声 (50)

 例えば、石井正爾(32)は社名入りのバンに売り物のCDを山ほど積んで都内のCDショップに搬送するという仕事をしている。
一口にCDといってもジャンルは様々であり、石井が運ぶCDの内訳をみると邦楽から始まって果てはアニメのサントラまでと幅広い。
が、もちろんそこには一定の流行り廃りがあって、例えば石井が目指す高田馬場の橘レコヲド店に卸す予定の段ボールの中で専有面積一位を占めるのは今をときめくIU決勝進出者のCDに他ならない。
山つもりの段ボールはもちろん全てが橘レコヲド店に持っていくものではないし、石井はそのほかにも本日中に6店舗を回るというガキの使いのような仕事を生業としているのではあるが、もちろんそこには裏に一枚別の仕事をするのにちょうどいいという事情がある。

 例えば、元木寛治(29)は新宿のコンサートホールの裏方で顧客からの電話注文を捌く仕事をしている。
元木の勤めるコンサートホールは中堅アイドルのライブ会場としてはなかなかの出来のものであり、立ち見を含めると最大で350人を収容できるという都内にあるにしては頑張った部類の貸し家である。
もっとも、この時期に元木の仕事が対して忙しくないのはさもありなんと言ったところである。
今をときめくIU決勝進出者にしてみればこの規模のホールでの宣伝効果などたかが知れているし、IUから脱落したアイドルたちはとうの昔に庇を畳んでしまっている。
目下元木の机に記載されているのは空きの目立つ予約表であり、そしてなぜ元木が大して掛かってこないはずの電話をひっきりなしに繰りまわしているのかといえば元木が勤める会社がそれなりにでかいからという理由に尽きる。
言ってしまえば何だが、それなりに頑張ったコンサートホールを持っている会社が「それなりに頑張ったコンサートホール」で終わることなどまずあり得ない。
多かれ少なかれこの手の会社はもっと大きな会場の設営や運営に一枚も二枚も噛んでいて、元木が今いじっている帳簿の会場はざっと見て4万規模の集客が見込める、都心からもほど近いドーム型会場のものだ。

 例えば、林忠夫(31)が勤めているのは都内某所に居を構える小規模出版社だ。
出版社と一口に言ったところでスクープを狙う禿鷹のような連中とは一線を画す林の仕事は言ってしまえば広告取りである。
これでまあ良くもジャーナリズムだとほざけるものだとは林も同僚も常々思っていることではあるが、とってきた広告の量からボーナスが決まってくるとあればそれなりに誰もが真面目に業務に取り組んでおり、林たちが汗水たらして取った広告は親会社の紙面のケツの方で紙面のマズさの茶を濁すという重要な使命を科せられる。
ではその親会社が何者かといえば、これがそれなりに名の売れた大手出版社であり、作っているものはといえば政治経済を真面目に論じたものからUFOを珍妙奇天烈な手法で追いかけた眉つばもいいところまで様々であり、ここに林たちの商機がある。
要するに林たちには付き始めに大まかな雑誌の方向性が伝えられ、下っ端はそれをもとにカネを出してくれそうな企業に数ページと引き換えの商売を持ちかけるのである。
だからこそ林が毎回毎回決まり切った会社の広告を貰ってきても誰も文句は言わないし、現在芸能一般の紙面のケツを飾る広告といえば林が持ってきた広告の比率が一番多い。
誰も文句を言わないのは要はそれが金になるかならないかであり、それなりの額の広告をコンスタントに持ってくる林を上部はそれなりに評価しているし、林の仕事はそれなり以上の効果を彼のコミュニティに与えている。

 例えば、伊藤賢治(28)は都内のローカルテレビ局でアシスタントの仕事をしている。
アシスタントなどといえば聞こえはいいが要は伊藤の仕事は局内における何でも屋であり、取材先との調整から仕出し弁当の手配までをこなす伊藤の仕事っぷりは上司からもそれなりに受けがいい。
上司からは常々そろそろお前も番組企画の方に回ってみるかと誘われてはいるが、伊藤は伊藤で「現場を知らなければ出来ないことは山ほどある」と誘いを再三に渡り断り続けている。
ではその「現場でしか知りえない事」というのが何かといえば、一口にいってしまえば流行だ。流行り廃りをその身で感じることでしか良い番組は作りえないというのが伊藤の持論であり、事実伊藤が参加しているエンタメ系の情報発信番組はローカルの癖に毎回それなりの視聴率を誇っている。
最近では噂を聞きつけた親会社が昼の4時くらいに30分枠を作ってくれたそうで、飯の支度前にダベる主婦たちに昨今の流行を伝える番組は全国枠として拡充の一歩を辿っている。

 例えば、山崎太平(33)はローカル路線のバス運転手をしている。
糸目のように張り巡らされた電車の路線の間隙を縫うように走るバスは立派な都民の足の一つであり、ついでに言えば山崎の担当路線には中学が1つに高校が1つある。
よって月曜の朝7時から9時くらいまでの間は学生連中でバス内はごった返しており、無口が身上のバス運転手としてはぎゃあぎゃあとうるさい学生たちを乗せつつ時間を守って各バス停に停まらなければならないという、かなり神経をすり減らす時間を毎日過ごさねばならない。
最近の学生たちの話題の中心はもちろんIU決勝についてであり、幸運にもIUの5次予選に参加できた者が中にいるのか学生たちは自分のお気にいりのアイドルを友人たちに売り込むのに必死である。
山崎はそれらの会話を聞くともなしに聞きながら今日も定刻通りにバスを走らせていく。

 ここで、上記5名に共通するものといえば、彼らは業務中のほとんどの時間帯、胸ポケットにヒヨコがプリントされたペンを指していることである。
アラサー周りのおっさんたちが持つにしてはファンシー極まりないブツではあるが、もちろんそのペンはなぜかペン先ではなく後ろの方が重い。
恐ろしいのはこのペンを胸に突っ込んで業務をしているのが彼らだけではないところで、小鳥の把握しているところ約30人程度の雑多な音声がデジタル変換されて彼女の私物サーバにリアルタイムで蓄積されている。
 立派な犯罪である。
 が、念のために言っておくと、このペンの発信率と言ったら大層悪い。
親機と子機の間に電柱の一本でもあれば簡単に電波はノイズまみれになるし、何よりもペンに仕込める程度の小型マイクの衆音率など知れたものだ。
ここだけの話黒井がかくもあれだけ大江の発言を拾えたのはリピータとノイズキャンセラーを噛ませていたからだし、あの時大江がはっきりとした発音をしていたことも大きい。
それは貴音に自身の裏切り行為をはっきりと意識させるためなのかもしれず、あるいは遠藤が黒井のところに呼ばれるタイミングを見計らっていたからかもしれない。真相は闇の中である。
 話を戻す。小鳥がこの犯罪行為に手を染めているのは一重に鮮度の高い情報を得るためである。
ことさらに言うことでもないが、今日日の芸能活動と言ったらまずは情報がなければお話にならない。
例えばライブ一つを取っても、IUという芸能界を挙げての大会で優勝するためには「どこでライブができるのか」「ライブ可能な会場のうち、どこでライブを行うのが最も効果的なアピールができるのか」「どのタイミングでライブを行うのが最も集客率が良いのか」等々の課題が山積される。
せっかくライブをやるにしてもウィークデーに行ったのでは支持の厚い若年層が見に来れないし、やるにしても天然のマルチサラウンド会場でライブをしてもファンが来れる保証はないし、そもそもライブをやる会場がなければ意味がない。
 ここで、例えば前述の石井のマイクが拾った音声を一部再生してみる。

―――えー、もったいねっすわ。せっかく駅前にあるんだから、アイドルの一人でも呼んでパフォーマンスでもすりゃいいのに。
―――うちみたいなちっちゃいトコだと誰も来やしないよ。IUに参加するような人たちなら、もっと大きい会場の方がいいんじゃないか?

 石井の発言の通り、橘レコヲド店は駅前にある。
個人商店としては相当の立地であるが、惜しいのは橘レコヲドはあくまでも個人経営である点であり、大手チェーンのように芸能人を誘致するための技量も資金もありはしないところである。
が、別に芸能人側には誘致されたところでないと営業が出来ないなどという決まりなど存在しない。
要は、無関心層の興味を僅かでも引ければいいのであり、群がっている連中を見つけると覗きこもうとするのは人の性である。
そこで見つけるのは例えば伊藤が作成している番組で放映されたアイドルの握手会なりミニライブであり、そこでアイドルは元木が見つけたそれなりにアクセスのいい郊外の会場でライブをするなどと言ってみる。
例えばそこで林が取ってきた広告にライブの告知が入っていたりして、実際にライブをしている様子は山崎の運転するバスの中で噂されたりする。
もちろん良い噂もあるだろうが、例えば会場がちょっと遠いだとか告知に気付かなかったなどの残念なポイントが話される場合もあるだろう。
すると、石井は次にもう少し人の集まる場所にあるレコードショップでそれとなくアイドルが何かパフォーマンスをする予定はないかと聞いてみたりする。
 小鳥が犯罪に手を染めてまで盗聴行為を行っているのは、一重にこのサイクルをどこで始めるか決定する資料にするためだ。
「どこでやれるか」「いつやれるか」「いつがいいのか」という僅か3つの観点で決められる営業というのは少々頼りない気もするが、しかし観点がこの3つしかないという点で実にシンプルな方針ではある。
胸ポケットにヒヨコを刺している人数は30人程度だが、これらを組み合わせると30組では収まりきらない量の営業パターンが検討できる。
 これがピヨネットの強さであり、それこそが765プロデュース課の営業が成功を収める秘訣である。
小鳥はサーバーに収められたこれらの音声から効率的営業足り得るパターンを選別して組み合わせ、プロデュース課の面々に渡している。
しかし、小鳥からは決して「このパターンでやると一番強いアピールが出来る営業になる」とは言わない。
小鳥があくまでもパターンの提供にオシゴトをとどめるのは一つにはこの活動が765公認の(・・・)もの(・・)では(・・)ない(・・)=強制力は持たせられないからだし、事務方の自分よりも長い間アイドルを見続けたプロデューサーの方がよりアイドルに適したパターンを選択できるだろうというもっともな理由もある。
 そして、残りひと月でIU決勝という国内最高の祭典にアイドルを連れて行こうとしている件のプロデューサーに対しては、961との公約上前者の理由が印籠となる。
ヒヨコを刺しているのは765の社員ではないし、集められた情報が蓄積されるのはあくまでも一社員の個人サーバーである。
「あ、プロデューサーさん、おかえりなさい。交渉どうでした?」
「とりあえず明後日分までの営業は確保できました。場所は小さいですけど、人の流れがあるところなんで結構期待できるかと」
「お疲れ様。見積書と経費は回してください。ハンコ忘れないでくださいね」
「自腹は勘弁です。それにしても、」
 営業から帰ってきたプロデューサーは小鳥に簡易報告書を渡し、声をひそめて、
「ピヨネットってすごいですね。あたりが半端じゃない。どうやって営業情報集めてるんです?」
 小鳥はにっこりと笑ってプロデューサーから報告書を受け取り、すぐ横のキャビネに置いてあるスキャナのケツをぶったたいて電源を入れると、
「秘密」
 都合何度目かに渡る問いにいつも通りの返答を返すと、プロデューサーはああやっぱりという顔をする。
765にはほかにもプロデューサーはいるが、IUに参加するアイドルを受け持っているのは現在彼一人であり、更に言うなれば彼には計画完了後大江に代わる765営業部のエースとして活躍してもらわなければならない。
今ピヨネットのやり方を聞いてしまって彼の今後に響くことがあってはならない、これは計画開始にあたって高木社長が小鳥と示し合わせた数々の取り決めのうちの一つである。
 それにしても、
「それにしても、プロデューサーさん随分ピヨネットのネタ集めにご執心なんですね。いいんですよ? プロデューサーさんはプロデューサーさんのお仕事をしてもらえればいいんですから」
 それにしても、である。
裏返ってからしばらく、プロデューサーは小鳥に何度も「どうやってピヨネットは営業情報を集めているのか」としきりに尋ねている。
前述の取り決めから小鳥はプロデューサーに犯罪まがいのその行動を教えてはいないが、プロデューサーにしてみれば出所の怪しい情報で踊らされたらたまったものではないと考えているのかもしれない。
「いや、もちろん分かってます。俺は俺の仕事をしますよ。ただ、あの、えーと、木村さんでしたっけ? あの人一人でこんなに営業の情報を集められるわけじゃないだろうし、」
 そして次の一言は、小鳥の度肝を撃ち抜いた。
「そろそろお礼の一つもしとかなきゃなと思って」
 、
「そう思うんでしたら、頑張って営業成功させてくださいよプロデューサーさん。私たちがプロデューサーさんにあげられるのは情報だけ。それをもとに営業を成約するのはプロデューサーさんの役目です。頑張って春香ちゃんをIU決勝で勝たせてくださいね」
 言うとプロデューサーは分かっているとばかりに肩をすくめ、小鳥に背を向けて崩落寸前の雲仙普賢岳のような自席に戻る。
まずは土砂災害を防ぐための岩石撤去から仕事を始めたプロデューサーの背中を見、小鳥はため息をつく。
 計画ではこのフェーズ7にて全てをプロデューサーに話す予定である。
IUまでの最後の2週間以降がフェーズ7であり、6から7への移行判定は小鳥の大事な大事な最後の仕事だ。
大江の最初の裏切り行為の意味を伝える最後の仕上げのポイントを判別するのが小鳥の仕事ではあるが、しかし今を持って小鳥には良く分からない点がある。
 事ここに至って尚、プロデューサーが大江を恨んでいるかどうかという点だ。
大江がこちらに反旗を翻していないのなら大江から情報を仕入れることも出来たが、あの衝撃の速攻終話から今まで大江はこちらからのコールに一切応じていない。
ピヨネットメンバーに大々的に動いてもらうのはフェーズ7としてあるからあまり時間はないのだが、勇んでプロデューサーに全てを話してしまえばプロデューサーのガスが完全に抜けてしまう可能性もある。
さてどうしたものか―――小鳥がモニターに表示させたカレンダーと睨めっこを始めたその瞬間、プロデューサーの真後ろに位置する扉が開いた。
「おはようございます」
 小鳥は思う、思えば春香にも随分な苦労を強いてしまった。計画のためとは言え荒れてしまったプロデューサーとの1対1はとんでもなく大変だっただろうし、それでなくとも純朴な春香があの状態のプロデューサーとのやり取りで傷つかないと考えられるほど小鳥も根は善人ではない。
誰もが傷を負ってしまったからこそ意味のある計画にしなければ意味がないのだ、小鳥は心の底からそう思う。
「ああ、おはよう春香。久しぶりの学校はどうだった?」
「黒板と垂れ幕と壮行会な感じでした」
「? なんだって?」
 プロデューサーと春香のほほえましくも間抜けな会話をそれとなく聞きつつ、小鳥はプロデューサーの観察を試みる。
春香はプロデューサーに請われるままに学校での出来事を話している。教室の黒板にIU決勝進出と書かれていたこと、校長室で垂れ幕に名前を使っていいかと聞かれて全力で否定したこと、家庭科の料理で作ったマフィンとバタークッキーを持ってこようと思ったのにクラスの男子に全て食われた事、帰りがけ四条貴音に会って一緒にコーヒーを
 何?
 首を動かしたい衝動を腹の中で殺し、視線だけを春香とプロデューサーに投げる。
プロデューサーもまた驚いたような顔をしており、春香は春香で何か悪いことをしてしまっただろうかとでも言いたげな表情をしている。
「あの、やっぱり駄目でした…か?」
「あ、ああ、いや、驚いただけ。何、四条さんが春香の学校まで来たの?」
「はい。なんだかすごく胴の長い車で。あれリムジンって言うんですかね? 黒塗りですごく光沢のある、」
 大江あの野郎。小鳥は本気で思う。
 普通ならばアイドルの通う学校などの情報は徹底的に市政の情報網から隔離される。
ラリパッパがバット片手に学校めがけて特攻するなどというお寒い事態を防ぐためであり、もう少し抑え目に言えばゴシップ専門のパパラッチがアイドルの私生活を侵す可能性を下げるためである。
が、四条貴音はわざわざリムジンで春香の通う学校をピンポイント爆撃したという。961にピヨネットのような情報網があるかどうかは謎だが、少なくとも大江はまず間違いなく選別の段階で春香の通う高校の情報を取得している。961側に春香の情報を掴んでいる諜報機関があり、そして私生活から春香にプレッシャーをかけようと思うなら何もIU決勝を控える今の時期でなくてもいいはずで、ということは貴音に春香の通う学校の事をしゃべったのはまず間違いなく大江だと思っていいだろう。
「はい。それでなんだかすごくシックな喫茶店に連れてってもらったんです。なんだか文化遺産見たいなお店でした。いた時間は1時間くらいですかね?」
 同時に、何考えてるんだあの人とも思う。
 大江が春香を家に送ったあの日、貴音と友達になってやってほしいと大江が呟いていたのは聞いていたが、まさかそんな愚連隊みたいな真似をさせるとは思わなかった。
計画のスキームの中には入っていないプランであり、大江が何故にそんなことをさせたがるのかとあの時は思ったが、結局春香にしてみれば貴音はIUで覇を争う相手には違いなく、そんなことをさせたところで何の得にもなりはしないだろうと社長にも伝えなかった話である。
 なぜ、大江はこの期に及んで貴音と春香を接触させたのだろうか。
 そして、春香は貴音と一体何を話したのか。
小鳥はこの時プロデューサーも当然それを尋ねるものだと思っていたし、プロデュース課の自席でケツを落ちつけていた約半数ほどのプロデューサー陣も同じことを思っていたはずで、それまでカタカタとやかましかったキーボードをたたく音はその時どこからも聞こえてはこなかった。
「へえ。何話したの?」
 そして、プロデューサーの問いかけに、春香は恥ずかしそうにこう答えた。
「お友達になれますかって聞いてみました」
 小鳥はするりと手を伸ばし、サーバーの上に置いておいたペン型衆音マイクに火を入れた。
これでプロデュース課で話される音声は全て社長室にもダダ漏れになる。今頃社長はいきなり雑音を流しだしたスピーカーに驚いているだろうが知ったことではない。
「向こうは何て?」
 1年以上にわたって続けてきた計画が、終わりを迎えようとしているのだ。
 最後くらい驚かせたところで罰は当たらないだろう。
 プロデューサーが敵である大江や貴音をどう思っているのか、それこそがフェーズ7への入り口だ。
裏返ったあの日、プロデューサーは勝負についてはもうどうでもいいと言っていた。
大江が何を企んでいようが知ったことではないとも言った。
ただ春香の歌が聴きたいからプロデューサーをするんだと、彼はそう言った。
 材料の一つは揃っている。もうひとつが揃えば、計画は最後に進められる。
「今度は紅茶の美味しいお店に行こうって言ってました。貴音さん、結構そういうお店詳しいみたいです」
 固唾を呑むようなプロデュース課の入り口近くで、プロデューサーは「そっか」と言い、
「前にさ、俺さ、四条さんの事『何か背負いこんでるみたいだった』って言ったじゃない」
 確かIUに初参加する直前のトレーニングルームの話だ。
小鳥のサーバにもばっちり納められている会話である。半年以上も前の話に春香は一つ頷き、
「はい」
「今もそう? 彼女やっぱりまだ辛そう?」
 春香はうーんと呟く。会話が遅く感じられる。早く話せ。四条貴音についてのプロデューサーの考えを早く口に出せ。早く、早く、
「あんまりそんな感じはしないですかね。ただちょっと、何て言うかな…そう、」
 早く、
「寂しそうで懐かしそうな、そんな感じって言えばいいのかな。なんだかそんな感じでしたよ」
 プロデューサーはそれにも「そっか」とだけ答える。
 四条貴音が大江の言うとおりサラリーマン顔負けの出社記録を誇っていることは小鳥も知ってはいる。貴音の正確な歳は小鳥の知り得るところではないが春香より少しだけ歳が上だろうというあたりだけは付いており、それでも学校にも行かず友達もおらず、ただひたすら歌に打ち込んでいるのだろうと思ってはいる。
 そう思えば大江が貴音に情を持ってもいたしかたないとは思うがそれとこれとは別の話だ。大江は計画のために961に行ったのであって四条貴音を慰めるために961に行ったのではない。
 という非情な考えには、やや疲れが見え始めている。
 いい加減早く楽になりたい。小鳥は本心からそう思う。嘘をつくのもだまし続けるのもいい加減飽きが来た。
それでも小鳥が未だにフェーズ7への移行を決断しないのは計画の成就を心から願っているからだ。だからこそ半端な決断は許されないのだ。
 そしてプロデューサーは、春香に笑顔を向けた。
「じゃあ、春香は春香の歌で、四条さんも元気づけないとな」
 プロデューサーの目の前の春香と全く同じような表情をパソコンモニタの前の小鳥が浮かべる。一体何を言っているんだこいつはと思う。
「だってそうだろ? 別にアイドルは他のアイドルの歌を聞いちゃいけないなんて決まりはないんだし。春香の得意技じゃないか、歌で気持ちを伝えるの」
 春香はああ、という顔をして、しかしすぐに表情を曇らせ、
「…私に出来ますかね、四条さんを励ますなんて」
「出来るさ。春香なら出来る。俺はそう思ってる。だってさ、春香はずっとそうやって歌ってきたんだよ? 春香の事を良く知らない人たちだってその歌に引きつけられてファンになったんじゃないか。それなら、」

―――大江さんが何を考えてようが知ったこっちゃないし、アイドルマスターでも何でもなればいい。

 ひょっとしたら、である。
 本当にもう、プロデューサーは本当にそれだけを考えているのかもしれない。ただ天海春香の歌の可能性だけを信じて先に進もうとしているのかもしれない。
 大江がどうだやIUがどうだなどの世俗の類はもはや、彼の行動に毛ほどの影響を及ぼさないのかもしれない。
 彼はもう、本当に『天海春香の歌が聴きたい』という、たったそれだけの理屈でこの先を進もうとしているのかもしれない。

「それならなおのこと、友達を元気にするなんて簡単じゃないか」



「―――社長、聞いてましたね?」
「ああ、聞いていたよ。大江君には未だに連絡はつかんのかね?」
 プロデューサーと春香が連れだって営業に行った後、小鳥は仕事もそこそこに社長室のソファーで茶を飲んでいた。
 社長の問いに小鳥は黙って首を振り、社長が吐いたラッキーストライクの副流煙に心底嫌そうな顔をする。
「全く見事なものだ。大江君は率先してレールを外れてしまったようだが、残された彼は大江君の描いた絵図通りに進んでいるね」
 社長はやれやれと天井を仰ぎ、小鳥に嫌がられたせいで吐くに吐けなくなった紫煙を天井めがけて勢いよく噴き出した。クジラの潮吹きみたいだとどうでもいい感想を思う。
「先ほどの彼の発言で、私はフェーズ7への移行を進言します。後は社長のご判断次第です」
「性急過ぎんかね。まだIU5次予選から1週間だ。木村君たちの仕込みも万全ではなかろう?」
「私としては早く彼らが動けるようにした方がいいと思っています。それに、」
 夕日の差し込む社長室の中、小鳥は一つ息を吐き、社長の眼をじっと見据えてこう言った。
「…プロデューサーさんと春香ちゃんにとっても、心の整理の時間はいるんじゃないですか?」
 社長は黙って再び煙を吹き、どういうことかなとふざけた回答をする。
「惚けないでください。第10号プロデューサー育成計画はIUの後のお別れライブで完遂します。プロデューサーさんの春香ちゃんへの依存度もその逆も、もうはいそうですかさようならで済む話じゃなくなってます」
 そして小鳥は、意を決したようにこう言った。
「伝えるなら、早い方がいい」

―――あの、小鳥さん、このカードってどういう意味なんですか?




 事実は厳然としてそこにある。
『塔』の逆位置は、『必要な破壊』を意味するのだ。




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