声 (58)

 言ってしまうと残念としか言いようのない話ではあるが、東とアルテモンドの軍事力など比べるべくもない。
東に比べればアルテモンドなど人口も面積も文字通り塵芥に等しく、したがって単純な軍属数を数えてしまえばどんなアンポンタンが算盤を弾いたところでアルテモンドの敗北は目に見えている。
が、その割にアルテモンドは誕生から現在に至るまで独立を堅守出来ているのが不思議なところで、それはもちろん初期においては東とても土地の痩せたアルテモンドなど併合したところで碌な事はないと踏んでいたからである。
セレンの産出を以ってその認識は大きく覆されることになるのだが、当時の王女拉致未遂事件による2国間の不可侵取引と、事件以後国際社会に打って出たアルテモンドの外交的防衛により東はアルテモンド侵攻に二の足を踏んでいる。
が、先の2国間取引も所詮は大国と小国の口約束であり、東は事あるごとに言いがかりのような理由を付けて嫌がらせのような小競り合いを起こしている。
もちろん、「小競り合い」というのは東にとってみればの話であって、アルテモンド側にとってみれば単なる嫌がらせも相当な脅威となる。
それでもアルテモンド国境の守備を担当する第1廟が奇跡的なまでに東を退けているのは彼らが選択している戦術による。
 トラップとゲリラ戦である。
 アルテモンドは3方を山に囲まれており、その山は一つの例外もなく針葉樹林が生い茂っている。
パーナム木材店などが切りだす生業の原資はこの辺にあるのだが、アルテモンドの林業者は一つの例外もなく国府からの認可がなければ営業活動ができない。
それは山に生い茂るその原資こそが国防の要であるからであって、充実した装備と正当な訓練を積んだ東の正規兵たちとアルテモンド国軍第1廟が互角以上に渡り合ってこられたのは一重にその戦術の功績が大きい。正攻法の大多数に少数が対応するためには邪道が一番である。
それを最も端的に表わしているのがアルテモンド国軍の装備品であって、ライフルを一般兵装とする東に対してこちらの装備は基本的にサブマシンガンである。
それは「遠くからよく狙って撃ち、一発で仕留める」などではなく「予想外に近くから弾をばらまき、可能な限り短期間で相手を無力化する」という性格による必然の選択なのかもしれなかった。
 そして、その戦術を選択したもう一つの理由が、今タカネが軍用車両で文字通り揺さぶられている理由である。
 アルテモンドを取り囲む山には道らしい道が存在しない。毎日誰かしらが通る街中の道ならともかくとして、山道など整備したところで雪の深いアルテモンドでは次の日には道が埋まっていたなど日常茶飯事である。
従い、エイフラムがタカネを連れていこうとしている野戦病院への道ももちろんまともな道とは口が裂けても言えないものだった。
軍用車両もそのほとんどが窓ガラスと底面とタイヤをそれぞれ防弾と対戦車地雷用シェルタと2重ゴム履きに変えたジープのような代物で、スプリングの弾性を打ち消して余りある特殊なタイヤ圧のせいででこぼこ道を上る車両の後部座席の座り心地はすこぶる悪い。
タカネが先ほどから一言も話そうとしないのはこのすわり心地に閉口しているせいだが、もう一つには車両を運転するエイフラムにある。
朝会った時の挨拶と行き先を告げた以外にエイフラムはただの一言も話さなかった。それが昨日の一連の会話に端を発するものだというのはどんなニブチンでも気付くというもので、タカネはさっきからちらちらとルームミラー越しにエイフラムの顔をのぞいているのだがエイフラムは一度も視線をこちらに振ってこない。
確かに皮肉っぽい言い方をしてしまったが、大の男が臍を曲げるような言い方だっただろうか。
しかし、どちらかと言えば第3廟の軍人たちに非はあるのだ、と思う。
彼らの主たる任務は要人警護であり、要人警護であるからには要人のそばを離れずに不測の事態に備えるべきで、仮に昨日のあの胡散臭い男が東の回し者だったならばタカネは今頃このジープの後部座席よりはよほど背筋の冷える思いをしていたはずだ。
タカネが素直にエイフラムに謝れないのはそんな意固地のような思いがあったからで、向こうが詫びるまでこちらとて頭を下げる気にならん、というのは今にして思えば随分つまらない意地だったのだろうと思う。
朝の挨拶ついでに言われた今日の目的地は野戦病院である。正式名称は『国営東部戦線病院』だ。
物々しいにもほどがあるこの病院は東部戦線に3つの支所を持つ第1廟国軍御用達の病院であり、出先機関である3支所で手に負えない損傷を負った兵隊が担ぎ込まれる最後の砦である。
当然警備や詰めている軍人の数はそこらの兵士詰め所よりは多く、明後日に迫った本番の前の梅雨払いとしては至極まっとうな選択ではあった。
まして雪深いこの地方にあって降雪量もバカにならないこの時期には東からの嫌がらせも余り聞かない話ではある。あの母だって去年はそこで慰問活動をしたはずだ。
タカネ自身は赴いた事のない施設ではあったが、まさか腐っても要人警護の第3廟所属員に連れて行かれる場所が薄皮一枚隔てたところに危険の転がる最前線であるはずがなかった。

と、思っていたのに。

先に降りたエイフラムに後部座席の扉を開けられ、最初にタカネが気付いたのはやたらにすすけたような匂いだった。
射撃訓練後の軍人がそこらにいるような匂いのそれは周辺一体に広まっており、周りの景色に溶け込むように外壁を白く塗られた病棟を意識するより先にタカネは顔をしかめた。
「…火薬のにおいがします」
「念のためですが、あの白い柵―――お分かりですか、あのあたりにあります、あそこから外へは絶対に出ないでください。危険ですので」
言われて目を細めてみると、確かに病棟を取り囲むように白い柵が立っているように見える。
が、色が保護色になって周囲に溶け込んでしまっている。あれではよほど注意しないとうっかり表に出てしまいそうだ。
「何かあるのですか?」
「トラップが幾つか。正確な場所は詰所のものでなければ分かりません。雪も深いですし第一廟の者でも不注意で掛かる事があります。私も見極めには自信がありません」
それはおおよそ普段のエイフラムとは似ても似つかない発言ではあった。柵を越えれば御身の保証は致しかねるという奴だ。
本人はいつもと変わらない口調で言っているのだろうが場所が場所である。出るな覗くな手を出すなの禁など逆立ちしても出ない強烈なインパクトがそこにはあった。
「ですが柵を出ない限り、ここの警備は万全です。アルテモンド市街と同様の警備レベルを保証します」
だから、エイフラムのその次の一言にタカネは文字通り呆けた。
何を言っているんだこいつは、と思う。市街には柵はないしトラップはないし、ましてこんなに濃厚な火薬の匂いなど練兵場近くでもなければ嗅ぐこともない。
それでどうやって同様の警備レベルなどと言うつもりなのだろうか。
「…街中では、これほどの火薬の匂いを嗅いだ事はありませんが?」
「ああ、その事でしたら、」
そしてエイフラムは、本日初めての笑顔をタカネに向けた。
実に、歪な笑みではあった。
「申し訳ありませんがしばし我慢ください。中に入ってしまえば、感じなくなりますので」



白くて綺麗な雪というのは新雪に限った話であって、一度でも人や動物が歩いた雪は多少なりとも黒く変色する。
それは下地の土が雪に交じるからで、街中の病院なら顔をしかめるような壁面のそんな雪汚れも前線病院では放置されて久しいらしかった。
雪や塗料やオイルに交じって得体のしれない色のラインが走る壁は掃除や改修とは無縁の歴史を歩んだらしく、下の方に行けばいくほど雪の白でも土の黒でもない色が濃くなるそれはまさにここが最前線の病院である事を明示している。
優先して電力が配線されているはずなのに院内はうす暗く、雪に反射したせいなのか窓から差し込む光は無色透明というよりはむしろ灰色がかって見える。
 エイフラムの言った通り、院内に入った瞬間表にあれほど漂っていた火薬臭はかき消えた。というよりはむしろ、より強い臭いにかき消されたと言った方が正しい。
そこらじゅうに広がるのはそれだけで殺菌効果がありそうな消毒液の鼻を刺す臭いであり、どこかで誰かが瓶詰の消毒液をぶちまけたとしてもここまでは臭わないだろうと思う。
タカネだって市街の病院に行ったことがないといえばウソだが、それにしても院内の入り口からここまで強烈な臭いを嗅いだ事など記憶になかった。
 エイフラムに先導される形で歩いた病院の廊下は不思議な程静かだった。
看護婦も医者も、それこそそこらに溢れていそうな怪我人の類もいない。消毒液の臭いにまみれて時折届く音はどこかの病室で足を吊られた誰かが立てたであろう寝息ばかりであり、エイフラムと自身の立てるコツコツという足音は途方もなく気味が悪い。
一体どこに連れて行こうというのか、何の淀みもないエイフラムの運脚は幾度とない角を曲がっても一向に落ちることはなく、いい加減不安になったタカネは勇気を出してこう言った。
「どこに連れて行こうというのです? もうずいぶん奥に来たような気がしますが」
 消毒液の臭いは進めば進むほどに強くなっていく。
大した距離は歩いていないのだろうが、来た事もなく窓もなく、行けども行けども壁と角と思いだしたような病室の扉しかない病院の廊下は、今にして思えばまさに、あの日のあの時に続く最後の境界線だったのだろうと思う。
「…去年、王妃様が使用された会場です。地下にありますので響きは抜群ですよ。もう少々歩きますが、保安性と拝聴する軍人の数を考えた結果です。申し訳ありませんが」
 消毒液の臭いの奥地に歌える会場があるなどどうやっても納得しかねたが、しかしタカネはエイフラムに従うほかない。
仕方なしに溜息をつき、重ったるい足取りでエイフラムの背中に着いて行こうと腹を決め掛かったその時、エイフラムは全く速度を緩めずに前を向いたままこう聞いてきた。
「姫様は、来季から御前会議に参加なさるとか」
 何の話なのか。潰えた話題の継ぎ足しにしては随分気の利かない話を振ってきたものだと思う。
それが何かと沈黙で応えてやると、エイフラムは僅か5秒でこちらの回答を読み取ったようだった。
「今の会議については、何か聞かれていますか?」
「…母上から、ぽつぽつと。何の予備知識もなく席を得られる場所ではないのでしょうし、今の一通りの議題については把握しているつもりです」
「では、約5年ほど前から軍部が何度も提出している法案については?」
 やはりとも、なぜ今なのかとも思う。エイフラムが提供してくる会議の話題など軍関係以外にないだろうし、護衛官が話題にするほどホットな話題は母があの晩教えてくれたセレン取引自由化の話以外にないと思う。
問題なのはなぜ今エイフラムがそんな事を言い出したかで、神にささげる歌を歌う前段階にしては随分と権謀術数の香ばしい臭みがする。
「一通りは。それでも、5年も前から提出し続けている話だとは知りませんでした」
「…」
 エイフラムは背中でそうですかと無言に告げ、会話の途切れた廊下の角を再び曲がると長い間見ていなかったように感じる外の景色が飛び込んできた。窓だ。
院内に入ってからは僅かの時間しか経っていないのだと理屈では思うが、その僅かの間に外には雪がちらつきだしていた。
ここからはエイフラムの言った境界線の白柵すらもう見えない。随分遠いところに連れて来られたような気がした。
 ふと、街が懐かしくなった。
「…あの白い柵は、ここからではもう見えないのですね」
 足を止めて外を見た。ひょっとしたら物理的に柵との距離が開いたのかもしれないし、あるいは心理的な影響で柵が遠くに感じられたのかもしれない。
タカネの素朴な呟きに、エイフラムは僅かに足を止めた。鼻が麻痺したのか幾らかは耐えられるようになったが、あたりに漂う消毒液の臭いは入口よりは格段に濃くなっている。
「あの柵の本来の役目からすれば、見えない事こそが望ましいのです」
「本来の役目?」
「―――あの柵の外側には、地雷が埋まっています」
 エイフラムが何を言ったのか、脳味噌が理解に手間取った。
「…地雷?」
「はい。飛散型の対人地雷です。あの柵は、東とアルテモンドが互いに主張する国境から300メートル程アルテモンド領側に設置されています。最も、」
 エイフラムは淡々と言葉を紡いだ。
「最も、あの柵沿いで爆発音がするくらいであれば、アルテモンドの残り時間ももう僅か、と言ったところでしょう。見えない、という事と存在を知らない、という事は似て非なるものです。あの柵は、東にとっては地雷原であり、そして我々にとっては最低限の守備ラインと言うところでしょうか」
 子供のころから見飽きた雪など街でも山でもどこでも一緒のはずだったが、窓の外でちらつく雪は昨日の廊下で見た雪とはまるで違う物のように見えた。
「あそこに埋設されているものは、起動と同時に大きな爆発音を出します。それこそ前線の兵士どころか街中にも聞こえるような音です。ご存知で?」
 首を振って応えると、エイフラムはだろうな、とでも言いたげな溜息をついた。
「アルテモンド国軍の仕事は主に東の脅威への対抗ですが、それは言いかえれば、あの柵に東を近づけないという事です。国を守るために。ここからそれほど離れていない市街を守るために。そしてあの柵と地雷は、我々が倒れた時に、市街に危険を知らせるために、逃げる時間を稼ぐために埋設されているのです」
 馬鹿も休み休み言え、と思った。
エイフラムはここに来た際、市街と同様の警備レベルを保証する、と言った。蓋を開けてみればどうだ、連れて来られたのは戦線の最後の砦ではないか。
最早視認できない柵は文字通りの危険地帯であって、タカネは今すぐにでもライフルの銃弾が飛んでくるような気がした。
「…ここが、市街と同等に安全な場所だと言ったのはエイフラムですよ?」
「ええ。申し上げました。そして事実ここは、市街と同等の警備レベルです」
 そしてエイフラムは、世にも恐ろしい事を平然と言ってのけた。
「その気になった東に蹂躙される可能性が極めて高い、という意味では、ここも市街もそう大差ありません」
 雪の白と土の黒と得体のしれない色に染まった壁の、消毒液にまみれた野戦病院で聞いたその言葉は、得も言われぬ説得力を持っていた。つまりエイフラムはこう言っているのだ。
 このアルテモンドに、銃弾の飛んで来ない場所など存在しない。
「私たちの平和は、薄皮一枚のものである、と?」
「―――平和。平和、というよりは、安寧、とでも言いましょうか」
 エイフラムの口調には多分に皮肉が滲んでいた。エイフラムはそれだけを言い、タカネに背を向けて再び歩き始める。
置いて行かれる事に本能的な恐怖を覚え、タカネは先ほどよりも半歩ほどエイフラムとの距離を詰めて歩きだす。
角を曲がり、雪も柵もない得体のしれない汚れにまみれた廊下を進み、ひたすらに消毒液を嗅ぎ続ける。
変え時をとっくに過ぎた電灯は明滅を繰り返し、しかし電灯に照らされた廊下にはしばらく何の変わり映えもなく、それなら電灯などいっそ外した方がいいと頭の片隅で思っていたら実際に外されているところもあった。
 頭がおかしくなりそうだった。
 頭がおかしくなりそうで、無理やりにエイフラムに話を振った。
「安寧、とはどういうことです?」
「…」
 エイフラムは答えずにもう一つの角を曲がり、あわててその背中を追いかけたタカネはそこに奇妙なものを見た。
観音開きの扉だ。薄汚れた白一色のその病棟の中にあって茶色の扉は極めて不気味であり、ためらう事もなく扉をあけたエイフラムは実は狂っているのではないかと本気で思う。
「エイフラム?」
「…例えば、チェスでもしているとしましょうか」
 茶色の扉の向こうはやはり白一色の廊下が続いており、では今までと明確に異なるのは何かといえば消毒液の臭いが一段少なくなったと感じることだ。
今まで角という角を曲がってきたものだからとっくに方向感覚など失って久しいが、どうやらこの扉は建物の奥に続いていく道の入り口らしかった。
「チェス、ですか」
「はい、チェスです。ただしゲームとしては非常に不出来なものを。向こうのポーンは大量にありますが、こちらのポーンは僅かしかいない。誰がどう見ても、勝ち負けがはっきりしたチェスです」
 エイフラムは話しながらタカネを中に誘い、タカネが挙動不審を絵にかいたような様子で扉を潜った事を確認して茶色の扉を静かに閉めた。
たったそれだけのことで昨日までの自分の安全が断ち切られたような気がしてエイフラムの方を見ると、エイフラムは僅かな視線を合わせた後に奥へとその眼先を投げた。
 先に進む、と言っているらしい。
「ただし、劣勢の側の2段目と3段目の間にはトラップが仕掛けられているとします。そして、1段目にはキングとクイーン、それに優勢の側が欲しがる財宝が。その他のルールは通常のゲームと同じです」
 それが今のアルテモンドと東の事を例えているのだという事はすぐに分かった。
ここで言う財宝と言うのはセレンの事なのだろう。トラップ、というのは白柵の地雷原の事なのだろうか。
エイフラムは回答を言うことなく足を奥へ奥へと進め、タカネはおっかなびっくりにその後をついて行く。
「当然、ポーンは敵に蹂躙されます。一つまた一つと倒れていくポーンの屍を乗り越えて、敵はゆっくりと確実に劣勢側を切り詰めていく。不気味なのは優勢側が何を求めているのかをはっきり言ってこないことですが、しかし前線のポーンたちは皆、優勢側が欲するものがなんだかは分かっている」
「…財宝」
 その通り、とエイフラムは呟く。
「ある日、ポーンの一人がこう言います。もう死ぬのは嫌だ、戦うのは嫌だ、こんな思いをするくらいなら財宝の一つも渡してしまえ。しかし、それはクイーンが許しません。クイーンの後ろにはポーンでも役職持ちでもない者たちがいるから。ひとたびそれを渡してしまえば価値のなくなったこちら側など蹂躙されてしまうから」

―――その時、東の人たちはどう思うかな。欲しいと思っていたものを奪えって思わない保証はあるのかな。

「そうして、クイーンはポーンたちにこう言うのです。勝ち目がなくとも戦え、それしか方法がないのだから」

 立場の違い、というやつである。
クイーンはアルテモンドを100年存続させる方法を選択しているにすぎない。それによるポーンの損耗はやむを得ない犠牲である。
一方のポーンたちは明日を生き延びる術を望んでいる。そして、そのためのやり方を痛いほど分かっている。
が、それは選択肢に出来ない。それはクイーンが100年を存続させるためのやり方と真っ向から対立する手段だからだ。
 そして、この白と黒と得体のしれない何者かの色が混じったこの廊下こそが、その矛盾を端的に表わす地獄の北端なのだろうと思う。
 足が竦もうものならエイフラムは問答無用で距離を離しにかかる。置いて行かれたが最後悪鬼羅刹に食われるような錯覚すら覚え、タカネは必至でエイフラムの足に縋って歩を進める。
地獄の1丁目を越えたところで唐突にT字路に差し掛かり、エイフラムはそこでぴたりと足を止めた。
「これから姫様をお連れするところは、この施設で最も広く、最も音が響き、最も歌うに適した場所です。―――」
 そこまで言い、エイフラムは思わせぶりに言葉を切った。何事かと思うような沈黙の後にエイフラムは縋るような目を一度だけタカネに向けて、
「―――そして、私が姫様をここにお連れするのは、姫様のその目で事実を見、判断していただきたいからです。…どうかお気を確かにお持ちくださいますよう」
 エイフラムはそう呟き、T字路を右に折れる。
2分ほども歩くとこの建物に入って初めての階層構造を表す階段が現れる。
階段は下に向かって伸びており、得体のしれない壁の染みはこの辺りでようやくはっきりとした色彩を帯びた。
その色が赤であると認識した次の瞬間、タカネの耳に何かが届いた。

 うめき声、というのが最も近い認識ではあった。

 エイフラムは何も言わず、うめき声の聞こえる階下へとゆっくり階段を下がっていく。
踊り場構造を持つエイフラムの顔が階下に消える。後ろを振り返れば化け物が口を開けて待っているような気がして振り返る気も起きず、うめき声の聞こえる階下は死霊の蠢く地獄に見える。
進退ここに極まった中で唯一の日常との縁へと変貌を遂げたエイフラムは死霊に導かれるように階下へと消え、何をおいても選択しようと思える第三の道は結局待てど暮らせど現れる事はなかった。
 追いすがるように階段を下りたタカネの耳にはうめき声は最早怨嗟の声に聞こえ、寄らばとり殺さんばかりの喚き声は耳をふさぎたくなるほど恐ろしく、そしてエイフラムは階下で、その耳をふさぎたくなるような扉の前で静かに、本当に静かに佇んでいた。

 そして、エイフラムは、アルテモンドの姫であり、来季から御前会議に参加する資格のある血筋であり、もう3日後には国民の前で生誕祭の聖歌を歌う度胸のある、今まさにチビりそうなガキの目の前で、その扉を開けた。



 何よりもまず最初に、なるほど、と思った。

 あれほど漂っていた消毒液の臭いが薄くなった理由が良く分かった。
それはそうだ、病院に入ったばかりのところにいる連中は紛れもなく『処理の終わった』連中であるに違いないのだから。
消毒液にまみれて包帯でぐるぐる巻きにされた連中ばかりなのだろうから。止血も終わり、神と父母より授かった肉体の治癒力に任せて回復を待つばかりの連中しかいなかったのだろうから。
強い臭いはより強い臭いに上書きされることで消えていくのだ。王室の使用人たちが使うトイレの芳香剤と同じ原理だ。
どれだけ汚物が臭おうと、バラだのフローラルだのの形容詞の付いた匂い玉が全てを消してくれるのと同じ原理だ。
 ただ、逆なだけだ。



 それは、まさに赤黒い光景であった。
まず目に入ったのは一体何人を横たえたのか分からないストレッチャーであり、所々薄黒く染まったストレッチャーの上では横腹に幾つかの穴を開けた人間大の何物かが横になっている。
顔に雑巾のような布が被されているそれは周りの喧騒にも関わらず寝返り一つせず恨み事一つこぼさず、白に所々映える緑迷彩の野戦服には逆に目立つのではなかろうかと思える赤黒い染みが点々と零されている。
ストレッチャーの取っ手部分に何かのタグが引っかかっている。ここからは見えないそのタグに書かれているのは恐らく識別番号か何かなのであろうが、それが何か理解する前に看護婦にしては清潔感のないエプロンを掛けた女性が疲労と恐怖に麻痺した顔でタグを引きちぎる。
妙に膨らんだエプロンのポケットにタグをしまった―――しまった、というよりは突っ込んだ、と言った方が正しい―――女性は返す手でストレッチャーを押して行き、ストレッチャーの行きつく先に赤い絵の具をぶちまけたようなコンクリートむき出しの床があり、女性が足元のペダルを疲労丸出しの足で踏むとストレッチャーは屹立、上に乗っていた何者かは何の抵抗もなくべシャリという音を立ててコンクリートの床に転がり落ちる。
どうやら最初でも最後でもないらしいその行為により床に寝っ転がった何がしかは両手両足を使った数では到底数える事は出来ず、女性は床に転がした何がしかに飛び散る飛沫にも一顧だにせずに先ほどむしり取ったタグをくくりつけ、後には毛ほどの興味も示さない様子で奥へとストレッチャーを押していく。
視線を横に泳がすと予防接種が鼻で笑えるようなぶっとい注射針を持った医者のようなオヤジがいて、オヤジの手前には一体何をどうすればそうなるのかと思えるくらい痙攣している男が器用にも寝台の上でぐるぐると右回転している。
今にも寝台から落ちそうだ。よく見ると足が裂けている。恐らく足裂け男としては上下に動いているだけなのだろうが、右側に支えがない分右へ右へとぐるぐる回転してしまうのだろう。
麻酔薬か鎮静剤なのだろう薬剤の入った注射針を持つオヤジの号令で赤白の迷彩服を着た連中が集まってきて、ばったんばったんと跳ねまわる足裂け男の左側に思い切り体重を掛けている。
そうこうするうちにオヤジは実に慣れた手つきで足裂け男の左腕静脈にぶっとい注射針を突きさし、心臓に響くが如き強烈な悲鳴を上げた足裂け男はその後びくびくと芋虫のような痙攣を繰り返すだけになった。
痙攣男からさらに視線をずらすと恐らくは母が去年立ったのであろう階段様の段差があり、そこには両腕を包帯でぐるぐるに巻かれた男が心ここにあらずな様子で座っている。
何かを口ずさむようなその口からは何も発されることはなく、ただもごもごと口を動かす男の視界には恐らく何も映ってはいないだろうことは想像に難くなく、よく見ると男の左側の腕は中程からぶらりと重力に引かれており、そこからは最早ギブスもなにもあったものではない治療の光景が容易に想像でき、ただ乱雑に包帯を巻かれて終わりという治療からは男以上に急を要する患者が腐るほどいただろうという事は誰の目にも明らかで、事実男の横でゆらゆらと揺れている足は恐らく自前の意識で動くことはもうないのだろうと思う。
段差のせいで膝から下しか見えない足がゆらゆらと揺れているのはすっかり幼児退行してしまったと思しき中年の兵隊が足を揺らして遊んでいるからで、意思もなく温かみもなくしかし意のままにもならない人形のようなそれはお子様にとっては格好の玩具だったのだろうと思う。
目の前を俺の腕俺の腕がとわめきたてながら走り回る男がいて、ようやくタカネは我に返ることができた。

 だから吐いた。

 ひとたまりもなかった。
朝昼飯どころか昨日の晩に食った分も全部一辺に出てきた。
激烈な腐臭と視界いっぱいに広がる赤に触発された胃酸は一欠けらの容赦すらせずに歌姫の喉を焼き、鼻に入った胃液の饐えた臭いは瞬く間に血と糞尿の異臭にかき消され、涙の浮かんだ視界に映るのは飛び散る自分のゲロより先に誰かから流れた血の赤で、えずいた自分の声より先に耳に入るのは誰かの悲鳴だった。
それは紛れもなく蝶よ花よと育てられた自分の世界から薄皮一枚隔てたところにある世界の姿であり、地雷原から僅か300メートル先の平穏に安穏と暮らしていた人々に対する明確な地獄の意思だと感じた。
 これが、100年先を生かすための今か。
 これが母の意思なのか。
「―――昨日です」
 そして、最早まともな神経の奴など誰一人としていないだろうこの空間の中で、悲鳴でもうめき声でもあえぎ声でもない、唯一まともに思える声が頭の上から降ってきた。
顔を上げてエイフラムの顔を見上げる間に、まず間違いなく見てしまうであろう目の前の惨状を見る気などかけらも起きない。
返事の代わりにえずきに導かれた胃酸が再び食道を焼いた。
「王宮の侍女たちが生誕祭の準備をし、市民たちがターキーとケーキを準備していたまさに昨日、東との国境付近で戦闘がありました。第2廟の者たちだけではなく、詰め所や各々の待機場所にいた第3廟の我々にも戦闘参加令が下りました。東の今回の攻勢が強かったというのも理由の一つでしょうが、最早第1廟だけで国境周辺警備がままならなくなっていた事も事実です」
 エイフラムの静かだが芯のある声はこの狂乱の中でも不思議とタカネの耳に入った。
 だが、タカネの方は返事すらままならない。声を出そうとすれば声の代わりに胃液と唾液のブレンドが口から出そうな気がする。
眦に浮かぶ涙はとっくに決壊しているというのに、拭う事すらできない。
「我々も現場に急行しました。そして現場に到着した我々が見たのは、悠々と去る東の軍用ジープの背中と、半ば壊滅状態になった常駐国境警備隊の姿です」
 思ったより近くからゴトンという音がする。視線だけを上に上げて音を辿る。
ストレッチャーに乗せられた新しい死体は薄らと目を開けてタカネを見ている。胃酸に焼かれた喉から息だけ出したような悲鳴が出て後ろにもんどり返り、薄眼の死体を乗せたストレッチャーがタカネのゲロを踏んで仮設の安置所に運ばれていく。
 死体は、まぎれもなくタカネを見ていたのだと思う。
「ここに彼らを運んだのは第3廟であり、姫様が黒井殿と会話をしていたその瞬間に我々が王宮にいなかったのはそのためです」
 俺の腕と叫んでいた男の声が聞こえなくなる。ひっくり返ってしまったことで視界に映ってしまった惨状を見たくなくて視界を左右に彷徨わせる。
そのせいで腕のない兵士がどうなったかを見る羽目になる。彼は壁に身を横たえ、止血のために施されたであろう包帯からにじみ出る血を余った方の手で懸命に止めようとしている。
 涙がぬぐえるのは幸せだ。両腕があるのだから。
 歩いて来れたのは幸せだ。両足がまだあるのだから。

 声があるのは幸せだ。歌が歌えるのだから。
 幸せだ、

「歌ってください」
 そしてエイフラムは、タカネに死刑を宣告した。
「姫様。歌ってください。ここにいる皆の心を癒すために。よく戦ってくれたと言うために」
 その言葉に、今まで顔も上げられなかったタカネは恐怖に引き攣った顔を上げる。
エイフラムを見る。エイフラムはただ、何を映しているのか分からないような目をして、しかし決してタカネの方は見ず、目の前の地獄を網膜に焼いている。
「歌ってください。皆の犠牲で街は今日も無事だったと。よく役目を果たしたと」
 歌などガキの頃から歌ってきた。
本当に小さな子から母の歌を聞いて育ち、スパルタ教育の元で夥しい量の練習を積み、僅か10歳でアルテモンド国民の前で名誉ある聖歌を歌う資格を得て、今日はその聖歌をしかるべき時にしかるべき場所で聞けない者たちのためにわざわざ来たくもない山道を越えたはずだった。
 方々から悲鳴と怨嗟が上がっている。耳をつんざくように聞こえる悲鳴の中で弱弱しい鳴き声が徐々に聞こえなくなっていく。大の大人たちが自分でも上げないような声をあげている。
アルテモンドの次の100年を担保するためにすり減らされる声たちが徐々に聞こえなくなっていく。
 こんなところで終ってしまう自分の人生を呪う声が聞こえる。

 次の100年までアルテモンドがあるように、捨てられた命が消えていく。

「姫様、歌ってください。皆の犠牲の上に、アルテモンドは繁栄を謳歌するのだと」

 ありがとう。あなたたちのお陰で、アルテモンドはまだ続いていける。
 ありがとう。あなたたちのお陰で、街の人たちは東の影におびえることなく暮らしていける。
 ありがとう。あなたたちのお陰で、私はまだこの国の王女でいられる。

 死んでくれてありがとう。あなたたちは英雄だ。

「姫様、歌ってください。皆は、貴女の母の言い分を忠実に守った、軍人の鏡であるのだと」

―――それはもう、声ではなかった。悲鳴でもなかった。うめき声でもあえぎ声でも幼稚な声でもなく、それどころか人間の話すような声ですらなかった。
 が、タカネにははっきりと分かった。
 これは、声などではない。これは、恨みだ。
 100年を生かすためという名目で今いなくならなければならなかった、今まさに退場しなければならない、犠牲の恨みだ。
 お前を恨んでいると、お前の母を恨んでいると、ただ耳に入る雑音のような響きだけが、明瞭な意思を持っていた。

 足元に赤まみれでないところは最早ない気がする。タカネは尻もちをついたまま、目の前の様子を茫然と眺める。
とっくに失禁して染みを作っていたスカートに、タカネのものではない、母のものでもない、街の住人のものでもない赤黒い染料が異様な模様を作っていく。

「…あ、い、」
「姫様。歌ってください。皆は、」

 そしてエイフラムは、遂にタカネにとどめを刺した。

「皆は、アルテモンドが続く、ただそのためだけに、いまここで終わりを迎えたのだと」

 母が間違っているとは思わない。
 でも、その為に目の前の現実がある。
 混乱した頭に怨嗟の意志が強烈にあたり、それでなくとも泣きそうな精神はエイフラムの言葉で遂に圧迫され、タカネは初めて、狂気に触れる悲鳴を上げた。



「肝が冷えたよ。こっちに来たとたんに戦闘だ。セレンの話ももちろんあるが、四条の頼みじゃなかったら絶対に来なかったぞこんなところ」
「失礼を。ここ数年厳冬期の侵攻はなかったもので。第1廟の連中は雪中装備でよくもあれだけ好戦したと思いますが、それにしても今冬の東は何時にも増して好戦的だ」
 第3廟の詰め所におかれた薪ストーブは今でも現役バリバリである。
薪ストーブの上に水を湛えたヤカンを置いたのは紛れもなく黒井本人であり、そう言った風習がなかったアルテモンドで今まで過ごしてきたからこそ最初は首をひねったものの、黒井がコーヒーはないのかと厚顔にも訪ねた際、なるほど合理的だとウィサップ特務軍曹は笑った。
「アルテモンドで最も気候が厳しいのは冬ですが、だからこそ冬はアルテモンドにとって最も安全な季節ではあった。今回のような大型侵攻が常習化するのであれば、わが軍も冬季防衛について本腰を入れなければなりませんな」
「そうしてくれ。一番安全だからって言われた季節に風邪覚悟で来たのに、実は危険でしたなんて言われたらこちらとしてもお付き合いを考えなければ」
「耳に痛い話です」
 とは言え、ウィサップの言う冬季防衛などいつになったら本格化するか、と黒井は思う。
紙おむつから武装ヘリまでを右から左に流す商売をしている関係上黒井は軍事装備にもある程度目鼻は聞くが、だからこそアルテモンドが『本格的な冬季防衛』など志した日には莫大な金が掛かるであろうことも分かっている。
黒井の見たところアルテモンドの主にして唯一の商売手段はセレンだ。だからこそ皇太子肝いりの商権視察などという要請が来たのだろう。
「…こっちも商売だから。値切りの一つくらいはすると思っててくれ。あんたがたの提示額は相場と比べるとちょっと高い。それに大体、ウチとの商売なんて女王サマは知らないんだろう?」
「書面上は軍部の独自判断ですからね。でも陛下はご存じだ。いくら我々が国軍でも国庫所有の鉱山から出たセレンを独自に売り払うなんて事は出来ません。最終的には女王陛下にお目通しする必要がありますが、その為の陛下です」
「忠臣ここに極まれり、か」
 日本ではもうどこの家庭でも薪ストーブなどお役御免だったが、この国では未だ現役の薪ストーブは直接火で温まる分だけ灯油ストーブにはない温かみがある。
シュンシュンと湯気を立てるヤカンを取って2杯目のコーヒーを入れると、黒井はおもむろにこう切り出した。
「ちょっと聞いても?」
「軍機や国機でないようなものであれば、何なりと」
「ここに来るときからずっと気になってたんだけど、東やら西やらはセレンの生産ってしてないのかな?」
 黒井の問いにウィサップは面喰らい、
「でしょう。そのような話は聞いたことがありませんし、もし生産しているのであれば東もこれほどまでにわが国に侵攻などしないでしょう」
「……そっか。変なこと聞いたな」
 ウィサップは頭に?マークを浮かべたまま「何を当たり前のことを」とでもいいたそうな顔をしている。
黒井としては気がかりな点が2つほどあるのだが、ウィサップは黒井とは全く毛色の違う心配をしているようだった。
「今更御破算はないでしょう。アルテモンドは現状以上に日本にセレンを提供する。その見返りとして、日本は財政や医療といった支援を強化する。双方に利のある話であるはずです」
「ああ、その辺は心配しないでくれ。マツが随分頑張ってるみたいだし、正当な話であれば正当な見返りを出す」
「信用していますよ」
「信頼しているって言ってほしいね」
 とは言え―――黒井は思う。
今までなかった冬季侵攻が今年になって発生したというのは何か原因があるに間違いはない。
そして今までの冬になく今年の冬になってもち上がった話といえば黒井重工とアルテモンドとのセレン取引の話だけだ。
ウィサップの話を本気で信じるのであれば東はアルテモンドのセレンが欲しくて攻撃をしているのだというし、だとすれば昨日の戦闘は明確な妨害意志の元で行われた可能性が十分にある。
今更ながらに生誕祭とか言う祭りの前に現地入りしたのは失敗したと思う。四条の奴は「娘が初めて歌うから是非見に来てほしい」とか言っていたが、親バカもここまでくれば見上げたものだと思う。
 が、確かにあの声は魅力的だ。商売も友情も棚に上げたとしても、しっかりとしたトレーニングと十分な経験を積めば耳の肥えた日本の消費者にも十分に受け入れられる可能性がある。
 そのあたりを聞くためにわざわざ商売前に現地入りしたのだ、と思えば、まあ許せる。
「いずれにしろ商売の話は生誕祭の後だ。今は観光がてらゆっくりさせてもらうよ」
「街に出る場合は詰め所にご連絡ください。護衛をつけましょう。窮屈な思いはさせないと思いますよ」
「そうかい」

 黒井の懸念点一つ目。
セレンは鉱物資源であり、鉱物資源というのはいわば地球からの贈り物であり、ということは出現帯というものが当然に存在するわけで、「このあたりでセレンが取れるのはアルテモンドだけです」などという事は通常あり得ない。
しかるべき装置を使用し、しかるべき知識があるのであれば隣国も当然のようにセレンを産出することは可能であると見るべきで、にも関わらず広大な東がただセレン欲しさにアルテモンドに攻め入るのは何か理由があるはずである。
例えば自国に穴を掘るよりも横から分捕った方が安く上がるとか、何か理由があって東はアルテモンドを採掘することが出来ないとか。
 二つ目。
セレンはその性質上単独で産出することなどほぼあり得ない。大抵はこの国のように硫化セレン様の硫化化合物として産出されるのが主であるが、勿論硫化化合物とは一つの例外もなく有毒性である。
黒井は金属系の昇華については詳しく知らないが、確か硫化セレンの単離には硫酸やら何やらの劇薬を使うはずで、それらを安全に使用するための知識や技法は確立されているのか。

「まぁ、全ては生誕祭が終わってからか」
「今はどこもかしこも大騒ぎで準備の最中ですからね。黒井殿も楽しんでください」
 そう言って、ウィサップは詰め所を後にする。

 勿論、『生誕祭の後』などは、訪れることはなかった。
 生誕祭のその日、アルテモンドは国際外交の舞台から姿を消すことになる。




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