江とやらが何枚か噛んでいたのは春香だって分かっている。
プロデューサーの様子がおかしくなり始めたのはIU1次予選後の貴音との会話―――もっとも、あれを会話と呼べるかどうかは甚だ疑問ではあるが―――からで、その時プロデューサーの目を丸くさせたのは貴音の口から出た「大江」という人物の名前だった。
2次予選の時などはもっと顕著で、プロデューサーは本番中の『四条貴音』などには全く目をくれることもなく『四条貴音』のプロデューサーをじっと見つめていた。
 そして決定打が「9:02」を歌っていた頃のプロデューサーの疑問であり、「裏切られたらどうする」というのはプロデューサーの心からの問いかけだったのだろうと思う。
本人にはどうしようもない理由があったのだろうと回答はしたが、では大江が961に移籍した理由は何だったのか、という点に関して春香はいまだにプロデューサーから聞き出せてはいない。
 正確に言うならば、聞き出そうと何度か水を向けようとしたことはある。
最近になってとみに増えてきた突発営業のさなかにプロデューサーに遠まわしに理由につながる話は何度もしているが、その都度プロデューサーは口をつぐんで理由を話そうとはしなかった。
 しかし、結局「大江がなぜ961に移籍したのか」という理由をプロデューサーの口から聞くのは、本音を言えば、怖かった。
大江とやらの移籍が765の制度的な不備のせいか、それとも何か他の原因があったのかは春香には分からないが、まっとうな理由なら恐らくプロデューサーは自分にも教えてくれるはずだと思う。
プロデューサーがだんまりを決め込んでいるところを見ると、おそらく大江が961に移籍したのはきっと真っ当な理由ではないのだろうと思う春香である。
 そして、その「真っ当でない理由」を聞き出そうとするたびに、プロデューサーはぞっとするほど冷たい眼をして遠くを見つめるのだった。
以前のプロデューサーはこんな目をしなかった、と春香は思う。
そしてその眼の色は、机の上で営業資料にかじりついているプロデューサーの目の色とどこか似通っていた。

―――はっきりとしました。貴女様は―――『天海春香』は、『四条貴音』が打ち倒すべき敵です。

 コンソールの再生ボタンを押すと、次の新曲である「まっすぐ」のイントロが流れ出した。
 とても「まっすぐ」な気分ではいられず、春香はぐったりと1秒ごとに進んでいくコントロールの液晶パネルを眺めている。

 正直に言えば、怖かったのだ。
 『天海春香』がアイドルを志した理由は「みんなを元気にする」歌を歌いたいからであり、ではそんな『天海春香』の歌をどんなファンよりも間近で聞いているはずのプロデューサーは元気どころかその真逆の方向にベクトルを向けている。
「みんなを元気にしたい『天海春香』」のすぐ横にいるはずのプロデューサー一人元気にできないようでどうやって「みんなを元気にする」というのか。
どうやって『四条貴音』と戦うというのだろうか。
幸か不幸かプロデューサーはIU3次予選以降何かが取り憑いたとしか思えないほど仕事をしているが、そんなプロデューサーに笑顔の一つも出させずにどうやって歌をファンに届けられるというのか。
 そして何よりも、今のプロデューサーに大江の移籍の理由を尋ねたところで、はたしてプロデューサーは正直に話してくれるだろうか。
 真っ当な理由ならば話してもらえると思う春香である。
 話してもらえないということは、おそらく真っ当な理由ではないのだろうとも思う春香である。
 ということは、真っ当ではない話は話してもらえないほど、自分はプロデューサーに信用されていないのか。
 そこで、春香はぶんぶんと首を振った。
 そんなはずはない。プロデューサーは自分の事を信じてくれているはずだ、と思う。
プロデューサーはいつだって『天海春香』を尊重して仕事をしてきてくれた。
出会った時のIU予選に参加せざるを得ないと説明したプロデューサーも最終的に春香に予選参加への選択肢を委ねてくれたし、その後新曲を選ぶごとに行ってきた歌詞の解釈でも決して否定的な事をプロデューサーから言われたことはない。
『ジェラシー』を歌っていた時などは無理をするなとさんざん言っていたくせに最終的に折れたのはプロデューサーの方だし、そんなプロデューサーと一緒にやってきたからこそ自分は今Cランクという大台にいるのだと思いはする。
 それが、一方的な信頼だとは思いたくはない。
 結局のところ、春香にとっての問題の核心は「自分がプロデューサーに信頼されているかどうか」なのだ。
大江とやらがどこに行こうが知ったことではないし、『四条貴音』が孤高の王様になるのならそれでもいいとすら思う。
春香にしてみれば最も大切なことはプロデューサーが自分を信じてくれているかどうかのその一点のみであり、そしてプロデューサーは春香に大江の移籍の理由を告げてはいない。
 それはつまり、
「あーーーっ!! 私らしくない!!」
 春香はそこで首ももげよとばかりに頭を振り、すっくと立ち上がってコンソールの巻き戻しボタンを押した。
突然立ち上がった事で若干動悸が激しくなった心臓に喝を入れ、ついでに人に見せられないくらいに大きな口を開けて空気を思い切り吸い込む。
11月のボイストレーニングルームの空気は澄んでいて、肺に吸い込んだ清涼な空気は脳みそに巣食ったもやもやを払拭してくれた。
 今日こそだ。今日こそ訊いてやる。春香は鼻息を一発してそう腹に決める。
 回りくどい訊き方なんかしないで、ストレートに聞いてやる。
 分からないことをウジウジぐだぐだ悩むなんて天海春香のやる事ではない、と思う。
分からない事はまずは行動である。プロデューサーだって言っていたのだ、「春香は春香のままでいい」と言っていたのだ。
ならば天海春香は天海春香を全うしてやろうと思う。そして、春香の知っている天海春香は考えても答えの出ない事はまず行動して考えるアクティブ派である。
 回りくどい訊き方はしない。直接プロデューサーに面と向かって訊いてやる。
「どうして大江さんは移籍したんですか」とはっきり訊けばよいのだ。
それだけ。
実に簡単。
 理由などどうでもいい。
中身などに興味はない。
大切なことはプロデューサーが自分に「理由」を語ってくれるかどうかであり、語られる内容などではなく語るという姿勢そのものがプロデューサーがどの程度自分を信用してくれるかどうかのバロメーターになるはずだ。
そうと決まれば後は簡単だ、腹に決めたことを実行するだけだ。
 そのためにも元気が必要だ。そして、春香の知っている天海春香は元気が欲しい時には歌を歌っている。
 よし。一曲歌ったら訊きに行こう。自分がどの程度プロデューサーに信用されているか確認しよう。
むしろ話してもらおう。プロデューサーには自分を信用していてもらわないと困る。

 だってプロデューサーは、

「恋したり」と歌い出そうとした直前、内線電話がぴりりと鳴った。
 思うさまビビった。
跳ねるようにコンソールの影に隠れた春香をあざ笑うかのように内線はぴりりと機械音丸出しの着信音をボイストレーニングルーム内に響かせ、やがて意を決した春香は恐る恐るという表現が綺麗にあてはまるような手つきで受話器を拾う。
「…はい、第2ボイストレーニングルームです」
『春香?』
 そして、受話器から聞こえてきた声は今まさに思いを馳せていた人物の声だった。
「プ、プロデューサーさん、ですか?」
『うん。あのさ、練習中だと思うんだけど営業が取れたんだ。悪いんだけど出てこれる?』
 まるで感情のこもっていないような無機質な声を聞き、春香の中でほんの少しだけ直前に固まった熱意が萎える。
「あ、あの、一曲だけ歌っちゃダメ…ですか?」
 プロデューサーに質問するためには元気が必要だ。そしてその元気は一曲歌えば十分に補充されるはずだ。
「まっすぐ」は大して長い曲ではない。そんな長い時間を取らないのだから一曲くらいはいいのではないか、
『ごめん、急ぎなんだ。拙いかな?』
 、
「…わかり、ました。プロデュース課ですか?」
『いや、エントランスで落ち合おう。荷物とかそっちにあるよね?』



 Cランクにもなると営業の比重は主にテレビを始めとした顔の出るメディア露出がメインとなる。
本日の『天海春香』の営業もご多分に漏れずテレビ関係であり、では歌の一曲も歌うのかと思ったらバラエティのゲストだった。
バラエティ番組のゲストなどという予定にも入っていなかった大きな仕事をよくもまあ取れたものだとは思うが、楽屋で漏れ聞こえた声によれば病欠したアイドルの穴をいち早く見つけたプロデューサーが『天海春香』をねじ込んだらしかった。
では肝心の内容で歌の一曲も歌えるかと言えばまったくそんなことはなく、日本全国の動物園で今年の夏に生まれた新たなる命が映ったモニターに向って「わあかわいい」と言うだけの仕事であり、確かに動物の赤ん坊はかわいいとは思うが動物の赤ん坊を見ただけでやる気が出るなら世界はもっと平和だろうと春香はとんでもない事を考えている。
そんな春香が今いるのはプロデューサーの車の助手席で、さっきから流れている「まっすぐ」は皮肉にしては出来過ぎていた。
 テレビ局から出て車に乗り、開口一発「今日の私はどうでした?」と尋ねた春香に「良かったと思うよ」と返事をしてから、プロデューサーは一言も話していない。
口を開こうともしない。
 春香はプロデューサーに悟られないように溜息をつく。
通り過ぎる町並みはあとひと月もすればクリスマスだからか赤と緑のデコレーション一色で、ノルウェー産のおっさんが飛行するトナカイのソリでプレゼントを配りに来るはずだと固く信じて疑わないくらいの小さな子供がリアルサンタである両親の両手を引っ張って街並みを歩いていく。
 窓の外に映る下界は、途方もなく平穏だった。
「…春香、クリスマスに予定はあるかい?」
 赤信号にでも捕まったのか、去りゆく景色は穏やかに止まった。
突然の声に振り返ると、プロデューサーはどこを見ているのか全く分からないような眼で前を見つめている。
何も映していないようなプロデューサーの眼に途方もないほどの疲労感を感じ、春香は大して柔らかくもない助手席の背もたれがいきなりコンクリートになったかのような錯覚を覚えた。
「まだ、何もないです…けど。お仕事ですか?」
 諦観の感情を込めずに確認だけに聞こえるような声色でそう言うと、プロデューサーは春香の方を見ないままゆっくりと頷き、
「今根回ししてる件がうまくいけば特番に出れる。今日みたいなのはラッキーだ、稼げる内に稼いでおかないと」
 その「ラッキー」が今月だけで一体何回あったのか。
春香の記憶しているところ突発の営業は今月だけでもう5回以上はあったし、その5回は5回ともテレビ関係の仕事だったと記憶している。
確かに来月はもうIU4次予選だし、今のうちに露出を多くしてIUに向けた得票数を稼いでおこうというプロデューサーの発想は分からなくもない。
プロデューサーの技量は確かなものだと思いはするが、しかし予定されている仕事だけでも結構な量に上る営業に予定以上の仕事を上乗せするプロデューサーの真意は春香には正直に言えば掴みかねる。
 焦っている、ように見える。
 5回以上に上る突発的な営業も、予定されている営業の量も、Dランクのころと比べれば雲泥の差だ。
何がプロデューサーを駆り立てているのかは分からないが、その理由について春香には思い当たる節がひとつある。
 IU3次予選の、自分がいなかった屋上だ。
「…最近、お仕事多いですね」
 ぽつりと零れた一言にプロデューサーはようやく淀んだ視線をこちらに投げた。
「疲れた?」
「そんなことないですけど。プロデューサーさんは大丈夫ですか?」
 半ば自動的に口から出た返事にプロデューサーは一瞬だけ目を細め、
「俺のことは気にしなくていいよ。春香は『天海春香』の事だけ考えてくれ」
 そうは言っても。
プロデューサーはまるで「今日の天気は晴れです」とでも言うような何の感慨もなさそうな口調でそう言うと、緑内障かと思うほどに何も映っていない瞳を正面に戻して目の前のセダンのケツを緩やかに追いかけ始める。
目に映る景色もまたアクセルの加速に合わせて徐々に移り変わり始め、リアルサンタの両手を引いた子供が玩具店に入ったのを最後にサイドミラーに映る景色は左に90度折れた。
 もうすぐ事務所に着く。
「…4次予選はBランクとCランクの境目だ。総会の規定だとBランクからはトップランク圏内だし、そこからの営業は他と差別化が難しくなる。今のうちに新規のファンを増やしておいて損はないんだ」
 ここ最近の仕事量の増加の言い訳にしては、悪びれた様子は一切ない声だった。
「だから、私は大丈夫ですよ。むしろプロデューサーさんの方が元気なさそうですもん」
 剥れたような声が出た。春香は内心で溜息をつく。
 やはりプロデューサーは焦っているのだ。今後『天海春香』が4次予選を抜ける保証は確かにどこにもないのだが、だとしたらプロデューサーはCランクからのテコ入れをこれほどまでに増やしはしまい。
Bランク昇格前の下準備としては確かにテレビなどのマスメディア露出は有効な手段だろう。
 が、本当にそれだけが理由なのか。
業界のフロンティアとも言われる765の営業バックアップは確かにすごいと思う。
営業攻勢の駆け引きなどについてはズブの素人である春香だが、ここ最近になって爆発的に数を増した営業の最中に見える他企業のアイドル達と世間話をするだに765のフォローの厚さは他と比べて一線を画していると思う春香である。
 そもそもにして「突発の仕事」がとれるという事自体が765の営業力の表れだ。
芸能界に限らず、通常仕事は先方との予定を立ててスケジューリングするのが一般的である。
今日の例ならまずはテレビ局と765で出演の契約を結ぶという手順を踏んだのちに『天海春香』が「わあかわいい」と言うのが一般的な仕事のやり方だ。
勿論この一般的なやり方で行われる仕事は今後も継続して続いていくが、こと飛び入りの仕事に関して言えばこの手の契約を双方が十分に吟味する時間があったとはおそらく言えまい。
 ということは、つまり765の組織的営業バックアップはバラエティ番組に飛び入りの参加ができるレベルであるという事になる。
これは『天海春香』がBランクに上がった後も変わることのない765の強みだろうし、「必要な時に必要な仕事を行う事が出来る」という営業力は流行り廃りの激しいこの業界にとって決して馬鹿にはできない企業の力である。
 では、そんな力の強い765に所属するプロデューサーが、仕事をねじ込むほどに『天海春香』の営業を焦る理由は何か。
 聞くなら、今だと思う。
「…なんて言われたんです?」
「何が?」
 シラを切るようなプロデューサーの問い直しに、春香は今度こそ本当に溜息をついた。
「プロデューサーさんの先輩の理由、聞けたんですか?」
「ああ、」
 プロデューサーは一度押し黙り、ルームミラーで後方を確認して店の建ち並ぶ街角を抜けたことを確認したのちに溜息にしてはずいぶんか細い息を吐いた。
「…春香は、サンタとか信じてた?」
「はい?」
 唐突に振られた話題は確かに時節柄の話題ではあるが、いくら落ち着きがなかろうがスイーツに目がなかろうが天海春香は今年で16の女子高生である。
サンタを信じるほどめでたい頭はしていないし、トナカイが飛行するならボーイング社は今すぐに生物研究に仕事を移すべきである。
「…すごく小さい頃は、まあ信じてたかもです。プロデューサーさんは?」
「うちは親が現実主義者でさ、サンタの赤い服はコカコーラ社の陰謀だって憤慨してた。知ってる? サンタクロースってホントは赤い服なんて着てなかったらしいんだ」
 質問は確か「大江の移籍の理由を聞いたのか」だったはずだ。
何故ビールっ腹のおっさんのコーディネートの話題になってしまったのか。
「はあ」
「もともとサンタクロースってキリスト教だかどこだかの偉い人の伝説がもとなんだってさ。何の由来があったかは分からないけど、それがいつの間にかUMAにソリを引かせて子供にプレゼントを配るって太っ腹な役回りになった…いやまあそれはいいんだけど、肝心なことはサンタの存在を信じるかどうかだと俺は思うんだ」
「信じるかどうか、ですか」
 うん、と頷くプロデューサーの目には何も映っていないように見える。
「よくよく考えてみればさ、すごく変な話なんだよ。どうして縁もゆかりもない子供にプレゼントを配る必要があるのかってさ。何の対価も得られないのにただ一方的にプレゼントって何か虫のいい話じゃないか。何か裏があるはずだと思うんだよね」
「裏、ですか」
「だってそうだろ? 何かを与えるってことは投資するってことだ。投資するってことは見返りを求められるって事じゃないか。…まあ実際問題そんな太っ腹な親父はどこにもいなくて、そのうち子供は自分の親が本当のサンタだって事に気がついて、サンタを信じるなんて馬鹿みたいだってことに気がつくんだけど」
 まあ実際問題のあたりからプロデューサーの声のトーンがわずかに落ちた。
「でもまあ、それでもいいのかもね。何も疑わずに信じるってことは素晴らしい事だし」
 鼻息ついでに漏れたようなプロデューサーの声にようやく話が本筋に戻るのかと思い、春香は相槌を打つ。
「そうですね。信じるってきっとすごい事ですよ」

 そしてこの時、ずいぶん久しぶりにプロデューサーは口元を歪めた。
 ひどく侮蔑的な笑みだった。

「そうだね。すごく高コストな話だと思う」
 聞き間違いであって欲しかった。
「―――え、」
「だってそうだろ? 信じるってことは裏切られるリスクを内包するってことだ。サンタにしろ何にしろ、裏も取らずに『ありもしないもの』をただ単純に信じるってことはめちゃくちゃリスクの高い事だ。お勧めはしないね」
 フロントガラス越しにビルが見える。765の本社だ。都内の一等地に建つ765の本社ビルは、営業力の強さを反映しているような佇まいでそこにある。
「…プロデューサーさん?」
「信じるって事は裏切られるって事だ。どんなおべんちゃらを並べたところで綺麗事はいつか必ず裏を見せる。要はその時が来ても大丈夫かって話だ。俺はそう思う」
 ようやく、春香はプロデューサーの瞳に映る、途方もないほど根の深い感情に気が付いた。
表面には呆れるほど普段通りの感情でコーティングされ、ぱっと見ただけでは分からないその瞳の奥底に確かに息づく感情を表す言葉の存在を、今の春香は認めざるを得なかった。
「何て言われたのかって聞いたね」
 そしてプロデューサーは、春香の方を決して見ることなく、呟くようにその答えを言った。
「…高い、本当に高いコストを払ったよ」
 息を詰めて見たプロデューサーの横顔は、まるで何か途方もない、自分ごときが手を触れてはならないような色濃い感情に満ちていた。
「あ、あの、私、」
「―――変な話だったね。忘れてくれ。帰ってミーティングしたら今日はおしまい。明日も営業が入ってるから、早めに体休めてね」



 春香の求めた答えを、おそらくプロデューサーは話していない。
 ただ、車内での一連の会話の中で、プロデューサーについてたった一つだけ、春香には分かったことがある。

今のプロデューサーはひょっとしたら、半年前のプロデューサーとは全く違う人になってしまったのかもしれない。
昨年の秋に初めて会い、今年の春に春香を励ましてくれたプロデューサーは、もう、どこにもいないのかもしれない。
 正直に言えば、怖かったのだ。
今までずっと自分を励ましてくれたプロデューサーが、IU3次予選の時のあの屋上から変わってしまったのかもしれない、と思うのが怖かったのだ。

 車内でプロデューサーの横顔に透かし見えたその色を表す言葉は、憎悪、だと思う。




「春香は春香のままでいい」と言ったのは、プロデューサーだ。
そのプロデューサーが、プロデューサーではなくなってしまったのかもしれない。




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