声 (41)

 恐るべきは本社改装中という言いわけであり、医務室のあるフロアは工事関係者以外の立ち入りを禁止されていた。
ぺこぺこと頭を下げながら手土産と救急箱を持ってきたディレクターに会釈をした後、「このたびは大変申し訳ありません」から始まって「会場の設営や運営には細心の注意を払っていた」だの「治療にかかる費用をご連絡いただければ上と相談の上何割かは当方が負担する」だのという無意味にも程がある言いわけをし始めたディレクターに何と言い返したか覚えていない。去る前のディレクターの表情はどうにか笑顔を取り繕っていたようだったから何とかそれなりの対応はしたのだろうと思う。
 なるほどディレクターという立場にもなればあとひと月でAランクへと手を伸ばそうというアイドルが一体どれほどの市場価値を生むかという点は理解しているらしく、ひとたびテレビ側に非があるという話になれば損害賠償の額も馬鹿にならないと分かってはいるのだろう。ひきつった笑みで渡された手土産にはそういった意味もあるのかもしれない。
 無意味なことを。
 駒に発生したトラブルでリハーサルは一時中断され、一人では立てないらしい駒は担架で控室に運ばれた。
引率を兼ねるプロデューサーもまた駒に追随する形で控室に戻り、先ほどまで気持ちの悪い笑顔を浮かべていたディレクターの対応に追われてまだ駒とは会話をしていない。他のアイドルたちに広がった動揺を鎮めるために一時中断は20分の休憩へと名称を変えられ、もうまもなくリハーサルは再開されるはずである。
 人気のなくなったテレビ局の白い廊下は薄ら寒いほど静かだった。
プロデューサーはため息をつき、「765プロデュース株式会社 天海春香様 ・ 株式会社961プロダクション 四条貴音様」と書かれたA4プリントの揺れるドアのノブに手を掛ける。

 駒は楽屋の丸椅子にすわり、頭からタオルを引っ被って項垂れているように見える。スニーカーを脱いでジャージを膝まで捲りあげた右足は応急措置として大道具方がバタバタしながら持ってきたビニール袋入りの氷が入った水桶に浸されており、偏光率の関係で薄っぺらく見える右足の晴れは偏光率のせいでさらに歪んでも見える。
静かに扉を閉めると駒はびくりと肩を震わせ、しかしすぐにまたがくりと肩を落として頭を垂れる。氷入りの水桶に波紋が広がる。
「…足、痛むか」
「……」
 駒は何も言わない。プロデューサーは答えを待たず、桶に顔を映すかのように駒の正面に座る。
駒は顔を見られるのが嫌なのか、もともと俯きがちだった頭をさらに下に下げ、ついでに被っていたタオルを目元まで下げた。泣いているのかもしれない。
「見せてみろ」
 捻挫に代表される関節の損傷にはまず第一に患部の冷却、次いで添え木等のサポーターを装着して患部がいたずらに動かないようにすることが肝要である。
が、駒はピクリとも動かず、波紋のおさまった桶には何の動きも見えない。
「春香、」
 まずは駒の損傷具合がどの程度か判断しないことには今後の方針が立てられない。
ダンスなどの激しい運動が可能になるまで捻挫程度なら1週間も見ればいいだろうが、骨にヒビが入っていたり、万が一の可能性として骨折していた場合は今後の『天海春香』の活動方針に大きな影響が出る。
それはすなわち『天海春香』で大江を崩すというプロデューサーの方針に影響が出るということであり、プロデューサーは脳味噌の裏側で最悪の状況とその対処を考えている。
 最悪の状況とはすなわち『天海春香』の引退であり、その対処とは『次のアイドルのプロデュース』である。
 いみじくも先日自分が言ったとおりである。「『天海春香』では戦えない」のなら『天海春香』以外の誰かで戦わなければならない。
大江を下すというその一点において駒が『天海春香』である必要はもはや何一つなく、プロデューサーは社外秘として資料室に保管されているアイドル候補生の履歴書を脳内で展開する。
 ややあって、駒は小さな音を上げて水面から右足を出した。
プロデューサーは少しだけ眉を顰める。鬱血はしていないから骨折の可能性は外していいのだろうが、見聞だけではまだ骨にヒビが入ったかもしれない可能性を否定できない。
いずれにせよしばらくはダンスのような激しい動きは厳禁だ。医学の心得などないから専門医の判断を仰がねばならないが、IU5次予選はあと2週間後に控えている。
 最悪の状況は想定しておいて損はない、と思う。
「拭くぞ」
 華奢なかかとを左手で支え、
「っ!」
「…少し我慢しろ」
 ディレクターが持ってきたタオルに水分を吸いこませるように水気を取っていく。
タオルが接触するたびに息を呑むような悲鳴が上から降ってくるのが煩わしいことこの上ない。ちらりと上を見上げると駒は両目を硬く瞑って痛みに耐えているようであり、プロデューサーは手早く水気を取る作業を終える。
 救急箱の蓋を開け、包帯とバンテージを取り出す。
「足、上げられるか?」
「プロデューサーさん、」
 頭にひっかぶったタオルのせいで、駒の顔は見えない。
「…私、今日はリタイアですか?」
「多分痛いが我慢してくれ。今から添え木当てて包帯巻くから、そうしたら病院に行く」
「プロデューサーさん、」
「高木社長と親御さんには連絡しておく。家までは送っていくよ。しばらくは不自由すると思うが、車椅子にはならないだろう」
「プロデューサーさん、」
 うざったくなった。足を見たまま投げやりな口調で返答する。
「リタイアだろうどう考えても。タオル当てたくらいで悲鳴上げてダンスなんかできるわけがない。今日は病院に行って終わりだ、明日明後日は休みにするから休養して様子を」
「私! 私、まだやれます!!」
 突然の大声に、プロデューサーは口を閉ざす。この足で何を言っているのかと思う。
「こんなの、どうって事ないですよ。ちょっと痛いだけです、本番では絶対に失敗しませんから! ちゃんと練習もしてきましたし、この位でヘバってたら四条さんに笑われちゃうし、」
 強い意志だけで回るほど、世の中は綺麗に出来てはいない。
「立ってみろ」
 投げつけた言葉に駒が反応する。駒は気合い一発左足に重心を掛けるように体を左に傾ける。両腕を後ろに回して椅子を手すり代わりにバランスをとって尻を上げ、恐る恐るという表現がこれ以上ないほど当てはまる表情で駒は右足を、
「いっ、」
 前のめりに倒れそうになる駒の肩を支え、面倒になって足で桶をずらして椅子に座らせる。されるがままに駒はケツを椅子に付け、ついでに頭に被っていたタオルが首裏にずり落ちる。
僅かに驚く、駒は泣いていない。苦痛に顔を歪ませてはいるが、瞳が揺れている様子はない。が、何か途方もない焦燥に駆られたようなその目は事実として立てないことにさらに囃し立てられたようで、駒は思い通りにならない己の右足を恨みがましく一瞥した後にもう一度の自立を試みる。
「無理するな。ここで無理しても何の意味もない」
 気休めでなく本心からそう思う。
無理をして立ち上がってステージに出たところで、バンテージと包帯に固められた足首のアイドルなど見てもファンは同情こそすれ増えはしないだろう。
この営業で得られた可能性のあるファンの数はAランク後の支援が見込めない現状からすれば喉から手が出るほど欲しいが、同情票で崩せるほど大江やIUは甘くはない。
 なによりも、この駒で戦う必要がないと判断した今、過分な無理もまた必要がない。
ミスはミスであり、一部はプロデューサーそのものの監督責任でもあり、これを生かして他の駒を育てて大江にぶつければよいのだ。
 そして、プロデューサーの考えをよそに、駒は何度目か分からない2足歩行へのトライを敢行しようとしていた。
立ち上がろうとして失敗し、再び椅子を手すり代わりにして自由の利かない右足をかばうように立ち上がろうとし、失敗して尻を椅子に付け、
「…春香。無理するな。プロデューサーとして、お前を今日の営業に出すわけにはいかない」
 見かねて口をはさんだプロデューサーを、駒はまっすぐに見つめた。
瞳には焦りの色が濃く、何か言いたいことがあるがうまく言葉にならない、そんな印象を持った。
「…プロデューサーさんは、」
 ややあって、駒は口を開いた。
「『プロデューサー』なんですよね」
 何を言うのか。
「ああ」
「『天海春香』を、トップランクに連れて行くのがお仕事なんですよね」
 違う。

―――お前、どんなプロデューサーになりたいの。

「―――」
「プロデューサーさんは『プロデューサー』なのに、どうしてこういう時、『もっと頑張れ』とか『何が何でもやれ』とか、そういうことを言わないんですか?」
 俺の仕事は、そんなことではないから。
「…言ってどうなる。その足で、お前に何ができる」
「頑張れます。頑張って、今よりもっとずっと頑張って、『天海春香』にきっとなれます」
『天海春香』では、戦えない。『天海春香』など、必要ない。
 俺の仕事は、
 俺のやりたい事は、
「…言ったろ。俺は別にお前でなくてもいい。駒は、お前でなくてもいいんだ。これ以上お前が何かする必要なんてない」
 はじめて、駒の目が緩んだ。
焦りに何か別の感情がカクテルされ、プロデューサーの目の前で駒の顔が急激に歪んでいく。
足が痛むのかと思うが、それにしては今更泣くのはおかしい。痛みが最も強かったのは転倒後すぐのはずで、その時泣いていなかった駒が今更痛覚の刺激で泣くのはおかしいと頭の隅で思う。冷却が足りなかっただろうか。
「…私は、プロデューサーさんがいいです」
 何が引き金となったのか、駒はぽつりとそんな事を言った。
何を言っているのかと思う。『天海春香』は駒で、大江を崩すための兵隊に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないくせに、アイドルとプロデューサーなんて所詮その程度の付き合いに過ぎないはずなのに。
 こいつは、一体何を言っているのか。
「私が立ち止まった時は、プロデューサーさんがいつも支えてくれたんです。いつだってプロデューサーさんと一緒にいたんです。プロデューサーさんが『天海春香』じゃダメだって言っても、私は、プロデューサーさんじゃなきゃ嫌です」
 気押された。
 駒は泣かない。
眼窩に一杯の滴を湛え、それでも大きな瞳を開き、まっすぐにプロデューサーを見上げている。許容量一杯の水面を意志の力で抑え込んでいるように見える。
「―――そうか」
 駒ではない。
 こんなことを言うのは駒ではない。
 駒はすべからく道具であり、消耗品であり、事ここに関しては大江を倒すための単なる物に過ぎず、指示の通りに歌を歌いダンスを披露し見せ場を作り営業先で笑顔を振りまいてCDを出してインタビューに答え、IUの頂点に立って大江を見下げるための物が道具であり駒であるからして、何がいいとか悪いとか、そんなことを言うのは駒の仕事ではない。
 駒でないのなら、自分にとって、目の前の存在は必要ない。
 必要ないのなら。
「―――俺の仕事が何かって訊いたな」
 駒はこくりと頷く。
 プロデューサーは目を閉じて天井を仰ぎ、憧れを破壊されたあの10月を思う。
 あの日のあの時に、大江と最も好ましくない形で再開したあの時に、社長室で社外秘の判を押した赤い封筒を見たときに、駒の言う『プロデューサー』は木っ端微塵に壊された。
いつか胸中に抱いた『プロデューサー』としての夢はもはや果てしなく遠く、目標の姿は地に落ち、憧れは遥か彼方の霞に埋まり、支えなど何一つなくした己の最後の目的を、プロデューサーはとうとう口に出した。
「俺の仕事はな、『四条貴音』を、大江を倒すことだ。お前の言うプロデューサーなんて、とっくの昔に消えたんだ。お前が何を夢見てるか知らないが、俺はお前にそれしか求めてない」

―――…アイドルを、ちゃんと支えられるプロデューサーになりたいです。

「…俺はもう、夢なんか見てないんだ」

「ああ、そっかそっか。なるほどね」
 忘れもしない、聞きたくもない声が耳に入る。反射的に振り返ったプロデューサーは次の瞬間右の頬に焼けつくような熱を感じる。同時に両足が地面から離れる感覚と急激に白く染まる視界の右半分、視界の残り半分が急激に回転し、次の瞬間に右肩が強烈な勢いで何かにぶつかったような衝撃、痛いとも痒いとも感じないがただ熱いとだけ感じる顔面を意識した瞬間に錆びついた鉄をなめたような苦味が舌の上を這いずる。
 何だと思う間もなくネクタイもろともワイシャツをつかまれ、地面との接点が急激に少なくなり、プロデューサーはそこに、遠きあの日に憧れた男の顔を見た。



 例えば照明一つとっても、各ユニットが出演する際にはどの角度からどのくらいの光量で照らせばもっとも画面映えするかというのは曲がりなりにも20組20人以上のユニットが出演する番組として検証しておきたい要素ではあるだろうが、それでなくともIUなどという大掛かりな制度を勝ち残ってきたユニットの親元ときたらディレクターの意図などお構いなしに「うちのユニットが最も画面に映るようにしてくれ」などという子供じみた懇願をしないところなどなかったのかもしれない。
リハーサルというのはもちろん最後の最後に行われるテストであるが、付いていた照明の量と光の大きさを考えるとあれはディレクターの意地だったのかもしれない―――マスコミは権力に屈さないという、ゆがんだ形の自己発露だったのかもな、と大江は控室までの道すがらでそんな事を言ってきた。
 もちろん、貴音はそんな事を聞いてはいない。
 リハーサルというのは最後の最後に行う仕上げのテストだ。要するに通しで全体の流れをつかむべきタイミングであり、本番に準じた流れの中でのトラブルなどはご法度で、あろうことか『天海春香』がこけて担架で運ばれるというワールドカップさながらのアクシデントに見舞われたリハーサルのその後など結局のところ通し稽古の体を成さず、挙句の果てに前半10組のユニットには楽屋待機かリハ見学という投げやりな二択が与えられ、仕方なしに客席に引っ込んだ貴音に向かって大江は「楽屋に戻るか」という世にも恐ろしい提案をした。
今回の営業の営業の控室はもちろん『天海春香』との相部屋であり、リハーサルを潰した『天海春香』がいるであろう控室に戻るなどという提案は少しでも考えてみれば完全に常軌を逸した選択であったはずなのに、ふと気がつけば大江の背中を見ながら黙々と歩いている自分がいるのが我ながら笑えると貴音は思う。
大江だって今の控室が休憩を取れるほど長閑なはずがないと分かっているはずなのに、その足には全くと言っていいほど淀みがない。それどころか大江の足取りは楽屋への最短距離を進んでいて、まるで大江は「今すぐに楽屋に戻りたい」と言わんばかりである。
 勘繰り過ぎかと思いもしないが、勘ぐる理由は確かにある。

―――俺が、四条貴音に惚れ込んで、四条貴音に天下取らせたくて、『四条貴音』をプロデュースしてるとでも思ってるのか?

 裏切られたと思ったのは、己の心の弱さ故なのか。

 あの後大江に何と言ったか覚えてはいないし、もし覚えていたとしても今は思い出したくはない。
大江の様子は貴音が大江の目的を悟った今でも前と何か変わっているようなところはないし、まるで「アイドルマスターになるために『四条貴音』をプロデュースしています」という少なくない―――決して少なくない衝撃を与えたあの話はお前だって織り込み済みのはずだろうといわんばかりの態度である。
反発を覚えていないといえば明らかな嘘だし怒りなど抱いていないといえば真っ赤な嘘もいいところだが、それ以上に貴音の心の根っこを支配しているのは失意から生じる重ったるい諦めで、流されるように大江に付いて来てしまったのはそれが原因なのかもしれない。
 裏切られたと思ったのは、自分の心が弱いせいなのか。
 大江にしてみれば全くその通りのはずだ。大江はあくまで『アイドルマスター』を目指してプロデューサーをしているのだろうし、自分は自分の目的を持って“でんぱ”に姿を晒しているのだ。
誰もかれもが自分の目的を持っていて、その達成のために動いているに過ぎないのだ。「誰かが無条件で自分に協力してくれる」などということが億に一つもあり得ないなどという事は8年前のあの日に嫌というほど知ったはずなのに、心のどこかでそれを期待していた自分は進歩のしの字も知らなかったのだろうとつくづく思う。
 だからこそ、『天海春香』が気になったというのに。
 直線と角で構成されたテレビ局の中を右へ左へ奥へ上へと進んでいく。
ところどころにある『工事中につき大変ご迷惑をおかけいたしております』のプリントが途方もないほどの邪悪を封じる呪札に見え、方々に張り付けられた『第6スタジオ→』や『第3HD編集室』と書かれた案内板はもはや貴音の目には墓荒らしを迷わせる無為無用な記号の羅列に過ぎず、ややあって大江は足取りも軽く上に続く階段に消え、貴音は一瞬だけ足を止めた。
 明るい照明に照らされた階段は、貴音の目には鬼門に見える。
 この上は楽屋が続く関係者以外立ち入り禁止の聖域であり、おそらくは失意のどん底にある『天海春香』のいる地獄だ。自分の心も凹んでいたからか『天海春香』の歌が遠い幸福を歌っていたことなど手に取るように分かったし、それでなくとも「勝ち残れ」などという大口をたたいたのは紛れもなくこの自分で、そう言ったのは「『天海春香』ならあるいは最後の最後に戦う相手としてふさわしいのかもしれない」などと勝手に思ったからであり、それは勿論あの能天気が信じる信じると馬鹿の一つ覚えのように言っていたからで、今の自分には『天海春香』に同情こそすれ掛ける言葉など一つも持ちえないのだろうと思う。
 信じると言ったあの能天気は、「『みんなを元気にしたい』なんて言っている癖にプロデューサー一人元気に出来ない自分が悔しい」と言っていた。
 そして、あの能天気はその『プロデューサー』に裏切られ続けたのだ。
 それでも、あの能天気は『プロデューサーを信じる』などと臆面もなく言うのだ。
 そういう歌を、あの能天気は歌ったのだ。
 話さなくても分かる、見ていなくてもそのくらいなら分かる、裏切られようが泣かされようが『それしか知らない』とばかりの歌を先ほど聞かされたのだから。先ほどだけではない、IU4次予選のあの大舞台でも聞く奴が聞けば一発で分かるような歌をあの脳天気は歌ったのだから。
『天海春香』は強い、と思った自分が確かにいた。
『天海春香』は自分にとっての最大の障害となる、と確信した自分が確かにいた。
 そして今は、羨ましいと思う自分が、確かにいる。
 そして今、強くて最大の障害で羨ましいとまで思った『天海春香』は、階段の上の聖域のような地獄にいるのだろうと思う。
 そして今、そんな『天海春香』に掛けられる言葉を、自分は持っていないのだろうと思う。頑張れなどとは口が裂けても言えない。あの時の自分は『頑張る』ことを放棄して叫んでいたばっかりなのだから。

 進歩のしの字も知らない自分は、8年前のあの時から止まったままなのだから。

 いつまでも階段を上ってこない貴音を不審に思ったのか、大江が手すりから顔だけを出してこんな事を言う。
「貴音? 何やってんだ、置いてくぞ」
 声に導かれて歩み進んだ階段の上は耳に痛くなるほどの静寂に満ちている。
廊下の端から生えている階段から見れば廊下にある全部で15の扉が見え、奥から3番目の扉が廊下の壁から僅かに浮き上がってるように見えるのはあの寸足らずが扉を閉め切っていないからなのだろうか。
僅かに浮き上がった扉からは何かの紙がひらひらと手招きするように舞っているように見え、その紙に書かれているのは紛れもなく「765プロデュース株式会社 天海春香様 ・ 株式会社961プロダクション 四条貴音様」の呪詛丸出しの文言であり、物言わぬA4のプリントが途方もなく遠くに見え、

『私! 私、まだやれます!!』

 そんな声が、唐突に静謐だったはずの廊下に響き渡った。『天海春香』の声だと思う。紛れもないトラブルの後だからプロデューサーと口論でもしているのだろうか―――そんな意識の横で、呟くような声が聞こえる。
「…間に合ったか」
 大江の方を見る。大江はまるでいつものちゃらんぽらんな表情が嘘のような顔をして無言のまま歩を進め、奥から数えて13番目の扉の前を通る時にこんな声が漏れ聞こえる。
『こんなの、どうってことないですよ。ちょっと痛いだけです、本番では絶対に失敗しませんから! ちゃんと練り習もしてきましたし、この位でヘバってたら四条さんに笑われちゃうし、』
 笑わない。
 笑えない。
 貴音の腹に怒りに似た感情がふつりと湧く。誰が笑うか。『天海春香』がどれだけ努力を重ねてきたか私には嫌というほど分かる。何のために頑張ってきたのかの想像も付き過ぎる。貴女様は一体、私のことを何だと思っているのですか?
 11、
『…春香。無理するな。プロデューサーとして、お前を今日の営業に出すわけにはいかない』
 怒りに似ていただけの感情が怒りにシフトする。
一体誰のために『天海春香』が頑張っているのか、あの寸足らずは気付いていないのだろうか。
気付いていないはずがない、つい先日のように感じるあの日曜の夜の寸足らずのあの表情、サングラスの薄暗い視界越しに見えたあの表情は今にして思えばはっきりとした答えだったはずだ。
とっくの昔に『天海春香』の気持ちに気付いていたはずのあの寸足らずは、それでも尚『天海春香』の想いを封じ続けてきたのだろう。それが人のやることか。
 10、
『プロデューサーさんは“プロデューサー”なのに、どうしてこういうとき、“もっと頑張れ”とか“何が何でもやれ”とか、そういうことを言わないんですか?』
 9、
『…言ってどうなる。その足で、お前に何ができる』
『頑張れます。頑張って、今よりもっとずっと頑張って、“天海春香”にきっとなれます』
 8、
『…言ったろ。俺は別にお前でなくてもいい。駒は、お前でなくてもいいんだ。これ以上お前が何かする必要なんてない』
 誰のために頑張っていると思っているのだ。
 階段の前で怖気付いた自分はどこか遠くに消え、貴音の歩行に尋常でない気迫が入り混じる。
 良く分かっている、自分がすごいと思ったものや自分が憧れた何かを汚された時のあの怒りは貴音にも覚えがある。どこか頭の冷静な部分が「だからこそあの寸足らずのどうしようのなさも一欠けらくらいなら理解してやってもいい」と言っている。それでも、自分がすごいと思った『天海春香』を駒扱いしたあの寸足らずに対する怒りは僅かな減退も見せはしない、
「―――。悪いな、貴音」
 駆けださんばかりの表情を浮かべた貴音に、大江はうっすらとした笑みを浮かべて言う。
「今がキモなんだ。お前にもあいつらに言いたいことはあるんだろうが、」
 7、
『私が立ち止まった時は、プロデューサーさんがいつも支えてくれたんです。いつだってプロデューサーさんと一緒にいたんです。プロデューサーさんが『天海春香』じゃダメだって言っても、私は、プロデューサーさんじゃなきゃ嫌です』
「もうちょっとだけ、待ってくれ」
 6、
『―――俺の仕事が何かって聞いたな』
「それは、どういうことです?」
 大江の顔には笑みがある。
眼を薄く薄く細め、口元を歪めに歪め、まるで三日月のような大江の口端から右頬にかけては興奮からかぴくぴくと痙攣しているのが見て取れる。
まるで最高の見世物を見ているかのようなその表情はどこか爬虫類染みていて、薄目の奥で笑う瞳孔の光沢は底の見えない狂気を孕み、見るものが見れば一発で失禁しそうな表情のまま大江は呟くように、
 そして、楽しそうに言う。
「―――長かったぜぇ?」
 5、
『俺の仕事はな、“四条貴音”を、大江を倒すことだ。お前の言うプロデューサーなんて、とっくの昔に消えたんだ。お前が何を夢見てるか知らないが、俺はお前にそれしか求めてない』
 そして、廊下最奥の扉から数えて4番目、「765プロデュース株式会社 天海春香様 ・ 株式会社961プロダクション 四条貴音様」のひらひらと揺れるA4のプリントがひらめき、弱い心の持ち主を決して許さない聖域と地獄が同居するその扉の前で、大江と貴音はその言葉を聞いた。

「…俺はもう、夢なんか見てないんだ」

―――大成功、というつぶやきを、貴音はその時確かに聞いた。
 何が大成功なのか、そう問おうとして大江の顔を見て、
 あれほど恐ろしい人間の笑顔を、貴音は本当に久しぶりに見た。

 それほど恐ろしい笑顔を浮かべた大江は次の瞬間にはいつものようなへらへらした笑顔を浮かべ、鬼門にも程がある控室のドアノブに手を掛けて極めて普通に扉を開け、すぐ目の前にある背中の肩に手を掛けて、
 こう言った。

「ああ、そっかそっか。なるほどね」

 大江の開け放った広くもないが狭くもない控室の扉、何台かの鏡台と奥に見える4人で使うには数の多すぎるコインロッカーの棚、天海春香がねじった足を冷やしていたであろうビニール袋の入った桶とバンテージで固められた細くて白い足が見え、視線をずらした先で寸足らずが吹き飛んでいた。
スローモーションのように見える四角いスクリーンの中で、大江は出来の悪いピッチャーが投球した後のような姿勢をしていた。
 大江が寸足らずを殴ったのだ、というところまで理解が及んだのは、寸足らずが壁に当たって鏡台に置かれていた化粧品をブ散らした音を聞いてからだった。
 大江はすぐに己が殴ったプロデューサーのそばまで歩み寄る。スクリーンの視界から大江の背中が消え、飛び出さんばかりに目を向いた天海春香の姿が目に入る。春香は貴音などには目もくれずにプロデューサーが吹き飛んで大江が後を追った楽屋壁面に首を向け、あまりの事態に自覚が遅れた貴音が控室に入った時、眼に飛び込んだのは鼻と口から血を流した寸足らずの胸倉を掴み上げた大江の背中だった。
「夢を見るのはやめたか。良いこった。大した変わりようだなぁ」
 大江の声はまるで旧知の間柄の友と久しぶりに会ったかのような暖かみに満ちている。が、行動があまりにも友好的ではない。力一杯に握られているせいでワイシャツの方々に衣服としてあり得ない皺の亀裂が走り、貴音の位置からうかがい知れる寸足らずの表情は悪意と憎悪に満ちていて、背を向けられているせいでほとんど貴音からは見ることができない大江の表情は鏡台の鏡にうつり、その顔には悪意と嘲笑と侮蔑を等分にブレンドしたような気違い染みた笑みがある。
「そんで? お前はそれでいいとしてさ、春香ちゃんはどうすんだよ。俺ぁ前に言ったよな、開演30分前のアイドルほっとくような真似をするなって。言わなかったか?」
 鏡の中で、寸足らずの腕が動く。片腕を大江に掴まれた胸に当て、もう片腕で大江の手首を握り、怨嗟と憎しみに満ちた声を吐く。
「…裏切り者に、言われたくねえよ」
 大江は声を上げて笑う。貴音の脳裏に『精神病』の3文字が躍る。何が楽しいのか大江は寸足らずの胸倉を掴んだままゲラゲラと笑い、
「春香ちゃん、ごめんなぁ。言っちゃあ何だがよ、こいつここまで腐ってるとは思わなかったわ。悪いな、君にまで面倒見させて。OJTとして詫びるわ」
 大江の顔は笑ったままだ。大江は春香に形だけの詫びを述べ、狂気が狂気を呼ぶかのような笑いを再び上げて、楽しそうに、本当に楽しそうに寸足らずの顔を眺める。
「まーだ分かんねえのかこのバカたれが。俺は言ったぞ、『お前に味方なんかいない』って。あんまりにその通りだったから絶望でもしたか?」

 そうして、貴音は、そこで初めて『プロデューサー』の声を聞いた。

「…なんでだ」
 弱弱しい声だった。
「なんで、裏切った」
 鏡越しに見えるプロデューサーの指先が真っ白に染まっていく。
相当な力で握っているのが良く分かる。大江はまるで顔色を変えず、化け物のような笑みを浮かべたまま、後輩の声に耳を傾けている。
「なんで、俺を捨てた」

―――内緒。

 鏡に映る大江の顔が、初めて狂気以外の何かを宿した。
それは憐みのようであり、あるいは何かの諦めのようでもあり、もしくはどことない寂しさのようでもあった。
『内緒』の殻に閉じ込めた大江の内面はうかがい知ることができず、ひたすらにプロデューサーの胸元を締め付ける手は手首から先が真っ白で、ひねりを加えたその持ち手は『内緒』の殻の途方もない分厚さが垣間見えるようだった。
 たっぷり5秒の間をおいて、プロデューサーは血を吐くようにこう言った。
「―――あんたみたいになりたかったのに」

―――夢見て何が悪いんだ。誰だって持ってるじゃないか、こうなりたいとかこういう事がしたいとか。夢って言葉が悪いなら目標って言い変えたっていい。何で全部捨てなきゃなんないんだよ。目標を追いかける事の何が悪いんだ。

「いつかあんたに追い付きたいって、そう思ってたのに」

 そして、それを聞いた大江の顔から、初めて狂気に染まった笑顔が消えた。
残るのは憐みと諦めと寂しさのブレンドされた深海のような色の瞳だけであり、鏡越しに見えていた大江の手元は込められた力が抜け落ち始めたのか徐々に血の赤色を取り戻していく。
 ややあって、大江は静かに、本当に静かにこう尋ねた。
「…お前、どんなプロデューサーになりたいの」
 そしてその時、貴音は息を呑んだ。
今まで完全に蚊帳の外だった春香が椅子から立ち上がろうとして失敗し、椅子をひっくり返して床に倒れる。
冷氷入りの桶が春香の足に当たって横倒しに転がり、捲られたことで分厚くなっていた右膝のジャージが見る見るうちに水を吸って色を濃くしていく。
「なあ。いい加減お前だって分かってるんだろ? お前は、どんな、」
 大江はそこで口を噤み、己の右足首を掴んだ『何か』を見た。
『何か』は頭にリボンを巻いている。茶色の髪が肩で息をするようにゆっくりと上下し、ピンク色のジャージの背中が貴音の目に映る。右膝から大腿部に掛けては水を吸ったことで鮮やかな赤に染まっている。露出した右足は包帯とバンテージで固められており、きっちりと固められた足首は床に対して側部を床に付けることを決して許してはいないようだった。もともと痛めていた足が痛むのかそれとも転んだ拍子に腰でも打ったのか『何か』は獣のような声を上げて痛みを殺し、貴音の目にもはっきり分かるまくれ上がったジャージの裾からはどれほどの力を込めているのか手首の腱が浮いて見えた。
 そして『何か』は、痛みと戦いながら、大江に向かってこう吼えた。

「―――わたしの、ぷろでゅーさーさんに、なにをする」

 自分に向けられているわけでもないのに、貴音は一瞬呼吸が止まった。
が、大江は春香のその視線を真正面から受けてあろう事かあの狂気を復活させ、プロデューサーの襟首をつかんでいた手を放す。
崩れ落ちるプロデューサーに背を向けて春香の手を文字通り払いのけると、大江はまっすぐに貴音のいる控室入口の扉に足を向ける。
貴音は大江の顔を直視できない。今の大江の顔は、生命を脅かされるような邪悪な笑みに満ちている。
 はっきりと思う。今の大江は、怖い。
「…その足じゃ今日の営業は無理だっつーのは俺も賛成だな。まぁ、心もとない765の支援でどこまで出来るのか知らねえが、精々上まで登っといで」
 呟くように、大江は噛みつかんばかりの顔をしている春香に向かって言う。
次いで大江は上を向き、何かを言おうとして喉元まで出かかった言葉を結局は呑みこんだような複雑な表情を見せ、最後に鏡台に縺れるようにして放心しているプロデューサーに向かい、こう言った。
「もう時間ねぇぞ。どうする、『プロデューサー』?」



 下着にまでしみ込んだ冷たい水は、もうとっくに肌に当てられて温くなっていた。
 大江と貴音が去った後、不格好な匍匐前進で懸命にプロデューサーのそばまで寄ると、プロデューサーは底の見えない途方もないほどの深い瞳で大江の去った扉を見ていた。
右頬が赤くはれ上がり、鼻の穴からはいまだに出血冷めやらぬ鼻血を垂れ流し、殴られた衝撃で口の中でも切ったのか赤というよりは黒い血が口の端から滲んでいる。
ハンカチを取ろうとして私服の中だと気付き、春香はジャージの右袖をたくしあげてプロデューサーの口元を拭く。
放心したようなプロデューサーは春香に拭われた口元と鼻の下に手を当ててぼんやりと春香の顔を見て、ややあって春香に向かい、
「なあ、春香」
「…はい」
 4か月のしみ込んだ空しい問いをした。

「…俺は、間違ってるのか?」

 10秒が過ぎた。
 春香は答えない。プロデューサーもまた春香の答えを待とうとはせず、のそりと膝立ちになって春香に肩を貸し、横倒しになった椅子を大儀そうに立て直して春香を座らせ、救急箱から実に緩慢な動作で脱脂綿とウェットティッシュを取り出した。どうやら鼻に詰めるらしい。が、殴られた拍子で三半規管がマヒしているのか、脱脂綿を円形にまとめようとしていたプロデューサーはやがてどかりと床に座り込んだ。いまだ出血を続ける己の鼻が面倒なのかウェットティッシュもそこそこにプロデューサーは人中付近に丸めた脱脂綿を当て、春香はそこでようやく、呟くように、
「…私には、分かりません」
「そうか」
「…でも私は、プロデューサーさんを信じてます」
「…そうか」
 脱脂綿を詰めるためにプロデューサーは下を向き、椅子の上からはプロデューサーの表情が見えなくなり、その日『天海春香』は怪我のために営業を中止した。




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