声 (34)



 天海春香に会わねばならない。
 あの歌から感じたド素人丸出しの感情が嘘であったとは思わないが、天海春香がIU3次予選と4次予選の間に行ったのであろうプロデューサーに向けての各種工作は失敗に終わったのであろうと思う貴音である。
という事はつまり、中堅どころからトップアイドル圏内となる貴重な2ヶ月間を天海春香は少なからずその点で棒に振ったはずであり、ただでさえ忙しい日々の合間を縫って行われたであろう春香の数々の行動はなしのつぶてに終わったという事だ。
 それでもなお、天海春香は奴の事を信じるという。
それがなぜなのか、四条貴音はどうしても気になって仕方がない。



 さて、IU4次予選は3週間ほど前に終わり、年が変わって干支が変わって各地の神社の年に数度もない掻き入れ時も終わった今は1月の第2週の日曜日である。
このころになると毎年恒例の生収録番組も相当下火になっており、今は年末に撮り溜めた年始用の録画番組が休みボケでイマイチ仕事に身の入らないサラリーマンたちに娯楽を提供しており、ちょっと前までの貴音はといえば新参のトップアイドルとして歴々の揃う特番に参加したり台場のクソ寒い夜空の下で生歌を歌ったり正月のくせに水着を披露しなければならない番選を採ってきた大江をジト眼で追い返したりしていた。
今更大江の営業方針に口を出すつもりはないが水着だけは着たくない。人前で肌を晒すなど願い下げだ。
 そんな事を、貴音は今、あろうことか765の本社の正面入り口から見て真裏にある夜の公園の入り口で思っている。
 トップアイドルになり、ゴールデンタイムにばんばん顔を出すようになってから、大江は貴音に対して日常注意すべき項目リストに一つ条件を付け加えた。
曰く「ぱっと見『四条貴音』だと分からないようにしろ」というものである。
ただでさえ世間をにぎわす大型のトップアイドルであり、ファンに見つかったが最後サイン攻めにあうのは火を見るより明らかで、それでなくとも日本の生活習慣に疎い貴音に対する大江の心配は配慮以上ににじみ出るものがあるが、貴音がやるべき事はといえば要は変装である。
そこで、貴音は大江の奨め通り「ぱっと見で『四条貴音』だと分からない」格好をして公園の前で天海春香を待っている。
 「ぱっと見で『四条貴音』だと分からない」格好。
 襟高の真黒いコートに黒帽子にサングラスにでかいマスクを着けている貴音の格好ははっきりと言えば不審者である。
これではファンの前にまず巡回中の警邏がすっ飛んできそうだが、幸いなことに公園の中に人影はあまり多くない。
大体にして夜にサングラスは不明極まりすぎている。大江あたりが見たら爆笑して指まで差しそうな格好だが残念なことに本人は大真面目である。
 大真面目な不審者は何度目かわからない鋭い視線を765からの通り道に走らせ、時計を見てやはり何度目か分からない溜息を洩らした。もうすぐ夜も10時を回る。
日曜日といえば本業が学生である彼女は間違いなく副業たるアイドル業に勤しんでいるはずであり、という事はつまり営業やトレーニングをするにしろ帰りには必ず本社に戻ってくるであろうと踏んでおり、貴音は誰に何を言う事もなく4時間ほど前から公園の前に詰めている。
社の裏手にある公園の入り口という地理的に恵まれない場所に貴音が張っているのは一重に「公園の中を突っ切るのが765の本社に最も近い駅への最短距離」という格好を棚に上げた大雑把な読みによるもので、残念なことに貴音の頭の中には営業先直帰という素晴らしい発想は存在しなかった。
 いい加減腹も減った。
 自分は我慢強い方だと思ってはいたが、流石に4時間も寒空の下で人を待っていれば誰だって腐りたくはなると思う。
通りを流す屋台のらぁめんの匂いは空きっ腹に核より重い衝撃を走らせたし、人通りのない夜の公園で一発かましてやろうとでも考えている事が見え見えな頭の足りないカップルを眼力で追い払ったときは自分は一体何をやっているのかとも思った。
重たい足を入り口近くのベンチに運び、腰を下ろしたついでに勝手に口が開いて溜息が出て、貴音はあと3人だと心に決める。
 自分の前をあと3人通り過ぎる間に天海春香が現れなければ今日は帰ろう。
 水関係と思しき派手な格好の女が目の前を通り過ぎ、コンビニの袋を服の袖から生やした学生を見送り、べろんべろんに酔っぱらって対岸のベンチで寝始めたオヤジはカウントしない事にして、しばらくしてやってきた3人目は不思議な事に貴音の目の前で足を止めた。
 変装は完ぺきである、と思う。ここを通り過ぎた多くない人々は自分の方を怪訝な顔で見る事はあっても『四条貴音』だと認識していた素振りはなかった。
が、どうも明らかに不審者を見るような目つきでこちらを凝視してくる男の視線はサングラス越しにも痛いほどに伝わってきたし、ひょっとしたらあの男は765の関係者で敵情を探りにきたに等しい自分の行為に気がついたのかもしれな、
「…四条貴音?」

―――目標を追いかけることの何が悪いんだ。理想を追い続けることが何で悪い事なんだよ。

 呼ばれた声に覚えがあった。確かこの声は『天海春香』のプロデューサーだ。
ホームランではないがヒット性の手ごたえを感じ、貴音はゆっくりとベンチから立ち上がる。
「…ご機嫌麗しゅう、プロデューサー殿」
 あくまでもたおやかな挨拶をした貴音に向かい、プロデューサーは眠たげな眼を瞬かせ、
「……なに、その格好」
「私の格好で、何か貴女様に影響が?」
 素直に「変装して『天海春香』に会いに来ました」とは言わない事にする。
貴音の読みが正しければ、この男は天海春香の2ヶ月間の工作を無に帰した恐るべき男である。
プロデューサーは薄暗い公園の明かりの中で貴音の頭から足先までを再び眺め、別にいいかとだけ零す。
「…あのさ、一ついい事教えてあげる。あと10分くらいしたら765の警備員がここに回ってくる。最近変なの多いからね。君のその格好じゃ職質間違いなしだから、用がないなら帰った方がいいよ」
 眠いのかガードが緩いのか、プロデューサーはそんな事を言って「それじゃ」と貴音から視線を外した。
「? 765の警備は、公園にまで手を拡げているのですか?」
 思わず口を突いて出た質問にプロデューサーは面倒臭さ満点の顔を向け、
「ここは765の裏口に当たるから、フリーのカメラマンとかがいる可能性が高いんだ。アイドルが帰るところ写真に撮って週刊誌に売りつけたり、帰りに店寄ったりしたらそこに入るところ撮ったり。961にはそういうのないの?」
「素直に教えるとお思いですか?」
「…幸せなのはいいことだ」
 そう言うと、今度こそプロデューサーは貴音に完全に背を向けた。
頭が緩いのか単に眠いだけなのか、とりあえず今のプロデューサーはこちらの質問に返事をしている。
ひょっとしたら、『天海春香』の工作は多少なりとも実を結んでいるのかもしれない。
「お待ち下さい」
 その場から5メートルも離れたところでプロデューサーに声をかけると、今度は面倒臭さに加えて多少の苛立ちが混じった「なに」という声が飛んできた。
「…『天海春香』は、まだ765の中にいるのですか?」
 一瞬でも『天海春香』の工作がうまくいったのかもしれない、という貴音の考えは、次のプロデューサーの表情に一発で蹴破られた。
プロデューサーは、春香に対する心配りを全く感じさせない疲労だけを浮かべた顔に皮肉な笑みを浮かべ、
「素直に教えるとお思いですか?」
 なればこそ、『天海春香』が哀れだと思う貴音である。『おそらく』だった印象が、『間違いなく』にシフトする。
IU4次予選という大きな場において天海春香が歌った想いは、間違いなくプロデューサーには一欠けらすらも届いていない。
「貴方様は、随分と印象を変えられましたね」
「あんたにそんな事言われるとは思わなかったよ。それで何? この間みたいに春香に何か聞きに来たの?」
 この時初めて、四条貴音は、自分の事を棚に上げて天海春香を可哀想だと思った。
「はい。どうしてIU4次予選という大きな戦いにおいて、『天海春香』は戦いを放棄するような歌を歌ったのか。その理由を聞きに来ました」
 問いにプロデューサーは皮肉極まりない笑みを浮かべ、
「…まあ、君も被害者だしな。春香は今日は営業先直帰だ。電話番号教えてやろうか?」
 自分の何が被害者だというのか。
確かに「被害」という事一点においてはそこらの不幸には負けないという悲しい自負もあるにはあるが、『四条貴音』が765のプロデューサーに憐憫ともとれる言葉を投げかけられる筋合いはないはずだ。
「私が、被害者?」
 鸚鵡返しのように言ったその瞬間、プロデューサーは皮肉にしか取れなかった表情を一変させて真顔を作り、
「なにも聞いてないの? あいつから」
「あいつ?」
「大江だよ。あいつが何のために961に移籍したかとか、そういう理由とか何も聞いてない? ホントに?」
 プロデューサーの口調にはまるで「そんなことはないだろう」とでも言わんばかりのニュアンスがあり、貴音としては何のことやらさっぱりで、それが表情に出ていたのか畳みかけるような質問をしたプロデューサーは真顔を一転させて大笑いする。
馬鹿笑いが広い公園の通りに木霊し、対岸で寝ていた酔っ払いがむくりと起きだして腹を抱えて笑い転げるプロデューサーに大した迫力のないガンつけをして去っていく。
「ああそっかそっか。知らないのか。まあそりゃそうだよな、アイツにしてみりゃアンタにヘソ曲げられたら大変だもんな。いいね、知らないってのは幸せで」

―――内緒。

 もうずっと以前の事のように思えるIU1次予選の後、移籍に関する貴音の問いかけに大江は意地の悪い顔でそう言った。
この半年を一緒に過ごしてきた貴音にとって、大江のプロデューサーとしての優秀さは疑いのないものになっている。
これほど優秀なプロデューサーを765が手放したのは妙だ、そう思いつつもあれから大江に事の真意を問うた事はなく、その「真意」が今まさに敵のプロデューサーによって暴露されようとしていた。
「あいつにとってアンタは駒だ。あいつが『アイドルマスター』になるための駒でしかない。あんたも、961も、春香も、俺も、あいつにとっては単なる踏み台でしかない」
「…あいどる、ますたー?」
 プロデューサーの表情が露骨に無知を蔑むものに変わった。
いつか見た「夢を語って何が悪い」と暑苦しい事を言ったプロデューサーとは全く質の違う人物がそこにいる。
「あんたらアイドルにとっちゃ興味ないのかもしれないね。『アイドルマスター』ってのはプロデューサーランクの最上位だ。俺たちプロデューサーにとってみれば、アイドルランクAと似たようなもんだよ。―――もっとも、」
 そこでプロデューサーは言葉を区切り、皮肉と中傷の入り混じった途方もない悪辣な顔をして、
「単にIUを抜けて100万のファンを獲得すりゃ話が足りるアイドルとは昇格の条件は比較にならない。そもそもあんた、俺たちプロデューサーにも格があるって知ってたか?」
 知らないし興味もないと顔に出たらしい。プロデューサーは貴音の表情に「だよな」と呟いて
「あんた、あいつの肩書知ってるか?」
「765プロデュースで敏腕の名前を欲しい侭にしたプロデューサーであると」
「それだよ。その『敏腕』ってのがプロデューサーの格だ。『敏腕』とか『中堅』とか、そういう肩書は何も自分で勝手に名乗るもんじゃない。総会の規定にのっとって条件を満たして、初めて名乗れるプロデューサーのランクだ」
「その最上位が、『アイドルマスター』であると?」
 さっきからそう言ってるじゃないか、というプロデューサーの顔が如実に回答を語っている。
「アイドルだってみんなAランクを目指して活動してる。プロデューサーだってそうだ。誰もが上位ランクを目指して活動してる。ところが、プロデューサーランクの昇格にははっきりとした規定なんてない。中堅クラスまではある程度の前例があるから大抵のところは相場が決まってる―――Aランクアイドルを何人輩出とかな。それが、『アイドルマスター』クラスになると驚くほど昇格規定が曖昧だ」
 プロデューサーの口調には無知をあざ笑うかのような気味の悪い色がある。
怒鳴りたくなる気持ちを必死に抑え、貴音は大江の移籍の真相を聞き出そうと努める。
「曖昧とは?」
「『業界に対する多大なる貢献』だと。笑っちまうよ、そりゃあ総会の歴史に『アイドルマスター』は10人もいないわけだ。俺たちはな、そんなあやふやなものを目指して仕事をしてるんだ」
「…それが、大江様の移籍にどう絡むのです?」
「頭の回る奴との会話は楽でいい」
 プロデューサーの表情に皮肉以外の何物でもない笑顔が浮かぶ。さっきまでの眠そうだった顔が一変し、プロデューサーは生き生きと語り出す。
「765と961の最大の違いは、何だと思う?」
 プロデューサーの問いにはこちらの底を透かし見るような色があった。
貴音は考えを巡らせる。違うといわれてもそもそも765にいた事がないのだから765と961の内情については問われていないのだろう。
という事は、自分の知識で答えられる回答を出す必要がある。
別に分かりませんと答えてプロデューサーからの答えを聞いてもいいのだろうが、そう答えた瞬間に大江の移籍の真相は闇に消える気がする。
 765と961の違い、
「…961は、まだAランクがいない事?」
「違うけど近い。765だってそうだった時期がある」
 『そうだった時期がある』、
「…実績、ですか」
 わが意を得たりとプロデューサーはにやりと笑い、
「そうさ。曲がりなりにも765は発足から10年以上は経ってる。そりゃ765だって出来て1年とか2年とかはAランクなんて夢のまた夢だったみたいだしな、そういう意味では今の961と近かったんだろうよ」
「…実績のない961が、Aランクアイドルを輩出する事が出来れば、そのアイドルのプロデューサーは業界に対して『多大なる貢献』をしたことになる?」
 プロデューサーは唇を尖らせて息を吐く。回答が正解だった事はプロデューサーの表情を見れば分かった。
「目下、うちの社長とアンタんとこの社長と大江の狙いはそれだ。高木順一郎と黒井崇男はここ久しく誕生していない『アイドルマスター』を作り出すために手を組んで、大江はそのために961に行った。そして、その『アイドルマスター』を作り出すためにプロデュースしているアイドルってのが」
「―――私、なのですね」
 プロデューサーの瞳に楽しくて堪らないといった光が宿る。
その眼に貴音は一瞬だけ身をこわばらせる。今のプロデューサーには、まるで築き上げた信頼をぶち壊すことに快感を見出すような加虐的な雰囲気がある。
「あんたが犠牲者だって言ったのはそういう意味さ。あんたは大江にとって体のいい人形だ。あんたが何を思ってアイドルやってるのかは知らないし興味もないが、大江はあんたをトップに立たせることで自分の目標を達成しようとしてる、俺たちを裏切ってな」

―――誰も、そんな事望んじゃいない。

 ようやく、貴音は目の前の男に変化をもたらした理由に気がついた。
プロデューサーの言を信じるのなら、大江は自らの目標のために10年も勤めた古巣を抜けだしたのだという。
たとえ社長同士の密約があったとしても回りには裏切り以外の何物でもなかろう。
そうして目の前の男は大江の最後の1年を傍らで過ごしたいわば最後の教え子であり、教え子にとって師の離反は許し難い行為に映っているのだろう。
「…貴方様は、可哀想な人ですね」
「…なに?」
 許し難いと思っていたのは、自分も同じだ。
「一つ、訂正をしておきます。私の目標はあくまでAランクに上がり、IUで優勝を勝ち取ること。大江様の目的がどうあれ、その目的に沿う形で私の目的が達成されるのであれば異論はありません」
「人形であってもか。さすが961、言う事が違う」
「それともう一つ。貴方様は、大江様に裏切られたと感じているのですね?」
「…」
「そして、それが許せないのですね?」
「…だから何だよ。許せないのは当たり前だ。あいつは、俺に教え込んだ765の誇りや矜持を全部分投げて、自分のためだけに961に渡ったんだ。これが許せるはずないだろ」
 そして次の瞬間、貴音はプロデューサーにとって致死量にも等しい『声』を掛けた。

「―――ではなぜ、大江様の『裏切り』が許せない貴方が、天海春香の歌に答えようとしないのです?」

 プロデューサーの表情が、ぴたりと固まった。
「その御様子なら、天海春香がIU4次で歌に乗せた想いに、貴方様は気づいておいでなのでしょう?」
「…耳年増だな。よくまあ一度でそこまで見抜いたもんだ」
「王とは民の声を聞き、そこに隠れた真意を問う者。ましてあそこまで露骨な想いを気づかぬ王なら、謀反を起こされて然るべき。ではもう一度問います。どうして、貴方は、天海春香の信用に答えようとはしないのです?」
 とっくに致死量を超えた一撃に、貴音は何の容赦もなく追撃をかけた。
だんまりを決め込んだプロデューサーに向かい、貴音は死体に火をつけるような更なる一撃を見舞う。
「貴方様が裏切られたと感じている理由は分かりました。信頼していたものに裏切られる衝撃は、私にも覚えがありますので」
「…知ったような口をきくなよ。あんたが何を知ってるって言うんだ」
 プロデューサーの瞳には、もう余裕のよの字もなかった。
今のプロデューサーの瞳に、自分はどのように映っているのだろうと貴音はふと思う。
「ですが、どのような過程であれ、貴方様が天海春香の想いに答えないのであれば、それは」
「…うるさいよ。黙れ。あんたに、何が分かる」
 そして貴音は、高らかに掲げたハンマーを持って、燃え残った骨を粉砕する、途方もない一撃を放った。

「それは、貴方様が裏切られたと感じた、大江様の行為と、何が違うのですか?」

「―――俺はっ! 俺は、あいつとは違う!! 俺は誰も裏切ってなんかない!!」
「どう違うのですかと申し上げました。私の眼には『貴方を裏切った』大江様と『天海春香の想いに答えない』貴方様には何の違いもないように思えます。裏切ることと、信じない事は、何が違うのですか?」
 貴音の声は途方もなく静かだった。
激したプロデューサーの声と比較すれば圧倒的に小さいはずの貴音の声が、最早誰もいなくなった公園の広い通りをまっすぐに貫き、プロデューサーは今までの様子を一変させた小さな声で、
「…俺は、春香を、」
 プロデューサーがそこまで呟いたとき、貴音は溜息を一つついて駅へと足先を向けた。
これ以上は時間の無駄だと思った。天海春香はここにはいない。大江の移籍の理由も聞いた。
ここにとどまるべき理由は、もう一つもないように思え
「…ああ、そうだ。最後にもう一つ、訂正をしておきます」
 思い出した。プロデューサーの話のうち、訂正をしておかなければならない事がもう一つあった。
貴音はサングラスを外し、クリアになった視界に虚ろな目をしたプロデューサーをおさめ、呟くようにこう言った。
「先ほど、貴方様は私の事を大江様の駒だとおっしゃいました」
 プロデューサーの淀んだ眼が貴音に向けられる。怖いとはちっとも思わない。
 ただ、哀れだと思う。
「私は、今の貴方様のお話が真実だとしても、自分の事を駒だとは思いません。わたくしは私であり、私がわたくしである事をやめない以上は私です。例え大江様が私の事をどう思おうと、それだけは譲る事はありません」
「…だとしたら、あんたは一体何なんだ?」
 プロデューサーの縋るような問いに、貴音は馬鹿馬鹿しいとばかりに溜息をついた。
「私は私以上でも以下でもない。では逆に問いましょう、貴方様は一体何者なのですか?」

 貴音が去っていく。
襟高の真黒いコートに黒帽子に、サングラスにでかいマスクを着けなおした貴音が、夜の公園の闇の奥底に消えていく。
 プロデューサーは、どこまでも貴音のいなくなった公園の闇を見つめている。
強がりの奥底にひた隠しにしてきた不安と絶望を露わにしたような顔で、貴音の去った夜の公園を見つめている。




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