声 (28)

―――…食いっぱぐれた。食べたかったな。自信作?
 もう遙か彼方の出来事のように思える4月のダンスレッスンスタジオで、確かにプロデューサーはそう言っていた。
そう言えばあれから事務所にケーキを持って行っていない。
忙しのない最近の営業や練習にかまけてすっかり忘れていたプロデューサーのその言葉は12月に入った昨日の晩に風呂に入っていた春香の脳みその中にぽっこりと顔を出し、ドライヤーで髪を乾かしている間に春香はおもむろに明日の出社前にケーキを作ろうと決める。
 最近は帰りもだいぶ遅くなってしまったから趣味の菓子作りすらまともにできた記憶がない。
精々が先月終盤の家庭科実習でクッキーか何かを焼いただけで、いつもなら決まって砂糖と塩を間違えるはずの自分が材料や手順の一切を間違えずにクッキーを焼いたことでクラスメイトからは「何か悩みでもあるんじゃないか」とか「直下型地震はきっと今年中に起きるのだ」とか、果ては脳内出血までを疑われた。余計なお世話だ。
 焼いたクッキーはひとかけら食う前に運動部のイガグリ頭連中に拝み倒されて明け渡したが、次の日には「今度はもっと数を頼む」とか言ってきたあの連中の本心はいったい何だったのだろう。



 初心に帰るつもりでイチゴのショートケーキを作ろうと決めた。
ボウルに薄力粉と砂糖とバターと卵をぶち込んでハンドシェイカーで甘ったるい地獄を作り、オーブンは2つのパウンドケーキを焼け焦がすこともなく狐色の肌に日焼けさせた。
やはりハンドシェイカーとボウルを使ってホイップクリームを練成し、狐色の肌に白粉のようなクリームをぶちまけてバレットナイフで余計な化粧をそぎ落とす。
ふと思うところがあり、ホイップクリームを人差し指に絡ませて唇に運んで舐めてみる。
甘い。

―――安っぽいけど、これ前払いチケットの代わりって事で。

 そう言って渡された缶コーヒーは、どう考えても主成分の一番最初に砂糖が来るんじゃないだろうかと思うほど甘かった。
あの時がちがちに緊張していた自分にとってその甘さは甘露だったが、さてプロデューサーは甘いものが平気だっただろうか。
プロデューサーが自分で飲むつもりだったのならおそらくはこのくらいの甘さなど甘いうちにも入らないだろうが、もしプロデューサーが自分を励ますつもりであの缶コーヒーをチョイスしたのなら少しばかり甘すぎる気もする。
 考えて、砂糖の比率を少しばかり落とした大人な感じのホイップクリームを作りなおす。
余った材料でもう一度パウンドケーキを焼き、同じような工程を踏んで化粧をさせたパウンドケーキの上に買ってきた大粒のイチゴを地雷のように散布する。
その上にホイップクリームを塗り込め、さらにその上にもう一つのパウンドケーキをゆっくりと乗せる。
クリームをバレットナイフで切り取り、すっかり白化粧の済んだケーキの頭にイチゴのズラを被せる。
生クリームをチューブで絞って等間隔に12個の白い巨塔を建て、箱の中でずれたりしないようにストッパー代りの土台に乗せるとイチゴのショートケーキ(ホール)の完成である。
 一連の作業を行った己の指先が、春香にはどこか他人の手のように思える。

―――…プロデューサーさん、まさか私が砂糖と塩を間違えるなんて思ってません?
―――春香君、君はエスパーか何かかね?

 正直に白状すると、このケーキを作る時も自分の事だからなにがしかのポカをやらかすものだと思っていた。
思っていたからこそ少しばかり早起きして製造を開始したのだが、実際出来上がったものを見るとミスなど一つもない出来だった。
ホイップクリームの段で作り直しをしたパウンドケーキを口に運んでみたが確かに砂糖と塩を間違えてはいないようだ。
一言で言うならば会心の出来である。

―――今度食べさせてくれたらね。楽しみにしてる。

 別にこれを食べて前のプロデューサーに戻って欲しいとまでは願っていない。
結局具体的にどんな事を言われたのかは分らないが、プロデューサーにとって大江の裏切りは天と地がひっくり返るほどの衝撃を与えたのだろうし、二人の関係には無関係な自分がただ「気にしないで頑張りましょう」などと言う資格など最初から無いのだろうとも思う。
 ただ、最近のプロデューサーは自分がおかしいと思うほどに仕事にのめり込んでいる。
一昨日の帰りに見たプロデューサーの眼もとには見事なまでの隈があったし、あの様子では最近碌に寝ていない事くらいは丸わかりだ。
もうすぐIUの4次予選があるからかもしれないが、それにしても最近のプロデューサーの焦り具合はあまりにも常軌を逸しているとは思う。
 自分で言うのもおこがましいが、「天海春香」のファンクラブ会員数は先月中に80万人を超えた。
IU予選会への出場条件は前回の予選の突破と規定数のファンの獲得だが、実のところ先月の半ば頃には「天海春香」はその二つの決して楽ではないハードルをクリアしている。
しかし、プロデューサーはその過程に満足することなく熱に浮かされるかのように営業を拾ってきていたし、その様子は確かに眼元の隈が主張するように「寝る間も惜しんで」と言う表現が適切な気がする。

――――――…高い、本当に高いコストを払ったよ。

 結局、なぜプロデューサーがそこまで「天海春香」の売り込みを急ぐのか、という答えを春香は今に至るまで聞けていない。
訊ねることも憚られた。訊ねようとするといつも脳裏に先月のプロデューサーの瞳の色が蘇って自分の元気の根幹が萎えた。
 そこで、春香はキッチンの時計を見た。もうすぐ10時を超える。
今日は2時出社の予定であり、春香の家から本社までは途中で昼食を取ることも考えると電車で大体3時間ほどだ。
家を出るまでにはもう少し時間があるが、少しでも早くプロデューサーにこれを食べて元気になってもらいたい、春香はそう思って素早くケーキのラッピングに手をつける。



 765プロデュース株式会社9階の社長室手前、プロデュース課に入ってすぐ目につく机の上は実に陰惨たる有様だった。
 ものすごく汚い。
要約すればそれに尽きる机の主は去年から配属された新人のプロデューサーで、先輩社員を見て覚えたはずの整理整頓の良習はすでに失われて久しいかの有様である。
なぜ雪崩が起きないのか周りが不思議に思うほどにうず高く積まれた紙面の山は右方向からの彼の横顔を完全に覆い隠しており、左と前方にはやはり必要書類なのかゴミなのかすら判別の付かない雑多な紙片が主にしか分からない秩序をもってばら撒かれている。
 が、それら机の上を覆い隠す紙片には共通事項があって、そのどれにも『天海春香』という彼の担当しているアイドルの名前が書かれている。
少々病的ともとれるその書類束には名前の欄や内容にやはり汚すぎて読めない暗号染みた走り書きがそこかしこにあり、何とか解読できるその文字を日本語表記してみるとどうやら予想獲得ファン数が記されているようだと分かる。
 もうじき12月に入る。
 今更の話ではあるが、IU予選はただ単純に前回の予選を勝ち抜けば無条件に次回の予選出場枠を獲得できるわけではない。
旧弊の総会組織ではアイドルランクは純粋にファンクラブの会員数によって定められており、例えば100万人以上ならAランク、80万人以上ならBランクと言った具合にアイドルの序列は支援者の数によって決められていた。
IU制度はこの旧弊の制度に上積みされた制度であり、時期の予選に出場するためには前回の予選を突破するだけではなく、上記のファン数を獲得しておく必要がある。
すなわち12月に行われる4次予選に出場するためにはファンクラブの会員数を80万人以上にしておく必要があり、そして現在の『天海春香』ファンクラブの会員数は現在のところ82万人を数える。
 要するに、とっくに出場の制限は越えているのである。
が、プロデューサーは血走った眼を何度も書面に走らせ、予想獲得ファン数が最大となる営業先を効率性と利率性の観点から狂気じみた視線で探し続けている。
 時間がない。
 あの月明かりの下で見た「アイドルマスター計画」なるものが言うところによると、「天海春香」の営業バックアップは春香がAランクに上がったところで打ち切られるのだという。
それがどのような形で「天海春香」の営業に影響してくるかはまだ推測の域を出ないが、ここだけの話765の営業はコネと付き合いで実現するものも結構ある。
そのあたりは10年以上にわたって毎年Aランクを輩出してきた765の組織力のたまものと言えばそうなのだが、春香がAランクに上がったところで営業活動に制限が出るとなると本戦に響く。
 所詮予選は予選であり、必ず上位2枠までは時期の大会への出場枠が与えられる。
 つまり、どれほど予選に勝ち進もうが、「四条貴音」が勝ち残っていく限り大江を下すことはできない。
 IUで入賞枠が1つになるのは本戦たる決勝だけだ。つまり、最低限そこまでたどり着き、さらに加えて「四条貴音」を「天海春香」が圧倒できなければあの裏切り者の息の根を止めることはできない。
本戦への出場条件は2月の5次予選の通過とファン数100万人突破であり、そして晴れて5次予選を突破したアイドルはAランクへの仲間入りを果たす。
 あの計画書に書かれていたことが事実ならここまでは本社からの営業バックアップがある事になる。
 そして、その後に「天海春香」は独力で営業をしなければならないという事になる。
 何せ本戦の出場枠は6つしかない。しかも本戦と言う通り出てくる6人は正真正銘国を代表するアイドルたちだ。
おそらくどこの会社も徹底的な営業活動をして事前の獲得票数確保に動いていくのだろうし、と言う事は今の時点で「天海春香」は5次予選から本戦までの1か月で圧倒的な不利を強いられる事になる。本戦の評価には3人の審査員の他にファンの投票が加わるためだ。
 そこで、プロデューサーは策を弄することにした。
765のバックアップが貰える今のうちに売り込めるだけ「天海春香」を売り込み、ファンたちの脳概に「天海春香」を刷り込ませることにしたのだ。
どちらかと言えば賭けの性格が強い手法だが、今のプロデューサーにとれる手段と言えばこのくらいしかなかった。
 こうでもして本戦で大江率いる「四条貴音」を下さなければ、あの野郎の野望を阻止したという事にならない。
 そのためなら何だってしてやる、とプロデューサーは思う。
何だってしてやる。あの野郎が自分を裏切ったことを心の底から後悔させてやる。
IUと言うこの上のない舞台の上で、あいつが今後プロデューサーなど出来ない位に、「天海春香」に徹底的に「四条貴音」を壊させる。
何もかも根こそぎ奪ってやる。野郎が10年で培った肩書も経験も何もかもを否定してやる。
そうして初めて大江に対する自分の復讐は完成されるのだと思う。
 プロデューサーの表情に、薄暗い笑みが浮かぶ。

 だからこそ、そのために、春香は、

「おはようございます」
 笑みを消した。聞きなれた声が背後から掛けられる。
後ろを見ることもなく時計を見ると1時を回っていたが、確か今日の「天海春香」の出勤予定時間は2時ではなかったか。
「今日は早いね。おはよう」
 しかし丁度良いと言えば丁度良い。午前中の交渉で午後から営業が1件取れている。
先方との打ち合わせでは「来れるようならすぐ来てほしい」と言う話だったから、春香の準備ができているのなら今すぐにでも出社しようと思う。
「春香、出社した早々で悪いんだけど、午後一で営業がとれたんだ。すぐ外出することになるけど、準備できてる?」
 そして、春香はそんなプロデューサーの様子に一瞬だけ驚いたような表情を見せ、
「すぐですか?」
「ああ。早出してもらって悪いんだけどさ、勤務表はつけとくから。下に車回してくるから、もし用事があるならすぐに済ませてくれるかな」
 ここで、春香の瞳が傾いだような色を湛えた。が、すぐに春香はプロデューサーに向けて慌てたように口を開く。
「あ、あのプロデューサーさん、喉渇いたりとかおなか減ってたりとかしてません?」
 言われてそう言えばと思う。まだ昼飯を食っていない。
が、実を言うと最近食欲がないのだ。飯を食う時間があればその分だけ営業資料を眺めていた方がマシだとすら思う。
「いや、別にそんな事はないよ。腹も減ってないし。…ひょっとして春香、昼まだなのか?」
「あ、あのですね、その、」
 言い辛そうに春香はもごもごと口を動かし、何かと見ているプロデューサーの前でおずおずと後ろ手に回した右手を前に突き出してきた。
突き出した手には紙製の横と奥行きが30cm、縦が20cmくらいの箱が握られている。
「ケーキ、焼いて来たんです。もしよければプロデューサーさんに食べてもらいたくて」
 ほら、4月は食べられなかったって言ってたじゃないですか、という言い訳じみた話をする春香に向けて、プロデューサーはほんの少しだけ目を細めた。
「今日のは自信作なんです。砂糖と塩を間違えることもなかったし、パウンドケーキ焦がす事もなかったし、ちょっと食べたらおいしかったからこれならプロデューサーさんもきっと元気になれると思ったって言うかほら最近プロデューサーさん元気なかったじゃないですかだから、」

―――これならプロデューサーさんも元気になれると思った。

 プロデューサーは捲し立てる春香にまるで生気のない瞳を向ける。そうしている間も春香は何事かを話し続けている。
最近プロデューサーさん元気ないって言うか目の下に隈まで出来てるしきっと全然寝てないんだろうなって思ってじゃあ何か私にも出来ることないかなって思って出来たのがこのケーキで今日の出来は会心の出来で何一つ手順を間違ってなくて自分の事だからきっと何かミスするだろうと思って早起きしたのに時間が無駄になっちゃって出来ればプロデューサーさんに食べてもらって感想を聞きたいなぁなんて、
「…春香」
 ポツリと零すと、それまでマシンガンのように話し続けていた春香はビクリと体を硬直させた。
開きっぱなしだった口が閉じられ、春香はまるでおびえた子犬のような眼でプロデューサーを見遣る。
「まずはやる事をやってからだ。ケーキは後で貰うよ。奥に冷蔵庫があるからそこに入れておいてくれ。もし先輩たちに食われたくないと思うんだったら名前書いて入れとけば大丈夫だから。…準備できたら、」
 そう言って、プロデューサーは椅子に掛けていたコートを手に取った。
「準備できたら、下に降りてきてくれ。車回してくる」
 プロデューサーは春香の顔を一度たりとも見ず、躊躇う素振りすら見せずに自動ドアに向かった。



 午前中に取れた仕事だと言葉少なに言われた割には、ずいぶん手際の良い撮影だったと思う。
時節がらの特番の撮影を終えて車庫に車を戻しに行ったプロデューサーに促され、春香は9階に向かうエレベーターの中で一人下がっていく街並みを眺めている。
クリスマスを直近に控えた街並みは出来の悪いテーマパークそのもので、統率性のまるでないデコレーションに彩られた町の装飾は祝い事と言うよりはまるで恐怖の館のように見えた。
車庫に車を戻してくると言ったプロデューサーには一緒に行くと言ったのだが、プロデューサーはこちらに目を合わせることもなく感情のない瞳で先に戻ってくれていいと言っている。
まるで自分の事など気にするなとばかりの投げやりな言い方に少しだけ反感を覚えたが、「じゃあ先に上がってお昼のケーキ分けておきますね」と言ったら好きにしろと言われた。
 ちょっと泣きそうになった。が、ここで泣いたら元気な「天海春香」ではないと思う。
 無理な笑顔で早く上がってきてくださいねと言い置いてエレベータに入り、ゆっくりと重力に逆らって9階へと向かうエレベータの最奥の一面はガラス張りになっていて、街並みの光を通すガラスに映る自分の顔を見た時は一瞬これが本当に自分の顔かと思った。ひどい顔をしている。
 こんな顔をして、どうやってプロデューサーに元気になって欲しいと言うつもりだったのだろうか。
 プロデューサーに元気になって欲しい。春香は心の底からそう思う。
いつだってプロデューサーは自分の事を支えていてくれた。
営業先で凹んだこともあったし、無理をして歌おうとして「そんなの春香らしくない」と言われた時はプロデューサーに自分の事を理解してもらえたと思った。
 そんな自分が、プロデューサーが変わってしまったのかもしれない今、プロデューサーに何もしてあげられないのがあまりにも歯痒い。
そう思っていたから、昨日の晩にいつか自分のケーキを食べたいと言ってくれたプロデューサーの言葉が蘇ったのかもしれなかった。
 大江に何を言われたのかは分からない。
 分からないが、それでも元気になって欲しいと思う。
 がこん、という音がして、エレベータが9階に止まる。

 プロデュース課に入った早々小鳥に謝られた。
何かと聞いてみればどうやら4月のケーキに味をしめたプロデュース課の面々にケーキを食われてしまったらしい。
許可も得ずにケーキを食らった連中はさっさと退社してしまったらしいが、どうやら小鳥が必死に防戦したらしく自分とプロデューサーの分だけは守り抜いたとの事で、むしろ皆さんに喜んでもらえてうれしいとどこか遠くのほうで自分の口が勝手に話した。
 冷蔵庫を開けると、丁度二人分にまでダイエットをしたホールの残滓がラップに包まれていた。
 小鳥が持って来てくれた皿に切り分けたケーキを乗せたあたりで、丁度プロデューサーがプロデュース課に入ってきた。
「あ、プロデューサーさん。丁度切り分けたところですよ」
 努めて明るい声を出すと、プロデューサーはまるで生気の感じられない濁った瞳で一言「ああ」とだけ言い、春香に自分の席の横に座る様に促した。
「フォークどうぞ。仕事した後に甘いもの食べると元気出ますよ」
 そう言って手渡されたフォークをプロデューサーは無感動に眺め、皿の手元にフォークを置いて鞄から営業資料を取り出す。
「先にミーティングやっちゃおう。今日の反省点とか明日への生かし方とか。早めにやっておかないと忘れちゃうから」
「た、食べながらでも出来ますよ。今日のは会心の出来なんです、プロデューサーさんも食べればきっと一発で元気に、」

 そこで、春香は口を噤んだ。
 プロデューサーが、まるで光のない目で春香の事を見ていた。

「あのさ、春香。俺の事はいいよ別に気にしないで」

「―――は?」
 何を言われたのか全く分からない。
ただ頭の中が真っ白になり、プロデューサーの言葉だけが脳みその中身を支配している。
「俺の事なんかより春香は自分の事心配してくれ。『天海春香』の次の新曲とかさ。そっちの方考えてくれた方が俺は助かる」
「ぷろ、でゅー、さー、…さん?」
「今日の収録の時もそうだったけどさ。何か心ここにあらずみたいな感じだった。あれじゃ多分視聴者受けも良くないし、春香多分収録の時に何話したか覚えてないでしょ」
 確かにそうだ。収録の時の自分の思考はどうやってプロデューサーにケーキを食わせて元気にさせるかだけを考えていて、振られた話題は脊髄反射のように返事をしてしまっていて何を振られてどう答えたのかすら覚えていない。
「君はプロなんだからさ、そういうところしっかりして貰わないと困るんだ。俺の事なんか気にしないでいいから、まずは自分の事をしっかりやってくれ」
「あ、あの、」
 プロデューサーは春香を見ない。
まるで人形を相手にするような口調でそう言い、淀んだ視線はまっすぐに資料に向かっている。
「で、でも、だって、私、プロデューサーさんが最近元気なさそうだったから、せめて元気になってもらおうと思って、」
 そして、プロデューサーはその声を、たった一言で両断した。
「誰も頼んでないでしょ、そんな事」
 グラリと、座っている椅子が歪んだような錯覚を得た。
「元気印なのは『天海春香』。別に俺がファンに見られてるわけじゃないし、春香が元気ならそれでいいんだ。俺の事なんかホントに気にしなくていいし、もし俺の事気にして今日みたいな感じになってるならあんまりいい傾向じゃない。大体、」
 何故プロデューサーがこんな事を言っているのか、春香には全く分からない。
 余りの衝撃で真っ白になった頭に、次に耳朶を打ったプロデューサーの言葉はあまりにも重すぎた。

「大体、俺がどうなろうが、君には関係ないでしょ」

 椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がった春香に、プロデューサーはようやく胡乱な眼を向けた。
 あんまりだった。こちとらプロデューサーの事が気になって脊髄反射で一日を乗り切っているというのに、そんな事を言われるのは心外だった。
文句の一つも言おうとして口を開け、知らずにぼろりと大粒の涙が零れる。
腹の底が悔しくて憎らしくて寂しくてちくちくと痛い。何か話そうとすると喉奥がひきつって声が出ない。
文句の一つも言いたいのに、ぼやけた視界のせいで照準が合わず、拭った眼もとにはプロデューサーのまるで無機質な視線だけがあり、春香はそこでようやくプロデューサーの本質的な変質を悟った。

 もう、あの時自分を励ましてくれたプロデューサーは、どこにもいない。

 悔し涙で顔をくしゃくしゃにした春香に向かい、プロデューサーはどこまでも冷徹に次の言葉をかけた。
「…今日はもう帰りな。次はIUの予選会だから、それまでに体調整えておくように」
 それだけを言い、プロデューサーは春香どころかケーキにも一瞥すらくれずに資料に視線を戻した。
 頭が煮沸する。こちとら誰のためを思ってケーキを焼いていると思っているのだ。誰のためを思ってステージに立っていると思っているのだ。誰のためを思って歌を歌っていると思っているのだ。
 誰を元気にしたくて、歌を歌っていると思っているのだ。
 わなわなと震える腕を制するように手を握り、まるで生気の感じられないプロデューサーの横顔をどうしようもなく憎らしく思い、春香はたった一言だけの反撃をする事に決めた。
「ぷ、ろでゅー、っさーさ、っんの、」

 誰のために歌を歌っているのか、春香の心の中にはもう、とっくの昔のその答えはあったのだ。

「ばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
 耳に反響するような大声を出し、春香は泣きながらプロデュース課を飛び出していく。



「………」
 ぷろでゅーさーさんのばか。
 確かに春香はそう言っていたような気がする。
未だ耳に残る反響の残滓は営業資料を眺めさせてくれず、プロデューサーは天井を仰いで眼もとに手を乗せる。
自分としては当り前の事を言ったつもりなのだが、春香がそれをどう捉えたかは春香にしか分からない事だ。
とにかく時間がないからきつい言い方になってしまったかもしれないが、しかしそれも『天海春香』にファン数を稼がせるためには仕方がないとも思
「あーあ、女の子泣かせちゃった」
 薄汚れた思考の中にいたプロデューサーの背後から、もはや到底女の子とは呼べない歳になった小鳥の声が降ってきた。
「いいんですか春香ちゃん放っておいて。あんなにいい子他にいませんよ?」
「…何が言いたいのかさっぱり分かりません。残業の申請は済んでたと思いましたが、他に何かありましたか?」
 顔を向けずにそう言うと、小鳥は春香が跳ね飛ばした椅子にゆっくりと腰をおろし、
「『俺がどうなろうが君には関係ない』んですか。かっこいいですねプロデューサーさん」
 棘のない言葉だが、その棘のなさが逆にプロデューサーの肺腑を撫でまわすかのようだった。
プロデューサーは毛羽立った視線を小鳥に向け、
「で、小鳥さんは未来のAランクを泣かせた寸足らずに説教ですか」
「お説教してほしいですか?」
 小鳥の顔には毒気などまるでない笑みがある。プロデューサーは脱力したように肩を落とす。
「アイドルマスター計画」の全容を知った今、小鳥がプロデューサーの味方なのかどうかすら判別は付かない。
「…見ちゃったんですね? 『アイドルマスター計画』」
「……」
 応えない事を無言の肯定と捉えたのか、小鳥はなおも繋げて言葉を発する。
「大江さんに、何か言われましたか」
「…小鳥さんは、どこまで知ってるんです?」
「全部って言ったら、プロデューサーさんはどうします?」
 がたりと、プロデューサーは立ち上がった。
そのまま首だけを小鳥に向け、まるで食い殺さんばかりの目を小鳥に向ける。
小鳥はそんなプロデューサーの目に微塵も動じずにプロデューサーを見上げ、ただ自分を引き裂かんばかりの目をしたプロデューサーの猛禽の眼と向き合う。
 30秒ほどのにらみ合いののち、先に口を開いたのは小鳥だった。
「…大江さんに裏切られたの、ショックですか」
 答えはない。
ただ、どす黒い炎に包まれたその眼が、雄弁に答えを物語っている。
「あなたと春香ちゃんを犠牲にして大江さんをアイドルマスターにしようとした765が、憎いですか」
 小鳥の目の前で、感情の激流が起きていた。
プロデューサーの瞳は負の感情で玉虫色に変化し、身の内から湧き上がる激情の炎はまるでプロデューサーを焼いているかのようだった。

 ここがフェーズ4のキモだ、と小鳥は思う。

「あなたに会わせたい人がいます」
 怒りの激情の中にわずかな疑問の色を呈したプロデューサーの瞳に向かい、小鳥は一言、このあと時間取れますか、とだけ尋ねる。




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