声 (30)

 プロデューサーが最後にたるき亭を訪れたのは今年の3月の終わりと記憶していたが、もうすぐ1年が経とうとしているたるき亭の中は記憶と寸分たがわない有様でそこにあった。
明日が月曜日だからか店内はそれほど混んではいなかったが、明日への不安などかけらも感じないほどに陽気な声を上げる飲兵衛たちとその間をジョッキ片手に駆け回るバイト達の様子はあの日と何が違う気もしない。
小鳥はまるでその代表とやらにビーコンでも仕込んでいるかのように確信のある足取りで店の奥へと進んでいく。
どんちゃん騒ぎを繰り広げる1階の奥の階段を降り、1階に輪をかけて騒々しい地下1階の奥には個室があって、小鳥は何の躊躇いもなく一番奥の個室の引き戸を全開にする。
「やっぱりここでしたか。いいんですか、たるき亭って結構うるさいですよ」
「うるさいほうが密談には都合がいいでしょう。盗聴の心配もないし、何よりここが我々のスタート地点ですから。…で、そちらが例の?」
 一言でいえば特徴のない顔つきをした男だった。
年のころは20後半から30前半くらい、座高の高さはプロデューサーと同じくらい。薄暗い飲み屋の明かりに照らされて目元は見えないが、とりあえず他人に警戒感を抱かせないその視線は流石は計画の代表者といったところなのか。
 男の手元には古めかしく分厚い本が半分ほどのページで開かれっぱなしになっており、辞書のようだと思っていたら男は自然な動作で本をぱたりと閉じた。
「小鳥さんからお話は伺っています。お噂はかねがね。去年の入社で、すでにご担当のアイドルはBランク圏内だとか」
 初コンタクトでの声は予想にたがわない柔和なものだった。
が、小鳥の話が事実ならこの男もまた今の765によくない印象を持った男のはずだ。
声の質感からして穏やかな性質なのだろうとは思うが、真意の読めない瞳と声からはそれも真実かどうか判断できない。
「…どうも。で、あなたがピヨネットの代表?」
「代表は小鳥さん。私は下っ端のまとめですよ。…木村といいます。立ち話も何でしょう、どうですか中に入られては」

 押し着せのように大量の注文をバイトに向けて放ち、飲み屋のくせにアルコールを一滴も注文しなかった男2人と女1人にバイトが首を傾げながら気違い染みた量の食品を持ってきて、初めて木村はプロデューサーに向けて「食ったらどうか」と割り箸を渡してきた。
が、目の前に置かれた料理は一体どこから手をつけていいかわからない。
サラダだけで3種類もある食卓に嫌気がさして小鳥のほうを見ると、小鳥は共食いよろしく焼き鳥を頬張っていた。
「ひょっとして食欲がありませんか? よくありませんね、まだお若いのだからちゃんと食べないと」
「…お気遣いどうも」
「酒のほうがよかったですかね。今からでも注文しましょうか」
「…酒にはあまり強くありません。木村さんこそ、何か食べればいいじゃないですか」
「満腹にして帰ると妻に怒られます」
 プロデューサーは溜息をつき、目の前の料理には手もつけずに通しの漬物を食べた。
そういえば今日まともに食った食品はこれが初めてだ。
春香が焼いてきたというケーキはいまだに事務所の冷蔵庫の中だし、朝はコーヒー一杯くらいで済ましてしまった気がする。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。私たちは君の味方ですよ」
「「――…」
 見透かされたような気がして顔をあげると、案の定木村はニコニコというよりはニヤニヤと言ったほうが正しい表現でプロデューサーに笑顔を向けていた。
プロデューサーは再び溜息をつき、ろくに動いていなかった箸を取り皿の上に置いて木村に向き合う。小鳥は2本目の焼き鳥に手を伸ばしている。
「…アンタ達が何をしたいのか、俺はまだ聞いてません」
 木村は驚いたように横を見て、壮絶な共食いの果てに同胞を竹串一本というあられもない姿にした小鳥に声をかける、
「言ってなかったんですか」
「あへ、あはひひってはへんへしはっへ」
 木村は一瞬だけ瞳に憐憫の色を混ぜ、すぐに気を取り戻したかのようにプロデューサーに向き直り、しかしどう言い出そうかと考えるような素振りを見せて、やがてこんな事を言った。
「まずは、私たちは君と天海君のことを被害者だと思っています」
 140kmドライブ中の小鳥の話しぶりからすると、ピヨネット会員たちはおそらく主要なメンツのほとんどが「アイドルマスター計画」について知っているのだろう。
だとすれば、撒き餌に使われたプロデューサーと春香は確かに被害者となるのかもしれない。
「それはどうも」
「しかしそれは同時に、我々にとって状況的なメリットでもある。IU制度下において、Aランク後の営業サポートがないのは大変でしょう?」
 プロデューサーは小鳥に鋭い視線を送る。
この言いぶりからすると、小鳥はおそらくプロデューサーの最近の勤怠事情までバラしているに違いない。
 が、小鳥は素知らぬ顔でプロデューサーの避難丸出しの視線を受け流すと、今度は最も近いサラダの皿に箸を伸ばし出した。
「…アンタ達にとってのメリット?」
「ええ。簡潔に申し上げます。我々は君に力を貸そうと思います」
「…」
 視線だけでどういうことかと問うと、木村は肩をすくめて話を続ける。
「『アイドルマスター計画』は961と合同で行われている765にとっては肝いりの計画です。ですがこれは同時に、765の高木社長の変質を表現している。我々は君に手を貸すことで、この馬鹿げた計画の完遂を阻止したい」
「…小鳥さんは、高木社長は変わってしまったと」
「ええ。我々が765から放逐されて以来、高木社長は変わってしまった。であればこそ君たちを踏み台にするような計画を進めたのでしょうし、元765の社員としてピヨネットはそれに黙ってはいられなかった。要はそういう話です」
 扉一枚隔てた向こうでは誰かが誰かと騒いでいる。
時折扉を隔てた向こう側から嬌声が壁を突き破って耳に届いている。
確かに木村の言う通り、もしこの会話がどこかに漏れたとしても、盗み聞きしている連中は相当なジャミングに悩まされるに違いない。
「具体的には、どんな協力を?」
「なに、今まで765が行っていた営業サポートには多分に我々の力が噛んでいる。どこにおいても新鮮な情報とは生命線です。我々がつかんだ営業用の情報は、君に優先的に流しましょう。もちろん、おおっぴらにできない話ではありますが」
「この話が、765側に漏れることは?」
 ちらりと小鳥のほうを見ると、サラダを頬一杯に詰めた小鳥が避難轟々の目で「そんなミスはしませんよぅ」とばかりにプロデューサーを見ている。信用ならないので無視する。
「もちろん、Aランクに上がった後でも定期的に我々が情報を提供し続ければ高木社長には疑われるでしょう。ですので、我々が提供する情報は大口に絞らせていただきます。より効果的にファンに向けてアイドルをアピールするというのは、プロデューサーの基本でしょう?」
 そこまで語り終え、木村は冷を一度だけあおり、他に質問はないか、という目でプロデューサーを眺めた。
「…さっき、木村さんは『アイドルマスター計画』が…俺と春香の今の境遇がピヨネットにとってはメリットだって言いましたね。あれはどういう意味です」
「ですから、それは我々が君たちに手を貸せるという状況にあるという点でメリットだと」

―――お前に、味方なんかいない。

「…そういうことじゃない。アンタ達『ピヨネット』が、俺たちを使って計画を阻止することに何のメリットがあるんだって聞いてるんです」
 プロデューサーの声に、それまで子供でも産むのかと思うほど飯を食らっていた小鳥が箸を止めた。
木村もまた押し黙り、たるき亭地下1階最奥の個室に言い知れない沈黙が舞い降りる。
 ややあって、小鳥がぽつりと口を開いた。
「私たちは、帰りたいんですよ」
「765に?」
「ええ。ですがそれは今の765じゃない。昔の765に、まだ我々が希望を持って働いていた5年前の765に帰りたいんです」
 ちょうどここの上に765があった時みたいにね、と木村は天井を仰いだ。プロデューサーもそれに倣う。
階上ではいったいどこの寸足らずが何が面白いのか、どんどんという派手な足音が階下に漏れるのも構わず浮かれ騒いでいるようだった。
「あの頃は楽しかった。会社全体が家族のようでね。今の君には想像もつかないでしょうが、あの頃の私たちは毎日が非常に充実していた。毎日アイドルがテレビに出演するときは事務方全員で狭苦しい応接室に寿司詰めになったりしてね。我々の努力がそのまま還元されているようで、とても楽しかった」
 語る木村の眼には言に違わない遠い昔を懐かしむ色があった。小鳥も同じような目をしている。
「それが、あの日を境に765は変わってしまった。人間を売り出していた765が、いつの間にか人形を売り出す会社へと変貌してしまった。私たちは絶望し、そしてあの日野に下った」
「…『8/3の乱』」
「そして失意の5年を過ごすうち、小鳥さんから『アイドルマスター計画』の話を聞きました。我々も驚きました。今の高木社長は、アイドルを人形にするのみならず、君たち事務方をすら駒のように扱っている」
 『アイドルマスター計画』でのプロデューサーの立ち位置は撒き餌だ。
なるほど確かにそう考えれば、プロデューサーは高木社長にとって駒なのだろう。
大江をアイドルマスターにするために、最後の最後に倒れることがシナリオとして書かれた駒こそが、今の自分なのだろう。
「だからこそ私たちは、この計画を阻止することを計画しました。我々はね、君にあのふざけた計画を失敗に終わらせ、あの日の765を取り返したいんです」
「…俺が『アイドルマスター計画』を失敗させたところで、アンタ達の言う『あの日の765』には戻らないんじゃ?」
 プロデューサーのその問いに、木村ではなく小鳥が口を開いた。
「だからこそ、『アイドルマスター計画』を阻止するんです。この計画は961との合同ですからね、高木社長ももし計画が失敗すれば何らかの引責は問われるでしょう」
 次の言葉には、本当に淡い期待が込められているように思えた。
「そうしたら、高木社長も元に戻ってくれるかもしれませんから」

―――自分が目標としていた大江はすでにもう、どこにもいないのだ。

「…そううまく行きますかね」
「何もしなければこのままです。であれば、我々は行動を起こしておきたい。なに、今が最悪なんです、何かしたところで今以上に悪くなることなどないでしょう」
 他に質問はないかと問われ、プロデューサーは緩慢に頭を振る。
ピヨネットの思惑が何にせよ、今まで頼れていたピヨネットの情報網をAランク後も使えるのは大きい。
多少は事前に稼いでおかなければならないにしても、一人ですべて稼ぐのと思惑はどうあれ協業で稼ぐのとでは余力が大分異なってくるはずだ。
「さて、難しい話はおしまいです。ピヨネットの情報は今まで通り私に聞いてください。お菓子もいりませんからね?」
 小鳥の言葉に木村は脱力したような顔をして、
「…小鳥さん、まだそんなことしてたんですか。ネタかき集めてくるの我々じゃないですか」
「あら、集められたネタを使える情報にまで昇華させるのも大変なんですよ? 正当な労働には正当な報酬が不可欠です」
 昔話に花を咲かせだした先輩2人をしり目に、プロデューサーは冷を飲みながら腹の底で薄く笑う。
 これで大江の足場を多少は崩せるのかもしれない。
大口中心の情報を得られるのなら一発のインパクトが大きくなる。大江がどれほど小粒の営業を行おうが、こちらは以前の大江すら使っていたピヨネットのバックアップが手に入ったことになる。
これならば多少キャリアの違いがあろうがファンの獲得人数的に大きな差をつけられることはないだろうし、ピヨネット側と自分とでは思惑は違うにせよ過程が同じなら裏切りのリスクは低いとみてもよさそうだ。
 そうだ、ピヨネットとは仲間でも何でもない。
向こうはこの計画を阻止したい、こちらは大江を叩き潰したい。
ゴールは違えど経過が同じなら向こうも裏切りはすまいし、こちら側の用事が済んで協業を行うメリットがなくなれば、あとは適当に合わせてやればいい。達成はこちらのほうが先だ。
 精々使ってやる。
プロデューサーはそう思う。
ピヨネットも何も同情や憐憫から手を貸すと言っているわけではない。
自分が行うことがピヨネットにもメリットになるだけだ。向こうだってこちらを使うのだし、何も負い目を感じる必要などない。
 そうとも、奴らは仲間などでも何でもない。
 なぜなら、自分には、味方など一人もいないのだから。

 信じられる存在など、一人もいないのだから。



 プロデューサーさんの馬鹿。
 間違いなく、確かに、自分はそう言ったと思う。
春香は真っ赤な目を隠そうともせずに裏道をとぼとぼと歩いている。
もうとっくに日は暮れており、クリスマスに浮かれ騒ぐ表通りを外れて歩く春香の眼には道をぽつぽつと照らす街灯と存在を忘れられたかのようなガードレールが世情を感じさせない佇まいで映っている。
 プロデューサーさんの馬鹿。
 町並みを歩く若者たちはどいつもこいつも浮かれ騒いでいて、年末にむけて足を速める季節のスピードに目を回すことなく街中を闊歩している。
時折人の気も知らないどこかの店舗の寸足らずが自分の歌をスピーカーから大音量で流していたりして、春香はそのたびにあれは自分の声じゃないと耳をふさいでいる。
 プロデューサーさんの馬鹿。
 せっかく作ったのに。会心の出来だったのに、砂糖と塩を間違えたりしなかったのに、クリームに酢を入れて泡まみれにしたりしなかったのに。
せっかく、せっかくプロデューサーに元気になって欲しくて作ったのに、プロデューサーはおそらくケーキを食べてはいまい。
まるで自分の気づかいなど無用だとばかりの言い方はほんの半年前のプロデューサーからは全く想像もできない言い方だったし、ひょっとしたらプロデューサーさんはもう昔のプロデューサーさんじゃないのかも―――そこまで考え、春香の瞳からボロリと大粒の涙がこぼれた。
 あわてて頭を振り、コートの裾で眦をぬぐう。
 そんなはずはない。プロデューサーさんはいつだって自分のことを支えていてくれた。
歌がうまく歌えない時も、表現がうまくできない時も、ダンスが踊れないと弱気になっていた時も、あの人は常に自分のそばで自分のことを支えていてくれた。
だからこそ今度は自分がプロデューサーさんの支えになりたいと思ったのに、肝心のプロデューサーは全くこちらを頼ろうとはしない。
自分はただプロデューサーの横でプロデューサーの変貌を見ていただけだ。
 ぼろぼろと涙が零れてくる。自分の不甲斐なさに泣くことしかできない。
何台もいない裏通りを通る車が後ろからやってきて、春香はあわててもう一度コートの裾を動かす。
 それもこれも全部あの男のせいだ。確か大江とかいう寸足らずのせいで、プロデューサーは変貌してしまった。
憎きはあの寸足らずであり、自分はもとよりプロデューサーはいい被害者である。
 あの男今度会ったらただではおかない、そんなアイドルにあるまじき考えをしながら春香は駅への道を
「よう」
 突然の声に横を見て、飛び退くばかりに驚いた。
「なんだ、そんな驚くような顔じゃないと思ったが。一人か? あいつはどうした?」
「…どなたですか」
 聞いておきながら何だが、春香にとってその男は今の今まで思考を割いていた男だった。
歳は20の終わりか30の初めくらい、中肉中背のその男は12月にも関わらず車の運転席の窓を全開にして春香に向けて笑いかけている。
「あれ、そういや顔合わせんの初めてだっけ。あいつの元先輩だって言ったら通じるのかな」
 もはや疑いようのない表情で男はヘラリと笑い、
「大江ってんだけど。君、天海春香ちゃんだろ?」
「…何か、ご用ですか」
 自分でも驚くほど硬質の声が出た。大江は春香の棘のある質問も意に介していないかのような様子で、
「いやさ、あいつの担当アイドルが一人で裏道とぼとぼ歩いてるからさ。こりゃ何かあったかなぁと思って」
 誰のせいだ誰の、
「どうも。でも、私は大丈夫です。何にもないですから」
「へえ。何にもないにしちゃ目元が赤いけどね。あいつと何かあったのか?」
 言われて春香はごしごしと目元を手の甲で拭い、手袋をしていない甲が街灯に照らされて水っぽい反射をしていることに気がついた。
苦々しく思って春香はそっぽを向き、大江にケツを向けて歩きだそうとする。
「お、おいおい、無視はねえだろ。折角人が心配してんのにさ」
「ご心配どうも。でも私は大丈夫です。急ぎますから」
「それで電車乗んの?」
 大江の言う『それで』とは、今の自分の表情を指すのだろうか。
春香は疑惑一杯の瞳で大江をにらみ、大江は両手をあげて降参のポーズをし、
「君さ、考えても見ろよ。今をときめくアイドルが泣きながら電車に乗ってなんか見ろよ。来週の金曜日は本屋が悲鳴を上げるぜ? あいつも火消しに躍起になるかもな」
 ぐ、と春香は歩みを止めた。
プロデューサーに迷惑がかかることだけは避けたいし、言われっぱなしも癪に障る。
せめて一言くらい言い返してからタクシーでも捕まえてやろうとかと剛毅な考えをして振り返り、そこに大江のまるで笑っていない表情を見た。
「悪かった。君まで巻き込んじまった」
「…なんの、事です?」
「最近のあいつの様子だよ。あいつ、多分俺が何を言ったかなんて君に言ってないんだろ?」
 確かに、プロデューサーは大江に何を言われたかという春香の質問をことごとくかわしている。
最近では怖くて質問自体をおくびにも出せていないが、聞いたところで正解が帰ってくるとは思えない。
「あの人に、何て言ったんですか」
 声にこわばりを持たせたまま質問をすると、大江は灰色の天井を見つめるかのように顔を上に向け、
「長くなる。家遠いんだっけ? 送りながら話すよ」
 そう言って、助手席のロックを開けた。



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