声 (9)

 6月の頭の日曜である。
「向こう三週間は晴れでしょう」と言われた翌日に大雨に降られた。プロデューサーはおもむろに持っていた傘を差してコンビニからの帰り道を急ぐ。
今朝のニュースの言うところによれば今日から1週間はぐずついた天気が続くらしく、プロデューサーは部屋干しした洗濯物の乾き具合に一抹の不安を感じながら春香が待っているであろうボイストレーニングルームへと歩を進めている。

 ここで、「三週間は晴れ」という無体をやらかしたのはニュースキャスターではない事に注目する必要がある。

「極東機関」の由来はもともと在籍するアイドル達を社長の魔の手であるセクハラから防衛するために作られたといわれる765内部の弾劾裁判機関であり、昨年の秋に会議室を占拠して行われた「第6期極東機関総会」はその出自を色濃く残す内容であった。
当時1年目だったプロデューサーが書記としてあの恐るべき場にいたのは一重に警告の意味合いであり、音無小鳥●●歳をその頂に頂く機関は規模及び構成員の部署氏名に至るまで謎に包まれた765の影の番である。
765の規模拡大に伴って構成員を順次増やしたという噂の機関によって裁かれているのは専ら社長との評判ではあるが、第6期を数えるまでに年を経たあの会議の内容を見るに社長を男として尊敬せざるを得ないと思うのはおそらく自分だけではあるまいとプロデューサーは心から思う。
ひとたび嫌疑をかけられて会議室という名の精神と時の部屋に入れられたが最後、ふた言目には必ず「申し訳ありませんでした」と言ってしまいそうになるであろう過去の懲罰はしかし当の機関内部でもやり過ぎと言う意見があったのか現在は強制サービス残業という手法に改められてはいるが、これはひとえに当時から総帥であった小鳥の改革的英断によるところが大きいという。
しかし過激派の勢いにも劣らない当時の幹部たちは総帥の決断を生ぬるいと酷評し、これがきっかけとなって極東機関は一時期内乱の様相を呈したことがある。
765史の表舞台に一度だけ機関の名前が出たこの騒乱は後に「8/3の乱」と呼ばれ、今をもって当時の765の重役達はこの名称を聞くだけでトイレの個室に籠って30分は出てこないと言われている。
 結局「8/3の乱」は小鳥が「対象が思わず引き籠りたくなるほどにえげつない手段」を取った事で終結を見たのだが、乱後に小鳥は子が親を食ったとも言える機関の影響力の強大さに機関の一部解散を伝達、多くの機関員たちが失意のもとに業務を遂行する単なる事務員へと舞い戻ったのを尻目に何名かの機関員たちはやはり失意のもと野に下る選択をする。
 しかしこの話も眉に唾して聞く必要のある話であり、野に下った機関員たちの多くは争乱中に小鳥側陣営に付いていたという事実は注目に値する―――すなわち「野に下った」という表現は単なるパフォーマンスであり、その実最早何の肩書もなくなった構成員たちはある時は繊細にある時は大胆に「敵情」を視察し、証拠が固まった段階で夜討ち朝駆けのような「判決」を行う生え抜きの実行部隊であるという仮説は乱後しばらく765内で燻った都市伝説の類である。
が、自社ビルを3回建て変えるという765の急速な規模拡大とそれに伴う事業規模の拡大は社長はともかくとして他の男性社員達からはセクハラの余力を奪い取ったらしく、近年の弾劾裁判の回数は結成当時に比べ驚くほど回数が減っている。
もちろんそこにはプロデューサーが去年の秋に味わったような「教育」の効果もあるのだろうし、それ以外にも実行部隊の下野と言う直接的な損害を被った極東機関の弱体化と言う点もあるにはあるのだろう。
実行部隊が下野したことで本体たる765内の極東機関が弱体化したというのは皮肉以外の何物でもないが、その結果として下野した生え抜きたちの「判決」力も必然的に低下、現在構成員たちの主要な業務は「敵」部分を765内の腐敗から真に敵性勢力たる同業他社たちに変えてその動向を探る、という一見は健全な方向に移っている。
 これが現在言われる「ピヨネット」の原型らしい。
下野した構成員たちが独自に行った勧誘活動の結果、現在「ピヨネット」会員は小鳥をしてその正確な規模は不明であり、しかし小鳥の要請に応じて必要な情報を凄まじいまでの正確性と速度で伝えてくる会員たちのネットワークは新鮮な情報がキモとなるプロデューサーたちにとっては喉から手が出るほどに欲しい代物であった。
現在「ピヨネット」の直接の窓口はやはり音無小鳥その人であり、チロルチョコから高級茶菓子までに応じた情報を提供してくれる「ピヨネット」は現在765プロデュース株式会社営業部プロデュース課にとって見てくれこそサブだがその実主要な情報生命線と化している。
件の「向こう三週間は晴れでしょう」と言う天気予報を模した一文は「ピヨネット」構成員が収集してきた各プロデュース会社に所属するアイドル達の強みを小鳥が趣味占いの形を取って伝える暗号化済みの伝達事項であり、「晴れ」「雨」「竜巻」の隠語で語られるその内容を翻訳すればそれぞれ「ボーカル」「ヴィジュアル」「ダンス」を意味している。
 なお、これは全くの余談ではあるが、プロデュース課に属しない一般事務員たちにとっては小鳥が行う情報伝達は単なる占いに見えているらしく、昼休みなどは古株の小鳥を慕う社員たちがそれぞれ貢物を持って小鳥に占いをせがむ風景が時折見られる。
プロデューサーが知っている範囲では小鳥の「占い」には「ピヨネット」の情報伝達のほかに恋占いと運勢占いの3種類があり、運勢占いはともかくとして恋占いの方はゴールインが近ければ近いほど「破局」という結果が出るという評判がまことしやかに囁かれている。

「向こう3週間は晴れ」である。
と言うことは、来週に控えたIU一次予選の日曜日は「晴れ」の最中という事になる。
プロデューサーは自社ビルのエントランスで傘についた水滴をふるい落とし、ひとつ大きな溜息をつく。

 日曜という営業向けの日に春香がプロデューサーをボーカルトレーニングルームに連れ込んだのはもちろんIU予選まで日がないという焦りからだったと思う。
 それもこれも社長のせいだ―――プロデューサーは誰にはばかることなくそう思う。
ひと月前のオーディションで3枠中3位通過を果たした春香に向けて社長が見せたのは961プロが万を持して放つ「プロジェクト・フェアリー」の一翼を担う四条貴音や6月第2週のIU予選にエントリーしてきそうな新人たちの録画ビデオであり、社長としては春香の一層の奮起を促したであろうこの行動はしかし春香の焦り具合に拍車を加えるというどうしようもない事態に発展する。
もちろん「多くの人に元気を与える」ためにはIUを勝ち抜く事が必須であり、しかして春香にはそれが過分なプレッシャーとなったらしかった。
何もないところで転ぶことが特技ともいえる春香ではあったが最近の足もとのふらつき具合は尋常なからざるものがあり、プロデューサーとしてはこれが部屋の洗濯物の乾き具合以上に気になる点である。
そんなプロデューサーが午前中からトレーニングをしていた春香を残して昼休みに一人でコンビニまで出向いたのは一重に「僕がいたんじゃゆっくり休憩できないだろうから」という最もらしい理由によるものだが、さて春香はちゃんと休憩しているだろうか―――。



 エレベータに13階で吐き出されたプロデューサーは、そこで春香の歌声を聴いた。
そもそもボイストレーニングルームが16階建ての自社ビルの13階という高層に作られているのは社長や重役を訪れるフリをした他社のスパイたちと765内で練習するアイドル達を隔絶するための措置と言うのが本当のところではあるが、表向きの理由としては事務員の仕事や来客との交渉中にアイドル達の練習する声が漏れ聞こえないようにするため、という建前がある以上13階から16階までの防音設備には呆れるほどの金がかかっているし非常扉の厚さと言ったら装甲車の防弾壁を思わせる。
しかしいくら防音と言ったところで音漏れを防止するのは12階や14階と言った他階に向かう音であり、扉を開けておけば13階中に練習の音が漏れてしまうのはある種自明ではある。
プロデューサーが13-4のトレーニングルームから出た時にわざと扉を少しだけ開けていたのは、室内で実際に声を出す場であるガラスの仕切りの向こうからは出入り口の扉を閉める事は出来ないという理由からだ。
扉を閉めるためにガラス戸から出てくれば、そこで一度休憩しようと自発的に思ってくれるかもしれない―――というプロデューサーの底の浅い目論見は見事に封殺されたらしかった。

♪ 熱い永遠の今 きっと、 ♪

 ノイズが目立つ声だった。
プロデューサーがコンビニへ出かけていたのは30分程であり、春香が今練習している『太陽のジェラシー』のAメロサビの部分はプロデューサーが昼食にしようと春香に言う直前まで練習していた部分である。

♪ きっと、 未来が始まる ♪

「…未来の前に昼飯食べよう。春香、休憩した?」
 13-4の扉を開けて開口一発そう言うと、春香は面白いように背中をびくつかせて恐る恐ると後ろを振り返った。
やらかしたと顔に書いてある春香に苦笑を洩らし、プロデューサーはおもむろに水滴の付いたコンビニの袋をガラス戸越しに見せる。
「ぷ、プロデューサー、さん。お、お早いお帰りで」
「ただいま。休憩とった?」
 あはは、とバツが悪そうに笑う春香の顔にはごめんなさいと書いてあった。
プロデューサーはもはや隠す気もない大きな溜息をつき、
「…練習するのはいい事だし大事な事だよ。でも休む時はちゃんと休まないと。喉、大丈夫?」
「だ、大丈夫ですよ! まだまだいけます!」
 ああそう、とプロデューサーは春香にコンビニの袋を渡す。
がさりと漁って出てきたのは林檎ジュースのペットボトルであり、春香は一度だけ目をぱちくりさせてプロデューサーの顔を見上げた。
「その様子だとお昼も食べてないよね。一回休憩」
「で、でもプロデューサーさん、もうちょっとでアップの感じが掴めそうで、」
「―――春香、」
 プロデューサーは途方もない溜息をつく。
いつか誰かに「アイドルの前で溜息をつくな」と言われた気がするが、今の現状を鑑みるに溜息をつくなと言う方が無理な話ではある。
もし春香が昼食もとらずに歌い続けていたのなら、もう朝から3時間は歌いっぱなしだ。
いくら春香が歌が好きで喉が強いと言っても、本番が今日でない以上は無理をして喉を潰す必然性はどこにもない。
「あのね、休む時は休むのも大事な仕事なんだよ。何も今日が本番じゃないんだし、今日無理して明日喉が潰れたらどうするのさ」
「…はい」
 春香の顔はまるで叱られた子供である。
「IUの予選は一発勝負だからね。不安があるのは分かるけど落ちたら元も子もないからね」
「…でも、もうちょっとで、」
 このペースで行くと春香はこのままダンスのトレーニングでも同じような事をやりそうだ。
どんな仕事でもそうだが結局のところ最後に頼れる資本は己の体である。
いくら若いと言っても疲労は確実に身体に蓄積し続けるし、もう少しで掴めそうなアップの感じを今から昼飯を抜いてまで掴まなければならない必要はないと言えばない。
 春香のプロデュースをして2ヶ月ほどが経つが、プロデューサーにとっての春香の「いい所」はそのまま「悪い所」でもある。
要は頑張り屋なのだと言えば身も蓋もないが、平素から練習に励む春香がヘタをするとオーバーワーク気味になるのはプロデューサーにとっては洗濯物に比して遥か高次元にある悩みの種である。
「もうちょっとなら昼飯食べた後でも掴めるよ。とにかくやり過ぎはご法度。偉そうなこと言うけど春香はもうちょっとメンタル面を鍛えた方がいいかもね」
「うう…。で、でもでも、ホントにもうちょっとなんです! あそこ押さえちゃえば、今度はもっと歌に感情が、」
 春香が何をそんなに焦っているのか―――そんな事は、プロデューサーとて分かってはいる。
 分かっているからこそ、プロデューサーは三度目の大きな溜息をつく。
「…分かった」
「え、」
 眉根を寄せたプロデューサーにドキリとしたのか春香はそこで動きを止めた。
プロデューサーは目を強く閉じてガリガリと頭を掻きむしり、
「僕も聞いてる。もうちょっとだけだよ、そしたら引き倒してでも休憩させるからね」
「…あ、その、それじゃ、」
 結局自分は、この陽光のような笑顔を浮かべる少女に弱いのかもしれない。
プロデューサーは己の弱点を脳の裏側でせせら笑い、顔にだけは渋面を浮かべて春香に向けて口を開いた。
「春香が思うように歌ってみて。感が取れるか聞いてるから」
「あっ、ありがとうございます!」
 疲れた顔に笑顔を浮かべ、春香はすぐさまプロデューサーに背中を向けてガラス戸の向こうへと突進していく。
プロデューサーもまたやれやれと苦笑を浮かべ、春香に置いて行かれまいとガラス戸のノブに手をかけた。
「じゃ、やってみます。私の思う通りでいいんですよね」
「うん。気になったところは言うから。でもくれぐれも喉が変だと思ったらすぐに止めるんだよ、春香の喉の調子は春香しか分かんないんだからね」
 はあい、と返事を返してきた春香に一つ頷き、プロデューサーは渋面のままコンソールに手をかけた。
練習用のCDは通しのイメージ音源以外にフレーズに分けたノーボーカル版が収録されていて、プロデューサーは春香が慌てて止めたであろう一時停止のキーを解除して左三角のキーを乱暴な手つきで叩く。
職務に忠実なコンソールはプロデューサーの乱暴な手つきにも文句の一つも言わずに『太陽のジェラシー』のAメロサビ3小節前をスピーカーに出力し、春香はガラス戸に区切られたボイスルームのド真ん中でひとつ大きく息を吸った。

♪ 追いかけて 逃げるふりをして ♪

 4月からの2ヶ月で春香はずいぶん歌が上手くなった、とプロデューサーは思う。
もともと歌が好きと言うだけあって喉の下地や声量も今では十分の水準だし、事歌に関して言うならば現行チェックしているライバルアイドル達に引けを取る要素はないとプロデューサーは思っている。

♪ そっと逃げる 私 

 春香は歌詞を繋げずにそこでぴたりと声を止め、再びうーんと唸りだした。
プロデューサーはもったりとした動作でコンソールの一時停止ボタンを押しこみ、春香に眼だけで「どうした」と尋ねる。
「…あの、プロデューサーさん。このフレーズってやっぱりもっと明るく歌うべきですよね?」
「何かあったの?」
「いえ、その、…プロデューサーさん、今の聞いてどう思いました?」
 どう思いましたも何も「歌が上手くなったなぁ」と思っている最中にぶち切られたのだ。
歌の良悪まで聞きとれなかったというのが本音ではあるが、春香が納得していないというのならば何か問題があったのだろう。
「歌ってて何か変な感じでもしたの?」
「なんて言えばいいんだろ。あのですね、もうちょっと明るく歌えると思うんですよこのフレーズ。でもさっきから何回やってもイメージ通りに行かなくて」
 もう一回だけいいですか、と聞いてくる春香にプロデューサーはやれやれと首を縦に動かした。
この分だと春香は本当に喉が潰れるまでの練習をしても不完全燃焼に陥るかもしれない。
IUまではあと一週間しかないし、ここで春香が納得してくれない事には先が見えないというのも辛いものがある。

♪ 追いかけて 逃げるふりをして ♪

 一切の雑念を払ったかのような春香の表情に、プロデューサーもまた春香の声に全精力を傾ける。
春香の声は真剣そのものであり、時折鬼気迫るようなその表情からはまさしくIU生き残りをかけたアイドルの熾烈な人生が

♪ そっと逃げる 私マーメイド ♪

 プロデューサーはそこでぽちりと一時停止ボタンを押した。
何事かとこちらを見遣る春香に向けてプロデューサーは五臓六腑に至る盛大な溜息を吐いて、
「―――春香、休憩。一度リフレッシュしよう」
「で、でも…」
「春香」
 やや強めな口調に春香は一度うなだれた。
仏頂面で分かりましたと返事をした春香の顔は正直に言えば見ていて心苦しいが、しかし春香の納得しかねる部分の原因がプロデューサーの感じた通りなら恐らく声だけの練習を今無理をして続けたところで何の意味もなさない。

―――春香の焦りの原因は、もちろん察しが付いている。

「ライバル達を意識するのはいいことだと思うけど、春香には春香の良さがあるじゃないか」
「何ですか私の良さって」
 本来ならボーカルルームでの昼食は禁止されている。匂いが残ると練習中に唾が過剰に分泌される可能性があるからだ。
プロデューサーは腹の中で一度舌を出してガラス戸から退出し、買ってきたコンビニの袋とパイプ椅子二つをボーカルルーム内に押し込んだ。
「そりゃあ底抜けに明るいところとかさ。―――自信ない?」
 春香は黙ってパイプ椅子に腰をおろし、プロデューサーが買ってきた林檎ジュースの飲み口を一舐めした。
「―――だって、ぜんぜん敵う気がしないんですもん。プロデューサーさんだって見たじゃないですか、四条さんの番組」
 あそこまで差があると思うといっそ憧れます、と言う春香の顔はいつもの春香からは考えられないほどに投げやりである。
まずはそこだ、とプロデューサーは思う。
コンビニの袋から取り出した鮭おにぎりを春香に渡し、プロデューサーは10秒メシのキャップを外した。
「見たよ。見たけどさ、アイドルの勝負って個性じゃないか。春香は春香の個性で勝負すればいいと思うよ」
「底抜けに明るいところで勝負、ですか?」
 うんそう、とプロデューサーはチューブを啜る。
そんなプロデューサーの様子を見た春香は一度大きな溜息をついておにぎりの包装を外し、空になったコンビニの袋の中に包装紙を押し込んだ。
「四条さん、格好良かったですね」
 春香の顔は明るくも暗くもない。
まるで事実を確認するかのような淡々とした表情に春香の心情を測りかね、プロデューサーは結局己の心のままに思った事を口にする事にした。
「そうだね。僕もそう思う」
「…ですよね」
 失敗したか。
しかし春香の表情には先ほどと何ら変わりはない。
一度出した回答は今更ひっこめられるものではなく、プロデューサーはでも、と言葉を繋いだ。
「何か一人で背負いこんでるみたいだな、とは思った。春香はどう思う?」
「格好良いなって、それだけでした。歌もうまいしスタイルもいいし、とても同年代とは思えませんよぉ」
 その辺も個性なのだろうなとプロデューサーはぼんやり思う。
 やはり春香の不調の原因は961の『四条貴音』を意識し過ぎていることにある。
何も本番で戦わなければならないのは『四条貴音』だけではないのだが、これもAランクに向けた一つの向上心の表れならばプロデューサーとしては非常にありがたくはある。
 ありがたくはあるがしかし意識のし過ぎは勿論毒であり、そして春香は見事に毒がまわっているようだった。
「あーあ、追いつけるのかな、私」
「…いいんじゃない? 別に追いつかなくても」
 一人ごとを思わず拾うと、春香はそこで驚いたような顔をした。
どういう事ですかと表情だけで問われ、プロデューサーは軽いにもほどがある己の口を半ば本気で引き裂いてやろうかと思う。
 が、出てしまった言葉は本音でもある。
 腹をくくる。
「いや別に魅せ方とかそういう点で学んでほしい部分は沢山あるんだ。でもさ、『四条貴音』に追いつけなきゃダメだって言うのはちょっと行き過ぎた考えじゃないかな」
「…え、」
 呆けたような春香の顔にプロデューサーは必死で会話の続きを組み立てる。
「IU一次予選参加資格ってファン数1万人じゃない」
「そう、ですね」
 それが何かと言ってくる春香の目に苦笑して、ちょっとプロデューサーとしての職から離れちゃうんだけど、と前置きする。
「ファンの人たちはみんな、春香の明るさとかに惹かれてファンになったんだと思うよ。少なくとも僕はそう。覚えてる? 最終面接受ける直前に春香が僕に言った言葉」

―――…えへへ、デビュー前にファン獲得、ですね。

 春香の顔に一瞬だけ半年前を懐かしむ色が浮かび、しかしすぐに春香の表情は暗い元の色に戻った。
確かにそうだ、問題なのは「今」である。いかに昔が懐かしかろうと上手く行っていようと、「今」がダメでは懐かしい昔もまた色褪せてしまうのかもしれない。
「ファンのみんなはさ、春香の歌が聴きたいんだ。『四条貴音』じゃない、他のアイドル達でもない、『天海春香』の歌が聴きたいんだよ。多分ね」
 プロデューサーはそこで言葉を区切り、春香はきょとんとした眼をプロデューサーに向けて続きを促した。
なんだか気恥ずかしくなってきたが、これはプロデューサーの紛れもない本心なのだ。
プロデューサーは再び頭を掻きむしると、ぽつりと、
「―――僕もそうだし。春香が何か違う人になっちゃうのは、いや、かなあ」
「違う、ひと、」
 春香の呟きはまるで弱点を見抜かれたような声だった。プロデューサーはうん、と一息入れて春香の真顔に向き直り、
「さっき春香が歌ってる時さ、ちょっと怖かったかな。本気になって歌ってるって言うのは滅茶苦茶伝わってくるけど、春香自身が楽しそうには見えなかった」
「私自身が、ですか?」
 驚いた春香の表情にプロデューサーは十秒メシのキャップを閉めて、
「春香言ってたじゃないか、『私が元気じゃないと誰も元気に出来ない』って。歌もそうだと思うよ。春香の表情が硬いとやっぱり見てる人たちも強張っちゃうんだ。さっきCD止めたのはね、そういう意味」
「…歌ってる時の表情、硬いですか?」
 もうがっちがち、という砕けた表現を使うと、春香はそこでようやく笑みを零した。
雪解けのような春香の表情にプロデューサーは内心で胸をなでおろし、
「歌いながら踊ったりしなきゃいけないから大変だけどさ、表情とかにも少し気を使った方がいいと思う。歌い方の問題じゃないんだ、表現の問題」
 春香はそこで天井を仰ぎ、はふぅと気の抜けた息を吐いた。
大変だとはプロデューサーも思う。いかに腹の中で不安を抱えていようと、それを顔に出してはならないというのは表情のころころ変わる素直な春香にとってはなかなか難しい挑戦だろう。
「…表情かあ。難しいですね」
「まあね。でも―――多分、春香が掴みたい『明るさ』ってそれが要因だと思う。信じるか信じないかはまぁ、春香の自由だけどね」

 天井から顔を下ろした春香の顔を見たプロデューサーは、そこに途方もないほどの真剣な光を見た。

「私は信じます。プロデューサーさんの事」
 一瞬、強烈に心臓が跳ねた。
 一体自分はいつ、この少女に信用を与えられたのだろうか。
「ありがと。じゃあ、もうちょっと休憩したらそこに気をつけてやってみて」
「はい。…何だか、」
 にぱ、と笑う春香の顔には、先ほどまでの陰鬱とした表情は一切なかった。
「なんだか、上手く出来る気がしてきました。…あの、プロデューサーさん」
「何?」
 そこで春香はもじもじと腕を震わせ、上目遣いにプロデューサーを見上げる。
 正直に言えばこのアングルは心臓に悪い。何を言い出すのかとドキマギしたプロデューサーに向けて、春香はイタズラじみた声で、
「早速やってみていいですか?」
 だから休憩しろって言ってるのに。
「駄目だって言ったでしょ。喉潰れちゃうよ」
 小悪魔のような春香はそこでぷうっと膨らみ、出かかった芽を潰すかのようなプロデューサーの弁に視線だけでなく表情全体を使って抗議する。
腹の中だけで苦笑を洩らす、これこそが春香の持ち分ではないのか。
「もう、プロデューサーさんって誰の味方なんですか。四条さんの事褒めたりするし」
「誰のって、」
 全く。
春香は表情だけを膨らませたまま期待を込めた瞳でプロデューサーを見つめている。
プロデューサーは今度こそ表情に苦笑を表し、決まってるじゃん、と呟いた。
「僕は、春香のプロデューサーだよ?」
 よろしいとばかりに破顔する春香の表情には、マイナスの色は微塵もない。




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