声 (33)

 『春香は春香らしくやればいいんだ』と言われた時、初めて空恐ろしい感覚が春香の中身を鷲掴みにした。
素直な取り方をすれば非常に好意的な意見である。要するに好きにやっていいということだ。
4月のプロデューサーなら恐らくそういった意味を込めてこの言葉を使ったのだろうし、だからこそ自分は心穏やかに『天海春香』でいる事が出来た。
 では、素直ではない取り方をした時、この言葉はどういった意味を持つのか。
「自分は自分らしく」というのは非常に良い言葉である。カーネギー名語録に載るくらい良い言葉だと春香は思う。
しかし、その言葉の中に一欠けらでも悪意や無関心が混じれば、それはすなわち恐るべき空虚な言葉へと変貌を遂げる。
要するに、『お前の事なんか知らない』と言われているのかもしれないのだ。
御説ごもっともであり、春香はあくまでも春香であってプロデューサーではない。プロデューサーがどんな意図をもって自分に対してそんな言葉を投げかけたのかは謎だが、その真意は実のところ前者よりも後者よりの意図が強かったのではないか。
それ以上を求めないというのはつまり、そう言う事なのではないか。
 ステージ袖でそこまで考え、春香は首を振った。
 はした金で雇われたバイトと恐らくは総会の会員であろう男たちがバタバタと『天海春香』のステージを準備している薄暗い袖の中で、春香は身動き一つせずに光の落とされたステージをまっすぐに見据えている。

―――あいつを、信じてやってくれ。

 大江に言われるまでもなく、それは『天海春香』ではない天海春香がやろうとしていることだ。
誰に何を言われるまでもない、それは4月のあの公園でプロデューサーに再開した時に決めた自分のルールだ。
やってやろう、と思う。『みんなを元気にしたい天海春香』ではない、『もうすぐBランクの天海春香』でもない、今年16歳の現役女子高生である天海春香の生の感情を乗せてやろうと思う。
それこそが多分嘘偽らざる自分なのだから。『自分が自分らしい』と思える天海春香なのだから。
 別に『天海春香』が嘘っぱちだったとは思わない。あれも自分の一部なのだろうと思う。
だが、この気持ちを乗せる事が出来るのはおそらく『天海春香』ではない、シンプルにしてベースとなる天海春香にしかできない事なのだろう。
 腹が決まりかけた瞬間、絶望的なまでの震えが春香の膝を襲った。
何考えてるんだろ私、バカみたいだとまで思った。何が嘘っぱちだと思わないだ、天海春香として歌うと決めた瞬間脳髄を焼き切らんばかりに走ったこの痺れが緊張でなくて何なのだろう。
もし『天海春香』ならこんな緊張は味わわなくて済むのだろうか。ステージに立ち、華やかに歌を歌い、特番で動物の出産にわあ可愛いと適当な事を言う、そんな『天海春香』ならこんな逃げ出したい袖でも『みんなを元気にしたい』などと言って切り抜けるのだろうか。うらやましい。
 うらやましいが、今日だけはだめだ。それではだめなのだ。
 『天海春香』の歌は万人に向けた応援歌だ。疲れた人に活力を、元気な人に勇気を、絶望を希望に変える歌を歌うのは『天海春香』だ。
今日の自分は『天海春香』ではない。IU4次予選というこの上ない舞台の上で、たった一人のために自分の感情を歌うという蛮行を犯すのは『天海春香』のはずがない。
むき出しの感情を歌おうとするなどこれからBランクという高みに登らんとするアイドルのやる事ではない。
 やる事ではない事を、天海春香はこれからやろうとしている。
 やろうとしているのに、腹まで括ったのに、何だこのザマは。
膝が震える、そんなつもりはないのに口元が勝手に弓を引く、肺から勝手に漏れた空気が乾いた笑いのように喉を震わせる。
むき出しの感情を歌おうと考えただけで気が狂いそうな緊張に包まれる。
 ふと、何でこんな事をしようと思ったのか、という根本的な疑問が春香の中に芽生える、今からでも遅くはない、『天海春香』にバトンタッチしてしまえと頭の中で悪魔がささやく、袖の薄暗い闇の中で増長した悪魔が春香の顔に『みんなを元気にしたい』などという度の過ぎた夢を語る『天海春香』の仮面を被せ、
 ステージに光が灯った。闇になれた春香の目が突然の光に焼かれ、眩しくて目を閉じようとした春香の視界に、ステージから見て右から5列目に座る四条貴音と大江の姿が映った。

―――私は来るべき頂で貴女様を待ちます。

 視線を左にずらすと、観客席のど真ん中に陣取られた審査員席の後ろに立つプロデューサーがいた。



 ステージ上のライトは未だに点灯していない。
薄明るい光に満ちた客席から見るステージの闇はまさにあの世の景色であり、貴音は闇の彼方に何かを見極めるかのようにじっとステージを眺めている。
本当の事を言えば、『天海春香』がどんな歌を歌うのか聞いてみたくはある。IU3次予選のときの『天海春香』の歌は路上の石ころのような馬鹿げた夢を語るド三品のそれではなかったし、あれから2カ月たった『天海春香』が一体何を思って歌を歌い続けているのかという点には興味がある。
IU3次予選のときの歌には志向性があった。わずかではあったが、誰のために歌っているのかというメッセージ性が確かにあった。
最もその後楽屋で話した時には本人が残念がった結果のようだったし、あれからわずか2カ月で途方もない進歩を遂げたかもしれないと考えるほど自分は追い詰められてはいないと思う。
 それでも、思う、所詮2次予選までとは言え2次予選までも一般オーディションに比べればIUは高いレベルでの勝負だったし、『みんなを元気にしたい』などという夢想甚だしい夢とやらを追いかけていた『天海春香』がそれでも2次までを勝ち抜いたのだから支払った対価はそれなり以上のものがあるのだろう。
一体何に支えられてそこまでの代金を支払えたのかはさておくとして、確かに『天海春香』には自分とは別種のアイドル性があったのだろうと思う。
 ふと笑う。最初はあれだけ馬鹿にしていたのに。
「なんだ、思い出し笑いか?」
 横にいた大江が貴音の小さな笑みに気がついた。貴音はすぐに笑みを引っ込め、
「いえ、そういうわけでは」
「そっか。しかしあれだな、4次にもなるとマスコミすげえな。お前のときもそうだったけどさ、会場に詰めてるプレス関係者の数は3次に比べても多い」
 言われて回りを見回してみると、あの忌まわしき“ますめでぃあ”の腕章をつけた連中がカメラを片手に客席の前方を右往左往していた。
他社よりも良いアングルを探しているその様はなんだかひどく滑稽に思えた。
「それだけ注目されてるってことか」
「『天海春香』がですか?」
「4次予選がってことだよ。別に『天海春香』だけじゃないんだろうが」
 しかし―――貴音は思う、しかしあそこで熾烈な場所取りを繰り広げている連中の一体どれほどが『天海春香』の真価を知っているというのだろうか。
『天海春香』が一体どんな気持ちで歌っているか感付いている者はいるのだろうか。
 と、そんな事を考えていたら、大江のニヤニヤした笑いが目に入った。
「何か」
「だから言っただろ、あの手の奴は化けるってよ」
 2か月前の話題である。貴音は細く長い溜息をつき、そうですね、と毒にも薬にもならない相槌を打った。
 皮肉な話もあったものだ、と貴音は思う。毒にも薬にもならないといえば『天海春香』が2次予選まで語っていた夢の事であり、そして3次予選で『天海春香』は僅かだが大きく化けた。
大江をして3次予選の『天海春香』の変化に気づいていないのであれば、この場に『天海春香』を正確に評価できるものが果たしているのかどうか。『天海春香』を誰よりも評価しているのは、ひょっとしたら自分ではないのかとすら思
 突然客席の照明が落ちた。合図もなにもあったものではない突然の暗転に貴音の目が一瞬闇にのまれ、横の大江が「お」と間抜けな声を上げる。
会場全体にあふれていた荒熱のような歓声が途切れる。
打って変わったかのように静まりかえる客席をしり目に、あの世とこの世を入れ替えるかのようにステージのライトが点灯し、浮世の景色を漂わせていたステージが急速に現実に浮かび上がってくる。
眩しいまでのステージのライトが照らすのは決してステージそれだけではなく、袖で働く思慮の足りないバイトやADの姿をも映し出し、
 貴音はそこに、アイドルではない一人の少女を見た。
 椅子にすわり、まるでこれから死刑を宣告されるかのような真っ青な顔をして、歯の根すら合わないほど震えている、矮小にして路上の石ころのような少女だった。
何かの間違いだと思った。あそこにいるのは『天海春香』とはまるで同じ容姿の全く違う別人だとすら思った。
それほどにあそこにいる『天海春香』はIU3次予選とは似ても似つかない存在である。
これから歌を歌うのではない、ダンスを披露するでもない、まるでひと山いくらのジャリといっても差し支えのない存在が、神聖であるはずのステージの横の椅子で自分の番が来た事を悪い夢としか思えない様子であたりを見回して、
 少女の目が、貴音とかち合った。
こちらが向こうを認識したと同じように少女もまたこちらを認識したようだった。
少女は永遠のような僅か一瞬を貴音の顔を見ることに費やし、次いで僅かに視線をずらし、最後に大きく顔を横に向けた。
弾かれるように貴音は春香の視線の先を追い、そこに一人の男を見た。
 審査員席の後ろ側、ステージアシスタントが立つその特等席、ステージと入れ替わるように闇に落ちた客席の中にあって恐ろしいほど光るスタンドの光に焼かれ、男はステージをじっと見ていた。
ふと気配を感じる、視線を戻す、天海春香がこっちを見ている。
 天海春香の口が動く。遠い遠い客席と舞台袖の距離を一足飛びに無視して、天海春香が何を言ったのか、四条貴音にははっきりと分かった。
言った内容はとてもそんな内容ではなかったくせに、天海春香はこちらを向き、さっきまで震えていたのがウソのようなまっすぐな視線で四条貴音を見ていた。

 確かに、ごめんなさいと聞こえた。



♪ 恋したり 夢描いたりすると ♪

 静かな歌い出しだった。
開演前の騒がしかった場内は一転して静まり返り、滴る水滴の音すら響きそうなその静寂の中で天海春香が歌を歌っている。
貴音はすぐに確信を持つ、ステージで歌う天海春香は今までIUで歌っていた『天海春香』ではない。
会場に響く歌声は確かに『天海春香』のそれだが、その口からは公共の電場に映る『天海春香』が乗せるべき感情とはまったく異なる毛色の歌が紡がれている。

♪ 胸の奥に 複雑な気持ちが生まれるの ♪

 確かにあの時、『天海春香』は『それが寂しい』と言っていた。己のすぐそばにいるプロデューサーに自分の想いが伝わらないのが寂しいと。
今思えば、あれは『天海春香』の気持ではなかったのかもしれない。
プロフィールを読んで分かった『天海春香』の年齢は今年16歳であり、歳は自分と僅か一つ違いであり、今ステージにいる人物は間違いなく『天海春香』というアイドルではない、等身大の16歳の少女である。
 でなければ、貴音は思う、こんなメッセージ性の強い歌い方はしない。
『天海春香』というアイドルではない、等身大の天海春香は、IU4次予選という大舞台を使って、誰かに何らかのメッセージを伝えようとしている。
誰かなど問うまでもない。
 貴音は審査員席の後ろに視線を飛ばす。仁王立ちした男が、両手をだらりと下げてステージを眺めている。

♪ 今 大人になる道の途中 あふれる初体験 毎日を飾る ♪

 そこまで聞いて、貴音は春香が歌に乗せたメッセージに気づいた。
 気付いた瞬間愕然とした。
もし天海春香のメッセージが3次予選から4次予選の間に届いていたのなら、こんな歌い方はしないだろうと思う。
路上の石ころであった時の『天海春香』のプロデューサーは両腕を振りかざしてステージへの信号を送っていたし、『天海春香』もまたプロデューサーの信号に依って立つ魅せ方をしていた。
だが、今のプロデューサーは歌がクライマックスに差し掛かる今を持っても何か信号を送っている素振りは見せないし、『天海春香』もまたプロデューサーに頼った歌い方はしていない。
そもそもにしてそれほどの信頼関係があるのならプロデューサーに向けたメッセージを歌うはずがないのだし、という事はIU3次予選から4次予選までの2カ月の間に春香の努力は徒労に終わったのだろうと思う貴音である。
 であれば、なぜ、

♪ だけど この空がいつも私のこと見守ってる ♪

 BGMのボリュームが上がる。春香の顔が上を向く。
その表情には、途方もないほど穏やかで、それでも若さを失わないまっすぐな視線がある。
 客席の誰もが『天海春香』の歌に聞き入る中、貴音は一人眉根を寄せて目を見開き、信じられないようなものを見る目つきで春香の事をじっと見ている。
「…貴音?」
 眉根を寄せて春香を見つめる貴音の様子に、大江がようやく声をかける。貴音は反応しない。
貴音の脳味噌は耳から送られる情報を一心に受け取り、大脳の半分が否定を返すその答えが耳からの信号に否定されるという複雑な処理を行っている。
 それほどに信じられない。
敵に寂しいと心情を吐露するほどなのだ。天海春香がこの2ヶ月間プロデューサーに向けてアクションを行っていたのだろうという事などわかる。
その程度には、『四条貴音』は『天海春香』の事を分かったつもりでいる。そして、この歌を聞いただけで恐らく春香の努力は実らなかったのだろうという事も容易に推測できる。
歌に乗せたメッセージはつまり、天海春香がプロデューサーをどう思っているかというメッセージだ。
『みんなを元気にしたい』でもない、『天海春香』でもない、これはおそらく、16歳の少女の心の底からのメッセージなのだろう。
 2カ月もの努力はきっと報われていないのだ。
 なのに、なぜ、未だに天海春香は、

♪ もっともっと強く 励ましてる だから怖くない どこにも行きたいところに行ける ♪

―――信じている、などというメッセージを乗せられるのだろう。

 挫折もしたはずだし後悔もしたはずだ。きっとひどい目にもあったはずだし泣いたりもしたはずだ。
それなのに、どうして天海春香はまだ、そんな風に思えるのだろう。
 どうして、『みんなを元気にしたい』でもない、『天海春香』でもない、等身大のひと山いくらの、16歳の少女に、こんな強さがあるのだろう。

 会場に詰めかけたプレスと冷徹無情なる3人の審査員と、同業他社のプロモーション担当とアイドルと、運よく抽選権を得て会場に侵入した一般市民と大江と貴音の目の前で歌う少女は『天海春香』ではない。
『天海春香』と全く同じ容姿で全く同じ声のその少女は、『天海春香』が今までのトレーニングで培った莫大な土壌にど素人丸出しの意思を乗せ、今や決して小さくない会場を圧倒的な想いで席巻している。


♪ 輝いた未来 まっすぐにね ♪

 貴音の視界の隅の隅で、プロデューサーの腕が小さく動いた。
春香の声量が途端に落ちる。プロデューサーは再びだらりと腕を下げ、まるで何事もなかったかのように春香を見ている。

♪ きっとうまく超えられると ♪

「…貴女は、どうして、」
 小さく、横にいる大江に聞こえないように呟く。
今のままでは間違いなく春香の想いは報われない。自分と同じだと思う。
報われない想いを抱えて路頭に迷った自分と今の天海春香の状況はスケールこそ違えど間違いなく同じだと思う。
 それなのに、自分は迷ったままでいるのに、天海春香はどうしてなおも信じるといえるのだろうか。
どうしてそんなに天海春香は強いのだろうか。何が彼女をそんなに強くしているのだろうか。

 どうして、自分は、天海春香の事を、うらやましいと思っているのだろうか。

♪ 決めた! 今すぐに 笑顔しかない私になって ♪

 貴音の目の前で、天海春香が踊る。
ステップを軽く、全身から陽光のような明るさをたなびかせ、舞台袖で震えていたのがウソのような光をたたえ、春香は最後のサビを歌うために顔をあげ、貴音はそこに、『天海春香』ではない、天海春香の顔を見た。

 春の陽光のような、暖かな笑顔。

♪ 最高の未来 突き進む ♪



 曲が終わる。春香が頭を下げる。途端に歓声がはじける。審査会場であるという意識は会場内の誰からも揮発しているのか、誰もがトップアイドルの技量をもったド素人の歌にスタンディングオベーションで拍手を送っている。
横の大江が拍手をしながら一言「やるなぁ」と呟く。春香が笑顔で手を振り、それが拍手の勢いをさらにあおり、残酷なまでの技量差を見せつけられたはずの本日最後のユニットまでもが袖で手の平が赤くなるような拍手をしている。
 おびただしい歓声と豪雷のような拍手の中、貴音だけがただ一人拍手をせずに天海春香を見つめている。

『信じられない』という顔で、天海春香を見ている。



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