声 (26)

 某スーパーの貸テナントの本屋で木村智子(5)がガキ丸出しの表情で本を読んでいるのにはもちろん理由がある。
今年幼稚園の年中組に上がった智子の目下の趣味は音楽鑑賞と読書であり、最近になって寝床で母が睡眠薬代わりに読んでくれるお話に書かれた珍妙極まりない言語を園で習得してからどうも智子には話の続きが知りたいという非常に知的な好奇心が芽生えたようだった。
両親とも健在であり、国家公務員の父と専業主婦の母を持つ智子にとって、読書とは最近生まれた弟を母に取られたという複雑な心境を慰めてくれる非常にありがたい趣味である。
では、そんな智子が今読んでいる本は何かと言えば年相応に絵本の類であり、智子が読んでいる本を手にとって眺めてみれば文字よりもイラストの方が紙面面積的には圧倒的に広い。
もっとも、マセガキの智子にとって重要なことは文字よりもむしろそこに書かれたイラストなのかもしれず、イラストに書かれた世界観を頼りに想像の世界の中で絶無の美姫として窓辺に座る想像をするのは最近の智子のフェイバリットなのだった。
 では、そんな智子が今一生懸命スーパーのブックコーナーで己の世界を構築している理由は何か、と言えば、専業主婦の母に手を引かれてスーパーに来た智子があまりの暇さ加減に母のカートに揺られるのが面倒になってしまったからだった。
ぐずるまい、母に迷惑はかけまいと幼心に誓った智子の瞳は持主の意志に反して「ああクソかったりぃ何でアタシがこんなクソめんどくせぇ事に付き合わなきゃなんねえんだ」というとても自主性に溢れた瞳を母に向け、困った母は「じゃあ買い物が終わるまで本屋さんに行ってなさい」という放任ここに極まれりな事を言って今に至る。
その際に約束したことは三つであり、一つは売り物の本を汚さない事、もう一つはビニールを破かない事、そして最後に知らない人についていかない事、もし無理やり連れて行かれそうになったらどこでもいいから噛み付いて園で配られた防犯ブザー(90デジベル発生)を鳴らしてその場で泣きわめくこと、である。
 そして妄想の世界を30分にわたって構築した後、ようやく母は智子を迎えにブックコーナーにやって来た。
「ごめんねさっちゃん、遅くなっちゃった」
 そして智子は、目敏くも買い物袋からのぞくポテトチップスの袋に気が付いた。
「あ、ぽてとちっぷす。たべていい?」
「おうち帰ったらね。今日の晩御飯はハンバーグよ」
 わぁいハンバーグ、と智子は実に無邪気に言い、手に持っていた都合3冊目の絵本を棚に無造作に放り投げた。
「こら。読んだらちゃんと元の場所に戻しなさい。まったく、お姉ちゃんになるんだからしっかりしなきゃだめでしょ」
 別になりたくて姉になるわけではない。
どうせ弟は親父とお袋の夜のプロレスの報償なのだろうと思う智子である。
「…はぁい」
 しかし、常日頃から「片付けをすること」と言い含められている智子にとって、ここで本を適当に仕舞おうものならポテトチップスを食うどころか晩飯がピーマンたっぷり野菜炒めになってしまう危険性もある。
智子はしぶしぶ本を棚に戻し、母の袋を横目に見ながら実に堂々とした足取りで母とともに駐車場に向かう。
「ねえさっちゃん、お母さん待ってる間、どんな絵本読んでたの?」
 車内に入ると、手持無沙汰になったのか母がそんなことを言い出した。
智子はしばしうーんと眉根を寄せ、半分以上妄想とごっちゃになった本のあらましを説明することにする。
「あのね、」

 智子の読んでいた本の冒頭を、ちらりとだけ紹介しよう。



―――それは、むかしむかしのおはなしでした。
 あるところに、とてもきれいで、とても心のやさしいお姫さまがいました。
お姫さまのくにはそんなに大きくありませんでしたが、はたらきもののなかまたちとやさしいお父さまがいたので、お姫さまはそんなくにが大好きでした。
 お姫さまはうたが大すきでした。
お父さまはそんなお姫さまをとてもかわいがり、色いろなことがあるたびにお姫さまにうたをうたってくれるようにたのむのでした。
きれいな心をもつお姫さまのこえはとてもきれいで、パーティやおまつりできけるお姫さまのうたは、そのくにのなかまたちにげんきとゆうきをあたえてくれるのです。
なかまたちの笑ったかおがが見れるのがとてもうれしくて、お姫さまは毎日がんばってうたのれんしゅうをしました。
 お姫さまはいつも、お姫さまのお気に入りの、くにのけ色がよく見えるテラスでれんしゅうをしていました。
そんなある日のこと、れんしゅうをしているお姫さまに声がかけられました。
―――やあ、こんにちは。きょうはいいてん気ですね。
―――はい、ほんとうに。ところで、あなたはだあれ?
 お姫さまの見たところ、声のもちぬしはなかまたちとはちがうふくをきていました。
気になってたずねると、その声のぬしは「ああ、おどろかせてしまった」というかおをして、
―――ああ、すみません。ぼくのなまえは、



 貴音がニヤニヤしている。時折思い出し笑いもしている。
大江としては貴音の機嫌がいいならそれに越したことはないが、それにしても最近の貴音は何か毎日が楽しくて仕方ないといった様子である。
「何よ貴音、俺の顔に何かついてるか?」
「ああ、いえ、お気に障りましたら申し訳ありません」
 そう言うと、貴音は再び上機嫌な顔でフロントガラス越しにクリスマス一色に彩られた11月の街並みを眺めている。
溜息をついた大江が貴音にならってハンドルを握りなおすと、赤と緑に彩られた町並みは11月だというのに確かにどこか浮ついて見えた。
 ふと横を盗み見ると、貴音はまるでこれからプレゼントを買いに行く子供のような表情をしている。
初めて会った時の冷徹な印象はもはやかけらも存在せず、古風な言い回しと家電の天敵のようなふるまいを別にすれば、歌わない貴音は授業料が高めの高校に通う学生だと言っても問題はないように思える。
一度ステージに立てば女神の如き歌を鬼神の如き迫力で歌うくせに、大江の横でにやにやしている貴音はどこからどう見ても歳相応の少女の表情をしていた。
 歳相応の少女、
「…なあ、そういや貴音、お前クリスマスって何してたんだ?」
「は?」
「いや、お前も生まれた時からアイドルじゃないんだからさ、ガキの時分はやっぱ一日中ダチと遊んでたりしたのかなって」
 大江は最近、何気ない質問で貴音の素性を探ろうという無謀な挑戦をしている。と言うのも、961に在籍しているアイドルの中でも四条貴音の経歴素性は中身を勘繰りたくなるほどに厳重な管理をされているのだ。
何も961に在籍しているのは貴音だけではないし、プロデューサーという肩書を使えば在籍している他のアイドルの履歴書程度を眺めることくらいなら大江には造作もない事なのだが、事「四条貴音」の履歴書となると大江は今まで見たことがない。
小耳にはさんだ話では貴音は四条の家にいた頃に黒井社長にスカウトされて961の門を叩いたという話だが、いくらワンマンの会社でもそれなりの規模がある961では予備審査なしで候補生を抱え込むのは社内説明的にも不可能なはずなのだ。
 それなのに、貴音の過去を推察できそうな資料が一つも見当たらないのはどう考えても妙ではある。
もちろん貴音の資料はあるところにはあるのだろう―――例えば社長室の右隅にある金庫のような作りの本棚の中とか。
しかし、765では『天海春香』以外のアイドルも活動をしているように、何も961には『活動するアイドルは一年間に一人のみ』などと言う規定はどこにもない。
もし活動中のアイドルの資料をすべて資料室から引き揚げたというのなら貴音の資料がないのも納得はできるが、大江の見たところ他で活動しているアイドルの経歴書はすべて14階の資料室に存在している。
 黒井社長が、四条貴音の来歴を社内にすら漏れないようにしている理由は、何なのか。
 それが、現在大江が抱える3つの懸念のうちの一つだった。
「生誕祭は基本的に家族と過ごす日ですから。普段は忙しかった父と母も生誕祭だけは家にいて下さいましたし、友人と過ごすとしても日中だけでした。四条の家には、あまりそういう習慣はないようでしたが」
 もう一つ、貴音の素性に絡んで大江が気になる点がある。時折貴音の口から洩れる「四条の家」という言い回しだ。
 貴音の姓は「四条」であり、そこから大江は貴音の実家はその「四条」なる家だと思っている。
が、それにしては貴音の言い方は妙だ。会話の中で貴音は「四条の家」と口にしたことは何度かあるが、しかし「実家」という言い方をした事は今まで一度たりとてない。
まるで「四条の家」とは実家でも何でもなく、実家は他にあるのだといわんばかりの言い方である。
「ふぅん。じゃああれか、クリスマスなんかは仕事入れない方がよかったのか」
「私たちの仕事は、季節の節目や年間のイベントこそが忙しい時期だと思っていましたが?」
「冗談だよ悪かった。12月にはお前もBランクだからな、こっちが休ませてくれって言っても周りはなかなか休ませてくれない」
 へらへらと笑う大江に貴音は本当に温度の低い眼を向け、一度小さな溜息をついてぼんやりと前に視線を戻した。
「仕事、最近多いからな。疲れてないかと思ってさ」
 大江の呟きに貴音は前を向いたまま眼だけで笑い、
「求められるというのは素晴らしい事です。私を慕う者の声があるなら、私はどこででも歌いましょう」
 そして、次の呟きを、大江は確かに聞いた。
「それにもう、生誕祭を父や母と迎えることなど望めませんから」
 引っかかる物言いだと思う。
確かにクリスマスや正月は仕事が詰まっているが、そうでない通常の休日ならば親父やお袋と直接会う事は叶わなくても電話くらいはできそうなものだ。
アイドル活動をしている間は確かにクリスマスに実家に戻るなどという贅沢を望むことは無理だろうが、しかし貴音の物言いにはまるで引退した後すらも会う事は出来ないと言いたげな雰囲気が
「大江様こそ、私のプロデュース計画ではお休みなど取れないのではないですか?」
「俺? 俺が休みなんか取ってどうすんだよ。今年のクリスマスは平日だぞ」
 言うと、貴音はきょとんとした眼を大江に向けて、
「いえ、ご家族と過ごされたりはしないのですか?」
「あいにくまだ所帯持ってなくてな。今は仕事が恋人だ」
「いえ、そうではなく、お父様やお母様と過ごされたりは?」
 果たして大江は「何言ってるんだお前」という眼を貴音に向けた。
その顔には余計な事をと思い切り書いていて、しかし貴音は譲れないものでもあるかのようにまっすぐに大江の横顔を見つめている。
 信号が赤になり、大江は一つ溜息をつく。
「帰ったところでお前まだ彼女いないのかとか言われんのがオチだしな。いちいちその内とか言うのが面倒になって最近じゃ電話もしてない。向こうから会おうとか言ってくることもないしな、便りがないのは元気な証拠ってやつだ」
「お会いになってください」
 そして、ため息の代わりに漏れた声に、貴音の意見は有無を言わさぬ口調であった。驚いて大江は横を見る、
「お元気なうちに、ご両親とはお会いになって下さい。いつか後悔することのないように」
 貴音の顔には、深い深い後悔の色がある。
「…貴音?」
「大切なものは、取り零してしまうともう二度と手に入らないのです。私たちの手のひらは、私たちが思っている以上に隙間が広いのです。いつかそのうち、また今度、と思っている間に、確かに手のひらに乗せていたものは隙間から零れ落ちてしまいます。そうして、零したものを拾おうとして、」
 こんなに必死な貴音の顔を見たことは、今まであっただろうか。
「私たちの体は、落ちたものを拾う事も叶わないくらい固かったのだと、その時始めて気がつくんです」
 余人が見れば、今の貴音の顔はまさしく物の道理を愚衆に悟らせる賢者のように見えたことだろう。
 大江が見た貴音の顔は、まるで眦に涙をいっぱいに貯めて、それでも泣くまいと鼻を啜る子供のように見える。
 そして、ここまで貴音の話を聞いて、ようやく大江の頭の中に貴音の来歴について一つの仮説が浮かんだ。
今の表情、クリスマスにすら会えない父と母、社内のどこを見回しても見当たらない「四条貴音」の今までの経歴、そして「四条の家」という実家を呼ぶには余りに他人行儀な呼び方。
 微笑ましい仮説ではない。むしろ酷い部類に属する話だと思う。
もし大江の仮説が当たっていて、黒井社長はそれがために履歴書を誰の目にも入らないように隠したのだとしたら、あのボンボンにも多少は人の情があったのかと思う。

 恐らく、貴音の実の両親はもう、この世にはいないのだろう。

 そこまで思い至り、大江は信号が青に変わったことに気が付いた。
「だから、大江様、貴方様は、」
「…元気だよ」
 緩やかにアクセルを吹かせると、大江の言葉に口を詰まらせたような格好になった貴音の表情が横目に映った。
大江は左手でがりがりと頭を掻きむしり、次いで何とも言えない微妙な表情をした貴音の頭に左手を乗せた。
「元気だ」
 下らないにも、程があった。
「俺の親父もお袋も、お前の両親も。どこにいるかは知らないがな、きっと元気にやってるさ」

―――誰でもいい、俺じゃなくてもいい、キツくて辛くてどうしようもなくなったら誰でもいいから頼れ。

 あの日、961の屋上でそんな事を言ったのは誰だ。
 あの日、屋上で叫んだのは誰だ。
 誰にも頼れない奴に、誰かを頼れと言ったのは、一体どこの誰だ。

 虫唾が走る話だった。己でなければぶん殴ってやりたい気分だった。
大江は左手を貴音の頭に乗せた左手をわしわしと左右に動かし、貴音はそれに何を言うでもなくされるがままに大江に頭を撫でられている。
「確かにな、お前の言う事は最もさ。俺たちの体はしゃがむにゃ硬すぎる。落っことした奴があんまり大事で、でも最初は別に平気だって言って意地張ってよ。しばらくして初めて、途方もないモンを落としたんだって気付くんだ。そんで、何で落としたんだろうって後悔するんだよな」
 貴音の瞳が落ち着いた。
先ほどまで瞳の奥で揺らめいた後悔の炎は消え、今の貴音は穏やかな渚のような色を浮かべて大江を見ている。
「でもな、クリスマスは別に休まないぞ俺は」
 自分の言を認めたはずの大江にそう言われ、貴音は手に隠れて見えない顔についた瞳を疑惑に染めて大江の顔を見る。
大江は貴音の顔を見ることもなくまっすぐに伸びる道路の前方だけを眺め、
「クリスマスは家族で過ごすものなんだよな」
「はい。ですから大江様、」

「だから、今の俺にとってお前は、」

―――あんたには、絶対負けない。

「―――大江様、あの、それは、」
 大江の手が引っ込み、ようやく全景が見えるようになった貴音の表情には驚きが90%を占めていた。
大江は一瞬だけ目を閉じ、次いで他の何の感情も浮かばない瞳に一つだけ決意の意思を込め、
「クリスマスの仕事な、早めに上げられるように調整しとくよ。何か旨いもんでも食おう。何がいい?」
 貴音は再びきょとんとした眼をして大江の顔をまじまじと眺め、やがてその表情に穏やかな笑みを浮かべ、
「では、以前から興味のあったものを」
「おお。何でもいいぞ、肉でも魚でもゲテでも宇宙食でも。あんま高いのは勘弁だけどな」
「高いかどうかはわかりかねますが、」
 そう言うと、貴音は笑みをいっぺんに消し、次いでこれからエジプトで新発見された王家の墓に向かうハワード・カーターのような表情をして、実に珍妙奇天烈な事を言った。
「“らあめん”なるものを食したく」

―――自分はいったい、あの時何と言うつもりだったのか。

「らあめん? ラーメンってあの麺類?」
「はい」
 今の自分にとって、の次に、自分は一体何と言うつもりだったのか。
「あのナルトとかメンマとか乗ってるやつ?」
「“なると”とは何ですか?」
 まさか「家族みたいなもんだし」とでも繋げるつもりだったのだろうか。
「いや、いいんだぞ別にもうちょっと高くても。焼き肉とかでも」
「…いけませんか?」
 自分はいったい、どの面下げてそんなことを言うつもりだったのか。
「いやいけないってこたねえよ。でもお前、クリスマスにラーメンって何か負け組の匂いがするじゃんか」
「何事も経験です。経験のないものを捕まえて勝ちも負けもありません。勝敗とは競いあい、最終的に決められるもの。経験する前から勝敗を論じるなど不可能です」

 自分が何のために961に来たのか、自分は忘れたのか。
 何のために誰を裏切り続けているのか、自分は忘れたのだろうか。

「…まあ、一理あるけどさ。じゃあそうだな、今のうちに旨そうなところ見つけておくよ。それでいいか?」
「はい、お願いします」
 そうして、貴音は大江に向けて、実にたおやかな笑みを見せる。



 自分が一体誰を裏切ったのか、自分が一体誰を裏切っているのか、自分は忘れたのだろうか。
 何のために961に移籍して、何のために『四条貴音』をプロデュースしているのか。
 あの日あの屋上で叫んだ「下らない」は、いったい何に向けた言葉だったのか。

 話の弾む車内の中、貴音と運転に意識の60%を向け、残り40%で大江はこんな事を思う。



『四条貴音』が自分の目的のための手段に過ぎないと知った貴音に対面した時、自分は一体どんな顔をするのだろうか。




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