声 (45)

「皆さんお疲れ様でしたー! 今日の収録は終了です。天海さん、今度もまたよろしくお願いしますね!」

 ぅおっかれっしたー!!!

 都内某所のラジオ局でそんな野太い声が上げられたのはIU5次予選を明後日に控えた2月の金曜日の事だった。
春香の足はすでに完治にほど近いまでに整えられていたが、IU5次を控えてなおラジオという足を動かさなくてよい営業を選んだのはプロデューサーである。
「お、お疲れ。どうだった久しぶりのラジオ?」
「えへへ、楽しかったです! 歌も歌えたしお悩み相談室みたいなコーナーも面白かったですよ」
 春香の持ち味といえばドジであるが、もうひとつ他にない特徴といえばその等身大性だ。
「どこにでもいる歌のうまい女子高生」と言ってしまうと身も蓋もないが、「どこにでもいる歌のうまい女子高生」であるからこそ同年代の共感を得られるというのは春香の強みであり、そんな春香がリスナーのお便りに真摯に真面目に返答をするというのはテレビにも引けを取らないプロモーションになるのではないか―――プロデューサーの読みは後日高い受信率となって現れることになる。
「何より。足の具合はもう大丈夫?」
「…プロデューサーさん、私だってそんなに年がら年中転んでるわけじゃないですよぅ…」
「いや違う違う、そういう意味じゃなくて。もう明後日にはIU5次予選だからね、出来るだけ万全の体調で臨んでほしいって意味」
 が、よくよく見てみれば春香は笑顔を曇らせてはいない。プロデューサーは肩をすくめて溜息をつき、ラジオ局内のベンダーで買っておいたホットのミルクティー缶を春香に渡す。
もちろん今日の仕事はラジオ局の公開録音だけというわけではなく、午前中は雑誌のインタビュー、午後はトークメインのバラエティーの仕事をこなし、現在の時刻は夜の9時を少々回った辺りだ。
今日の営業はこのラジオ収録で看板であり、プロデューサーはこの後765に戻って今日の営業の事後処理と獲得ファン数の精査を行う予定である。
「さてと、もう夜も遅くなっちゃったし、春香は直帰していいよ。ここからだと一番近い駅はどこになるんだ、えーと」
「あれ、でもプロデューサーさんは?」
「俺はもうちょっとやる事があるから」
「じゃあ私も帰社しますよ。締めのミーティングもしてませんし」
「駅までは送るよ。車の中でだって反省点のまとめくらいはできるだろ? 無理は禁物」
「ムリじゃな…あ、お疲れ様です」
 春香の「お疲れ様です」にプロデューサーが横を向くと、実に幸福そうなラジオ局のスタッフが横を通り過ぎていくところだった。
お疲れ様っすー、と歩いていく若いスタッフはこれから桃源郷に向かうのかと思うような顔をしていて、プロデューサーは思わず横顔が後頭部になるまで歩き去るスタッフの顔を眺めてしまう。
「…何か良い事あったのかな」
 何かひらめいたらしい、春香は右のぐーを左のぱーに打ち付ける動作をして、
「そう言えばプロデューサーさん、明日何の日だか知ってます?」
 言われて初めて気がついた。そう言えば今日は2月の13日だ。世の中は明日バレンタインではなかったか。道理で街並みが色気づいていると思った。
「ああ、あーなるほど、そういう事か」
「そういう事です」
 別に何かをしたわけではないのに春香はエヘンと胸を張る。
実のところプロデューサーはあまりバレンタインに良い思い出はない。学生時代は男友達とつるんでばかりいたし、去年の今頃と言ったら大江のプロデュースが佳境を迎えていて一日オフィスに缶づめだったし、見かねたような小鳥がプロデュース課に差し入れたのはどうやって製造したのか甚だ疑問な明太子入りの義理チョコレートで、食したプロデュース課の男衆は後日揃って1週間ばかり旅に出た。大江のアシスタントをしていたプロデューサーはそのジャーニーに参加できなかった事を未だに悔んでいる。
「そう言う事なのでですね、あのー、プロデューサーさん、明日―――」
「あ、春香ちゃんにプロデューサーさん! お疲れさまー」
 春香が張った胸をしぼませた瞬間、まるで空気を読まないラジオ局のチーフが二人に声を掛けてきた。
「あ、チーフさん。お疲れ様です」
「いやーよかったよ新曲! 『魔法をかけて!』だっけ? いやもーマジでうちの男衆骨抜きだよ!」
「あ、ありがとうございます」
 チーフのテンションは異常に高い。感極まったように春香の両手を握りしめてぶんぶん振りまわすチーフは収録が終わった今もなお興奮の坩堝の底の方にいて、この様子だとスタッフたちは腕が抜かれているのではないかとプロデューサーは割と本気で思う。
「IU5次もあれで出るんでしょ? うちの連中皆春香ちゃんの事応援してるからさ、絶対勝ち残ってね! 春香ちゃんなら絶ぇっ対大丈夫だから! そうでしょプロデューサーさん!」
 いきなり水を振られてプロデューサーはたたらを踏む。
明日は確かに休日だが、このまま放っておいたら潰れるまで飲みかねない雰囲気だ。
が、プロデューサーとて人の子であり、この雰囲気に水を差すつもりなど毛頭ない。
だからこう答える。
「もちろん。春香は絶対決勝まで行きます」
 春香は一瞬だけプロデューサーを見て、すぐに穏やかだが挑戦的な笑みを浮かべ、
「応援よろしくお願いします!」
「もーまっかしといて! 若いの使って何枚か5次予選のチケット取ってあるから! あ、Bの18席から23席で旗振ってるのいたらうちのだからさ、手とか振ってくれたら嬉しいな」
 もちろんIU予選のステージの上で手を降る余裕などあるはずがない。
が、こういう受け答えに大切なのは気持ちである。春香は元気にはいと答え、チーフはやはり満面の笑みで二人に向かって背を向けた。
「応援してくれてる人もいるんだ。足だけじゃなくて喉とかも調子整えておかないとね。明日はオフにする予定だから、しっかり休んで」
 プロデューサーの声に春香はピクリと反応し、一瞬のうちに喜怒哀楽の喜と哀の表情を浮かべて、
「プロデューサーさんも、明日はオフなんですか?」
「いや、俺は仕事。5次予選以降の営業の段取りつけとかないと」
 実際、プロデューサーも小鳥から話を聞くまでは「765のバックアップがない」という事が具体的に何を意味するのかを知らなかったというのが本音だ。
小鳥から聞いた話によると、まずプロデューサーのIDで社内に蓄積されている営業データベースにアクセスできなくなる、らしい。これは即ち今までどこでどのように営業をしてきたかという事が全く見えなくなる事を意味する。
また、いざ営業を実施するうえで発生する様々なトラブルに対してもプロデューサーがケツを取らなければならなくなるとも言われた。765の規模からすると営業活動は個人対個人ではなく組織体組織の構図が基本であり、組織体組織の営業とはまず営業内容の相互協約から双方に不本意な結果に終わった際―――要するにドタキャンが発生した場合などで相手先に損害を与えた場合―――の保証方法についても要旨を結ぶ必要があり、これらの話を今後は全てプロデューサー一人で行っていかなければならない。
他にもさまざまな弊害を伝えられているがまずもってプロデュース活動の障害になりそうな要素はこの二つであり、たった二つを取り出してみても今までの営業は随分バックアッパーに支えられていたのだと思い知らされる。
その代りと言っては何だが765プロデュース課の主要な情報線であるピヨネットからはフレッシュな営業情報が供給されるという話であり、要するに今後は入口がでかくて出口がせまい営業を余儀なくされるというのがプロデューサーの理解だ。
小鳥に伝えたところ「6割は正解」と笑いながら言われ、では残りの4割はというと「組織に縛られる事のない柔軟な営業ができること」という指摘を受けた。
組織が大きければ大きいほど小回りの効く活動は難しくなる、765としての営業バックアップが外れるという事は個別に動きまわれるという事であり、即ちそれは組織にできない個人の営業を最大限に活用できるチャンスでもある―――小鳥に言わせるとそういう話らしいが、何にも増してプロデューサーが覚えているのは小鳥の言中のこんな言葉だ。

―――なんだか、765が立ち上がったばっかりの時のプロデューサーの仕事みたいですね。

 あるいは、これは大江が歩いていた道なのかもしれない。
 プロデューサーはそう思う。

「えー…。じゃあ、プロデューサーさんは明日一日中会社にいるんですか?」
 記憶の海から意識を引っ張り出して、春香の何とも言えない声に応える。
「どうだろ。多分そうだと思うよ。今のうちに見とかなきゃいけない資料も結構たくさんあるし、営業予約が取れそうなところがあれば取っちゃいたいし」
 何せ明日がデッドラインだ。
打てる手は打って置いて損はないし、イントラにアクセスできる期限までに目を通しておくべき資料は山のようにある。
プロデューサーのその答えに春香は小さく「よかった」と零し、何が良かったのか全く分からないプロデューサーは阿呆にも程がある「何が?」という問い直しをする。



 朝5時30分。
 実は春香は朝に強い。休みの日に昼過ぎまで寝ているというのは学生に許された最大の特権であるが、春香の場合は目覚ましをセットする必要もなく腹が減って朝起きる。
実に健康的な生活であるが、友人たちと会話するときに二度寝の話になると春香はいつも置いてけぼりを食らわされる。二度寝とは人類に許された幾つかの至高の贅沢の内の一つであると信じて疑わない友人もいるにはいるが、そんな会話をするときは実のところいつも「こいつらよくも腹減ってるのに寝てられるな」と心の片隅で思っていたりする。
 が、いくらなんでも5時30分は早いかな、と思う。耳を澄ませても階下で母が朝食を作っているような音はしないし、確か父は会社の仕事が忙しいとかで終電などとうに過ぎた時間にタクシーで帰って来ていた。
親父が帰ってきた時間を覚えている程度には起きていたという事はつまり今日の睡眠時間はおそらく3時間くらいしかないのだろうが、この上なく目が覚めてしまっていて至高の贅沢を体験する気にはどうしてもなれない。
 原因は分かっている。カレンダーを見ると今日の日付にでっかい赤丸でマークが付いており、このマークは2月の頭に春香が自分でつけたマークであり、今日この日のために仕込みを終えたチョコレートは冷蔵庫の中で春香の代わりに二度寝をしているはずである。
 バレンタインデーだ、と思う。
 勝負の日だ、と思う。
 部屋の中のくせに2月の空気は刺すような寒さだった。
春香はもそもそと布団から這い出てカーディガンを羽織り、頭をぶるぶると振って未練たらしく脳裏に残る眠気の残滓を振りはらう。
 やる事は昨日帰った後にメモをしておいた。まずは湯煎で二度寝をしている不届き者をドロドロに溶かし、リキュールを少々と砕いたナッツと砂糖を混ぜ込んで煮立たないように細心の注意を払い、十分に混ざったと思ったら味見をして冷蔵庫で再度凍えさせる―――そこまで考えて、春香の頭にふと思い付くものがあった。

―――…食いっぱぐれた。食べたかったな。自信作?

 多分プロデューサーは持って行ったケーキを食べた事はないのだろう。
最初のケーキは職場の先輩たちに食われたと言っていたし、2度目の時はそもそも食品に興味がなかったような気がする。
病室でプロデューサーがガチ寝入りをした時以降、プロデューサーは他のホモサピエンスのようにそれなりの食事をするようになった。よく考えたら3次予選の日から病室のあの日までプロデューサーが何かを食べていたところを見た事がない。わがプロデューサーながらよく生きてたなと思う。
 チョコレートケーキにしようと決める。
そうと決まれば小麦粉がないと話にならない。薄力粉のストックはまだ戸棚に入っていただろうか。



 11時20分。
 500枚ワンパックのA4コピー紙を2束と100枚ワンパックのA3コピー死を2束使い果たしたところで複合機のトナーが人生の終焉を迎え、仕方なしに備品室にトナーを取りに行って戻ってくるとコンビニの袋を抱えた小鳥が茫然とした顔でプロデューサーの机の上を見ていた。
「あ、小鳥さんおはようございます。あれ、小鳥さん今日休出でしたっけ?」
 小鳥は時速1キロに満たない微々たる速度でプロデューサーに首を向け、視線だけで一体何をしているんだとプロデューサーに問いかける。そんなにおかしな事はしていないと思うが、合計1200枚もの紙束と紙束の所々から飛び出している付箋は確かに一般的ではないのかもしれない。
「…プロデューサーさん、昨日おうちに帰りました?」
 小鳥は残念な事実を確認するような口調でプロデューサーに問いかけ、プロデューサーはそう言えばと呟く。
「近所のコンビニ、ホントに1時回ったら食い物無くなりますね。さすがオフィス街―――あ、シャワーは浴びてます、ダンストレーニング室の横のヤツ。…臭います?」
 小鳥は頭を抱え、
「あのですね、頑張るのは良いですけど倒れたら元も子もないんですからね。ピヨネットは協力しますけど点滴とか打てませんからね。私嫌ですからね過労入院申請するの。春香ちゃんも心配しますよ?」
「…そんなにひどい顔してますか俺?」
 言われて小鳥はプロデューサーの顔をまじまじと眺める。
疲労からきているであろう目元の隈や整っているとは言い難い髪型、視線を下に向ければワイシャツもスラックスもしわだらけであり、しかし視線を再度顔に合わせると少し前まで色濃く映った陰鬱な雰囲気はきれいさっぱりなくなっていて、ため息交じりに視線を投げた机の上の紙の山は赤色のペンで人類の言語とは思えない走り書きが下から上まで走っている。
「これ、765の営業資料ですか?」
 小鳥の呟くような疑問にプロデューサーは頷き、小鳥の横をすり抜けて複合機の正面パネルをぱこんと開けた。
最後の一滴までインクを絞り出してミイラとなったトナーがひょっこりと顔を出し、ダンボールから新しいトナーを持ち上げてセットするというプロデューサーの動作には淀みも無駄も一切なかった。プロデューサーはこの一晩で一体何度この動作をしたのだろうか。
 溜息をついてもう一度机の上を見やる。富士山が如き円錐形にうずたかく積まれている資料はどうやら最初から乱雑に積まれていたわけではないらしく、所々クリップやら事務紐でまとめようと苦心した形跡がある。
小鳥はすることなしに頂上からふもとまでの資料を順繰りに眺め、下山しきった辺りである事に気がついた。
プロデューサーが印刷した資料はどれも、まだ765が仮事務所で業務を行っていたころのものだ。下手をするとたるき亭の上だった時の資料もちらほらと散見され、最近の資料となると驚くほど少ない。
「最近の資料じゃないんですねこれ。昔の資料なんて引っ張り出して来てどうするんです?」
 トナーを嵌め直した事で元気いっぱいに仕事を再開した複合機に声をかけると、溜りにたまったプリント類をその場で捌いていたプロデューサーはああと呟き、
「小鳥さんが言ってたじゃないですか。『765が立ち上がったばかりの時のプロデューサーの仕事みたいだ』って」
 確かに言った。言った事には言ったがそれが目の前の山とどのような関係があるのか。
疑問が顔に出ていたのか、プロデューサーはええとと呟き、
「今の765は一つの営業に対してまずバックアッパーがアポ取ってプロデューサーが現地で調整してってやり方じゃないですか。分業は組織営業の基礎なんで別に不満はないですけど、今の資料はそのあたりのリンクが途切れちゃう奴が多いから。アポ取りから現地調整まで一貫でやってる資料ってなると、どうしても昔の765の資料になるんです」
 なるほど。
 プロデューサーの言う通り、そして小鳥が説明したとおり、現在の765の基本的な営業の方法は組織対組織である。
これは即ち、営業の段階に合わせて担当者が変わっていく事を意味する。アポ取りが得意な奴がいれば契約内容の吟味が得意な奴もおり、各員各々の得意分野を生かした営業をする事で765は僅か10年で業界のトップに躍り出ている。
いわば分業のなせる業であるが、今後のプロデューサーに課せられた命題は1から10まで全てを自分で行う事だ。であれば、最近の営業資料よりはその形態になる前の765の営業資料―――プロデューサーが1から10まで営業活動をしていた時代の資料―――の方が都合がいいのだろう。
 まだ765の事務メンバーが少ししかいなかった頃の、畑の違う業務をしていても社内の誰もがお互いの名前と顔を一致させていたころの、遠藤がいて木村がいて大江がいたころの、あの時の765が、今のプロデューサーにとっての指針となっている。
 もう遠くなってしまったと思っていた、10年前のあの日々が、プロデューサーの中で再び蘇ろうとしている。

 ひょっとしたら社長の目論見はこれだったのかもしれない、と小鳥は思う。

「と思ってたんですけど、これが予想外に多くて。結局一晩掛けてまだ見きれてないんです。ただ、全体の流れみたいなものは分かったから、とりあえず今日中に1件一人でアポ取りまでやってみようかなと」
 え、
「今日中に、ですか?」
「はい」
「アポ取りから調整まで?」
「ええ」
「貫徹したんですよね?」
「まあ」
 溜息しか出なかった。こいつは本物だ。本物のワーカホリックだ。
「体壊してからじゃ遅いですからねって言っておきます。…せめてお昼ぐらいはちゃんと食べて下さいよ?」
 諦め8割非難2割の口調でそう言うと、プロデューサーは一瞬だけ言葉に詰まり、次いでヘラリと笑って大丈夫ですと言う。こいつまさか、
「ところでそのアポって何時からなんですか?」
 するとプロデューサーは怒られる事を覚悟した子供のような表情を浮かべ、
「いやぁ、13時から…なんですけど」
 一晩掛かって見きれない資料の続きは未だに複合機から吐き出され続けている。
当然といえば当然の話だが、もちろん765の営業資料は外食をしながら眺められるような平和な代物でもない。
要するに昼飯を抜いて仕事をしようと言っているこの2年目をどうしてくれようか、自らを完璧に棚に上げた小鳥が頭を抱えたその瞬間、プロデュース課の扉が何の前触れもなく開いた。
「おはようございまーす。プロデューサーさん、います?」
 目を剥いたのは小鳥である。
「あれ? 春香ちゃん、今日休出でしたっけ?」
 確か明日はIUの5次予選ではなかったか。
プロデューサーが先週上げていた担当アイドルの週間出勤予定では確かに今日の『天海春香』はオフのはずであり、疑問一杯の顔を向けた先にあったプロデューサーの顔もまた「あれ?」という顔をしている。
「あれ、おはよう春香。どうしたの、今日休みのはずだよ?」
「はい。だから今日は練習なしです。でもプロデューサーさんは今日もお仕事だって言うから、僭越ながら差し入れをって思って」
 言葉尻に僅かな不満が混じっている事に小鳥はすぐに気がつき、春香が大事そうに抱えている縦20センチ横30センチくらいのピンクの箱が件の差し入れなのだという事にすぐには気付かなかった。
「そうなの?」と聞き返すプロデューサーに「そうです」と春香は答え、扉を入ってすぐにある机の上の山に一瞬だけ足を止め、プロデューサーのすぐ脇の机にピンクの箱をゆっくりと下ろし、ハンドバッグから紙皿と使い捨てのプラスチックフォークを取り出した。
小鳥は以前に春香の手作りお菓子を食べた事があったから箱の中身がケーキなのだろうと見当がついたが、プロデューサーはどうやら本気で何が出てくるか分からないらしい。
「これとこれ持ってください」と言われて紙皿とフォークを持たされるプロデューサーと持たせる春香を見ているとどちらが年上なのか分からない。
 そして、春香が「ご開帳ー」と言って出してきたケーキの色を見たその瞬間、小鳥の脳裏に浮かんだ疑問は一発で氷解した。
 なぜIU5次予選前日という重要な日に、自宅から765まで2時間はかかる春香が、わざわざプロデューサーに差し入れを持ってきたのか。
 女を30年もやるとこの手のイベントには鈍感になるのか、と小鳥は思った。
「チョコレートケーキね。なるほど、そう言えば今日だもんね」
「はい、今日ですから」
「今日って…ああ、バレンタインか。良いのかい貰っちゃって?」
 頭から義理だとしか思っていないプロデューサーに春香は苦笑いを浮かべ、小鳥はあきれ顔を浮かべる。



 6辺に切り分けられたチョコレートケーキの内1つは小鳥の腹に収まり、もう一つは春香の腹に収まり、そして残りの4辺は全てプロデューサーが胃に収めた。
うまいうまいとケーキをほおばるプロデューサーの食いっぷりはまさしく極貧国でWHOの支援ビスケットを食す難民と同レベルであり、その食いっぷりと言ったら春香がケーキを半分食べる間にプロデューサーが3つ目のケーキにフォークを突き立てたほどで、差し入れをしこたま食らったプロデューサーは小鳥と春香が止める間もなく気合い一発営業に飛び出していった。
どこにあんな元気が残っていたのか小鳥には甚だ疑問である。
「そう言えばプロデューサーさん、春香ちゃんのケーキ食べたの初めてだもんね。前回も前々回も食べてなかったから」
「本人は食べられなかったって言ってましたよ」
 占いでせしめたアールグレイの豊かな香りが山のふもとに満ち満ちている。
プロデューサーの余りの食いっぷりに途中から物を食うよりも見ている方が楽しくなってしまった二人は、珍獣が喜び勇んで出て行った後でようやく一息つくかのように昼食代わりのケーキをゆっくりと頬張っている。
「そう言えば小鳥さんも今日お仕事なんですか?」
「…どうせ私は彼氏いないですよーだ。いい? 春香ちゃん。休日のバレンタインまで仕事をするようなOLになっちゃだめよ。この歳だと本気で焦るから」
「あ、あはは、気をつけます」
 とは言え、小鳥の見たところあの馬鹿が春香の気持ちに気づくのはまだまだ先のようである。
小鳥はヤケクソのようにケーキにフォークを突き立て、まさしく婚期を逃したにふさわしい大口を開けて春香が驚くような大きさのケーキを両頬に詰め込んで咀嚼、リスの食事風景は確かこんな感じではなかったかと考える春香の目の前でものすごい音を立てて食品を嚥下する小鳥は最早世の幸い全てを呪う獄卒のように見える。
「…それで? プロデューサーさんとはどこまで進んだの?」
「は?」
 確かにリキュールも少しは入れたが加熱の段階でアルコール分は全て吹き飛んだはずである。
が、小鳥の表情はにやにやと実に嫌らしい。どこまでも何も何も始まってませんと言うのは少々残念な気がして言い淀んでいると、
「このままじゃプロデューサーさん全然春香ちゃんの気持ちに気づかないわよ。春香ちゃんまだ若いんだから、若さにまかせて積極的に行っちゃえばいいのに」
 何をどう行っちゃえと言うのか。若さを生かせ若さをと呪詛のように呟く小鳥の扱いに困っていると、ふと脳裏をよぎる声があった。

―――俺はプロデューサーで、貴音はアイドルだ。上司と部下みたいなもんだ、どうしたって友達にはなれない。これは俺の力不足でもあるんだが、

「で、でも私とプロデューサーさんは『アイドルとプロデューサー』ですから。上司と部下みたいなものですし、そんな関係には、」
「誰が言ってたのそんな話」
「え、えーと、大江さん、ですけど、」
「―――あのね春香ちゃん。大江さんは確かにプロデューサーとしてはとっても優秀だったけど男としてはヘタレだからね。上司と部下って正論かざした瞬間にそれはもう逃げ道なの。要は今の関係が壊れるのが嫌で適当な理由繕って先に進もうとしないだけ。じゃあ聞くけど、春香ちゃんのプロデューサーさんはヘタレ?」
 ムッとした。浮かんだ表情を小鳥はにやりと笑って飲みこみ、
「私の見た限りあの人もヘタレね。折角の休日にケーキ作って持って来てくれた子に『夜食事に行こう』とも言わないし」
「プロデューサーさんは忙しいですから。私が邪魔しちゃ悪いですし、それにプロデューサーさんは私のために、」
 小鳥は細く長い溜息をつき、
「はぁ。春香ちゃん。『9:02』の女なんて現実には流行らないわよ。良い女は攻めて行かなきゃ。春香ちゃんプロデューサーさんの事好きなんでしょ?」
 鼻からアールグレイが出た。
「なっ、何っいっいきなりっ」
「素直になった方がいいわよ。春香ちゃんも明後日からはAランクだし、多分これからはこの一年で一番忙しくなるから。チャンスなんて転がってるようで転がってないんだからね、いけると思ったらガンガン押さなきゃだめよ」
 どうやら小鳥なりに奥手な自分を心配してくれているようだが、今はそれ以上に器官に入った紅茶が痛い。
鼻が痛いのか喉の奥が痛いのか分からずに呻いていると、小鳥は溜息がてらにふわりと笑ってハンドバッグに手を突っ込み、
「じゃあ、おねーさんが背中を一押ししてあげましょうかね」
 机に出されたのはタロットカードだ。
束になっているカードのそれぞれには様々なイラストが描かれており、一目で太陽と分かるものから一体何を意味しているのか分からない塔のイラストが描かれていたりするものもある。
興味をひかれて鼻っ柱をハンカチで押えたまま小鳥の手元を覗き込むと、小鳥は幾枚ものカードから器用に数字の書かれたカードだけをより分けて、
「大アルカナだけを使った占いよ。簡単だけど結構当たるって評判なの。春香ちゃんも占い好き?」

―――ああ。でもあれボランティアじゃないのかな。占いはしてくれるんだけどさ、結果を知るためには何か貢ぎ物をしなきゃならないんだ。小さなものはチロルチョコ、果ては虎屋の羊羹までな。天気占いは全く当てにならないんだが、運勢占いと恋占いは結構当たるって評判だったな。

「あれ、でも、小鳥さんに占ってもらうためには何か貢物が必要って―――ああ、いやあの、大江…さんから」
 言葉の途中で割り込んできた小鳥の「誰から聞いたその話」といわんばかりの視線に慌てて大江の名前を出すと、小鳥は一瞬だけ視線を虚空へと飛ばし、すぐに「何だそんな事か」といわんばかりの顔をして、
「ケーキ3回もご馳走になったから。明日と今後の応援も兼ねて、一緒に春香ちゃんの背中も一押し。じゃあ、今から始めるから、プロデューサーさんの事考えててね」
「だっ、だから私は、」
「はいスタート」
 かくして占いが始まる。
22枚の大アルカナカードは小鳥の手によって入念にシャッフルされ、実に繊細な手つきで机の上に並べられたカードは全て裏を向いている。
春香が何を思う間もなく小鳥は机に置いたカードを両手でがちゃめちゃにかき混ぜると、伏せられたままのカードはもはや上下の区別さえできなくなった。
春香はどちらかといえば血液型と12星座占いが専らのフェイバリットであり、タロットカードなどの小道具を使った占いは埒外である。
しかしプロデューサーの事を考えろと言われてもなにを考えればいいのか―――そう思ったあたりで、春香の脳裏にプロデューサーから言われたこんな言葉が浮かんだ。

―――春香は、Aランクになったら、何がしたい?

 明日はIUの5次予選であり、今の『天海春香』のアイドルランクはBであり、つまり明日の予選を切り抜ける事が出来ればとうとう『天海春香』はAランクアイドルとなる。
ほんの1年前までは思いもつかなかった頂の一角に、自分は身を置くことになる。
 Aランクになったら何がしたいのか。
 『天海春香』なら、『皆を元気にしたい』というのかもしれない。
 だが、もう春香は『天海春香』とは決別してしまった。
皆を元気にしたいなどという能天気は4次予選のあの時に、あるいはついこの間の事故のときに雲霞として霧散した。
 では、天海春香がAランクとしてやりたい事は何なのか。
答えは永遠に見つからないのかもしれないし、あるいはひょっとしたらすぐ傍にあるのかもしれない。
明日にでも見つかるのかもしれないし、いつか必ず迎えることになるアイドルとしての引退のその日に分かるのかもしれない。
 目下のところ天海春香がAランクに上がって何がしたいのか、という設問に対し、天海春香は確固たる回答を見いだせないでいる。

 ただ、

 小鳥が机の上のカードを滑らせていく。
 めちゃくちゃにかき混ぜられた22枚のカードは小鳥の手によって7枚に選別され、春香には分からない秩序によってゆっくりと意味ある形へと配列されていく。
 
 ただ、その問いを思い出すたびに春香の脳裏に蘇るのはあの日のあの時のプロデューサーの言葉だ。

 どこにでも連れて行く、とプロデューサーは言った。
 一緒に悩むことくらいはできる、とプロデューサーは言った。
 春香を信じる、とプロデューサーは言った。

 思う、だからここまで来たのだ。
プロデューサーのその言葉を聞いたから、天海春香はここまで来たのだと思う。
決して平坦な道ではなかったと思うしプロデューサーにとってはどん底に等しい1年間だったのだろうが、アイドルとして歩み出した天海春香の隣にいたのがあのプロデューサーだったからここまで来れたのだと思う。
信じる事は裏切られる危険を孕む。プロデューサーにとってはそれを痛感した1年だったのだろうし、春香もまた辛い時もあった1年だったけれど、それでもなお自分がプロデューサーの事を信じ続けて来れたのは、
 変質したプロデューサーの事を元に戻そうと頑張ったのは、
 病室でプロデューサーが眠った時、心の底からの安堵を覚えたのは、

「うん。準備できた。春香ちゃん、心の準備はいい?」
 小鳥の声に意識を戻すと、めちゃくちゃにかき混ぜられたカードはまさしく呪術的な意味合いのある配列に並べられていた。
春香の側に3枚、小鳥の側に4枚並べられたカードは途方もなく有機的であり、当たるも八卦当たらぬも八卦とは一線を画すかの如きその途方もなさは思考のドツボに嵌った人類をあざ笑うかの如き迫力でそこにあった。
「この占いで分かるのはね、春香ちゃんとプロデューサーさんの過去と現在、それと今後2人がどうなっていくかってこと。心の準備はOK?」
 生唾を飲んで頷くと、小鳥は実に嫌らしい笑みを浮かべて最初の一枚を裏返す。いきなり上下逆さまの骸骨の絵柄が出る。不吉にも程があると思っていると、小鳥は「ああそういえば」という顔をして、
「そう言えば春香ちゃん、カードの絵柄の意味って知ってる?」
「…知らないです。知らないですけど最初のカードでガイコツってちょっとハードル高いかなって」
「あのね、タロットカードには正位置と逆位置があるの。ほら、カードの上の方に数字の13って書いてあるでしょ?」
 言われて見ると確かに春香の方から見たカードには右上にばってんに棒3つのマークがついていた。よく時計の文字盤で見る表記方法だ。上下さかさまに見えているという事は本来は左下に位置するマークなのだろうか。
「このカードは『死神』のマークで、正位置で見ると確かに良い意味はあんまりないの。でも、これ逆位置で見ると、意味合いは反対になるのよ。この場合は『再生』って意味」
 その後小鳥がカードをめくりながら説明した内容を要約すると次のようになる。
要するにタロットカードには向きによって意味合いが異なるカードが22枚あり、それぞれが異なる意味を持つことから大アルカナと呼ばれる基礎カードだけで合計44通りもの意味がある。
今回小鳥が春香に対して仕掛けた占いはセブン・テーリングと呼ばれる割とポピュラーな部類の占いで、最初にめくったカードには現在のステータスが暗示されているという。
 そして2枚目は自分の今の気持ちを、3枚目は相手の自分に対する今の気持ちを暗示するカードが来るのだ―――という上機嫌な小鳥の説明は2枚目にハートの女王のようなイラストが正位置、3枚目に夜空に煌めく星のマークが正位置で現れた事でぴたりと止まった。
「あの、小鳥さん、このカードってどういう意味なんですか?」
 春香の問いかけに小鳥は実に嫌らしい笑みを浮かべ、教えない、とささやくように言った。
4枚目のカードはハートが引っくり返ったイラストである。
「4枚目のカードには春香ちゃんとプロデューサーさんの今までが表わされるの。今の関係に至った原因の事ね。そして『恋人』のカードの逆位置が表わすのは『裏切り』。どう、当たってる?」
 当たっているような気もするし当たっていないような気もする。
そもそもプロデューサーがおかしくなったのは大江の裏切りがはっきりしてからだが、別に春香自身がプロデューサーを裏切ったような気はしていない―――プロデューサーが春香を裏切ったかどうかはまた別の話として。
物事は一面で捉えられるほど安直な代物でもなかったしカード一枚で今までを過不足なく表わされてしまうのはなんだか妙な気分だったが、では完全に間違いかと言われればそこまで否定する事も出来ない。
だからこそ2枚目と3枚目、プロデューサーの気持ちと春香の気持ちを表すカードの意味が知りたいのだが、小鳥は春香が疑問を呈する前に5枚目と6枚目を一気に開けた。
 5枚目のカードは法衣をまとった老人のイラストであり、
「5枚目のカードには今後注意すべき事が書かれてるの。『法王』の正位置には『許し』っていう意味があって―――、」
 6枚目のイラストの説明をしようとした小鳥の口がぴたりと閉じた。
落雷で壊されたような塔のイラストは引っくり返ってそこにあり、何事かと思ってカードから小鳥の顔に視線を移すと、小鳥は何かを一心に考えるかの如き険しい表情で6枚目のカードを凝視している。
何らかのただならぬ事態に直面することになるのかと春香が身を固くすると、小鳥はああごめんごめんと苦笑いを浮かべ、
「6枚目にはね、5枚目で暗示された注意すべき事に対してどうしていけばいいかっていうのが暗示されるの。対抗策ね。で、今回のカードは『塔』の逆位置なの。これには『強敵の出現』って意味があって、―――春香ちゃんにとっては、四条さんになるのかなぁ」

―――勝ち残りなさい。貴女様が朽ちるべきは予選会などではありません。私は来るべき頂で貴女様を待ちます。

 彼女はきっと、IU決勝に行くのだろう。
 そして明日の5次予選を抜ければ、春香もまたIUの決勝に参加する資格を得る。
 明日を抜ける事が出来れば、天海春香はこの国の頂点に立つアイドルを決める最後の戦いの舞台に登る事になる。
 ただの女子高生でもない、『みんなを元気にしたい』と抜かした能天気でもない、ただプロデューサーを元気にしたいがために歌った天海春香が、遂にその頂を目するところまで足を進める。

 プロデューサーは自分の事を、どこへだって連れて行く、といった。
 その言葉は現実となり、明日の自分はIUの最終予選に行く。
 怖いと思わないのは、プロデューサーの声がまだ胸の内に残っているからだ。

 春香の決意を感じたのか、小鳥はおごそかに最後の一枚を捲った。
 出てきたカードは『太陽』だった。

―――例えば恋占いなんかだとだな、

「…そして最後の一枚が、春香ちゃんとプロデューサーさんの今後の未来。この後二人がどうなっていくか、それがこのカードの暗示」
 小鳥はそれだけを言い、一向に『太陽』の意味を言わない。
 じれったくなって「どういう意味なんですか?」と春香が問いかけたのは小鳥が最後に口を開いてから5分後で、小鳥は春香の問いに密やかな笑みを浮かべてこう答えた。
「―――破局」

 一向に落ち込まなかったのは、恐らく大江の一言が脳味噌の裏側で再生されたからだと思う。
 こんな一言だ。

―――ゴールが近ければ近いほど破局っていう結果が出るらしいんだ。ありゃ僻みか何かだなきっと。




 2枚目と3枚目、そして6枚目に捲られた各種カードの意味について、最後に補足をしておく。

 2枚目のカードに出てきた『ハートの女王』というのはナンバー3の『女帝』である。
このカードの正位置には概ね良好な解釈が多く、代表的には国力の豊かさを表す『豊穣』という意味があるが、これを人物にあてはめてイメージングすると『母性』というニュアンスになる。
 3枚目の夜空に煌めく星というのはそのままナンバー17の『星』である。
この正位置にははるかな遠くに瞬く星への漠然とした憧れ、転じて決して簡単には届かないがいつかは必ずという決意のこもった希望という意味がある。
プロデューサーがアイドルに感じているイメージとして『憧れ』というのはどうなのかと思わなくもないが、所詮占いは占いであり、眉に唾して捉えておかなければならない。

 そして6枚目は破壊されている塔のイラストである。
このカードにはイラスト通り碌な意味がなく、正位置には『破壊』や『破滅』といったどうしようもないイメージが軒を連ねている。
ナンバー16の『塔』には古代に神の力を手に入れようとした愚かな王が立てた塔をイメージした絵が描かれており、この塔は神話中で怒った神に破壊されるという運命をたどる。
通説に依るところの『バベルの塔』が原型にあるともされ、それ以前は誰もが聞け誰もが話せた言葉が神の力により失われたという悲劇的な話として神話は閉じられるが、神話学士達に言わせると共通の言語がなくなった事で多種多様な文化が栄えるようになったという側面もあるにはあるのだという。物は捉え様である。



『塔』の逆位置は、『必要な破壊』を意味する。





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