声 (43)

 遠藤が消えた。

 プロデューサーが春香に抱き抱えられながら船をこぎ出したその瞬間から、少しだけ時間を遡る。
この時間になるとすでに耳の早いメディア各社は『新人ア(中略)ター誕生!!』にトップランク圏内の『天海春香』が出演できなくなったという事をつかんでおり、テレビ局側に問い合わせても実のある回答を一つも得られないと悟った各社はその矛先を765の本社に向け、音無小鳥はと言えば切ったそばからまた鳴り出す電話に辟易して先ほどから受話器を上げっ放しにしてしまっている。
どんな芸能事務所でもまさかNTTから借りている電話網が1つだけという事はなく、小鳥は昼に占いでせしめたポッキーをぼりぼりと噛み砕きながら、潰していない他の回線から飛び込んでくる多種多様な情報文字通りさばいていく。
 とっくに『判定』の時刻は過ぎ去っているというのに、肝心の電話はまだ掛かってこない。
 実を言うと小鳥は一人で3台の携帯電話を自由に扱える立場にある。1台は765の事務員として支給されている業務用の電話など掛けられればいいと考えている事が丸わかりのPHSであり、もう1台はピヨネットからの連絡を受信するだけの多少色気の付いた携帯電話であり、そして最後の一つが着信履歴が親と親しい友人(女性限定)しかないという適齢期中盤の女性としてはどうかと思う私物の携帯電話である。
ピヨネット受信機にぶら下がっているヒヨコのストラップに対抗しているのか私物の携帯電話には鶏の可愛らしくも雄々しいストラップがぶら下がっており、一昔前に流行ったようなヤンキー丸出しの鶏ストラップを小馬鹿にした一昨年入社の新人は後日4階東の女子トイレで剃髪している現場を目撃されている。
曰くのあるヤンキー鶏ストラップは今、小鳥の事務机からはみ出すように重力に引かれてぶらりぶらりと振り子のように無情な時を刻んでいる。
 実際のところ、遠藤の失踪は765側でも早い段階から掴んではいた。遠藤に依頼したのは『計画』遂行における大江のサポートがメインであり、サブはもちろん『計画』がこちらの描いた絵図通りに進んでいるかチェックする事だ。
何も961側の内情をリークしろとは言っていないし、遠藤は遠藤で定時報告でも『計画』外の事を口にした事は今までのところ一度もない。
一度だけ危ない橋を渡ってもらったが、少なくともその際は大江と示し合わせたうえだったはずだし、万が一にも遠藤自身の身に危害が及ぶようなギャンブルは厳に慎むようにとは何度も何度も繰り返し伝えていた。
 つまり、遠藤が961に怪しまれるような事はしていない、はずである。
 にも関わらず、遠藤は消えた。
 961内部に潜入している大江なら分かるかもしれないが、本当に文字通りある日を境に遠藤との連絡はぷっつりと途絶えた。まさかコンクリート一杯のドラム缶に詰められて湾岸に沈められたなどというサスペンス丸出しの結末には至ってはいないだろうが、それにしても何の音沙汰なしに消えるほどあの男に危険な仕事を頼んだだろうか。
 大江なら分かるかも知れないが―――そんな思考に、小鳥はどうしようもない不安と払拭しがたい諦めを覚える。遠藤からの最後の連絡は1月中ごろであり、「大江離反の兆しあり」という不吉極まるメッセージを最後に遠藤からの定時連絡は途絶えてしまった。最初のころはピヨネットの誰しもが「そんな馬鹿な話があるか」だの「あいつもとうとうお脳が天に召されたか」だのと好き勝手を言っていたものだが、週に3度の定時連絡が1度途絶え、待てど暮らせど2度目はなく、3度目に至ってはじれったくなってこちらから掛けたダミー回線の電話の受話器から「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」とまで言われた。
 そうして、遠藤への安否と大江への疑惑を膨らませたまま、今日という日を迎えてしまった。
 ここまでウソ臭いほどうまくいっていた計画が、音を立てて壊れ出しているのを誰もが感じている。が、今更後には引けない。大江からの連絡の内容によっては高木社長公認(・・)の元小鳥から各ピヨネットメンバーにフェーズ6突入の連絡を回さなければならないし、今日のこの日のために賭けてきた金銭人的両面の費用は今計画を止めようものならそれこそ埋没費用になってしまう。
計画の全容を知っているプロデュース課の面々もまた、仕事をする振りをしながら壁に据え付けられている52インチの大型テレビをちらちらと眺めている。
画面の中ではとうとう『新人ア(中略)ター誕生!!』などという頭の暖かい名前の番組が始まってしまい、司会者が冒頭で『天海春香』の突然の事故とそれに伴う出演見合わせを詫びた段にはどこかで誰かが生唾を飲み込んだ音が嫌に大きく響いていた。
 司会者の本当にどうでもいいトークが終わり、画面に『四条貴音』が移った瞬間、ぶるりと小鳥の机が震えた。
 プロデュース課の面々が一斉に小鳥の方を見やる。折角馬鹿でかいテレビがあるくせに、そこにいる誰もが『四条貴音』を見ず、玉手箱を開けた直後の浦島太郎のような目つきで小鳥の事を凝視している。
 通話ボタンを、押す。
「…はい、音無です」
 携帯と無線接続をしておいたスピーカーから息遣いが聞こえる。息を整えているようにも思える。
しばしの無言の時間ののち、途方もなく疲れたような、大きな仕事が終わったような、そんな声が聞こえた。
『小鳥さん?』
「大江さん、ですね?」
 誰かがテレビを消し、誰かが社長室に向かって駆け出す。
プロデュース課のすぐ隣にある社長室の重々しい扉が荒々しく開いて閉まる音がして、現れた高木社長は紛れもなく社運の吉凶を占うような顔つきをしている。
 部屋のあらゆるスピーカーから余計な音が一切消える。窓の外に降る雪はいつの間にか本振りの様相を呈しており、どこかで鳴っている救急車のサイレンがドップラー効果を引っ張りながらいつまでも続いているような錯覚に陥る。
「フェーズ5、お疲れ様でした」
『そっちも、お疲れです。まぁ、まだ終わりってわけじゃないっすけどね』
 生唾を飲んだ音が、どこからともなく聞こえてきた。
 まだ終わりではない。
 という事は、つまり、
「―――判定は」
 たっぷり10秒の真をおいて、スピーカーがこう言った。
『成功です。フェーズ6に進めてください』
 ここで歓声の一つも上がるなら、世の中はどれほど幸せだろう、と小鳥は思う。
案の定プロデュース課に詰めている誰の顔にも計画の一次判定成功を喜ぶ色はなく、『計画』を円満に進めるにあたって誰もが気にしなければならない、最早手放しでは信じられない『計画』に対する大江の心の内を、誰もが嘘であってほしいと願うような目つきで小鳥を見つめている。
『…喜ばないんですね』
 そして大江は、何かを悟ったような口調でそう言った。
視界の隅で古株のプロデューサーが首を振ったのが見える。小鳥は深い、深い、深い溜息をついて、疑惑の病巣にメスを突き立てる覚悟を決める。
「…大江さん。765、それにピヨネットメンバーは今、ある問題を抱えています」
 社長の目が細まる。誰かが机に両肘をつけて、祈るような格好で頭を下げている。
『問題。誰かが仕事を投げ出したとか?』
「そう。投げ出されたんです。結構古いメンバーだったし私たちも信用してましたから、大事な仕事を任せてたんです。大事って言ってもそんなに危ない仕事じゃありませんでしたし、事実彼は途中まで上手く仕事をこなしてくれてました」
『…そうですか』
 30秒待ったところで、大江からはたった一言の言葉が漏れただけだった。
 小鳥は一度だけ目をつぶり、まだ765がたるき亭の上だったころの、事務員が少ししかいなかった頃の、それでも活気に溢れていたころの765を思い出す。
 まだ765の事務メンバーが少ししかいなかった頃の、畑の違う業務をしていても社内の誰もがお互いの名前と顔を一致させていたころの、遠藤がいて木村がいて大江がいたころの、あの懐かしい昔を思い出す。
 あれから、もう10年が経ってしまった。
「…私たちは、彼が仕事を投げたのではなく、何らかの事情によって失踪してしまったものと考えています」
『へぇ。事件ですね』
 空とぼけた大江の口調には、言葉以上の何かがにじみ出ていた。
「ええ。彼に任せていたのは961の内部に潜入して計画の進捗と方向性を確認すること、それともう一つが、」
『俺の、サポート』
 雪の降る音が、聞こえてくるようだった。
 無限のような30秒ののち、小鳥は遂に、その言葉を口にした。

「―――どうして、遠藤君を961に売ったんですか?」

 次の瞬間、ぶつりと電話が切れた。
 プロデュース課に備えてあるスピーカーからツーツーという無情な回線音だけが聞こえてくる。小鳥は耳から携帯電話を離さない。誰もその場から動こうとしない。一瞬の間ののちに小鳥は再度大江の携帯にリダイヤルし、すぐに電話は切れ、再度リダイヤルを掛け、2度目のリダイヤルに応答したのは大江ではなく、電話会社があらかじめ登録していたかのようなこんな声だった。

お客様の電話番号は、現在契約者様により着信拒否の設定がされています。番号をお確かめの上、再度お電話いただくか、ご契約内容をご確認のうえ、キャリアへお問い合わせください。

 顔に疲労の色が浮かんでいるのは自分だけではないだろう、と小鳥は思う。
 ほぼ1年半越しの計画のために綿密に大胆に作り上げた嘘が、本当になろうとしている。
 計画をプランニングするにあたって早々に切り外したはずの懸念事項が、今目の前に立ちふさがろうとしている。
 大江の本当の裏切りが、現実のものになろうとしている。

 深い諦めの裏側でしかし、小鳥はこうも思う。
 もうこれ以上は、嘘を重ねなくてもいいのかも知れない。



 翌朝は、降り積もった雪が一面を白く覆い、空は昨日の灰色がウソのように晴れ渡った、見事な一日となった。
 今日の早番は小鳥であり、早番といえば朝一で会社に出てきて解錠をしなければならず、凝り固まった疑惑と疑念に一睡もできなかった小鳥はと言えばまさしく山姥のような形相で会社の裏口に回っている。
早番は3月に一度事務員に回ってくるいわば罰ゲームであり、765の事務員ならばだれしもが通らねばならない早朝の拷問で、誰にでもということはつまり765最古参の小鳥にとっても条件は同じであり、肝心の鍵はといえば765の社員証をかざして暗証番号を入力するというデジタルとアナログの合わせ技で開くシロモノである。
 要するに、765の社員証を持ち、暗証番号さえ知っていれば、765の従業員なら誰でも一階までなら入れる、という事になる。
 だからこそ、小鳥は裏口にカードをかざしてすぐに扉のロックが外れたときは少々驚いたもののそれ以上の関心は持たなかった。
誰だか知らないが仕事熱心な奴がいたものだと思う。時計を見ればまだ7時も少しを回ったところで、小鳥はそれ以上鍵のロックに思考を巡らせずに大江の今と765の今を考える事に意識を回す。
 大江が裏切ったのは恐らく事実だ。遠藤が持っていたはずの小型盗聴器から拾った大江との最後の接点が遠藤の消息を追えた最後の瞬間であり、職歴洗浄までした遠藤のバックはこれ以上ないくらい白く上塗りされていたはずで、961がどれほど悪行に手を染めていようともおいそれとは後ろを追えないだろうからこそ遠藤を961に送り込んだはずなのに、黒井は遠藤のバックたるこちらの存在に気付いた。
今の961に送り込んでいる765の息のかかった人物はごく少数であり、遠藤以外の内通者たちは昨日も定時の報告を返してきている。
が、彼らが遠藤と接触した事は少なくとも961社内ではない話であり、それは盗聴器のログを辿っても明らかな事で、盗聴器越しに遠藤と直接の接点を持ったのは大江ただ一人であり、社長との4時間に及ぶ会議の末に出された推測は無情極まりないものだった。
 大江が、遠藤を売った、というものだ。
 裏口からつながる社員専用通路を曲がり、たるき亭の上だったころからは想像もつかないほど立派になったエントランスに出る。
 だからこそ、小鳥はあの時「なぜ遠藤を売ったのか」という帰結丸出しな問いかけをしたのだ。
大江が戸惑うなり反論するなりすればまだ脈はあった。が、大江はあろうことか通話を一方的に断ち切り、最後には受信拒否までしてみせた。状況証拠はこれ以上ないほど揃ってしまったし、あの後社長が「今は我々の最善を尽くすのみだ」と言わなかったらプロデュース課の誰もが何時間も頭を下げていたに違いない。
今更ながらプロデューサーにはとんでもない事をしてしまったと思う。親しい人物に裏切られる事がこれほど堪えるとは思わなかった。
 物思いに沈みながら歩を進め、エレベーターの前までやってくる。エレベーターが9階で止まっている。
 9階で止まっている。
 小鳥はここでようやくおかしいと思った。9階といえば社長室を始めとしたいわば社内でも重要な役職の詰める階であり、通常の事務員たちの職場は5階から7階にある。
765の社員証を持っていて鍵の暗証番号を知っていれば1階までは入れるのは事実だが、エレベーターを起動させるのにも社員証がいるのは社長のこだわりで、一般の事務員たちに貸与されている社員証は最高でも7階までしかアンロックできないものだ。
つまり、その仕事熱心な何者かが一般事務員であるならば、彼らの持つ社員証で9階までエレベーターを行き着かせる事は不可能なはずである。
昨日の鍵番は一体誰だったか、小鳥は回らない頭をぐるぐると回す。
 まさか社長かと思う。昨日小鳥が退社したのは随分と遅い時間だったが社長はまだ何かをしていたようだったし、そもそもにして社長は余り朝に強い方ではない。
いつも定時ギリギリに出社する社長を咎めたことだってある。という事は、小鳥より先に出社している人物はプロデュース課の誰かか、あるいは招かれざる誰かの可能性がある。
小鳥はハンドバッグの柄をギュッと握りしめ、ぽーんと情けない音を立てて開いたカーゴに静かに身を滑らせる。

 9階の床はリノリウムであり、エレベーターから降りて最初の十字路を曲がってすぐにあるのは春香の控室として使った会議室であり、その正面には重厚な造りの社長室の扉があり、そして社長室の扉のすぐ手前にあるのがプロデュース課への入り口だ。
会議室の鍵はかかっており、社長室の扉は夜に開けた形跡すらなく、そして誰かがいるであろうプロデュース課の扉の向こうからはガタガタという音が聞こえた。
まだ7時を少し回った時間であり、昨日も遅くまで残っていたプロデュース課の面々が早朝勤務をしている事はまさかないだろうと思う。
小鳥のところに早朝出勤届は届いていなかったし、件のプロデューサーは別にして今の時期の業務はそれほど時間にタイトなスケジュールは組まれていないはずである。
 にも関わらず、扉の向こうからはガサゴソという音が聞こえている。ハンドバッグを持つ手に汗が浮いた事を知覚し、小鳥は鼻から吸って口から吐く静かな深呼吸を2回して、ただではやられないとばかりにガラス製のコンパクトの位置を確かめる。
いざとなったらハンドバッグを振りまわしてやると鼻息を一発、身構えながら首に下げた社員証をID認証のロックパスにかざし、扉を開けた先に、小鳥は、ありえない光景を見た。

 冬の綺麗な青空、東から差し込む日の光に照らされて、机を片付ける大江の背中だった。

「…大江、さん?」
 もちろん、そんなはずはなかった。
大江が765に在籍していた時の席はもっと窓寄りだし、入ってすぐの机は昨年の春に配属された新人の席で、声に振り返った顔はもちろん大江のそれではなかった。
声に振り返ったのは、昨年の春に配属された新米の顔だ。
「小鳥さん。おはようございます」
『新米』の笑った顔が、在りし日の大江の笑顔にかぶって見えた。
「お、おはようござい、ます」
 どもりながら挨拶をしてきた小鳥に『新米』は怪訝な顔をして、すぐに何かに思い至ったのか、
「あれ、そう言えば今日の早番小鳥さんでしたっけ。すみません、ちょっと早めに出てきたんで、」
「いや、うん、はい、それはええと、」
 不審丸出しな小鳥の挙動に『新米』は頭の後ろをポリポリと掻き、しかしそれ以上は何か追求する事もなく再び小鳥に背中を向ける。
もう一度深呼吸をして鼓動を落ち着けると、小鳥は『新米』の横を通るように自分の机に向かおうとして、『新米』の机の上が昨日とは似ても似つかないように整頓されている事に気がついた。
「…早出して、何してたんです?」
 負い目からかどうしても下から見上げるような聞き方になってしまう。『新米』は小鳥に一度だけ視線を向け、次に窓一杯に広がる青に目を向けて、
「書類のまとめです。ほら、昨日の春香の」
 思い出した。
そう言えば昨日『天海春香』は事故で営業を欠席していたのだ。765では何らかの事情で営業をすっぽかした際は始末書の提出を求めており、昨日の『天海春香』の事故ももちろん始末書の提出事項である。
まして怪我までしているのだ、何らかの報告は上げてしかるべきであると彼が判断するのも無理はなかろう。
 全てこちらの描いた図通りだったから、そんなもの要らないのだけれど。
「書面報告はまだだったんで。それに、」
 何もかもこちらの描いた絵通りである事を、『新米』は知らない。
 教えなかったのは大江であり、ピヨネットであり、プロデュース課の面々であり、高木社長であり、自分である事を、『新米』は知らない。
 そんな罪悪感を持った小鳥に向けられた『新米』の顔は、まさしく、
「『どこに何が置いてあるか分からない机に座ってるプロデューサーなんてタカが知れて』ますからね。せめて今まで俺と春香がやってきた事が分かるようにはしとかないと」
 何かをふっ切ったような、すがすがしい笑みであった。

 ひどい事をした、と、本当に今更、小鳥は思った。

「―――恨んでますか。わた…765の事」
 口をついた言葉に、プロデューサーは首をかしげた。
「…? 何がです?」
 何がってことはないだろう。
「765はあなたたちを裏切るんですよ。私たちだってサポートしますけど、会社のサポートがあるのとないのとではこれから先は雲泥の差です。もうすぐIUも5次ですよ。大江さんをアイドルマスターにしようとしたがために会社はあなたと春香ちゃんを切ろうとしてるんです。恨まないんですか?」
「…」
 小鳥の怒気を孕んだような物言いにプロデューサーは再び窓の外を眺め、やがて頭をポリポリと掻き、小鳥に背を向けて作業を再開して、
「恨めしいかって言ったら正直そうですけど。でもそれは俺たちの話だし、」
 ぽつりと零した一言は、小鳥の中の何かを押した。

「俺はもっと大事な事をするために、ここにいるから」

 小鳥は目をつぶり、30秒ほどの闇の中に己の視界をおいて、次に目を開けた時に視界に映った背中は途方もなく大きく、目だけを動かして見えた外の世界は余りにも青かった。
「…プロデューサーさん」
 静かな声に、プロデューサーは手を止めてまだ何かあるのかとでも言いたげな目で小鳥を見る。小鳥はじっとその視線を捉える。
 大江の計画は確かに成功していた。それはおそらく間違いない。
唯一にして最大の誤算は大江そのものが計画を破綻させようとしている事で、しかしそれは最早『計画』達成のために乗り越えるべき障害の一つに過ぎなくなった事を、小鳥はこの時自覚した。
『計画』はもう大江一人の手の内に収まる話ではなく、動き出した車輪は止める術をもう持たず、ならば最後まで殉じようと小鳥は思う。
 事は簡単なのだ。

本来負けるはずだった(・・・・・・・・・・)大江を、実力でうち果たす』事が出来れば、この計画は本当の意味で終焉を迎えるのだと思う。

「…Aランクになった後、765はあなたたちのバックアップを公的には一切しません。これは、今までプロデューサーさんたちが使っていた765の営業ネットワークが使えなくなったことと同じです」
 プロデューサーの目は淀まない。小鳥もまた怯まない。
 謝るのは、最後の最後にしようと決める。
「ピヨネットのネットワークでどれだけの営業情報をカバーできるかは分かりません。ひょっとしてAランクアイドルにはふさわしくない仕事しか取れないかもしれない」
 言いながら卑怯だと自分で思う。
しかしこれが、大江が行った判定を確認する、自分にとっての最後の判定なのだと思う。
「それでも、あなたは大江さんと戦いますか?」
 今のプロデューサーなら間違いなく肯定の返事を返してくる。小鳥はそう思って、この問いかけをする。
プロデューサーは小鳥をまっすぐに見つめる。小鳥もまたプロデューサーをまっすぐに見つめる。そうして10秒が過ぎ、20秒が過ぎ、30秒が過ぎようとしたところで、プロデューサーははっきりとこう言った。
「…そうじゃない」
 小鳥は耳を疑う。
予想していた、言ってほしかった言葉とは全く違う言葉が聞こえたような気がする。はいでもYESでもない、全く予想していなかった言葉を吐いたプロデューサーは、まるで憑き物が落ちたかのような顔をしている。
「戦うとかIUで優勝するとか大江さんに勝つとか、今の俺は考えてません」
 ならばなぜ、プロデューサーはここにいるのか。
7時前のプロデュース課、冬の遅い陽射しが東から差し込む9階の角の部屋で、大江に殴られたであろう右頬にでかいバッチを当てたまま、どうしてプロデューサーは書類の整理をしているのか。
 なぜ、次を戦う準備をしているのか。
 顔に出たらしい。プロデューサーはゆっくりと頭を振り、分厚いファイルに手を置いて、
「俺は、春香の歌を聞きたいんです」
 小鳥は言葉を失う。プロデューサーは言葉を紡ぐ。

「IUとか、もう正直どうでもいいんです。春香の歌が聞ければ俺はもうそれで満足。大江さんが何を考えてようが知ったこっちゃないし、アイドルマスターでも何でもなればいい。でも、春香が歌を歌い続けるためにIUに優勝しなきゃならないならそうするだけだし、結果として小鳥さんたちが古巣に帰るんならそれもいいし、その過程で大江さんとガチンコやらなきゃならないならやるだけです。本当にそれだけ」
 そこまで言い、プロデューサーはバッチが剥がれ落ちるかのような、悪ガキのような笑顔を浮かべ、

「俺は、春香のファンだから」

 小鳥は思う。
 プロデューサーは、強くなった。

「…Aランクに上がった後は、今まで選別していた情報を全てあなたにお渡しします。多分今までよりも仕事辛くなりますよ」
「覚悟してます」
「帰れない日もありますからね。最終退社の鍵の番号大丈夫ですか?」
「何度もやってます」
「出前のピザ屋さんは夜の2時までです。近所のコンビニは24時間ですけど、夜の1時回ったらおにぎりも菓子パンもありませんからね」
「太るんで」
 話しながら口角が上がっていくのを感じる。
途方もない活力が身に湧いてくる事を自覚する。小鳥はごほんと咳払いをし、自席に戻ってデスクトップの火を入れる。
 大江抜きの『計画』に生じた途方もない不安は、この僅かなやり取りでいっぺんに吹き飛んでしまった。
『新米』は『プロデューサー』として、小鳥にも想像しえない最上の答えを返してきた。
 大江の計画は成功した。後は、自分たちの仕事をやるだけだ。
 ラップトップが起動する。小鳥はハードディスクのアクセス時間ももどかしくメーラーを立ち上げ、机越しに見えるプロデューサーの横顔をちらりと盗み見て、ピヨネットおよび10号を除いたプロデュース課全員が登録しているメーリングリストをTOに指定して、こんな文章を書く。

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 To:project-10th-producer@mailinglist.765.co.jp
 Cc:高木順一朗<junichirou-takagi@p10p.765.co.jp>
 Sub:ピヨネットおよびプロデューサー諸兄へ
 Text:
 本日9:00を以って、第10号プロデューサー育成計画をフェーズ6に移行します。
 一次判定者は第3号プロデューサー、最終判定者は音無です。
 なお、計画にあたり、第3号プロデューサーが離反の可能性があります。
 各員は十分に留意の上、役割を果たして下さい。

 音無小鳥
 765プロデュース株式会社営業部プロデュース課付

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